司祭の言葉 12/3

待降節第一主日 マルコ13:33-37

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

教会はアドベント(待降節)からアドベントへと一年の歩みを進めます。今日アドベント第一主日。アドベント第一ろうそくに火を灯し、教会暦の新しい一年の始めをミサで祝います。一週ごとに光を増すアドベントのろうそくの光は、ヨハネによる福音冒頭の「光であるキリスト」を証しする次のことばをわたしたちに想い起こさせます。

「光は闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝たなかった。(フランシスコ会訳)

闇がいかに深く重くとも、また闇の支配が永遠に続きそうに思えても、「一燭の光」が灯されれば、闇は終わります。闇は光に対しては完全に無力だからです。(新共同訳は「闇は光を理解しなかった」としますが、ギリシャ語kata-lambanouは「全く力が及ばない、完全に無力である」が原意で、「闇は光に打ち勝たなかった」と訳すフランシスコ会訳がより自然です。)

アドベントは、祭色の「紫」が示すように、神のみ前に「目を覚まして」祈り備える大切な時です。日本ではアドベントを、人を主語に「待降節」即ちキリストのご降誕をわたしたちが「待つ時」とします。しかし、ラテン語の「アドベント」は、使徒ペトロの言葉「神の確かな約束に従って来たりたもうキリスト(ペテロ第2、3:13)の如く、主なる神が主語で「主が来られる」と神的事実を宣言する緊張感のある言葉です。

「神の確かな約束」ゆえに、わたしたちは空しく時を「待つ」ことはありません。ペトロの言葉のように、主イエスは、「神の確かな約束に従って来たりたもう」からです。この神の確かさの前に、わたしたちには単に「待つ」という以上に、緊張感をもって「来たり給う主にしっかりと備える」ことが求められます。マルコが、いわゆる「終末預言」の一節とされる今日の福音の内に、主がわたしたちに対して「目を覚ましていなさい」と、三度も繰り返して仰せになられたと伝えるのはこのためです。

聖書のギリシャ語で「終末」eschatonが、単に時間の経過による「時の終わり」でなく、神が創造の力と権威によって「古きを終わらせ、新しきを始める特別な時・歴史の転換点」を意味する言葉であることは既にお話ししました。したがって「終末」とは、具体的には古きを終わらせ、新しきを始めることがおできになられるただ一人の方・天の父なる神が、決定的な目に見えるお姿、つまり主イエス・キリストにおいて歴史にご自身を現わされる時とその事実を示します。「終末」とは、主の時です。

この「終末」、つまり古きを終わらせ新しきを始める「神の新しい創造の時」の中心に立っておられるのは、神なる主イエスご自身です。「目を覚ましていなさい」と主は仰せです。この主イエスから、わたしたちは目を反らしてはなりません

今日の福音に先行する主イエスのいわゆる「終末預言」の中で、主は天変地異や戦争などの「大きな苦難」に触れておられました。2011年の東日本大震災に続く、世界各地での自然災害と2019年以来のコロナ感染症で日本と世界では多くの命が奪われました。さらには、昨年来のロシアとウクライナ、パレスチナでの戦乱。これらの出来事に触発されて、いわゆる「終末の徴」を巡っての巷の議論は尽きません。

ただし主イエスは、そのような「大きな苦難」でさえ「まだ世の(正確には、神の時の)終わりではない」(マルコ13:7)と仰せの上で、ご自身の「終末預言」をいわゆる「主の来臨」の約束によって結ばれます(13:24-27)。「来臨(再臨)」と訳されたギリシャ語parousiaは、元来「目の前の(para)存在(ousia)」を意味する言葉であることは既にお話ししました。この主のみ前に(parousia)「目を覚ましていなさい」と主は仰せです。「終末」eschaton・神の新しい創造の大切な時に、「新しい時」の中心に立っておられる神ご自身の確かな存在(para-ousia)を見失ってはなりません。主はそのためにこそ、神との確かな出会いの時であるミサをお定めになっておられるのです。

「目をさましていなさい」との主イエスのおことばは、ゲッセマネの主を思い起こさせます。弟子たちのすぐ傍らで(parousia)世を徹して祈っておられる主のみ前で(parousia)眠り込む弟子たちに、「なぜ眠っているのか。目を覚まして祈っていなさい」と仰せでした。ルカは「終末預言」の結びに、「主の前に立つ力が与えられるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(21:36)との主のおことばを伝えています。             

「目を覚ましていなさい。」それは、主イエスがともにいてくださる(parousia)というミサ毎に体験する事実に立って、この主による新しい時、つまり「主の時」の証人とされるためです。「終末、つまり主の時」であるアドベントは、降誕日に聖母マリアさまからお生まれになる救い主キリストのみ前に立つ力が与えられるように、わたしたちにその力をお与えくださる聖霊を求めて、目を覚まして祈る大切な時です。

アドベント第一ろうそくに火が灯されました。「闇は光に勝てない」のです。さらに二本目、三本目、四本目とアドベントのろうそくに火を灯し続けて、この世を光であるキリストで満たしつつ、主のご降誕の日に、目を覚まして祈り備えたいと願います。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 11/26

王であるキリスト マタイ25:31-46

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)

待降節直前の主日を、カトリック教会は「王であるキリスト」の祭日として祝います。来週から始まる4週間の待降節を経て、降誕日に聖母マリアさまを通してお迎えする主イエスこそ、天地万物の主であり、わたしたち神の民「すべて」の王であられることを、待降節を控えた今主日、あらかじめ深く心に留めさせていただくためです。

この主なる神であり、王であられる主イエスが、人知れぬナザレの村の貧しいおとめを母としてお生まれになられる。「王であるキリスト」の祭日は、来るべきクリスマスの神の受肉の秘義について、立ち止まって黙想させていただく時でもあります。

元来、聖書において「王」とは、神によって、神と神の民「すべて」のための奉仕者として立てられる存在です。したがってその「王」には、神と神の民「すべて」に果たすべき二つの使命があります。一つは、神の民「すべて」にパンとブドウ酒、すなわち日毎の糧を保証すること。二つには、その同じパンとブドウ酒を奉献しての神の民「すべて」の神への礼拝を神のみ前に責任を以って整え、司(つかさど)ることです。

神の民「すべて」と言う時、神が最も心にかけられるのは、民の内「最も小さい者」のことです。もし「最も小さい者」が無視され犠牲にされるならば、民の「すべて」ではありません。強い者たちだけのためなら王は不要です。「最も小さい者」をこそ含んで「すべて」の人々のために神は王を立てられるのです。しかし、イスラエルの歴史で、この神のみ旨に生涯忠実に、神と人とに仕え切った王はいませんでした。

それゆえにこそ、父なる神は「最も小さい者」をこそ含んで、わたしたち「すべて」のために、御子キリストを王としてお与えくださいます。しかし、そのために神がなさったことがあります。それは、神が主イエスにおいて、わたしたちの「最も小さい者」とご自分をひとつにしてくださった、むしろ、ご自身を「最も小さい者」としてくださったことでした。実はそれなしに、主が神の民「すべて」の王となってくださる道はなかったからです。主は仰せでした。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

主イエスが、わたしたちの中の「最も小さい者」を「兄弟」・ご自分と同じ者と呼んでくださる。主にとってそれは極めて具体的な事実でした。主はご自身、わたしたちの「最も小さい者」が日々味わっている「飢えと渇きに苦しみ、家のない旅の生活や身を守る術の無い裸の辱め」を味わい、「病気や入牢」さえも経験されました。

これだけでも驚くべきことですが、話はこれで終わりません。今日の福音は、続いて詳細に語られる主イエスの十字架に至るご受難と死の直前に、主ご自身がお語りになられたおことばです。実は、主が続いて実際に体験されることになる十字架のご苦難と死の事実の前には、今日、主が語られた「飢えや渇き」などの体験の一切をしても、それらはいわば序曲にしか過ぎません。主が、ご自身を「最も小さい者」と完全に一つにされ、そしてそれゆえにこそ言葉の真実の意味において神の民「すべて」の王となられるためには、実に、神の御子キリストをして、「十字架上の戴冠式」が求められたのです。

事実、主イエスの十字架上の戴冠式無しには、神と人とに対するまことの王の第一の使命、すなわち、わたしたち神の民「すべて」に、パンとブドウ酒をくださることは不可能でした。まことの王である主が、神の民、つまりわたしたちの「すべて」にお与えくださろうとされるのは、わたしたちのこの世の命を支えるパンとブドウ酒だけではないからです。実はそれは、わたしたち神の民「すべて」に「永遠のいのち」を与える唯一のパンとブドウ酒、つまりご自分の御からだと御血に他ならないです。

加えて、主イエスの十字架上でのご自身の犠牲奉献無しには、神がわたしたち神の民「すべて」のためにまことの王に託された神と人とに対する第二の使命、すなわちパンとブドウ酒を捧げて、神の民「すべて」を、神への真の奉献の礼拝に整えることも不可能でした。天の父なる神への唯一の捧げものは、永遠のパンとブドウ酒、すなわち主ご自身の御からだと御血以外には、実際にはあり得ないからです。

天の父なる神は、唯一のまことの王である主イエスにおいて、ご自分の民、即ちわたしたちの「最も小さい者」にご自分をひとつにしてくださった。むしろ、神なる主こそ、わたしたちのただ中で「最も小さい者」になってくださった方、その方ご自身でした。わたしたち「すべて」のために、ご自身を十字架上で犠牲にされるまでして。

この主イエスを、唯一のまことの王としてお迎えします。降誕日の夜マリアさまを通して。これが、わたしたち「すべて」が祝うクリスマス・神の受肉の秘義です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 11/19

年間第33主日 マタイ25:14-30

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

聖週間、即ち主イエスの地上で最後の週に、主がエルサレムでお語りになった、日本語では「終末預言」と呼ばれる主のおことばを、マタイによる福音は、第24・25章の二章を費やして丁寧に伝えています。今日の福音はその後半の一節です。ただし、「終末」や「再臨」という翻訳語が独り歩きしている様な日本の状況は気になります。

そもそも、「終末預言」の「終末」eschatonとは、いかなる時なのか。聖書のギリシャ語eschatonは、単に「時の終わり」を意味せず、古い時の終わりと同時に新しい時の始めを意味する特別な言葉です。ただし、古い時を終わらせ、新しい時を始めることがお出来になるのは神のみです。それゆえeschatonは、そのために神が目に見える仕方で歴史に介入なさることをも意味し、事実、天の父なる神は御子キリストにおいて、歴史の中にそのお姿を現わされました。その事実に立って主ご自身は、「終末預言」を主の「再臨」parousiaの確証によって結ばれています。

「再臨」とは何事か?これをミサと無関係に翻訳から「再び臨む」つまり「主イエスが再び来られること」と理解すると、未来のいつかことであり、如何にしてかは不明です。しかし「再臨」と訳された聖書の原語ギリシャ語parousia(para-ousia)は、para=「傍ら」ousia=「存在」で、明らかに、主が「目の前に、つまり、今、ここに現存・到来している」という現在の事実を示す言葉です。つまり、「再臨」とは、ミサの体験を語る言葉で、主のミサ制定のことば「記念」むしろ「現存」を意味するanamunesisと同義です。(「再臨」は、元来「再度の臨在(つまり現存)」の意味の訳語です。)

また、「時は満ちた。神の国は近づいた」と、主イエスの宣教の初めのことばは訳されていますが、parousiaは、実はこの「時は満ちた」と訳されたpuleromaと同義です(『カトリック教会のカテキズム』参照)。また、「神の国は近づいた」と訳された言葉のギリシャ語の時制は現在完了で、正確には「神の国は(主において)今すでにここにきている」との意味であり、ここに「時は満ちた」の内実が語られるわけです。つまり、「再臨」と訳されたギリシャ語parousiaは、ミサにおいて事実「到来」し「現存」するわたしたちのキリスト体験であり、同時に主において到来し現存する「神の国」の体験を語る言葉なのです。聖書聖典の成立以前、ミサで信仰を死守した迫害時代の初代教会にとって、主の「再臨」とは、このように、主が「ご聖体の秘跡・ミサ」において「再び現存・臨在」されるという彼らのミサにおける圧倒的キリスト体験です。

わたしたちが「終末」を生き、主イエスの「再臨・到来」の証人とされる、まさにその「場」はミサなのです。そうであれば、「終末」に生きるとは、現実を蔑(さげす)み与えられた日々を無為に過ごすのではなく、主の「到来・現存」の証人として日々信仰に生きることです。「終末預言」の一部とされる「タラントンのたとえ」と呼ばれる今日の福音は、終末を生きる、つまり、「今」、神のみ前に生きるわたしたちへの主から問いかけです。主の今日の「神の国のたとえ」には、複数の僕(しもべ)たちが登場します。主人から、5ないし2タラントンの財産を預かった僕たちは、各々預かった財産を有効に用いて、主人の帰るまでに預かった財産を倍に増やしました。しかし1タラントン預かった僕は、ただそれを「隠して」おくばかりで、時を無為に過ごしました。

これらの僕たちの決定的違いは、どこにあるのでしょうか。それは、彼らの「預かった財産の額」つまり彼らの能力や資質にではなく、明らかに、彼らに財産を預けた「主人」に対する彼らの生き方の違いにあると思います。1タラントンを預けられた僕にとっては、見えない主人は存在しないのです。つまり、見えない主人を信頼も期待もせず、おそれもしません。これに対し、5タラントンと2タラントンを預かった僕たちは、見えない主人を信頼し、その約束を固く信じ、主人が彼らに託されたものを大切にして、主人のために与えられた日毎の務めに忠実に励みました。彼らは知っています。彼らに見えるか否かによらず、主人は、常に「現存」されることを。

主イエスが、このたとえによって「終末eschatonを生きる」わたしたちに期待されるのは、後者の僕たちのように、常に「現存」parousiaされる主のみ前に、日々を大切に、誠実に生きることであることは明らかです。改めて、この「たとえ」が、主が十字架によってわたしたちの前から取り去られ、しかし三日目に復活される主の過越の三日間の直前に語られていることに注意したいと思います。確かに、主は十字架によってわたしたちから見えなくされたように思われたのです。しかし、だからこそ主はわたしたちに十字架の直前の「最期の晩餐」でミサ(ご聖体における目に見える主の「現存」の秘跡)を残してくださったのです。それこそわたしたちにとって永遠の主の「現存」parousiaであり、礼拝毎の主の「到来・再臨」parousiaです。

「終末」を生き、主イエスの「到来・再臨」に生かされる。わたしたちは、罪ゆえ閉ざされた目に主が見えないことを理由に時を無為に過ごすことは許されません。主は常に「現存し到来される」からです。「目を開いていなさい」とわたしたちに求められる主に、「わたしたちの目を開いて、現存の主を見させてください」と聖霊を求めるわたしたち。主はミサにおける祈りの内に必ず聖霊をお与えくださいます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 11/12

年間32主日 マタイ25:1-13

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスは「神の国」を、今日の福音のように多く「たとえ」によって語られました。キリスト教の「神の国」に似て、仏教には「浄土」(サンスクリットでは「仏の国」)の信仰があります。仏教の数ある経典の中で特に『観無量寿経』には、仏教の故郷インドの風土や宗教性を背景に美しい「たとえ」による浄土の様子と浄土の教主・阿弥陀仏の姿が細かく記述されています。この経典に説かれている浄土(仏の国)と仏の姿を一目地上で拝みたいとの願いから有名な宇治の平等院が建立されたと言われます。

ところが、主イエスは、ご自身の語られる「神の国のたとえ」において、神の国の様子、あるいは神の国の主の姿を描写することは一切なさいません。なぜでしょうか。もちろんその必要が無いからです。主イエスご自身が、「神の国の主」だからです。

主イエスに聞くキリスト者のわたしたちは、未だ見ぬ「神の国」と「神の国の主」を夢見て生きているのではありません。「神の国の主」ご自身が、すでにわたしたちのもとに来ておられるからです。そして、「神の国の主」キリストが現存されるところ、そこに「神の国」が来ている(現存する)からです。しかし、どこに?もちろん、ミサにおいてです。マリアさまからお生まれになり、使徒たちや多くの人々にご自身を現わされた後、十字架につけられ復活された主は、今や、ミサにおける福音とご聖体において聖霊によって現存されます。これが、わたしたちカトリックの信仰です。

主イエスは、宣教の始めに「時は満ち、神の国は近づいた(むしろ「すでに来ている・始まっている」。ギリシャ語本文では未来形でも現在進行形でもなく現在完了形。英語訳はThe Kingdome of God has come)。悔い改めて福音を信じなさい」と仰せになりました。神の時が満ち、今や「神の国の主」キリストがわたしたちのために来てくださった。わたしたちが、キリストが主であり王である「神の国」に生きることができるように。わたしたち一人ひとりにご自身のいのちを与えて、確実に「神の国」の一員として生きる新しい生活を始めさせてくださるために。わたしたちにとって「神の国」とは、主と共に生きる新しいいのちの体験、教会でミサ毎に体験されている現実です。

この「神の国の主」キリストが、ご自身の「神の国」にお招きくださるためにわたしたちに求められることは何でしょうか。それは、律法学者のように、自分の知恵や正しさを主張して神に認めていただくことでも、死後の往生を願うことでもありません。主イエスのおことば通り「悔い改めること。そして、福音を信じること」です。「悔い改める」とは、「主イエスと心を一つにさせていただく」こと「福音を信じる」とは、「福音そのものである主に、わたし自身を、委ね切る」ことです。そうであれば、今日の福音の「神の国のたとえ」で主の意図されるところも明確です。

今日の主イエスのたとえには、「賢いおとめたち」と「愚かなおとめたち」が登場しますが、それは世間的な意味での賢さ、愚かさではなく、明らかに「神の国の主」キリストに対する信頼ないし生き方の違いです。つまり、信仰の問題です。

「賢いおとめたち」は、主イエスによる「神の国」の到来の事実に目開かれるや、主のみことば通り「悔い改めて福音を信じ」ました。彼女たちは、主と心を一つにし、主の思いを知り、その主に自らを委ね切ったのです。それが、真の「賢さ」です。これとは対照的に、「愚かなおとめ」たちは、主と心を合わせ、主に自らを委ね切る用意がありませんでした。彼女たちは、「神の国」に生きることと、主と心を合わせ、主に自らを委ねて生きることとは別のことと勘違いしていたに違いありません。それを「愚か」というのでしょう。しかし、これは他人ごとではないかも知れません。

主イエスは、難しい修行や特別な知恵によって「神の国」に行くことをわたしたちに求めてはおられません。わたしたちの前に現存される主によって「神の国」はすでに来ていること、なぜなら主こそ「神の国の主」であることにわたしたちの目が開かれることを求めておられます。「神の国」とは、わたしたちが主のみことばに従って「悔い改め、福音を信じる」ことを通して招き入れられる主のみ国だからです。

「神の国」について語ることは、「神の国の主」キリストについて語ることであり、同時にそこに生かされるわたしたちについて語ることです。そうであれば、福音そのものである主イエスこそ「神の国」の一切です。そして、主の「神の国」の核心は、主の過ぎ越し、つまり主の十字架とご復活です。それは、その主に固く結ばれて、死すべき命から復活の栄光へと過ぎ越させていただくわたしたちの過ぎ越しでもあります。ミサは、主イエスによって招かれたこの「神の国」の祝いの宴(食卓)です。

「神の国」とは、「愚かなおとめたち」が考えたような、主イエスと別に体験されるような何ものかでは決してありません。それは「賢いおとめたち」のように、聖霊の助けと御導きを求めて、主と心と思いを一つにさせていただく内に、主とひとつに堅く結ばれてゆくわたしたちの体験の事実です。その主はミサに現存されます。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。

司祭の言葉 11/5

年間31主日 マタイ23:1-12

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音は、主イエスのエルサレムでの聖週間、すなわち主の最後の一週間のことを伝えています。主は、エルサレム神殿を訪ねておられます。今日の福音は、とくにその火曜日のことです。主は、その日、律法学者とファリサイ派の人々を厳しく非難され、続けて、エルサレム神殿の崩壊を予告されます。

ところで、同じ日の出来事を伝えるマルコによる福音は、主イエスの律法学者たちに対する厳しい非難とエルサレム神殿崩壊の予告との間の出来事として、主が、神殿で自らの一切を神に捧げた「一人の貧しいやもめ」とお会いになられたことを伝えています。おそらく、これらすべては深く関係しあっていると思います。

マタイによる福音は、主イエスの「エルサレム神殿崩壊の予告」を、弟子たちの、当時の巨大なエルサレム神殿に対する讃嘆を受けて、次のように、短く、しかし実に鋭い主のおことばとして伝えています。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(24:1、2)。

実は、マタイによる福音は、「神殿崩壊の予告」に先立って、エルサレムの町に対する主イエスの深い嘆きのおことばを、次のように伝えていました。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」(24:37、38)

エルサレムは、主イエスが来られる千年以上前から、神なる主が、「み名」をこの地上に置かれるために、神ご自身によって選ばれていた町です。そのエルサレムには、神のご臨在の目に見える徴(しるし)として、「神のみことば」を記した「十戒」の石の板が納められたご「聖櫃」を護持すべく神殿が建てられ、その神殿に人々が集い、神のみことばに聞き、神を正しく礼拝することが赦されてきました。

そのようにエルサレムは、「神の都」とさえ呼ばれ、主イエスの時に至るまで、神の民の信仰生活の中心であり続けてきました。聖書に語られる通りです。

そのエルサレムに集う人々に求められたのは、ただ一つのことでした。それは、神を神とすること。すなわち、神を畏れ、神のみ前に、謙遜の限りを尽くして生きること。ただしそれは、神のみことばに正しく聞くことにのみよる、ことです。

しかし、エルサレムは、過去にも、繰り返し罪を犯して来ました。神のみことばを聞き入れないという罪です。それは、実に具体的な形をとりました。彼らは、「預言者たちを殺し、神が自分に遣わされた人々を石で打ち殺」して来たのです。

主イエスは、今、この都が再び、しかも決定的な仕方で「神のみことばを聞きいれない」罪を繰り返すことになることを知っておられます。しかも、「神のみことば」である主ご自身に対して。みことばご自身である「神の御子」主イエス・キリストを十字架につけるというエルサレムの信じがたい罪ゆえに、主は深く嘆かれたのです。

主イエスの律法学者に対する厳しい非難とエルサレム神殿の崩壊の予告は無関係ではあり得ません。律法学者は本来、神殿に集う全ての人々が、律法、すなわち神のみことばに聞き、みことばによって主のみ前に神の民として整えられるために、律法の教師として立てられていた者であったはず、だからです。

しかし、彼らは、神のみことばに畏れと謙遜を以って聞くことをせず、したがって神のみ前に、律法によって、彼らが託された民はおろか、自らを整えることさえできず、あろうことか神と人との前に自らを誇る者へと堕してしまっていました。マルコによる福音では、律法学者たちに対する主イエスの非難は、「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」との主のみことばで結ばれています(12:40)。

そのマルコによる福音は、律法学者を厳しく非難し、続けて神殿の崩壊を予告される主イエスを慰めるように、神殿に詣で、自らを神に捧げた「一人の貧しいやもめ」の姿を伝えています。主は、弟子たちに次のように仰せになりました(12:43,44)。

「この貧しいやもめは、神にだれよりもたくさん献げた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて献げたからである。」

律法学者たちの誇りとした地上のエルサレムの神殿は崩壊します。しかし貧しいやもめたちのために、新しい神殿が建てられます。それはご復活の主イエス・キリストご自身です。ただしそれは、エルサレムでの主の十字架の死を経てのことです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 11/1

「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」

諸聖人の祭日の黙想 マタイ5:1-12a

諸聖人方を11月1日のミサで記念するカトリック教会の伝統は、英国とアイルランドが起源ではないかと言われます。英国では現在でも11月を「聖徒の月」と呼び、ちょうど日本のお盆のように、英国の人々にとっては教会でのミサの後に教会墓地を訪う時とされ、どの墓地もきれいに清められ、まるで花壇のように花で埋め尽くされます。亡き方々を偲ぶ人々の思いは洋の東西を問わず変わりません。

今日、諸聖人の日。諸聖人の筆頭として、主の十二弟子たち。さらに、ご復活のキリストご自身から「みことば」「聖霊」を受けた聖パウロ始めすべての聖人方を記念いたします。彼らの中にはわたしたちと同様に、あるいはわたしたちに代って地上の生活で多くの苦しみを負い、あるいは自らの弱さと戦われた方々もおられます。

聖人の「聖」とは、いかなることなのでしょうか。聖書においては、「聖」である方は、神お一人です。主イエス・キリストお一人です。このことははっきりしています。そうであれば、「聖人」とは、生まれながらに聖い人と言うよりも、主の「みことば」と「聖霊」を受け、神によって「聖くされた人」のことではないでしょうか。

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。・・・

心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。・・・」

「心の貧しい人々は、幸いである」と、主イエスは仰せです。「貧しい人々」とは、主の他に頼る方がいない者たち、すなわち、わたしたちのことです。「天国、神の国」について、わたしたちは主イエス以外にいったい誰を頼ることができるでしょうか。そのわたしたちに、「神の国の主キリスト」は、「天国」を約束してくださいます。

主イエスのこれらのおことばは、昔は「真福八端」と呼ばれていました。わたしたちに対しての、八つの詩句からなる主イエスの「祝福のみことば」です。ご自身「聖」なるがゆえにわたしたちを「聖とする」ことがおできになる神の祝福です。わたしたちが「聖とされ、天国を約束されること」。実は、それこそが主イエスの祝福です。

わたしたちが主イエスによって「聖とされ、天国を約束される」。それは、わたしたちが「神の国の主イエス・キリストのものとされる」ことです。それを使徒ヨハネは、「御子キリストに似た者となる」(1ヨハネ3:2)と教えていました。わたしたちが「聖とされ、天国を約束される」、つまり主イエスから祝福されるとは、「御子キリストに似た者とされる」こと主に祝福された「聖人」こそ、「キリストに似た者とされた方」です。

その祝福を主イエスはいかにしてわたしたちにお与えくださるのでしょうか。「祝福のみことば」とその祝福をわたしたちの内に成就させてくださる「聖霊」によって。「聖霊」は、主の「みことば」と共に働いて、わたしたちに「イエスは主である」と告白させてくださいます。「みことばと共に働かれる聖霊」こそ、洗礼においてわたしたちを新たに生まれさせ、ミサで、わたしたちの捧げるパンとブドウ酒をご聖体、主キリストご自身の御からだと御血、主ご自身のいのちに変えてくださる方です。

「みことばと聖霊」において、主イエスがわたしたちにくださるのは主ご自身です。主はご自身を与えることによって、わたしたちを「聖」とし、「キリストに似た者」としてくださいます。それが主の祝福です。主イエスこそ、神の祝福そのものだからです。今日わたしたちが記念する主の十二使徒たちを始め、教会の歴史に輝く諸聖人方は、主イエスご自身を祝福として受け「キリストの似姿に変えられた」方々です。

今、わたしたちもこのミサで、諸聖人方のように、「主よ、わたしたちにみことばと聖霊をください」と、主イエスに願います。主は、わたしたちにも必ず「みことば」とともに「聖霊」を、すなわち主ご自身をくださいます。主は小さなわたしたちにも、ご聖体において、主ご自身を祝福としてお与えくださいます「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」と、主は仰せです。

わたしたちは、諸聖人方とは比べるべくもないかも知れません。しかし、主イエスがご聖体においてわたしたちにもお与えくださる主ご自身は、主の十二使徒始め、すべての諸聖人方にお与えになられた主とまったく同じ主ご自身であるはずです。主は今も、いつも、代々に一人なる同じ主であられるからです。わたしたちのような小さな者にさえご自身をお与えくださる主を、その恵み故に、心から畏れます

諸聖人方は、「天の国」で、主イエスのみ前に主を褒め、主を称えていると信じられています。地上での生涯において、主ご自身を祝福として受け、天に帰られた諸聖人方の主への愛と感謝は、現在のわたしたちの思いを遥かに超えていると思います。しかし、いつかわたしたちも彼らの賛美に加わらせていただきたいと願います。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。