司祭の言葉 6/26

年間第13主日C年 (ルカ9章51-62節) 

 幼稚園に一本の電話がかかってきました。 2時の迎えの時間行けないので休ませようとした。迎えが遅くなるとお母さんがなおも説得・・、3歳児の子供は「絶対に行く、これはおれの仕事だ」と。
 翌日件の子供はどうした?帰りは…?と聞いたところ、2時になってみんなが帰るとき自分も帰ると言って泣きながら外に出てきた・・、「これは君の仕事ではないのか?」と言ったところ、踵を返して部屋に戻ったそうです。
 3歳にして自分のなすべきことを理解している・・・。

 今日の福音は弟子たる者の心構えを示したものと言えます。
 イエスの弟子となった以上、イエスに倣う事だけを考えなさいという事です。
 日本では亡くなられた方々を、心を込めてお送りする伝統があります。
 死者を大切にするそのような伝統の中で、今日のイエスの言葉は理解の難しい言葉の一つです。
 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」この言葉に戸惑い、この後に続く言葉をマタイが付け加えたと考える学者もいます。
 マタイの23章に次のような言葉があります。
 「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。
 こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。」

 ここに語られているイエスの論理によれば、彼らは預言者の墓を建てる、まさにそのことによって預言者殺しに加担していると言うことになります。
 「死人を葬ることは死人に任せろ」とイエスは言いました。 

 旧約の預言者のことが気になるのなら、あなたたち自身も預言者と同じように生きればいいんだよ。何も預言者の墓をかざりたてることは無い。ということでしょうか。

 この論理に寄れば、わたしたちが十字かを飾れば、そのことによって、イエスを殺した者に加担するのだと言うことになります。私たちに求められるのは、イエスの十字架をかざりたてるのではなく、私たちもイエスと同じように生きることです。

 ではイエスはどのように生きたのか、何故十字架にかけられることになったのか、
 底の底までえぐる鋭い社会批判、宗教批判、その教え、奇跡、信仰に乗った熱狂的人気・・・それが時の為政者の、また宗教指導者の危機感をあおったのでしょう。

 イエスに聞けば、宣教師も、司祭も、手に鋤を持ってから後ろを振り返る人が多すぎると言われるかもしれません。私も反省します。

司祭の言葉 6/19

聖体の祝日

 パン・・・懐かしい響きです。コッペパン 高校生の時 毎朝食べました。
 朝の6時 パン屋さんで焼きあがるのを待って、フランスでは軽自動車のタイヤ位もあるパンが荷台に転がされ、配達されていました。
 労働者はジャンボン フランスパンのサンドイッチとブドー酒
 映画ブラザー・サン シスター・ムーン ではフランシスコがもらったパンを小さくちぎり分け合う姿が描かれています。
 イスラエルのパンはどのようなものだったのでしょうか。当時のパンは薄くて丸いものだったようです。家長がパンをとり感謝の祈りを捧げてそれを割きみんなに配りました。

 福音書に記されている奇跡は30以上もあります。ところが4つの福音書全部に書かれている奇跡は一つだけです。それは5000人を養なわれた物語です。ですから、この奇跡が、主の行ったどの奇跡よりも人々に印象深いものであったことは疑いありません。

 イエスと弟子たちは疲れていました。イエスは弟子たちにしばらく離れて休むように指示したのでした。物語によれば大勢の群集が後を追ってきたとあります。どんな人でもくつろいだり、休んだりする機会がなければ神経質になったり、いらいらしたりするものです。私たちの主は世界を獲得するために働かれましたが休養のときを持たなければならないことも知っていました。

 今日のように生活が込み入って騒がしくなるずっと以前に、すでに神は人間が七日に一日は礼拝と魂のリクリエイション(再創造)の時を取るように命じられたのでした。わたしたちはその戒めを放り出してしまう危険があります。

 今日の物語で、群集が飢えたとき弟子たちに考えることが出来たことといえば、彼らを解散させることだけでした。しかしキリストは失望のうちに悩んでいた弟子たちに、パンはいくつあるかといわれたのです。それは、放棄してしまう前にあなたがた自身のたくわえを用いなさい、最後まで希望を持ちなさいといういみで、教訓を読み取ることもできます。

 16節「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」。
 最後の晩さんのときの動作とよく似ています。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』」(ルカ22章19節)

 今日の福音の、5000人の群衆にパンを与えて食べさせた奇跡は、ご聖体の不思議を悟らせるための準備となる大変重要な出来事でした。わずか5つのパンを祝福して分け与えると5000人の人が食べたにもかかわらず、かごの中には多くのパンが残っていたのです。

 イエス様が残した最後の晩餐の記念のパン・ご聖体は、2000年にわたってどれほどたくさんの人に分けられてきたのでしょうか。毎日曜ごミサのときに春日部教会だけでも祝福されるパンは120枚ほどです。イエス様のお体であるご聖体は教会のはじまりから今に至るまで、実に多くの人によって永遠の命に至る旅路の糧として食べられてきたのです。このご聖体の奇跡を理解することが出来るように、その手助けとしてご聖体のパンの奇跡が行われたと教会は理解しています。

わたしたちは日々の疲れの中で休息し、パンを食べることによって力をとりもどします。
 同じように霊的にも主のみ前に休息し、霊的なパンを食べることによって信仰が養われるのです。主はこのために霊的なパンの奇跡を今も続けておられるのです。

 この奇跡がどのように行われたかはわかりません。ただそこにいた皆が飢えをしのぐことが出来たのです。

 イエス様が40日の断食の後最初に受けた誘惑は石をパンにすることでした。その時イエスは人はパンだけで生きるのではない・・と応えます。
 しかし肉体の飢えが耐えがたいものであることをご存じでした。だから群衆を養ったとも言えます。
 それは私たちイエス様の後に続くものに課せられた使命です。聖体に養われながら、世界中の人々のパンにも心を向けること、主はそれを望んでおられると思います。

 今世界の飢餓人口は8億1100万人 10人に一人が飢餓に瀕していると言われます。
食べ物が足りないから世はありません。その原因のほとんどは私たちが作り出していると言うべきなのです。

今回のウクライナ戦争によって、その30パーセントを両国の穀物に頼っていた中東アフリカの50カ国では、命を失う危険にある人は今の五倍に増えると予想されています。

 聖体によって養われている私たちは、イエス様が5000人の群衆を気遣ったように、世界の飢餓問題にも目を向ける必要があると思います。

司祭の言葉 6/12

三位一体の主日C年

 わたしたちは父と子と聖霊の名によって洗礼を受けます。今日はその三位一体の唯一の神を記念する祝日です。
 でも、今日の説教は一番説明するのが難しい。誰か、代わりに説明してくれる人いませんかね? 出来たらお願いしたいのですが。
 でもホミリアは司祭の務めです。何とか説明を試みましょう。

 まず、三位一体という言葉は聖書の中にはありません。でも暗示をする言葉はあります。
「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け(マタイ28の19)」 や、
「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。(Ⅱコリント13の13)」・・・などです。

 今日の福音でイエス様は神を父と呼び、父が持っておられるものはすべて私のものだといいます。そして来るべき真理の霊は、私のものを受けてあなた方に告げる・・・といいます。父と子と聖霊は救いの歴史の中に介入し、それぞれ固有の役割を果たしたということが出来ると思います。
 この神秘は神様の、内面の秘密です。理性では知ることができなかったのです。
 神様が人となりナザレのイエスとしておいでになるまで、イスラエルの民の信仰によっても知ることのできなかった神秘です。
 この真理はイエス様によってはじめて明らかになったものなのです。

 神様はただ一人しかおられない。でもその中に父と子と聖霊という三つの人格があるなんて、わかりませんよね。いくら説明されても、へーそうなんだ・・・としか答えようがない。

 今が旬の鮎を特徴づけるのは、強い縄張り意識を持つその性質と、味と、香りでしょうか。どれが欠けても私たちの知る鮎ではなくなる。
 祭壇のろうそくは、明るさと、炎と、熱を持っています。どれが欠けても私たちの知る火ではありません。

 そんな譬えをもって説明しようとしても、説明にはなりません。

 それは神の特徴や働きを示しても、なぜ三位一体なのかは分かることができません。

 イスラム教の創始者ムハンマドはどうしてもこの神秘を受け入れることができなかったのでしょう、そこでイエスは預言者であったが、その弟子たちはイエスを神として礼拝するようになってしまった・・と、その預言者としての使命は失敗に終わったと理解し、新しいイスラム教を起こしたのです。キリスト者はイエスを神にして偶像崇拝に陥ってしまった。あなた方はひたすら唯一の神アッラーに帰依しなさいと。イスラムは絶対帰依という意味で、その信者をムスリムと言いますが、帰依者と言う意味です。

 三位一体の一つの説明として、救いの歴史の中に神様の愛の働きの役割分担のようなものを見ることが出来ます。創造と贖いと恵みの分配という役割です。
 神によって創造された人は罪を犯し、神の恵み(命の水)が受けられなくなった。そこでイエス様は贖いの業を通して神と私たちの間に恵みの水道管を引いた。蛇口は家の中にある。でもそのままでは水は出ません。水道局に行って契約をしなくてはいけないのです。本管とつないでいただき初めて水が出るのですから。イエス様が水道管を引いてくださったと信じることがその契約にあたり、その水道局が恵みの分配者としての聖霊の役割で、世の終わりまで私たちとともにいるのですと、説明できるかもしれません。

しかし、わたくしの一番大好きな説明は、神様は愛・・だと言うことからの説明です。
 愛は他動詞ですら、愛の対象を求めます。何々を愛する・・と言う風に。でも、神は限りないお方ですから、どのような被造物もその愛の全てをを受け入れることはできません。受け入れることのできるものは無限の大きさを持たなければならないからです。それは神以外にはありえません。それを子と呼びましょう。無限に与えようとする愛=父、それに無限に答えようとする愛=子。そしてそこから生ずる限りない相互愛=聖霊。神は唯一ですから、愛の三つの形と言うべきかもしれません。それらは神の中における三つの人格(神ですから神格)として唯一の神の中に存在する・・・そう考えると、なんとなく納得いくような気がします。

 でも、やはり祈りつつ悟らせていただく、信仰の神秘なのです。
 イエス様がおっしゃったから信じるのです。  その・・、イエス様の言葉が真実であることは、復活によって証明されているので、これを信じるのです。信仰の神秘というゆえんです。

 今、この同じ信仰を持つウクライナとロシアが戦争をしています。主によってあがなわれた者同士が、ともに同じ主に祈りながらも戦っている現実をどう考えればよいのでしょうか。教会が砲弾によって破壊されているニュースを見るにつけ、割り切れない思いでいっぱいです。今わたしたちは、キリストを再び十字架にかけているのではないでしょうか。

 主に許しを願いつつ、一日も早い戦争の終結を祈りましょう。

司祭の言葉 6/4

聖霊降臨の主日

 聖霊降臨の主日おめでとうございます。主が十字架につけられてから戦々恐々としていた弟子たち、彼らは復活の主に出会ったのち、この聖霊降臨によって強められ、何物も恐れず宣教に旅立つことになるのです。

 きょうの福音では、弁護者を送ると言う約束の言葉がが語られています。最後の晩餐の席でのことです。
 ギリシア語では「パラクレートスparakletos」と言う言葉は、二つの言葉からできています。「パラpara」は「そばに」、「クレートス」は「呼ばれた者」と言う意味です。カレオーkaleo(呼ぶ)」という動詞から来ています。
 パラクレートスは裁判のときにそばにいて弁護してくれる人のことなので、朗読聖書の新共同訳聖書は「弁護者」と訳しています。

 かつて春日部教会で主任司祭をしていた中村神父は、当時神学生養成担当者をしていました。彼は神学生にとってのパラクレートスだったと思います。いつも神学生に寄り添い、教区の役員会などではいつも神学生を弁護していました。
 彼自身が神学生成担当者に守られた体験を持っています。
 時は70年安保のころ。 大学では学生運動が活発化 連日デモが繰り広げられました。
 上智大学も学生運動に対抗し学生を学校から締め出すロックアウトを行いました。
 教育の放棄でした。
 神学校でも締め付けがありました。 神学生は改革が必要だと感じ、学生会が結成され神学校側と交渉 教区司祭の司祭養成担当者(モデラトーレス)や院長を要求しました。・・・・自分たちは教区司祭となるのだから、修道会の司祭ではなく、教区司祭としての霊性を身に着けたいと。
 神学校側もこの要求を認め、修道会の司祭中心の司祭養成担当者から教区司祭の養成担当者に変わり、院長も教区司祭となりました。
 中村神父様も、この学生会の中心にいて、中心にいた神学生の何人かは教授たちににらまれ面接試験でいくつかの単位を落としたと聞いています。それを救ったのが教区の養成担当者でした。
 犬飼神父が朝霞教会で補講を行い、みな単位をとり卒業することができたのです。中村神父様は、司祭となり教区の神学生担当者に任命されると、とことん神学生のパラクレートスになりました。
 ヨハネの第一の手紙2章1節には「御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」という言葉があります。この弁護者は復活して神のもとに上げられたイエス様のことですので、イエス様こそが第一の「パラクレートス」であるということができます。
 そこで、ヨハネ福音書14章16節では、聖霊について「別のパラクレートス」という言葉が使われているのです。

 イエス様は「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と言われ、23節では続けて「わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」と約束されています。  
 ここに驚くべき約束があると思いませんか?聖霊が弟子たちに与えられるということと、父とイエス様が弟子たちと共に住む、ということが述べられているのです。
 弁護者である聖霊は、現代に生きる私たちにも派遣されています。私たちがどの様に歩むべきかを迷い途方にくれたときに、聖霊は「助け手」となって、真理を悟らせます。

 神は聖霊を遣わしてイエス様が語られた言葉をわたしたちにも思い起こさせて下さるのです。そのような体験は無いでしょうか。

 キリストを信じるものは、天と地の両方に「弁護者」を持ち、父と子と一緒に住むことを許されていると言うことが約束されているのです。
 ですから、恐れることなく自分の信仰を表明し、主の十字架と復活の証人として、愛の掟を守ってゆきましょう。
 そしてウクライナの戦争が一日も早く終わりますように、平和のために祈りましょう。

皆様の上に聖霊の賜物が豊かに与えられますように・・・アーメン。