司祭の言葉 9/14

「十字架称賛」の祝日(9月14日)の黙想 (ヨハネによる福音3:13-17)

父と子と聖霊の聖名によって。 アーメン。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

過ぐる8月6日に、「主の変容」を記念しました。主イエスは、最期にエルサレムに上られるに先立ち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて高い山に登られました。その時、主のお姿が変わり、主の服も真っ白に輝きました。さらに、弟子たちは、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」との天からの声を聞いた、と福音は伝えていました。

「主の変容」が、主イエスの過越、すなわち主の十字架と復活の40日前であったとのカトリック教会の古い伝承に従い、紀元5世紀以来、8月6日の「主の変容」の祝日の40日後の9月14日に、教会は、「十字架称賛」の祝日を祝い続けて参りました。

「主の変容」が、主イエスの過越の40日前との教会の伝承は、モーセに導かれたイスラエルの民が、約束の地に入るまでの荒野の40年を思い起こさせます。「主の変容」の直後から、主は、弟子たちを伴って、エルサレムに上る最期の旅を始められます。そしてまさに40日後に、弟子たちは、エルサレムで、主の「過越の食卓」(最後の晩餐)に与り、約束の地、すなわち「神の国」に迎え入れられます。

ただしそれは、「主の変容」の前後三度、主イエスが弟子たちに告げられたように、主の十字架と復活を通してのみ招き入れられる「神の国」。しかも、その「過越の食卓」(最後の晩餐)で、主が弟子たちに与えられる「永遠のいのちの糧」が、「キリストのからだ」であることが、主によって弟子たちにはっきりと示されることになります。

冒頭の主イエスのみことばは、主と二コデモとの長い対話の一部です。ニコデモは、ファリサイ派の一人であったと言われています。しかし彼は、主が父なる神から遣わされた方であることを確信するに至ったのだと思います。その結果、ある夜、彼は主の許を独り訪ねて来たと、ヨハネによる福音は伝えていました。

この二コデモに、主イエスはご自身の真実を、次のようにはっきりとお語りになりました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」これは、聖書のみことばの中でも、最も愛され親しまれて来たみことばの一つではないでしょうか。ただし、神がその独り子イエス・キリストを、わたしたち罪人にお与えくださる。それがいかなることであるのか。じつは、このみことばの直前に、主は次のように仰せでした。

「天から下って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:13,14)

「信じる者が皆、永遠の命を得るため」には、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない」と、主イエスは仰せです。

モーセに導かれた神の民は、荒野の40年の旅の途上くり返し罪を犯します。ある時、主なる神はモーセに、罪なる民のために罪の贖いのしるしとして青銅の蛇を作り、十字架のように棒の上にそれを架け、高く上げることをお命じになりました。民はその青銅の蛇を仰いで癒された、と旧約の「民数記」(21章)に伝えられています。

その旧約の犧牲のしるしのように、「人の子も上げられなければならない」と、主イエスは仰せです。ただし、この度の主によるご自身の奉献は、もはや罪の贖いの「しるし」ではありません。私たち罪人の「罪の贖いそのもの」として、主はご自身を、十字架の上に高く「上げて」くださるのです。

主イエスの十字架の奉献によってのみ、「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得る」ことを赦されます。さらに十字架を通して高く天に上げられた主は、わたしたちに「聖霊」を注いでくださるために復活してくださいます。それは、聖霊によってわたしたちを「新たに神の国に生まれさせてくださる」(ヨハネ3:3、5-7)ためです。

二コデモにお会いくださった同じ十字架とご復活の主イエスは、わたしたちにも必ずお会いくださいます。二コデモ同様、わたしたちが「一人も滅びないで」、必ず聖霊によって「新たに生まれ、神の国を見る」(ヨハネ3:3)者としてくださるためです。

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

司祭の言葉 9/10

年間第23主日 マタイ18:15-20

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 

この主イエスのおことばに、そのおことばの確かさに、どれほど多くの人々が励まされてきたことでしょうか。とくに、キリスト者が少数で、ともに祈りを合わせる人が限られている日本のわたしたちには、主のこのおことばの温かさが身に沁みます。

ただ、二人または三人のわたしたちは、なぜ主イエスのみ名によって集まるのでしょうか。主は仰せです「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」たった二人でも構わない。人数は問われていません。たとえ二人あるいは三人だけであっても、わたしたちが主のみ名によって心一つにするところには、主が、必ずわたしたちとともにいてくださる。とくにミサこそ、その時です。そのために、主はわたしたちをミサに集めてくださるのではないでしょうか。

事実、ミサでわたしたちが気づくのは、わたしたちが主イエスのみ名によって集まる時、そこに主がわたしたちとともにいてくださると言うよりも、むしろ先に主の方が、わたしたちをご自身の祈りに招いてくださっておられるということです。実際、主の招きによって始められるミサは、主イエスの祈りに、つまり主の御心にわたしたちが心を合わさせていただけるようにと、主がわたしたちをお招きくださっておられるということではないでしょうか

福音は、主イエスが宣教の多忙なご生涯にもかかわらず、否、それ故にこそ、つねに主はご自身の静かな祈りの内に帰って行かれたことを伝えます。ミサで、二人または三人のわたしたちは、この主の静かな祈りの中に招き入れられます。それが、主のみ名によって祈る、と言うことではないでしょうか。その際、主のみ名によって祈るとは、わたしたちにとって主と心を合わさせていただくことに他なりません。

わたしたちの祈りはどのように始まるのでしょうか。それは、わたしたちのために祈ってくださる主イエスを仰がせていただくことから。わたしたちの祈りは、まず主のみ前に主を仰ぎ、主を礼拝させていただくことから始まるのではないでしょうか。

一人ひとりが主イエスを仰ぎ、主を礼拝する時、一人ひとりの心は主と結ばれて一つとされます。それゆえに、主の許に集められたわたしたちの心もまた主によって互いに結びあわされて主のみ心と一つとされます。それが、主の祈りの内にわたしたちが招かれるということではないでしょうか。実は、主の福音宣教の初めのおことば「悔い改めて福音を信じなさい」の「悔い改める」とは、元のギリシャ語では「(主と)心を一つにする」ないし「(主と)思いを合わせる」という意味です。主は最初から、わたしたちの心が主と一つに合わせられることを願っておられたのです。

しかしわたしたちは、残念ながら祈りにおいてさえ罪を犯し得る者です。わたしたちの祈りが自分本位で、他者を裁く罪を恐れます。わたしたちは自分の知恵や力では、祈りにおいてさえ罪から自由ではありません。しかし、主イエスの祈りに加えられる時は違います。聖霊によって働かれる主は、わたしたちを罪から自由にしてくださるからです。主の祈りとは、わたしたちの罪を赦す聖霊の働きそのものです。主は、今日次のように仰せでした。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

ヨハネによる福音は、同じことをご復活の主イエス・キリストの次のおことばとして伝えています。「イエスは弟子たちに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」(ヨハネ20:22,23)

主イエスのみ名によって祈る。それは主の祈りに招き入れられて、主と、また主と一つにされた人々と心を合わせることです。ヨハネによれば、それは、ご復活の主からわたしたちが共に聖霊を受けさせていただくことだったのです。その時、祈りとは聖霊によってわたしたちの内に愛を成就してくださる神のみ業です。神のこの愛のみ業のうちに、罪なるわたしたちにもかからず、聖霊によって罪赦され、その上さらに聖別されて、主と、そして隣人と心を合わせることが許されます。それがわたしたちの祈りです。その時、神は、わたしたちを罪から自由にしてくださるのみならず、罪人であるわたしたちを用いて他者の罪を赦すことさえお出来になるのです。

主イエスのみ名において、二人または三人のわたしたちが主の祈りの内に招きいれられ、心を合わせて祈る時、わたしたちが体験させていただくこと。それは、主イエスの祈りにおいて働かれる聖霊なる神。わたしたち自身の罪、さらにわたしたちがともに生きる人々の罪を赦してくださる愛の神・主キリストの大いなるみ業です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 9/3

年間第22主日 マタイ16:21-27

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

主イエスは、「わたしについて来たい者は」と、仰います。わたし自身にとって、主について行く、主にお従いさせていただく、そのこと以外に人生の目的はありません。皆さんもそうではないでしょうか。そのわたしに、そして、皆さんに、主イエスは、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と、仰せです。

しかし、「自分を捨てる」とは、どうすることなのでしょうか。この自分を一体どこに、どのように捨てよと、主イエスは仰せなのでしょうか。わたしは、それは、「主イエスの内」に、わたし自身を捨てさせていただくのだと思います。言い換えれば、主に、このわたしの一切を委ね切る、と言うことです。主に信頼し、自分の負っている重荷も含めた自分自身の一切を、主に委ね切らせていただく、ということです。

実は、主イエスの今日の福音のおことばは、今日になって唐突に語られたものではありません。今日の福音の少し前に、主は次のように仰っておられました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

軛や重荷、人生のあらゆる苦しみ、すなわちわたしたちの十字架。その中には、自らの罪とその結果もあるでしょうが、人生には病気や事故・災害のように全く理不尽に襲い掛かる苦しみもあります。多くの場合、それはわたしたちが自分で負うしかないと諦めます。しかしそれを主イエスは、わたしたちに「あなたの十字架」とは仰らず、わたしの軛わたしの荷」つまり主ご自身の負われる十字架と仰せです。

神なる主イエスご自身に、本来負われるべき苦しみ、軛や重荷、すなわち十字架などあろうはずはありません。しかし、わたしたちが自分で負うしかないと諦める軛、あるいは重荷を、主はわたしの軛わたしの荷と言い、そのわたしの軛わたしの荷を、「わたし」と一緒に負って欲しいと、わたしたちに仰ってくださるのです。

今日の福音で、主イエスはこのおことばを踏まえて、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と仰せです。本来わたしたちがひとり負うべき十字架、しかし負いきれない十字架を、主はわたしの軛わたしの荷と言い、そのわたしの軛わたしの荷を、主ご自身と共に負って欲しいと、わたしたちに仰ってくださいます。

わたしたちにとって、「自分を捨てる」とは、この主イエスに、神なる主のみこころとみ腕の中に、自分を捨て切る、自分を委ね切ると言うことではないでしょうか。その時、主は、そのわたしたちを、わたしたちの軛、苦しみ、重荷ごと、ご自身の十字架として、わたしたちと共に、わたしたちのために負い抜いてくださいます。

その時わたしたちが一人で負うしかないと諦めていた十字架を、主イエスがすでにご自身の両肩に負ってくださっておられることを、わたしたちはこの身、この両肩に知らされ、わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われる主のおことばの真実に、心から感謝させていただくのではないでしょうか。

わたしたちは自らの十字架を負うことなくして真実の人生は無いことを知っています。自らの生死の問題や苦しみや罪を直視せず、自らの十字架を認めず、自らの十字架を負うことを避ける人生は、偽りの人生以外の何ものでもありません。

とは言え、わたしたちは、自分の十字架を自分だけでは負い切れません。自分の十字架を、自分自身で負い切る力が無いのです。だからわたしたちは人生を、否、自らを偽るのです。自分自身の十字架が、自分にとって重すぎるからです。自分の十字架によって、自分が押しつぶされてしまうのです。そこに人生の解決はありません。

主イエスは、そのわたしたちの十字架を、わたしの軛わたしの荷と言われ、それを、ご自身と一緒に負って欲しいと、わたしたちに仰ってくださるのです。主はわたしたちを、わたしたち自身の十字架を主と共に負わせていただく人生へと招いてくださるのです。その時、わたしたちは、嘘偽りの無い人生を生きることができます。そこにこそ、わたしたちの真実の人生があります。もし、主と共に十字架を負わせていただくことがなければ、わたしたちの真実のいのちは、どこにもありません。

主イエスは、わたしたちにわたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と、仰せくださいます。主と共に十字架を負って歩ませていただく時、わたしたち自らの十字架を負う歩みが、主と共に生き、主の恵みを数える人生へと変えられます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 8/27

年間第21主日 マタイ16:13-20

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ある時、主イエスは弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と、問いかけられました。弟子たちが「「洗礼者ヨハネ」だと言う者も、旧約の預言者、例えば「エリヤ」だと言う者もいます」と答える中で、主は弟子たちに、「それでは、あなたは、わたしを誰というか」と、尋ねられました。

他人が、主イエスのことをどのように言っているかというのではありません。「あなたにとって、わたしは誰か」と、主は、弟子たちに、そして皆さん一人ひとりに直接問いかけておられます。皆さんは、主にどのようにお答えするのでしょうか。

ペテロは、主イエスのこの問いに対して、誰よりも先に、そしてはっきりと、「あなたはメシア(ギリシャ語でキリスト、生ける神の子です」と答えました。それはペトロには、「わたしにとって、主イエスこそ、生ける神の子キリストです」ということです。

そしてこの時を境に、ペトロはそれ以前の彼とは最早同じではあり得ませんでした。主イエスをキリストと告白することは、ペトロにとって告白した主に自分自身を捧げることだったからです。そのペトロに、主は次のように告げられました。

「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペテロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

事実、これ以後のペテロは、とくに主イエスの十字架の死とご復活の後、この主のおことば通りのいのちを生き、さらには殉教の死を遂げて行きました。皆さん自身が、そのことの証人です。なぜなら、皆さん自身が、主イエスに、ペトロすなわち「岩」と名付けられた使徒の上に建てられた、主の教会の一部なのですから。

皆さんにとっても、主イエスに、「このわたしにとって、あなたこそキリストです」と告白することは、ペトロのように、皆さん自身をそのまま主お捧げすることでしょう。同時に、ペトロのように、それと引き換えに、皆さん自身も、主からその告白にふさわしい新しい人生を与えられることでもあるはずです。

ペトロのように、それは皆さんの思いや想像を遥かに超えた全く新しい人生であるに違いありません。ペトロにしても、ガリラヤの貧しい一漁師でした。その彼が主イエスにお会いするまで、主の「神の国」建設のために主の教会の「岩であり礎」として用いられることになるなどと、ただの一度でも考えたことがあったでしょうか。

福音の語る出来事は、たんに主イエス個人に起こった事件ではありません。ちょうどペトロのように、主を「神の子キリスト」と信じ、告白した皆さん一人ひとりを確実に包み込んで、皆さん自身の現実であり未来となる出来事だからです。

主イエスの物語は、したがって皆さん自身の物語でもあるのです。福音は、主および皆さんにとっての一つの「神の国」の事実と真実を語ります。そして、主と弟子たち、さらには主と皆さんの間に起こった出来事の前と後において、皆さん自身も世界も、決して同じではありません。それが福音の語る「神の国」です。

「神の国」とは、神なる主イエスご自身が支配しておられる国です。しかし、それは、どこか遠くにある国、というようなものでは決してありません。そうではなく、「それでは、あなたは、わたしのことを誰と言うか」と、皆さん一人ひとりに問われる主によって、「神の国」は、すでに皆さんのところに来ています。

そして、皆さんが主イエスに「あなたこそ、このわたしにとって神の子キリスト」と告白させていただくことによって、皆さんは「神の国」に入らせていただき、そこに生きるのです。そのために皆さんはこのミサに集っておられます。

今ここで、このミサで、主イエスご自身が皆さん一人ひとりに、「あなたにとって、わたしは誰か」と問い掛けてくださいます。否、問い掛けてくださるだけではありません。「あなたこそ、わたしにとって、神の子キリストです」と告白して生きる皆さんを、主はご自身の御からだと御血を与えて養い、「神の国」に生かされる信仰の喜びと永遠のいのちで満たしてくださいます。

これは、物語ではありません。皆さんに、今、現に、このミサで起こる「神の国」の出来事です。皆さん一人ひとりに「神の国」が始まる。今、ここに。なぜなら、「神の国の主」イエスご自身が、ここに、おられるからです。それがミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 8/20

年間第20主日マタイ15:21-28

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音には、一人の「カナンの女性」が登場します。カナンの地に住む女性とは異邦人の女性です。当時のファリサイ派の人々は、異邦人を、救いが約束された神の民とは厳格に区別され、神との契約の相手ではなく、「真の神」とも「真の信仰」とも無縁な神の救いの埒外の者と見なしていました。そのカナンの女性が主イエスを訪ね、主は彼女に「真の信仰」をお認めになった。それが今日の福音です。

確かに、この異邦人の女性にとって主イエスにお会いするまでは、「真の神」も「真の信仰」も無縁だったでしょう。神の民であることを誇るファリサイ派の人々は彼女を異邦人と見下し相手にしません。また彼女の方も、そのような彼らにはまったく関心はなかったでしょう。しかし、主イエスは彼らとはまったく異なった存在でした。彼女は主にどうしてもお会いしたいと切に願いました。そして、主にお会いした時、彼女は主に信頼し、自分自身と重い病を負う自分の娘とをお委ねしたのです。

神なる主イエスに対して、これがこの異邦人の女性がしたことの一切です。しかし、神にとってはそれで十分でした。なぜなら、それこそ「真の神」がわたしたちに期待される「真の信仰」だからです。なぜなら、「真の信仰」とは、主イエスにおいて「真の神」にお会いさせていただき、主に信頼し、主に身も心も主に委ねさせていただくこと以外の何ものでもないからです。だからこそ、主はこの女性に仰せでした。

「あなたの信仰は立派だ(十分だ)。あなたの願いどおりになるように。」

福音の語るこの物語に、わたし自身、畏れと感動の思いを禁じ得ません。わたしには、この異邦人の女性が他人とは思えません。わたしが最初に主イエスのことをお聞きした時、わたし自身、「真の神」も「真の信仰」も知らぬ異邦人以外の何者でもなかったからです。しかし、今日の福音は、主のみ前にはカナンの地に住む女性のように異邦人であること、つまりイスラエルの民ではないことなどまったく問題にはならないことをはっきり示してくれています。それには明確な理由があります。

その時カナンの女性の前に、そして今、わたしたちの前にお立ちになっておられる主イエスこそ、かつてイスラエルの民に預言者を通してみことばを語られた主なる神ご自身だからです。今や、主なる神ご自身が、主イエスにおいてわたしたち一人ひとりの前にお立ちになっておられる。この主のみ前には、かつてのようなイスラエルの民と異邦人の区別はもはやありません。「一人の神の前に一人立つ」このわたしがあるだけです。わたしたちは、今、カナンの女性のように、この「真の神」に信頼し、主に自らを委ねさせていただけば良いのです。それが「真の信仰」です。

また、今日の福音の物語は、「真の信仰」とは理屈でもきれいごとでも無いことを教えてくれていると思います。このカナンの女性は、おそらくは彼女の娘の病を契機に、自らと自らの過去を見つめ直し、そこで自覚された、実は娘の病に増して癒され難い自分自身の罪に直面し、主イエスのことが気になり始め、娘の救いのみならず、自分自身の救いを求めて、主にどうしてもお会いしたいと願うようになったのではないでしょうか。そして主にお会いし、自分と娘をともに主にお委ねしたのです。彼女にとって、それ以外に母子ともに救われる道、生きる道は無かったからです。

このカナンの女性が母として、重い病に苦しむ娘の救い、そして自分自身の救いを求めて一心不乱に主イエスを求めたように、まさに信仰とは、心から主を求め、主にお会いさせていただき、主に自らを委ねさせていただくことです。

その時、神なる主イエスは、わたしたちが主にお会いするために、わたしたちの方で別人になってから来るようにとはお求めになっていません。たとえそのように求められても、カナンの女性にはどうしようも無かったでしょう。わたしも同様でした。若き日の仏道修行で直面したのは、厳しい修行によっても救われ難いわたし自身でした。そのわたしが、幸いにも主の教会に導かれ、真の救い主イエスにお会いさせていただきたいとの願いをあたえられ、しかも、その主に、ミサにおいて確かにお会いさせていただき、その主に一切を委ねさせていただいたのです。

主イエスはカナンの女性に「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と仰せでした。つまり、「真の信仰」とは、「真の神」主イエス・キリストを心から求め、主にお会いさせていただき、主に自分も家族も委ねること以外のなにものでもありません。そして、主は、主を心から求めるわたしたちに、カナンの女性になさったように、わたしたちを家族ごと救ってくださるために、ご自身のからだを裂き、ご自身の血を流してまでしてご自身のすべてをわたしたちにお与えくださいます

「真の信仰」をいただくことは、「真の神」主イエスご自身をいただくこと「真の信仰」である「真の神」主ご自身を、わたしたちは、今、このミサでいただきます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 8/15

「天の食卓に迎え入れられて」

聖母マリアさまの被昇天の祭日の黙想 
(2023年8月15日、ルカ1:39-56) 

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」

聖母マリアさまのこのおことばは、「聖母被昇天」の祭日の「集会祈願」のように、後に「からだも魂もともに天の栄光に上げられた」「神の母」聖マリアさまの喜びを、聖霊により御子キリストを宿されたその時から、すでに先取りしているようです。

実は御子キリストは、ご自身の十字架と、十字架に続くご復活とご昇天を前にして聖母マリアさまと弟子たちに次のように約束しておられました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ12:32) 紀元五世紀に遡る「聖母被昇天」の祭日。それは、御子キリストが、ご自身のこのお約束をご自身の「母」マリアさま、だれよりも愛しかつ誰にも優って感謝してやまない聖母さまに、わたしたちすべてに先んじて最初に成就されたことの記念です。

ところで、聖母さまが御子キリストによって「上げられた」「天の栄光」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、「父・子・聖霊」の「三位一体の神」の「聖なるいのちの交わり(communio)のこと。しかもそれは、教会の伝統では、ロシアのリュブリョフの有名なイコンのように、「三位一体の神」なる「父と子と聖霊」の「天の食卓(の交わり)」として描かれて来ました。そうであれば、聖母さまが「天の栄光に上げられた」とは、聖母さまが「天」における「父・子・聖霊の三位一体の神」の「聖なる交わりの食卓(communio)」に、大切に、かつ感謝をもって迎え入れられたということです。

聖母さまが、三位一体の神の天の食卓に迎え入れられる。これは、「神の母」としての誠実なご奉仕を地上で終えられた後、上げられた天において聖母さまのご労苦に報いるにまことにふさわしいことでしょう。聖母さまは、「天の父なる神」の祝福とご意志を、「おことば通り、この身に成りますように」と受け入れ、「聖霊なる神」に満たされて神の御独り子を身籠り、「御子なる神キリスト」を産み育てられた方。

聖母マリアさまは、「神の母」、文字通り「神に御からだをお与えくださった方」(聖アタナシウス)です。「神の母」マリアさま無しに、わたしたちは、神なる主イエスのご聖体をいただくことはできません。つまり、ミサが成り立ちません。カトリックの信仰は、心の内に神を信じるという以上に、主イエスご自身が制定してくださったミサ(最後の晩餐・過越しの祭儀)において「神との霊的・神的な交わり(Divine/Holy Communion)」に入らせていただくこと」です。しかし、聖母さま無しに、わたしたちはご聖体の主イエスにおける神との御交わりに入らせていただくことはできません。

聖母さまは、聖霊によって父なる神の御ひとり子を宿された時から、天の「三位一体の神の交わり」に迎えられる日まで、「神の母」として、天の神の祝福に包まれ、聖霊に導かれ、御子キリストのおことばとみ業を「すべて心に納めて」行かれました。

      (ルカ2:51)

主イエス・キリストが「受肉された神」ご自身であることを、ご聖体の秘跡(ミサ聖祭)の体験を通して「わが身に知る」カトリック教会は、主の「受肉の秘義」に「母」とされることによってお仕えされた聖母マリアさまを、「偉大な人イエスの母」としてではなく、「受肉された御子なる神」の「母」、すなわち「神の母」「神に御からだをお与えくださった方」と、確信と感謝と喜びをもってお呼びさせていただいて参りました。しかし、このことはミサを離れては、決して自明のことではありません。

事実、約300年間の迫害の時を、カタコンベでミサを死守した教会でしたが、4世紀初頭コンスタンチヌス大帝により教会が公認され、保護されるようになると、ミサを離れた観念的な議論で教会を混乱させる人々が現れました。彼らは、聖母さまによる受肉の秘義を認めず、従って主イエスを受肉された神と認めず、聖母さまも「偉大なる人イエスの母」に過ぎず「神の母」ではないと主張しました。ミサのご聖体において「受肉された神キリスト」を畏れと感謝をもって拝領する体験を欠き、主を観念的にしか理解できない人々には、これはやむをえないことかもしれません。

また、御子キリストが、ご自身の母・マリアさまを、父の許に上られる十字架の上から、わたしたちにも「母」としてお与えくださった恵みを忘れるわけには行きせん。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26,27)

それは、わたしたちが「神の母」聖マリアさまに抱かれて、「三位一体の神」の祝福の内に新たに生まれることを、御子なる主イエスが切に願われてのことに違いありません。「神の母」聖マリアさまは、わたしたちの母として、わたしたちを「三位一体の神の交わり」の内に、すなわち「永遠のいのちの交わり(commmunio)」の内に産んでくださいます。それは、聖母さまのように、わたしたちも「神の国の祝宴」、「父・子・聖霊の三位一体の神の食卓(の交わり)」に迎え入れられることでもあります。

「神の母」聖マリアさまを「わたしたちの母」とも呼ばせていただけるわたしたちカトリックの幸い。「神の母」聖マリアさま、わたしたち罪人のために、今も、死を迎える時も、お祈りください。  アーメン。

司祭の言葉 8/13

年間第19主日 マタイ14:22-33

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の8月6日に、「主イエスの変容」の祭日を祝いました。高い山の上で、神ご自身であられる主イエスの光輝く真実のお姿を目の当たりに拝して、ペトロは、思わず主に、「主よ、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです」と申し上げました。

わたしたちもまた、このミサで、ペトロとともに主イエスに申し上げます。「主よ、わたしたちがここにいるのは素晴らしいことです」。なぜなら、今、このミサで、福音とご聖体において、主はわたしたちに神なる主ご自身を現してくださるからです。高い山の上で、ペトロにご自身を示されたと同じ光り輝く主ご自身を。

今日の福音は、この「主イエスの山上の変容」の少し前に起こった出来事です。「5つのパン」で5千人の人々を養われた主の「パンの奇跡」に続く今日の福音は、主が「湖の上を歩かれた」ことを伝えています。「パンの奇跡」と「水上歩行の奇跡」。主のこの二つの奇跡によってペトロは、他の弟子たちとともに、主に、「本当に、あなたは神の子キリストです」と、はっきりと告白し、主を礼拝しました。

まさにその時から、彼らは、主イエスをキリストと告白し生きる信仰と礼拝のまったく新しい命へと召されました。その後、人々の間に、イエスとはいったい何者なのかという議論が起こりました。ある者は、彼を「洗礼者ヨハネ」だと言い、他の者が「エリヤ」だという中で、主の「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いに、ペテロは躊躇せず、「あなたはメシア(ヘブル語、ギリシャ語ではキリスト、生ける神の子です」と答えました。そのペテロに主は仰せになります。

「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペテロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:17-19)

主イエスの十字架とご復活の後、ペトロは、この主のおことば通りの命を生き、ローマでの殉教の死に至るまで、残された彼の生涯の一切を主に捧げて生き、かつ死んで行きました。そのことは、皆さんよくご存知です。

福音は、主イエスにおいて「神の国」が近づいたこと、むしろ、「神の国の主」である主イエスの在すところに「神の国」が来ているとの事実を宣言しています。これは、主イエス個人にのみ関わることではありません。主イエスおよびわたしたちの現実となった出来事です。主イエスの物語は、わたしたち自身の物語でもあります。

主イエスの奇跡と、弟子たち、さらにわたしたちの回心(主と心が一つにされること)。この二つの出来事が、一つの「神の国」の「事実」を語ります。その時、主と弟子たち、さらに主とわたしたちの間に生起した出来事の前と後において、世界は同じではありません。それが、聖書が証言し、わたしたちが体験している「事実」です。

最早、わたしたちには「パンの奇跡」同様、今日の福音の主イエスの「水上歩行の奇跡」を疑う理由は何もありません。それらの「奇跡」によって、事実、ガリラヤ湖の漁師ペテロと他の弟子たちに、「主イエスをキリスト」と告白し、主の使徒とされ、さらに教会の礎とさえされる、かつての彼らにとっては考えることもできなかったまったく新しい命が与えられたからです。まさに「神の国」の奇跡です。

事実、主イエスの使徒の頭(かしら)であるペトロを「岩」として神の教会が建てられ、事実その後の世界は、今に至るまで教会によって新しくされ続けてきました。そして、わたしたちは現に、使徒の頭ペトロの後継者であるローマ教皇を戴く、主の教会の一員であることによって、わたしたち自身がこの「神の国の奇跡」の証人です。

実に、主イエスの「パンの奇跡」と「水上歩行の奇跡」を疑う理由はわたしたちにはありません。なぜなら、それに優る奇跡を、主はペトロと同様にわたしたちに対しても行うことがおできになることを、わたしたちは知っているからです。事実、主はわたしたちの人生において、あるいはわたしたち自身を用いて、それに勝るとも劣らぬ奇跡を行い続けて来られたことを、教会二千年の歴史は雄弁に物語っています。

今、このミサにおいて、高い山の上でペトロに真実のお姿を示された主イエス・キリストご自身が皆さんにお会いくださいます。お会いくださるだけではありません。今、このミサにおいて、皆さんをペトロのような新しい命に生かすために、主は皆さんに、みことばとご聖体においてご自身そのものをお与えくださいます。

最早これは単なる物語ではありません。皆さんお一人おひとりに、今、現に、ここで起こっている主イエスの「神の国」の出来事です。ミサこそ最大の奇跡です。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 8/6

説教:主の変容 マタイ17:1-9

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。」

主イエスの光輝くお姿を目の前に仰ぎみることをゆるされたペトロの言葉です。

マタイによる福音は、主イエスの「パンの奇跡」の後、主が、「必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」(マタイ16:21)と、弟子たちに「打ち明け始められた」後、直ぐに続けて、今日の「主の変容」を伝えています。

このように語ることによって、マタイによる福音は、「パンの奇跡」すなわち主イエスとの「神の国の食卓」、続く主の十字架の死と復活の告示、さらに「主の変容」、この三つの出来事が、主が神の御子、神ご自身であられることを、弟子たちに明らかにされた一連の出来事であることを、わたしたちに示してくれています。

主イエスの「山上の変容」。マタイによる福音は、その日、主は、ペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を連れて「高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」と伝えていました。

さらにその時、弟子たちは「これはわたしの子、わたしの心に適う者、これに聞け」「雲の中からの声」すなわち「父なる神の声」を聞いたとマタイは伝えていました。

エルサレムに最後に上られるに先立ち、天の御父とともに御子キリストは、ペトロたちに、エルサレムで十字架にお就きになられ、さらに復活される方が、実は父なる神の御子キリスト、神ご自身であられることを、御子ご自身の光輝く父なる神のお姿への変容および「神ご自身の声」を以て、予めはっきりとお示しになられました。

ところで、マタイは、モーセとエリヤの二人が「イエスと語りあっていた」内容を伝えていませんが、同じ時のことをルカによる福音は次のように教えてくれています。

(モーセとエリヤの)二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」(ルカ9:31)

「最期」と訳された言葉は「過越」(エクソドス)という字であることに注意したいと思います。そうであれば、高い山の上で「モーセとエリヤが話していた」「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期とは、主イエスがエルサレムで成し遂げられる「主ご自身の過越」つまり主の十字架と復活のことであったことが分かります。

このように、山上での「主の変容」は、主イエスのエルサレムでの「主の過越」つまり「主ご自身の十字架と復活」に堅く結びつけられています。だからこそ、主は、ご自身の「山上の変容」の前および後に、ご自身の「過越」すなわち「十字架と復活」を、三度繰り返して弟子たちに予告しておられたのです(マタイ16:21、17:22、20:18)。

わたしたちすべてを創造し、支配される天の父なる神。その御子キリスト、神ご自身が、十字架におつきになられる。「主イエスの山上の変容」と「主の過越・主の十字架と復活の予告」が相俟って、ここに驚くべき神の救いの秘義が明らかにされました。

ところで、「主の変容」は、マタイによる福音ではさらに、「パンの奇跡」の物語によって、主イエスの「過越の食卓」つまり「神の国の食卓」とも結びつけられています。

「主の変容」が、主イエスのご受難の40日前であったとの伝承から、紀元5世紀以来、教会の暦では、「主の変容」の祝日は、9月14日に祝われる「十字架称賛」の祝日の40日前の8月6日に祝われて来ました。ここで、「主の変容」が、主の十字架の40日前との教会の伝承は、モーセに導かれたイスラエルの民が約束の地に入るまでの荒野の40年の旅を思い起こさせます。

事実、「主の変容」の後、主イエスは弟子たちとともにエルサレムに上る旅に就かれ、その40日後にエルサレムに入城された主は、弟子たちを、主ご自身との「最後の晩餐」すなわち「主の過越の食卓」に招かれました。そのようにして、主は、約束の地である「神の国」を「神の国の食卓」を以てお示しになりました

ただしそれはわたしたちにとって、主イエスの旅に伴い、旅の終わりエルサレムでの主の十字架と復活を通してのみ招き入れられる「神の国」です。その時、「神の国の食卓」に備えられ、わたしたちに与えられる「永遠のいのちの糧」が、実は「キリストのからだと血」であることが、ミサの度に主ご自身によって明らかにされます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 7/30

年間第17主日マタイ13:44-52

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の二週に続き、本主日の福音も、主イエスの「神の国(天の国)のたとえ」からお聞きします。「神の国」こそ、主の福音宣教の要(かなめ)です。「神の国の主」キリストの在すところに「神の国」が来ています。「神の国」とは、「神の国の主」キリストによってすでにわたしたちが体験することをゆるされている「我が身の事実」です。主は「神の国のたとえ」により、この「事実」にわたしたちの目を開かせ、主と心を合わせ、主に身を委ねて新しい命に生きるようにわたしたちをお招きくださいます。

今日の福音の「神の国のたとえ」は、「神の国」に招かれたわたしたちに、今、主が期待されることを語ります。わたしたちは主のご期待に応えて、福音の語る「畑に隠された宝」を見つけた農夫のように、「良い真珠」を見つけた商人のように、さらには水揚げした網の内から「良いもの」を選ぶ漁師のように、決して時を逸することがあってはなりません。わたしたちの持てる一切に代えて、今、「神の国」に隠されている「宝」や「真珠」や「良いもの」を「手に入れ」させていただくべきです。

しかし、主イエスの「神の国」に隠されている「宝」、「真珠」あるいは「良いもの」とは何のことなのでしょうか。それは、使徒パウロが、コロサイの教会への手紙に書き記したように、「キリストと共に神の内に隠されているわたしたちの命」のことではないでしょうか。パウロは、次のように記しています。

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたもキリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3:1-4)

主イエスが来てくださった今こそ、主ご自身の「神の国」の内に神が隠しておられる「主と共に神の内に隠されたわあしたちの真実の命」を「手に入れさせていただく」ことが許される大切な時。この時を失ってはなりません。そのわたしたちに、今、この時、求められていることはただ一つです。主は仰せです。「出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、良い真珠を買いなさい」、あるいは「網がいっぱいになったら、岸に引き上げ、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てなさい。」

最早、過去の自分に拘泥せず「悔い改める」つまり「主と心を合わさせていただく」つまり「主が今わたしにお望みくださることを、わたし自身の望みとさせていただく」ことです。それは、過去のわたしに代えて、主が今わたしに新しくお与えくださる「キリストと共に神の内に隠されている命」を感謝していただくことです。

主イエスは福音宣教の始めに、「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と、仰せでした。「神の国の主」キリストが在すところに「神の国」は来ています。そしてわたしたちは、主によって、主ご自身の「神の国」に招かれています。その「神の国」に、主とともに生きる新しい命、新しいわたし、が隠されてあるのです。

この事実に目を開かれる時、わたしたちは主イエスへと「心を高く上げ」させていただいて良いのです。今や、過去のわたしは「過去」のわたし。主が与えられる「新しい」わたしを求めさせていただいて良いのです。「福音」そのものである主に、わたし自身を、わたしの未来を委ねさせていただいて良いのです。なぜなら、この方こそわたしのために十字架についてくださった主。十字架にわたしの過去を清算して、新しい命をお与えくださるために復活してくださった主ご自身です。わたしたちの新しい命は、主ご自身の命とともに「神の国」に隠されてあるのです。時を失ってはなりません。しかし、その新しい命を、どこで求め、どのようにしていただくのか。

マタイによる福音は第13章全体で、「神の国のたとえ」を七つ重ねて語りました。「神の国の主」キリストは、ご自身の「神の国」とそこに隠された「新しい命」に、くり返しわたしたちの目を開かせてくださった後、マタイ第14章に語られる「五つのパン」の出来事、つまり「パンの奇跡」へとわたしたちを招き入れてくださいます。「パンの奇跡」は、後の主イエスの「神の国の食卓」すなわちミサの「先取り」です。

「神の国のたとえ」によってすでに「神の国」に招かれてあることに目を開かれたわたしたちは、さらに「神の国の食卓」つまりミサに招かれます。主イエスがわたしたちを「神の国」に招いてくださったのは、新しい命をお与えくださるためにわたしたちを「神の国の食卓」に招かれるためだったのです。そして、その「神の国の食卓」・ミサには、聖体においてご自身をわたしたちにお与えくださる主ご自身がおられます。同時に、主によって新しくされるわたしたち自身がいます。「キリストと共に神の内に隠されている新しい命」を、今、このミサでいただいてください。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 7/23

説教:年間第16主日 マタイ13:24-43

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先週に続き、今主日も、主イエスの「神の国のたとえ」からお聞きします。最初が、「毒麦のたとえ」、次が「からし種とパン種のたとえ」です。「神の国の主」キリストにとって「神の国」こそ、福音宣教の中心です。マルコによる福音は、主ご自身の福音宣教の始めを次のように伝えていました(マルコ1:14,15)。

「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を述べ伝えて『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」

「神の国は近づいた(英訳はhas come)と、主イエスは仰せでした。しかし、それはいかなることなのでしょうか。ところでマタイによる福音は、洗礼者ヨハネが、ユダヤの領主ヘロデによって捕えられ、投獄されていた牢の中から自分の弟子たちを遣わし、主に「来るべき方は、あなたでしょうか」と問わせた時、主は次のように「神の国の主」ご自身における「神の国」の到来を、「事実」をもって、お答えになりました。

「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタイ11:2-6)

主イエスの在すところに「神の国」が来ています。「神の国の主」キリストの在すところが「神の国」です。主のヨハネへのおことばは、この「事実」を見事に語り示しています。そうであれば、「神の国の主」キリストによってミサに招かれたわたしたちは、すでに「神の国」のただ中にいます。驚くべき、しかし、まぎれもない事実です。

実に、「神の国」とは、「神の国の主」キリストによって、わたしたちがすでに体験することを許されている「わが身の事実」です。「神の国のたとえ」とは、わたしたちが、この「わが身の事実」に目を開き、心を向けるように主によって語られたものです。

そうであれば、今日の福音の最初の「毒麦のたとえ」と呼ばれてきた「神の国のたとえ」は、「神の国」のただ中に在って、「神の国の主」であるキリストのみ前に明らかにされた、わたしたちとわたしたちの世界の現実以外の何ものでもありません。

良い麦と毒麦の混在したようなわたしたちとわたしたちの世界に、だからこそ主イエスは来てくださいました。その主のみ前に、わたしたちは何をなすべきか。自分はよい麦であると自らを誇り、他を毒麦と神に代わって他者を裁くことでしょうか。あるいはその逆に、自分を毒麦と決めつけ、同じく神に代わって自らを裁くことでしょうか。唯一の裁き主であるキリストのみ前に、そのどちらも間違っていると思います。

主イエスのみ前に、わたしたちに求められているただ一つのことは、すべてをご存知の主に、わたしたちをそのままお委ねさせていただくことです。つまり「悔い改める」ことです。聖書で「悔い改める」とは、直訳すれば(主イエスと)思いを一つにする」つまり(主と)心を合わせる」ことです。わたしたちに「神の国は近づいた」と仰せの主は、続けて「悔い改めよ」と仰せになっておられました。

だからこそ主イエスは続けて(神の国の)福音を信じなさい」と仰せでした。ここで「信じる」と訳される語は「委ねる」という言葉です。つまり、主は「福音」である主にあなた自身を委ねてよいと仰せです。今日の第二の「神の国のたとえ」は、「神の国の主」キリストの力を「からし種とパン種」という誰でも知っている事実を以て語ります。そこには主に自らを委ねた主の教会が、二千年の間体験してきた「聖霊」による「主イエスと主のみ国」の驚くべき力と働きが見事に語り尽くされます。

「天の国(神の国)はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」さらに、「天の国(神の国)は、パン種に似ている。・・・」

「神の国の主」キリストによってすでに「神の国」の内に招かれてある幸い。今、主にわたしたちの心を合わせ、すべて委ねさせていただく幸い。「神の国」の中心にはわたしたちの罪の一切を身に受けて十字架につかれ、わたしたちにご自身のいのち「聖霊」を与えるために復活してくださった救い主がお立ちになっておられます。

もう二度と、わたしたちの弱さ、小ささに絶望する必要はありません。何よりも小さなものに働いて、何よりも大きく用いることがおできになる「神の国の主」キリストご自身が、今、ここに、福音とご聖体の内に現存し、「聖霊」において確実に、わたしたちに大いなるみ業を行ってくださる。これがわたしたちの信仰です。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、主は仰せです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。