司祭の言葉 5/28

聖霊降臨の主日 ヨハネ20:19-23

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ご復活のキリストは、弟子たちに「息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』。」「聖霊」とは、「ご復活の主イエスの息」です。聖霊降臨の主日のヨハネによる福音は、わたしたちに一つの「事実」の大切な二つの側面を想い起こさせてくれます。

最初に、ご復活のキリストは、「造り主なる神」であるという疑いようのない事実です。ご復活の主は、わたしたちにご自身の「いのちの息・聖霊」を吹きかけ、命を与えてくださいました。これは「造り主なる神」にのみおできになることです(創世記2:7)。

同時に、ご復活のキリストから「いのちの息・聖霊」をいただくまで、わたしたちの内には命はなく、神のみ前に命を失ってさえいたと言うわたしたちの現実です。マタイが記すように、かつてのわたしたちは「牧者のいない羊の群れのように疲れ果て、倒れていた」(9:36)。そのようなわたしたちを、ご復活の主は大切に「抱き起こし」、「ご自身の息・聖霊」を与え、わたしたちを再び「生きる」者としてくださいました。

ヨハネによる福音で主イエスご自身が「聖霊」を「弁護者」つまり「傍らに来て助け起こす方」とお呼びになっていたこと、さらに『聖書』の言葉で「復活する」とは、元来「倒れている人を抱き起こす」あるいは「傷ついた人を介抱する」との意味であることを想い起こせば、「聖霊」とは目に見えないご復活のキリストご自身であり、したがってわたしたちに具体的に体験されるご復活の主その方のお働きです。

ご復活の主イエスがわたしたちに「ご自身の息・聖霊」をくださる。それは、ご復活の主によって、「倒れていた」わたしたちが、大切に「抱き起こ」され、「傷ついていた」わたしたちが「介抱して」いただいたという、非常に具体的な体験、ご復活の主によって命を与えられたわたしたち自身の復活の体験ではないでしょうか。

ただし、わたしたちはご復活のキリストのみ前に、なぜ「いのちを失い」、「傷つき倒れて」いたのでしょうか。明らかにそれは「罪ゆえ」です。主はそのわたしたちに「聖霊」すなわちご自身のいのちを与えて、罪を赦してくださいます。それのみならずわたしたちは、「聖霊」によって罪赦されたわたしたちを通して多くの人々に罪の赦しを与えようとなさる神に奉仕する者としてさえ用いられるのだと福音は告げていました。「聖霊を受けよ。だれの罪でも、あなたがたが赦せばその罪は赦される。」

ご復活主日から五十日目に、わたしたちは、「聖霊降臨」を記念し祝います。「聖霊降臨」について、聖書の語り方は一様ではありません。「聖霊降臨」がわたしたちの日常の体験を超えた出来事である以上、これは当然のことなのでしょう。

ただし、ヨハネの福音が語るように、「聖霊降臨」の核心には、ご復活のキリストご自身が、わたしたち一人ひとりにご自身の「いのち・聖霊」を吹きかけ、罪の赦しによる新しい命をお与えくださったという、具体的なわが身の事実があります。

つまり「聖霊降臨」の核心には、傷つき倒れ、命を失っていたわたしたちが、ご復活のキリストによって大切に「抱き起こされ」さらには「傷を癒していただいた」という、わたしたち自身の死から復活への体験の事実があります。「聖霊降臨」とは、わたしたちのこの体験とともに語り得る、確実なそして深い魂の感動の事実です。

従って聖霊降臨の「祝い」の中心はこの「事実」、この事実の感動です。造り主なる神・ご復活の主ご自身からのわたしたち一人ひとりへの「聖霊の注ぎ」。罪に死んでいたわたしたちの神のいのちへの復活。これが、聖霊降臨の日にわたしたち一人ひとりにご復活の主が聖霊によって成就してくださる事実です。これが福音です。

最早わたしたちは、自らの罪ゆえの弱さ、惨めさの内に絶望し蹲る必要はありません。今や、ご復活のキリストがわたしたちにお与えくださる「聖霊」によって主ご自身が「いつも共にあって」わたしたち一人ひとりを「抱きしめ」「抱き起こし」、主ご自身の新しいいのちと希望でわたしたちを生かし支え続けてくださるからです。

洗礼者ヨハネは、自らの殉教の死を前に、しかし、死を超えてご復活のキリストによって始められる「聖霊」による新しいいのちの予感に歓喜して叫びました。「わたしは喜びで満たされている。キリストは栄え、わたしは衰える。」(ヨハネ3:29b、30)

洗礼者ヨハネのこの言葉と響き合うようにして、ご復活のキリストの使徒パウロも彼自身の体験の事実の大いなる感動の内に語ります。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)

聖霊降臨。「聖霊」による新しい命の始め。それはわたしたちの思いを遥かに超えた「造り主なる神」の天地創造のみ業。同時に、ご復活の主がわたしたち一人ひとりに、「聖霊」において成就してくださる、非常に具体的なわたしたちの身の事実です

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 5/21

説教:主の昇天(復活節第7主日)(A年・2023年5月21日)
マタイ28:16-20

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

最後の晩餐の席で、主イエスは、ご自身の十字架を前に弟子たちに「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたの所に戻って来る」と仰せでした。事実、主は十字架の死の後わたしたちの所にご復活の主としてお戻りくださり、その後「弁護者」である「聖霊なる主」として、わたしたちと共にいてくださいます。

しかし、ご復活のキリストは、なぜ今日天に昇られるのでしょうか。なぜ主は、ご復活のままのお姿で地上に留まってくださらないのでしょうか。実は、主は、最後にエルサレムに入城されてすぐ、ご自身のご昇天について、次のように仰せでした。

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

(ヨハネ12:32)

主イエスのご昇天。それは、わたしたちのためです。主ご自身が天の父なる神のもとに抱き上げられるとき、主はわたしたちをご自分のみ手に抱き上ってくださる

旧約及び新約の言葉で「復活する」、また新約の言葉で「弁護する」も、元来は「抱き起こす」「抱き上げる」と言う意味の言葉であると、すでに申しました。ご昇天においても、主イエスはわたしたちを「抱き上って」くださいます。父なる神のみ許へ。

ところで今日の福音で、ご復活のキリストのご昇天を前になお、弟子の中には、主のご復活を「疑う者もいた」と聖書は伝えます。気に掛ります。聖書では、神を疑うことを「罪」と言うからです。しかし不思議な事に、ご復活の主ご自身は、弟子の内にご復活を「疑う者がいる」ことを、とくに問題にしておられません。なぜでしょうか。

ご復活のキリストは、すでに十字架上で、わたしたちの罪に最終的な勝利を収めておられるからです。今やわたしたちの罪でさえ、ご復活の主の愛を妨げるものではありません。それゆえ、ご復活の主は、今なお主のご復活を疑う者をも含めたわたしたちすべてに、ご自身の約束と命令のことばを託すことがおできになるのです。

ご復活のキリストは、わたしたちに、罪への罰に代えて聖霊を与えて、わたしたちをキリストのもの(キリスト者)としてくださいます。これが、罪人であるわたしたちへのご復活の主の最終的な愛の勝利です。その主が、地上から上げられる時、わたしたちすべてを、天の父なる神のもとへ抱き上げてくださいます。主は仰せでした、

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」(マタイ28:18)

聖霊によりキリスト者とされたわたしたちは、自らを縛りつけていた一切の偽りの力や権威、すなわち疑い、罪、死から全く自由です。今や、真の力と権威は、自分で自分を愛することさえできないわたしたちではなく、わたしたちへの愛ゆえにご自身のいのちさえ捧げてくださった主が持っておられる。このことこそ、救いです。

実際、もしわたしたちの命を最終的に決定する存在がわたしたち自身であるならば、つまりわたしたちにとって神が無い、あるいはわたしたち自身が神でなければならないとするならば、それほど恐ろしいこと、それほどの悲劇がまたとあるでしょうか。わたしたちが行き詰まり、絶望と死の淵に佇む時、最早、救いはないからです。

しかし、十字架とご復活のキリストが、わたしたちに対する最終的な力と権威を持っておられるならば、わたしたちがいかに行き詰ったとしても、主イエスは、なお、わたしたちに道を開いてくださることがおできになる。わたしたちの内には、絶望と死の他には何も無くとも、主の内には、なお希望といのちがある。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」主のこのことばこそ、わたしたちの希望です。

その上で、「だから」と、主イエスはおことばを続けられます。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」

主イエスはわたしたち全てに、洗礼の秘跡によって「父と子と聖霊の名」による新しい命をお与えくださいます。ただそれはいかなる命であり、わたしたちはそれをどのように受けるのか。さらにそれをいかにして多くの人々と分かち合って行くのか。

ご昇天に先立ち「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と仰せの主イエスは、最後の晩餐でご聖体の秘跡(ミサ)を残してくださいました。ご聖体(ミサ)こそ「父と子と聖霊の名によって」わたしたちが、今、ここで主から受ける新しい命。そしてこの命は、主のご昇天により天の永遠のいのちに堅く結ばれます。

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 5/14

説教:復活節第6主日(A年・2023年5月14日) ヨハネ14:15-21

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる。」

主イエスは最後の晩餐で、ご自身の十字架の死を目前に、この不思議なことばを弟子たちにお語りになりました。しかし、これはいかなることなのでしょうか。十字架の死の後、主はいかにしてわたしたちのところに戻って来られるのでしょうか。

実は、主イエスはこのおことばの前に、すでに次のように仰せでした。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」

主イエスは十字架の死の後、わたしたちを「みなしご」すなわち十字架の下に一人蹲ったままにはされません。その保証に、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と仰せでした。「弁護者」ご自身であるご復活のキリストの「別の弁護者」とは、「真理の霊」つまり「聖霊」です。

ご復活のキリストご自身および「聖霊」は、新約のギリシャ語でともに「弁護者」と呼ばれます。ここで「弁護」とは、いかなることなのか。「弁護」とは、(助けを要する人の)傍らに来て助ける」ことを意味する言葉です。旧約のユダヤの言葉および新約ギリシャ語での「復活」すなわち「助け起こす」「再び生かす」と同じ内容です。

そうであれば、「別の弁護者」と呼ばれる「聖霊」は、実は「弁護者」ご自身であられるご復活のキリストの目に見えない、しかし確実にわたしたちを助けてくださるお姿に他なりません。実際、「別の弁護者である聖霊」は、主ご自身によって「真理の霊」とされますが、ここで「真理」が主ご自身であることは、すでに先週の福音で、主が「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と仰っておられた通りです。

したがって主イエスがわたしたちに「真理の霊」をくださるとは、「真理」である主ご自身の「霊」つまりご自身の「いのち」をくださるということです。つまり、十字架に死んだ主ご自身を、わたしたちの追憶の対象としてではなく、「わたしたちの傍らに来て助け起こし、再び生かしてくださる真理、つまりご自身の霊・聖霊」として、わたしたちにお与えくださると言うことです。今日の福音で、主は次のようにも仰せでした。「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見るわたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」

「真理の霊」は、「生けるキリストご自身の霊」、すなわち「キリストのいのち」です。それは同時に「わたしたちを生かす神の霊」です。傷つき、疲れ切った者、さらには命を失った者に、いのちを与えるご復活のキリストご自身の霊です。「わたしが生きているので、あなたがたも生きる」(ヨハネ14:19)と主は仰せです。事実、ヨハネによる福音は次のように伝えています。すなわち十字架の死に打ち勝って復活されたキリストは弟子たちに「息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』。」(ヨハネ20:22)「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」と仰せの主イエスは、十字架の後「あなたがたのところに戻ってくる」とお約束くださいました。主は、まず「弁護者であるご復活の主」として十字架の下に蹲っているわたしたちを「助け起こして」くださるために戻って来てくださいました。さらに「真理の霊である聖霊」つまり「別の弁護者」として、再び苦難の十字架の前に蹲ってしまうようなわたしたちを「傍らに来て助け起こし、再び生かして」くださるために戻って来てくださいます。

ただし「弁護者」であるご復活のキリスト、さらに「別の弁護者」である「聖霊」は、いかにしてわたしたちの許に戻って来てくださるのでしょうか。わたしたちはご復活の主と、「聖霊」・わたしたちを死んだ者ではなく生きた者としてくださる主の「いのち」を、いかにして、またいつどこでお迎えすることができるのでしょうか。

それは、待ち望まれるごミサにおいてです。カトリック教会は、古来、ご復活のキリスト、さらには「聖霊」を黙想させていただく時には、必ず、「エウカリスチア」つまり「ごミサ」、とりわけ「ご聖体(聖餐)」を黙想してきました。なぜなのでしょうか。実は、キリスト、とりわけ聖霊において生き、わたしたちを生かしてくださるご復活の主は、決して目に見えない不思議な存在などではありません。この方は、十字架の死と復活を経て、わたしたちのために「エウカリスチア(聖餐)」になり、わたしたちの内にまで来てわたしたちを生かしてくださる、生ける主なる神・聖霊なる神です。

最後の晩餐での主イエスのお約束通り、ご復活の主、さらに「聖霊」としてわたしたちを助け起こし、再び生かしてくださる主。この方を、ごミサにおいてお迎えする、さらに拝領する。これが、わたしたちに与えられる父なる神からの最大の祝福です。

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

司祭の言葉 5/7

説教:復活節第5主日(A年・2023年5月7日)ヨハネ14:1-12

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしは道である」と、主イエスは仰せです。主は、『論語』を残した中国の儒教の孔子のように、「道を教える」とは仰いません。また、仏教の開祖であるインドの釈迦牟尼仏陀のように、「道を示す」とも仰いません。主は、「わたしが道である」、と仰います。しかし、これは不思議なことばです。

聖地を訪ねられた方はご存じでしょう。エルサレムの町全体を囲む城壁の外は、見渡す限り砂漠に近い荒野です。そこには道などありません。オアシスの緑と次のオアシスの緑の間は、ただ茫漠たる土色の荒野です。その荒野で羊の世話をする羊飼いにとって、荒野に道などありません。

そこでは羊飼い自身が、羊のために、文字通り「道」である他ありません。羊には、荒野に緑のオアシスを探す知恵も力もありません。羊たちは、彼らの羊飼いを「道」として、一つの緑のオアシスから次の緑のオアシスへと命を繋ぐほか生き延びるすべはありません。羊飼いを失えば、羊たちには、死が確実に待ちかまえています。

主イエスは、「わたしは道である」と仰せです。荒野の羊は、道を教えられても、あるいは道を示されても、どうしようもないのです。羊飼いを「道」とするほかに、羊の生きる術はないのです。実は、わたしたちも荒野の羊と同じではないでしょうか。

人生という荒野の中で、緑のオアシスからオアシスへの道は、わたしたちには見えません。たとえ道があると思っても、その道がわたしたちをどこに導くか、実際には誰にも解りません。また、誰かに道があると言われ、その道の方角を示されたとしても、荒野には、次のオアシスまでわたしたちを確実に導いてくれるような目印はありません。人生という荒野に立ちすくむ時、わたしたちには道はありません。羊飼いである主イエスご自身が、わたしたちにとって「道」となってくださる他ないのです。

「わたしは道である」と言われる主イエスは、続けて、「わたしは命である」と仰せです。その通りです。わたしたちは、主に示された道を自ら辿って命に至るのではありません。荒野の羊たちにとって、羊飼いを離れることが死を意味するように、わたしたちも、「道」である主を離れて「命」はありません。「主イエスがともにいてくださること」、それが、そしてそれだけが、わたしたちの「命」です。

主イエスという唯一の「道」にわたしたちの「命」が掛かっています。「道」である主にわたしたちの一切を委ね切る。それしかわたしたちに生きる術はありません。

主イエスはこのことばを、十二人の弟子たちとの最後の晩餐の席でお語りになりました。主は、弟子たちとの過ぎ越しの晩餐と、続く十字架と復活において、ご自分が成し遂げられることをすでにご存知でした。弟子たちにとって、いのちである父なる神に至る道がご自身以外にないことを、主はご存知でした。

最後の晩餐の時には、弟子たちは主イエスのおことばを十分に理解することはできなかったと思います。しかし、主は、そのような弟子たちに、最期の晩餐に続く十字架において、ご自身の御からだとご自分の御血、つまりご自身の命を捧げて、彼らのために、父なる神に至る「道」、さらに「真理」となってくださいました。事実、「わたしは道であり、命である」と仰せの主は、加えて「わたしは真理である」と仰せになっておられます。ただし、「真理」とは何でしょうか。

「真理」とは、「閉ざされているものを開く」ことを意味する言葉です。主イエスは、わたしたちに「閉ざされていたものを開かれる」。それが、主が「真理」であるということです。ただし、何がわたしたちに閉ざされていたのでしょうか。それは「天」です。わたしたちの罪ゆえに「天」が閉ざされていたのです。主が、その「閉ざされていた天」を「開いて」くださった時、わたしたちに「真理の霊」である「聖霊」が降ります。神の在ます「天」は、「聖霊のご聖櫃(せいひつ)に他ならないからです。

「真理」には、したがって、「隠されていたものが現れる」と言う意味もあります。わたしたちに天から「聖霊」が与えられる時、罪ゆえにわたしたちに隠されていた真実が現わされます。それは、わたしたちに主なる神から、元来与えられていた「命の真実」です。ご復活のキリストの使徒パウロは語ります。「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3:3-4)

良い羊飼いである主イエスは、ご自身を「道」としてわたしたちを「神の命」の内に導き入れてくださいます。ご自身の十字架と復活を通し、「真理の霊」によって。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。