司祭の言葉 5/21

説教:主の昇天(復活節第7主日)(A年・2023年5月21日)
マタイ28:16-20

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

最後の晩餐の席で、主イエスは、ご自身の十字架を前に弟子たちに「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたの所に戻って来る」と仰せでした。事実、主は十字架の死の後わたしたちの所にご復活の主としてお戻りくださり、その後「弁護者」である「聖霊なる主」として、わたしたちと共にいてくださいます。

しかし、ご復活のキリストは、なぜ今日天に昇られるのでしょうか。なぜ主は、ご復活のままのお姿で地上に留まってくださらないのでしょうか。実は、主は、最後にエルサレムに入城されてすぐ、ご自身のご昇天について、次のように仰せでした。

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

(ヨハネ12:32)

主イエスのご昇天。それは、わたしたちのためです。主ご自身が天の父なる神のもとに抱き上げられるとき、主はわたしたちをご自分のみ手に抱き上ってくださる

旧約及び新約の言葉で「復活する」、また新約の言葉で「弁護する」も、元来は「抱き起こす」「抱き上げる」と言う意味の言葉であると、すでに申しました。ご昇天においても、主イエスはわたしたちを「抱き上って」くださいます。父なる神のみ許へ。

ところで今日の福音で、ご復活のキリストのご昇天を前になお、弟子の中には、主のご復活を「疑う者もいた」と聖書は伝えます。気に掛ります。聖書では、神を疑うことを「罪」と言うからです。しかし不思議な事に、ご復活の主ご自身は、弟子の内にご復活を「疑う者がいる」ことを、とくに問題にしておられません。なぜでしょうか。

ご復活のキリストは、すでに十字架上で、わたしたちの罪に最終的な勝利を収めておられるからです。今やわたしたちの罪でさえ、ご復活の主の愛を妨げるものではありません。それゆえ、ご復活の主は、今なお主のご復活を疑う者をも含めたわたしたちすべてに、ご自身の約束と命令のことばを託すことがおできになるのです。

ご復活のキリストは、わたしたちに、罪への罰に代えて聖霊を与えて、わたしたちをキリストのもの(キリスト者)としてくださいます。これが、罪人であるわたしたちへのご復活の主の最終的な愛の勝利です。その主が、地上から上げられる時、わたしたちすべてを、天の父なる神のもとへ抱き上げてくださいます。主は仰せでした、

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」(マタイ28:18)

聖霊によりキリスト者とされたわたしたちは、自らを縛りつけていた一切の偽りの力や権威、すなわち疑い、罪、死から全く自由です。今や、真の力と権威は、自分で自分を愛することさえできないわたしたちではなく、わたしたちへの愛ゆえにご自身のいのちさえ捧げてくださった主が持っておられる。このことこそ、救いです。

実際、もしわたしたちの命を最終的に決定する存在がわたしたち自身であるならば、つまりわたしたちにとって神が無い、あるいはわたしたち自身が神でなければならないとするならば、それほど恐ろしいこと、それほどの悲劇がまたとあるでしょうか。わたしたちが行き詰まり、絶望と死の淵に佇む時、最早、救いはないからです。

しかし、十字架とご復活のキリストが、わたしたちに対する最終的な力と権威を持っておられるならば、わたしたちがいかに行き詰ったとしても、主イエスは、なお、わたしたちに道を開いてくださることがおできになる。わたしたちの内には、絶望と死の他には何も無くとも、主の内には、なお希望といのちがある。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」主のこのことばこそ、わたしたちの希望です。

その上で、「だから」と、主イエスはおことばを続けられます。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」

主イエスはわたしたち全てに、洗礼の秘跡によって「父と子と聖霊の名」による新しい命をお与えくださいます。ただそれはいかなる命であり、わたしたちはそれをどのように受けるのか。さらにそれをいかにして多くの人々と分かち合って行くのか。

ご昇天に先立ち「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と仰せの主イエスは、最後の晩餐でご聖体の秘跡(ミサ)を残してくださいました。ご聖体(ミサ)こそ「父と子と聖霊の名によって」わたしたちが、今、ここで主から受ける新しい命。そしてこの命は、主のご昇天により天の永遠のいのちに堅く結ばれます。

「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。