司祭の言葉 2/27

年間第8主日C年

 今日の福音はルカの6章39節からです。平地の説教とわれています。これに対しマタイ福音書の5章は山上の説教と言われ、そこには「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」という、皆さんご存知の言葉があります。残念ながら平和は遠いと言わねばなりません。世界中が危惧する中、24日ロシア軍は隣国ウクライナに軍事侵攻しました。世界中で、ロシアでも50以上の都市で、若者を中心に「戦争やめろ」のデモが起きているということです。今日のミサで平和のために祈りたいと思います。

 今日の最初の言葉は、「盲人が盲人の道案内をすることができようか」という箇所です。
 マタイ福音書では、パリサイ人と律法学者が「あなたの弟子たちは食事の時手を洗わない」「昔の人の言い伝えを守っていない」と言ってきたとき、イエス様は「口に入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚す」と答えます。弟子たちが、先生「彼らが先生の言葉に躓いたのをご存知ですか」というと、イエス様は「そのままにしておきなさい、彼らは盲人を道案内する盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう」と答えています。

 聖書学者のエレミアスは、イエスのたとえ話の多くは、当時ユダヤの指導的な立場にあったパリサイ人や律法学者に対する批判であったと述べていまが、平衡個所をマタイ福音書で見たときにそのことが理解できると思います。
 今日の個所はいずれも短い言葉です。実際はイエス様が様々な箇所で、その場の状況で語られた言葉のうち、印象に残った言葉だけが集められ、弟子たちへの教訓として編集された‥そのようにみることができます。
 当初はイエス様に反対する者たちに対して語られた弁明の言葉が、教会が誕生し、イエスの言葉として伝えられる中で、その対象が信者さんたちに取り替えられ、教訓として示された来たということができます。

 最初はパリサイ人たちに対する弁明としての意味合いがあったとしても、初代教会の信者さんたちが受け取ったように、わたしたちも自分たちに向けて語られた言葉として受け取るならば、ルカの編集の思いを受け取ることになると思います。
 さて皆さんにはこれらの言葉のうちどの言葉が最も印象深いものだったでしょうか。

 小生にとっては「おがくずの譬え」です。「あなたは兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」 いつもイエス様にそういわれているような気がします。ですから説教などはとてもできないと思います。
 幸いなことに司祭が日曜日にするのはホミリアです。その日の福音の理解を助けるように語る言葉です。福音の言葉の解説だったり、当時の人々の置かれていた状況だったり、あるいはイエス様の語られたアラマイ語の意味だったりです。イエス様の語られた言葉はギリシャ語に翻訳されています。この時点でもうイエス様の言葉は、説明をすることが必要になっていると言えます。当然翻訳しきれないニュアンスもあります。
 おがくずとは小さな罪、丸太とは大きな罪でしょう。他人の小さな欠点をあげつらい、自分の大きな欠点に気が付かない、他人の小さな罪を問題にしながら、自分の大きな罪に気づいていない・・そのような状況だと思います。
 小生の目には丸太があります、当然他人のおが屑を問題にすることなどできないのです。この丸太を何とかしたい・・いつもそう思う自分です。

 平和のために祈りましょう。

春日部教会 司祭 鈴木三蛙

司祭の言葉 2/20

年間第7主日C年

 皆様いかがお過ごしでしょうか、かなり新規感染者が少なくなってきました。でも重症者は増えているようです。もう少しの辛抱でしょう、そうすれば共に集い共に主を賛美することができます。

 今日の福音はルカの6の27から38節までです。
 イエス様の今日のみ言葉をどう聞くべきでしょうか。文字通りに受け取るべきでしょうか、それとも、出来るだけそうすべきだという心構えとして聞くべきなのでしょうか。取り方は人それぞれでしょう。でも一つだけ体験したことがあります。
 高校生の時でした。クラスメートから誰もいない図書室に呼び出された事がありました。そして、「お前は生意気だ」と言いがかりを付けられ、平手で頬を打たれました。教会に行き始めて3年ほどでした。今日の聖書の言葉を思い出し、もう一方の頬を向けました。「何だ」そう言って相手は驚いた顔をしました。「さあ、こちらも打て」と言いますと、予期しない言葉に相手は戸惑った様子でした。「さあ、いいから打て」「いいのか?」「ああ、いい、こちらも打て」「よし殴るぞ」そう言って相手は殴ってきました。でも防衛本能があるのですね、こぶしが飛んできたとたんに身をかわしていました。相手は憮然とします。「悪かった、今度はよけないからもう一度やってくれ」そう言って今度は目をつぶって拳を受けました。」ガツンと衝撃が走り、目に火花が飛びました。火花が飛ぶというのは本当なのですね。
 そしてその時、私の中でつきものが落ちるように、スーッと相手に対する腹立たしさが消えました。最初、絡まれ平手で殴られた時には、胸の中に相手の理不尽さに対する怒りがこみ上げていました。でも、もう一方を差し出して殴られた時には、それは自分から殴られたのですから、その責任は自分にあります。相手を恨む筋合いはないのです。イエス様の言葉通りにしたら、相手に対する怒りと恨みが消えた・・という体験を通して、イエス様の言葉の意味を一つ、悟った一瞬でした。そして二度と絡まれる事もありませんでした。

 敵を愛する・・・それは感情的には無理でしょう。憎しみの感情も沸くかもしれません。でもイエス様が許したのですから、それに倣って、自分も意志をもって「許すと決める」ことはできます。

 川崎の高校での中間期を終えて、大神学校に戻って間もなくのことです。(昔は大神学校に入る前に3年ほど社会に出て仕事に就く必要があり、その時期を中間期と呼びました)
 勤務していた高校付属の中学校の一年生が、同級生の友人を殺し、その首を切り落とすという事件がありました。仲が良い友人同士であったと聞きますが何があったのでしょうか。その衝撃もさることながら、さらに驚かされたのは、神学校に送られてきた被害者の両親からの手紙です。子供のことで多大な迷惑をかけたと謝りながら、加害者となった少年のために、寛大な裁判判決を求める署名を求めてきたのです。一人息子を殺された悲しみの中にありながら、加害者となった少年を恨むどころかその未来を案じている、その心の深さに胸を打たれました。許すと決めるまでの心の葛藤はいかばかりであったかと思います。
 この方のうちに働く神様の力を深く感じるとともに、その信仰におののきました。

 膝が痛い、腰が痛いと言っては泣き言をいう自分です。到底迫害などには耐えられそうにありません。十字架を背負ってイエス様の後に続くのはしんどすぎる・・そう思います。いつも弱音を吐きますが、主の助けがあればできるのでしょうか。
 コロナ下で石油の元売り価格が上昇し、その影響が私たちの生活に及び始めています。軒並みモノの値段が上がっています。もう何とかしてください・・と叫びたいですね。
 神様に助けを願いつつ、今日の福音を黙想しましょう。

 3月2日から四旬節に入ります。当日は灰の水曜日、10時と19時にミサを捧げたいと思います。それまでに、お持ちできる方は教会の玄関に古い枝をお持ちください。

 皆様の上に主の祝福がありますように。

春日部カトリック教会 司祭 鈴木三蛙

司祭の言葉 2/13

年間第6主日

 皆様おはようございます。
 年間第6主日のホミリア(説教)をお届けします。昨日は雪となりましたが、今日は暖かな日差しが降り注いでいます。皆様にはお変わりございませんでしょうか。
 オミクロン株の勢いは収まらず、埼玉県の新規感染者は今日も5947人となり、蔓延防止措置も3月6日まで延長される見通しです。
 主日のミサの再開もまだ司教様から新しい指示は出ていません。平日のミサは参加者が少ない場合は許可されていますが、当教会は平日の参加者が20名ほどおり、主日のミサのない今、平日のミサをすれば30人ほどになると予想されます。したがって残念ながら、平日のミサも引き続き中止とさせていただいています。先日も教会で幼児の洗礼式をする予定でしたが、参加予定者の中に感染者が出たとの知らせがあり、中止といたしました。まだしばらくは自粛が必要です。

 今日は平地の説教と言われているものです。マタイ福音書では山上の説教と言われているものと同じ内容を含んでいます。この説教は大きな驚きをもって迎えられたと思われます。当時のユダヤ人たちの価値観をひっくり返すようなものだったからです。
 貧しい人が幸いだなんてとんでもない・・・当時のユダヤ人ならみなそのように思ったことでしょう。 豊かさこそは神の祝福であり、貧しさは神の罰と考えられていたのですから。

 皆さんは司祭のホミリアを聞いて、なるほどと思いながらも、でもその通りには受け取ることができないでいると思います。

 「貧しい人は幸いである…」というと一つの叙述文ですが、原文の語順どおりに訳せば、「幸いだ、貧しい人々よ。なぜなら、あなたがたのものだから、神の国は」となります。これは目の前の人に向かって、おめでとうと語りかける祝福の言葉なのです。
 「貧しい人」「飢えている人」「泣いている人」がなぜ幸いなのでしょうか。それは「神の国はあなたがたのもの」だからです。神は決してあなたがたを見捨ててはいない、神は王となってあなたがたを救ってくださる、だから幸いなのです。
 「あなたがたは満たされる」「笑うようになる」も神がそのようにしてくださるということを意味しています。これこそがイエス様の福音(よい知らせ)なのです。

 幸せになりたい、これは万人の切なる願いです。
 人はみな生きる権利を持っているのと同じように、それぞれは幸せを追求し、幸福になる権利を持っています。けれども人間を真に幸せにするのは何でしょうか。
 財産があれば将来は困らない、と一応は安心できます。けれども、いつ何処で短いローソクが消えるかは誰にもわかりません。草は枯れ、花はいずれしぼむのですから。

 ここには衝撃的な言葉があります。
「しかし富んでいるあなた方は、不幸である。あなた方はもう慰めを受けている。」(ルカ6の24)とイエス様は言います。
 ここで言う「受けている」という言葉は、支払いをそっくり受けているという商業上の言葉です。領収書などに書かれる言葉で、「もう後に受け取るものは何もありません」という意味です。バークレイという神学者はこの言葉を解説して次のように言います。
 「イエスは次のように言いたかったのだ。あなた方は全身全霊を注ぐなら、この世が価値を認めているものを皆得ることができるだろう。しかし、あなた方の得ることのできるものはそれだけしかない。」

 心が冨によって満たされている人は・・・・一切は冨によって解決できるという錯覚に陥り、本人自身がそれに気づかないままにいつのまにか、傲慢な人間になって行きます。
 一方、貧しい人は神により頼み、神に信頼して生きて行きます。キリストはこのようなまずしい人々には神の特別な祝福があることを保証しておられるのです。

「2021年、世界上位1%の超富裕層資産が、世界全体の個人資産の37.8%を占めたことが、経済学者ら100人超による国際研究で分かった」・・・との記事が埼玉新聞に掲載されました。記事は、不平等は今後も広がり続け、巨大な水準に達すると懸念していました。日本も富の分布は、「西欧ほどではないが非常に不平等だ」と指摘しています。

 イエス様の今日の説教をキリスト者はみな知っていますが、みな他人事のように聞いています。
 教皇フランシスコは、回勅「ラウダートシ」の中でいま私たちが行動を起こさなければ、世界は大変なことになると繰り返しています。富に対する執着を絶たなければ、人類の未来はない…というところまで来ているといいます。

 私たちの重大な過ちは、「貧しい人」という言葉を、自分に置き換えて聞いていることです。イエス様がこの言葉を語られるとき目の前にしたのは、ユダヤの、日々の糧にも事欠く貧しい人たちでした。彼らにイエス様は幸いだと言われたのであって、私たちにではありません。私たちは彼らのように貧しい人の部類には属していません。多少の貯金もあり、その日暮らしではないからです。アフリカやシリアの難民ならそうでしょう。彼らはその日暮らしですから。
 また今日の日本を見るなら、入国管理事務所から仮放免されている人たちが当てはまると思います。収容所からは放免されましたが、働いてはいけないというのです。どのようにして生活してゆけばよいのでしょう。保険にも入れない上に収入の道もない。大きな病気になれば死を待つばかりなのです

 覚えてください。私たちはイエス様の弾劾する、お金持ちのほうにいるのです。私たちは「災いだ」と言われているほうに位置しているのです。そのことをわきまえてきょうのことばを聞くべきなのです。

 貧しい人は幸い、逆説的な、この言葉の意味をしっかりと悟らせてくださるように、そして今何をなすべきかを悟らせてくださるように祈りましょう。

司祭の言葉 2/6

年間第5主日C年

 皆さんは、つりはお好きでしょうか。
 ペトロのDNAは、ペトロの後に続く司祭達にも受け継がれているのでしょうか、さいたま教区の司祭方は、普段は宣教と司牧の話に激論をとばしますが、昼食の時はよく釣りの話をしていました。皆さんすでに亡くなられましたが、猪俣神父さん 篠原神父さん 山根神父さん 島本司教さんは、新潟、仙台、さいたまの3教区の研修会で佐渡島に行ったときは、釣り船をかりて沖まで行き、小ぶりのタイをたくさん釣りました。
 ある時は、野上神父さんが伊豆のほうに良い釣り場があるというので、みんなで猪俣神父のキャラバンに乗って出かけました。この先の角を曲がるといい場所があるんだよ、その言葉に皆心躍らせました。そして岬の角を曲がった時野上神父さんが叫びました「あれ、海がない」。・・・歳月が過ぎていて、埋め立てられてしまったようでした。そのあと目的地を変え戸田の港に行き防波堤から釣りをしましたが、サバが入れ食いで面白いほどに取れました。でも残念なことに私にはペトロのDNAが受け継がれていないようで、後で手についた魚の匂いに悩まされました。

 本題は、ペトロ達の漁の話です。彼らは夜通し、長い底引き網をおろして奮闘していました。しかし、網は空っぽでした。湖のその辺りからは、魚は全く居なくなってしまったかのようでした。もしほんの数匹でもかかっていれば朝食には事足りるはずでしたが、ペトロには、もう一度網をおろしたとしても、まず魚は一匹もかからないと思われました。
 だがそれにもかかわらず主は、もう一度網をおろして漁をするように命じました。大量を望める時間帯は、日中ではなく夜間だということを誰もが知っていました。そして、一晩かけても何もかからなかったのだから、もう網をおろすポイントがないことを漁師達は長い経験から知っていました。

 そこに、信仰が入り込んだのです。信仰とは、何なのでしょうか。 人間の観点からは不可能と思われることでも、神にできぬ事は何もないと固く信じることなのです。

 イエス様がペトロを選ばれたのは、弟子達のリーダー、大黒柱にしたかったからです。ペトロが試されたのは、彼が、自分の判断の方が理にかなっていると思ったとしても、それを置いて、師の判断に全面的により頼めるかどうかと言う点でした。

 アブラハムもまた同じ方法で試みられています。 そして、その試みに耐え、後に続く者の偉大な信仰の模範となりました。彼は主の言葉に従い、行く先も知らず、自分の親族と故郷を捨てて、果てしない約束の地を探す旅に出ました。70歳の時でした。果たして私たちに、70歳にして行き先もわからない旅に出ることが出来るでしょうか。

 ペトロもまた試みに合格しました。「先生、お言葉ですから、網をおろしてみましょう。」それは、人間的な判断によってではなく、イエス様がペトロにそうするように命じたから、その言葉に従っての言葉でした。ペトロは神に全てを委ねることのできる、信頼に足る人物であったからこそ、ほかの弟子たちの模範となるべく試される必要があったのだと思います。彼は網をおろしました。そしてその結果は、とてつもない豊漁でありました。

 この出来事は、素朴な正直者であった彼に、大変な衝撃を与えました。神の力の現れを目の当たりにした途端、彼は自分の罪深さに気づかされたのです。

 試みにあって居るときに、神がわたし達や教会に何を求めているのかを見抜くのは容易なことではありません。しかし神は「悪いたくらみも善に変える」(創50の20)事のできるお方です。
 試練のあとに、神は必ず祝福をもって報いて下さるという強い信仰が与えられるように祈りましょう。

 今日、東京のオミクロン株新規感染者の数は2万人を超えました。埼玉県も連日4000人越えです。まだまだ感染者の数は増えて行きそうです。大宮のカトリックみどり幼稚園は先週末、年長組に二人の感染者が出て、水曜日まで二つのクラスが学級閉鎖となり、濃厚接触者の先生3人がお休みする事態となりました。27日まで公開ミサを中止としたのは、司教様の適切な判断だったと思います。

 ミサに参加することのできない皆様を覚え、一人ミサを捧げながら、皆様のご家族の上に主の祝福をお祈り申し上げます。

カトリック春日部教会 司祭 鈴木三蛙