司祭の言葉 10/30

年間31主日C年

 お早うございます。 先週の木曜日の朝、小生にとってとてもうれしいことがありました。その時、一人の女の子の「お早うございます」という挨拶の言葉を聞いて、思わず、胸の名札の名前を確かめました。そしてうれしくなりました。その子は年中組の子で、幼稚園に来て初めて挨拶をしたのです。入園したころから毎日、年中組になっても、門を入るのを嫌がり、足を投げ出して地面に座り泣いていた子です。ところが夏休みを終えてから、泣かずに門を入るようになり、成長したなと思っていたのですが、それが先日挨拶の言葉を口にしたのです。初めてです。
 挨拶をしない子のほとんどは、視線が先のほうを見ています。その先には子供と遊んでいる先生の姿があります。気持ちは先のほうに、これからの遊びに飛んでいるのです。
 また、園児を出迎えるために門に立っていると、いろいろな質問をしてきます。作務衣を見てそれなに?どうして頭を結わえているの?どんぐりある? などなど。

 こどもは好奇心いっぱいです。
 好奇心は探求心を生みます。 卵が先か、鶏が先か そして、哲学が、学問が始まります。好奇心は科学の進歩 文化の発展に欠かせないものです。子供のころは夢だったロボットも現実になっています。

 ザアカイはイエス様の噂に好奇心を持ってイチジクの木に登り イエス様と出合い 救いを得ました。好奇心を神に心を向けるとき、神の側から呼んでくださいます。
「ザケオ、急ぎ降りよ。今日、われ汝の家に宿らざるべからず。」
 私の大好きな言葉です。この言い回しは、パリミッションの司祭ラゲ神父の和訳です。

 さて、ここに出てくるエリコの町とはどのようなところなのでしょうか。地中海の海面よりも250メートルも低いところですが、ナツメヤシの実とバルサムの産地でした。バルサムはマツ科の常緑高木で、バルサムモミが知られています。松脂を出しその香りは数キロにわたって漂っていたといわれています。それらを世界中に輸出していましたので、エリコの町は、パレスチナの中で中心的な課税地だったということです。

 ザアカイは、その税の徴収を委託された徴税人の頭であったということですから、かなり人々から恨まれていた人と想像できます。

 彼は罪人の仲間と批判されているイエス様の噂を聞き、人目イエス様を見たいとの思いに駆られました。その時点で彼の心に何らかの変化が生じていたのかもしれません。
 イエス様を見たいと思いましたが、背が小さく後ろからは見えません。前に行こうとしても人々がそれを阻み、いじわるされ、小突かれ、どやしつけられたかもしれません。それでも何とかイエス様を見たいという思いが勝りました。そして先回りして木に登ってイエス様の来るのを待ちました。

 イエス様を家に迎えたザアカイは、自分から罪を告白します。その場合許される条件がありました。律法には、犯した罪を告白し、完全に賠償し、それに5分の1を追加して損害を受けた人に支払う・・・とあります。(民数記5の7)しかし彼は4倍にして返すといいます。それは盗んだものを売り払うか殺してしまって返済不能になった場合の償いでした。(出エジプト21の37)ここにザアカイの強い反省と固い決意が見て取れます。

 そしてイエス様は救いを宣言し、つぶやく人々に対しては、「人の子は失われたものを捜して、救うために来たのである」と宣言したのです。

 皆さんの、神の言葉への好奇心はどうでしょう?
 7年ほど前、90歳になる古河教会のおばあさんの葬儀をしましたが、棺の上に置かれた聖書には分厚くなるほど付箋が張られていました。

 好奇心の反対は ・・・ 無関心です

 聖なるものへの 神への無関心 イエス様の十字架による救いへの無関心
人々のうちにおられるイエス様への無関心。勿論知らなければ関心の持ちようがありませんから、 → だから宣教が必要になります。 

 社会に目を向ければ、まだ問題山積の東日本大震災、熊本地震、鳥取中部地震 多くの被災者 シリア難民、ウクライナ戦争の難民、国内では仮放免の外国籍の方々。
そこに寒さに震えるイエス様がおられます。
 無関心を捨て・・隣人の中に イエス様を見ようとするなら・・・必ず見つけます。
 そしてイエス様のほうから、必ず声をかけてくださいます。
「われ今日、汝の家に宿らざるべからず」・・・と。

司祭の言葉 10/23

年間第30主日(ルカ18の9-10)

 今日の福音は「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」イエス様が語られたとあります。
 質問です。ここで言う「人々」とは誰のことだと思いますか?

 今日の福音の前に語られているのは、「やもめと裁判官の譬え」でした。そこでは、「気を落とさずにたえず祈らなければならならないことを教えるために、弟子たちに譬えを話された」・・・とあります。話は弟子たちに向けられたものでありました。
 その続きですから、この「人々」とは弟子たちを指しています。ファリサイ人ではありません。今日のパンフレットの解説の部分にも、そのことが示されています。

 弟子たちはイエスの弟子とされたことでうぬぼれていたのかもしれません。そのことをイエス様は指摘します。今日の福音は、祈り方の指示ではなく、弟子たちのうぬぼれへの戒めなのです。

 ユダヤでは、通常祈りは黙ってではなく、小声で唱えられました。ファリサイ人はいつものように、でも人目につくところに立って、ちらりと徴税人に目を向け、人々が自分の祈りの言葉を聞いているであろうことを思いながら祈っています。祈りの内容は神に対する感謝の言葉です。この地上における幸いは神の祝福だと信じていましたから、与えられている恵みに、彼は心から感謝していたのです。

 一方、徴税人の祈りは、絶望の爆発だと、或る聖書学者は言います。
 何が絶望なのでしょうか。徴税人はおそらく地方税の下請けで、できるだけ実入りをよくしようと、政府の決めた税率表はありましたが、方法はいくらでもありましたから、かなり悪いことをしたのだと思われます。
 そんな彼らが悔い改めをするには、罪深い生き方を捨てるだけではなく、不正に得たお金に、その五分の一相当を上乗せした金額を弁済することが必要だったということです。でも、自分のだました相手を一人残らず見つけることは不可能です。ということは、悔い改めの業を果たすことは不可能だということです。ですから、ただ胸を打ち神の憐れみを求めるしかなかったのでしょう。

 彼の祈りは、詩篇51の3節、出だしの言葉です。
 3 神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。

 そして18節と19節には次のような言葉があります。
 18 もしいけにえがあなたに喜ばれ 焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら
  わたしはそれをささげます。
 19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。 打ち砕かれ悔いる心を
  神よ、あなたは侮られません。

 イエス様はまさに、彼の祈りは神のみ心に沿うものだとおっしゃるのです。
 だから義とされたのだと。
 そして弟子たちを戒め、「神は絶望したものを受け入れる神であり、心砕かれたものに対する哀れみは限りないお方だ」とおっしゃっている・・・それが今日の福音です。

 ところで今日の福音の中の「断食」についても考察してみたいと思います。

 断食・・皆さんはどのように思われるでしょうか。
 断食はしたほうがよいでしょうか、それとも、無意味でしょうか。

 まず言えることは、「断食」は、神の前に誇るためではないということです。
 人は、自分が断食し他の人はしていないときに、どのような思いを抱くのでしょうか。特別なことをしている・・と思うとすれば、それは間違いです。
 断食そのものに意味はありません。邪魔になるだけです。ダイエットにはなるかもしれませんがそれだけです。

 でもわたしは、「隣人愛と結びつく断食」なら大いに意味があると思います。
 断食して一食分を飢えている人たちに捧げるなら、大いに意味があると思います。
 その場合、断食はお金に可視化するのがよいと思います。
 精神を鍛えるためというなら、邪魔になるだけです。パリサイ人のように自惚れをきたしますから。

 断食をしたなら、その分をお金に換算し、こっそりと寄付しましょう。

 献金箱を用意し、右手のしていることを左手に知らせないように、こっそりと入れてください。もちろん断食は健康を害さない程度に・・です。

 ハンガーゼロ運動を推進している日本飢餓対策機構によれば、飢餓が原因で命を落とす子供は5秒に一人だということです。そのような彼らの一人でも救うためにする断食なら、主は大いにお喜びにおいになるでしょう。

司祭の言葉 10/16

年間第29主日C年

 皆様おはようございます。秋も深まりつつありますね。紅葉の美しい季節です。
 ウイズコロナ・・ちょっと心配ですけど、用心しながら前に進むことが求められています。

 今日の話はやもめの訴えです。
 やもめ・・夫が亡くなった未亡人です。いくつくらいでしょうか。それはわかりませんが、当時のユダヤでは14・5歳で結婚しましたから、若い人もいたと思います。
 初代教会では、やもめとして登録するのは60歳未満のものではなく一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければならない・・とあります。(1テモテ5の9)
 裁判官を悩ますほどですから、かなり声をあげる人だったと思われます。
 彼女が訴えた相手は社会的に身分があるか、金持ちだったのだろうと思われます。
 中身は金銭トラブルかも知れません。
 裁判官はユダヤ人ではないと思われます。ユダヤ人ならその役目をするのは長老だからです。不正なといわれているので、わいろをとって適当に裁判をする人で、やもめは金がなくわいろをくれないのでほっといたのでしょう。
 でも彼女には武器がありました。しつこく訴えるという武器です。そして裁判官は根負けします。

 今日の譬えはイエス様が、気を落とさず絶えず祈らなければならないことを教えるために語られたのだと、ルカは述べています。
 皆さんは一日にどのくらい祈る必要があると思っているでしょうか。
 そして祈りを聞き入れてもらうためには祈り続ける、長々と祈る必要がある・・・これは正しいでしょうか。
 イエス様は 違う! といいます。

 マタイ福音書では、イエス様は祈るにあたって、祈りを聞き入れてもらおうとくどくど祈ってはいけません。それは異邦人のすることです。神は祈る前から必要なことをすべてご存じです。だから、こう祈りなさい。そうおっしゃって教えたのが主の祈りです。くどくど祈るな・・といっているのですから、しつこく祈れ、祈り倒せと言っているのではないことは確かです。
 ここで思い出すのはヤコブが神と相撲を取ったという話です。これは、神が許すというまで祈り続けた話といわれています。神が根負けするのでしょうか、答えは「否」です。
 神はすでに許しているのです。その許しをヤコブがなかなか確信できず祈り続けたということではないでしょうか。

 ルカによる福音書ではイエス様が主の祈りを教えた後に、夜中に来た旅人をもてなすためにパンを借りにいった人の譬え話をしています。この個所は、「誰でも求めるものは受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ7の8)という言葉と結び付けて読む必要があると、聖書学者のエレミアスは言います。
 それは、すでに寝ていても頼まれれば起きてパンを貸し与える友達のように、助けを必要とする人が声を上げるなら、この友達がそうしたように、神は必ず頼みを聞いてくださる。それは確実なことなのです・・と教えるための譬えであったということです。

 そして、今日の朗読では「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために弟子たちに譬えを話された」とありますが、それは編集したルカが言っていることで、イエス様がこの話をした狙いは別なところにある・・といわれています。

 このやもめの訴えの譬えも、この裁判官がやもめの訴えを聞いたように、私たちが祈るとき神が祈りを聞いて下さることは確実なことなのだ・・・、だから祈りなさい・・・というところが、イエス様のおっしゃっているところなのです。
 「絶えず祈ることが必要だ」というのと「祈りが聞き入れられるのは確かなことだ」というのは違います。
 イエス様は主の祈りを教えながら、そのあとのたとえ話でもって、祈りは必ず聞き入れられるのだよ。そう教えておられるのです。

 やもめと裁判官の話について聖書学者エレミアスは、イエス様はこういいたいのだと説明します。
 「神の力、優しさ、そして助は疑いない。それは決定的に確実なことだ。あなた方が心配しなければならないのは、別のこと。人の子が来られた時、地上に信仰を見出すか・・である、と。

 今日の話は皆さんの祈りの助けになるでしょうか。すでに祈る前から主は私たちの願いをご存じなのですから、不安にならず、祈りは必ず聞き入れられると信頼をもって、日々主の教えてくださった祈りを唱えましょう。

司祭の言葉 10/9

年間28主日C年

 皆さんおはようございます。今日の福音は重い皮膚病患っている10人の癒しです。
 重い皮膚病とは、らい病(ハンセン病)のことです。この病気は結核よりも感染力が弱く、1943年に特効薬プロミンも作られ治癒することが可能となっていました。
 しかし、日本ではその10年後の1953年にらい予防法が作られています。この法律には,「強制隔離」規定がありましたが、「退所」規定がありませんでした。退所規定がないと、どうなるでしょうか? 死んでも出られないと言うことです。その結果、ハンセン病に対する恐怖を生み、患者に対する差別・偏見が強まることとなりました。家族は病人の存在をひた隠しにして、親子の縁まで切ったといいます。

 全国ハンセン病患者協議会の長年にわたる「らい予防法」改正要求運動により、【らい予防法の廃止に関する法律】が制定されて「らい予防法」が廃止されたのは1996年のことです。
 さいたま教区内では草津にこの病院があり、そこに作られた教会が草津カトリック教会として、巡回教会になっています。
 そこの患者さんたちがつづった詩集があります。本の名は「骨片文字」(1980年刊行)
 序文の一部を紹介します。

「いま、草津の「つつじ公園」、碑のそばに立つと、足元の赤土に白く乾いた小石のようなものの散乱を見る。掌に載せれば軽い。それは無数の骨片だ。砂礫のように小さなものが、生者と死者の共通の記憶である。それらが文字となってなお残ろうとする。日本からやがてライがきえても、すなわちハンセン氏病の人が死に絶えても、この詩集が消えることのないように、誰かの手に確実に渡されてゆくように・・」

 私は1979年インドのサンチナガールにあるマザーテレサのライ病の施設を訪問したのですが、日本との違いに驚かされました。
そこでは施設の周りに患者さんたちの家族の住む家があり、保育園もありました。患者さんたちは切り捨てられてはいなかったのです。自分たちでパンを焼き、シスターたちの支援を受けて暮らしていました。

 さて今日のメッセージについてみてみましょう・・・

 ライ病は重い皮膚病・・・と訳されています。
 ライ病をこのように訳することによって、本来の言葉の意味が弱められ、日本におけるライ病人への差別の歴史認識を、弱めることになりはしないかと危惧されます。

 イエス様の時代、この病気は全く治る見込みのない、死を宣告されるのと同じ病でした。
 毎日体の一部が死んでゆくと言っても良く、今日は指が死に、次に足の指が、鼻が、耳が落ちてゆきます。治療法もなく、伝染するので、その地域から追い出されてしまうのです。
 ベンハーという映画では、谷底の洞窟に生活するライ病人の姿が描かれています。

彼らは町の近くに物乞いに来ることもあり、その時は鈴を鳴らし、エメエメ(穢れたもの穢れたもの)といいながら歩かねばならなかったといいます。

 今日の福音のメッセージを皆さんはどのように見るのでしょうか

 特筆すべきことは、ユダヤ人とサマリア人がともに支えあって生活していたということです。
 いつもはいがみ合ってきたユダヤ人とサマリア人ですが、ともに一度かかったら治らない重い皮膚病という病気にかかり、共同体を追われて、互いに支え合い助け合って生きてきました。共通の苦しみによって結びあわされたのです。人と人との交わりには力があります。特に、苦しみを分かち合う交わりにはその力があります。    

 ライ病の人の一人がイエス様の噂を聞きました。そのことを語り合っている内に、彼らの心に少しずつ希望がわき上がってきました。今や彼らは信じるようにまでなりました。信仰の形成には、自分一人よりも、みんなで分かち合うほうがたやすいのです。
ライ病にかかっていましたがこの人々は生き抜く決意をしました。

 さらに、癒やされたサマリア人はとって返してきて、感謝しました。
 それに対しイエス様は、不思議な言葉を述べています・・・貴方の信仰が貴方を救った

 多くの人は、失敗は他人のせいにし、成功は自分の手柄にします。会社の社員は社長に感謝するでしょうか、多くの人は自分の働きで給料を得たと思います。
病気を直してもらった9人は、「みろ、俺たちはこうして治って戻ってきた。なおった姿を自慢してやる」・・そんな気持ちに支配され、感謝するのを忘れたのかも知れません。

しかし、9人のユダヤ人が戻ってこなくても、イエス様は問題にしなかったに違いありません。イエス様は心の広い人です。
 伝記を書いたルカが、イエス様の問題にしなかったことを問題にしているのではないか‥そう考える聖書学者もいます。

 なぜなら、その前の箇所でイエス様は次のように言っているからです。
「自分に命じられたことをみな果たしたら『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい・・と。

そのイエス様が癒やした相手に、戻ってきて感謝することを要求するのはおかしい。イエス様は感謝など求めてはいない、感謝すべきだというのはルカの考えだろう・・と。

あなたの信仰があなたを救った   サマリア人の信仰とは何でしょうか。
イエス様が癒すことができるという信仰であれば、それはユダヤ人も同じでしょう。他の9人もその信仰のゆえに癒されたに違いありません。違いは感謝するために戻ってきたということであると思います。

この外国人の他には   外国人・異邦人・・・この言葉にわたしは差別を感じます。
本田哲郎訳では「民族の違うこの人の他には」となっています。
原文はアッロゲネース よそで生まれた人・・のいみです。
αλλoγενηs  αλλos(他の)+ γενos(生まれ)

司祭の言葉 10/2

年間第27主日 C年

 お早うございます。いよいよ秋も深まってきました。杉戸町の外れに当たる江戸川に近い宮前では、稲刈りが済んで田んぼに積まれたもみ殻に火がつけられ、一晩中もみ殻を焼くにおいが漂っています。杉戸の無人販売所には栗が並び始めました。まもなく道路わきには柿を売る店が店を構えることでしょう。

 今日の福音を読んでふと頭に浮かんだのは、先日テレビで見た樹木を移植する映像です。 普通樹木を移植するときには根の周りを掘って根切りを行い、1年ほど放置して細かい根が生えてから、土のついた根を傷めないようにコモでくるみ、縄で縛り、移植場所に移送し、掘った穴に入れ水をやって土を入れます。でも専門家がやっても枯れることがあります。数年前兄のところでも、茶室用の花木を庭に移植しましたが、根付かずに枯れてしまいました。
 造園業者は、枯れないように移植するにはどうしたらよいか考えたのでしょうね。とんでもない方法を編み出しました。重機移植といいます。大きな8本のシャベルのついた重機で木の周りを囲み、それを差し込んで根切りを行い、土を落とすことなくそのまま掘り出し、穴を掘っておいたところにそっとおろして移植するのです。15メートルもある樹木でも移植可能とのことですから、桑の木なら簡単でしょうね。

 今日の福音は、「わたしどもの信仰を増してください」と信仰の「量」を問題にした弟子たちに対して、イエス様は「からし種」の話をしています。それは「信仰とは量や大きさの問題ではないのだ」と言うことでしょうか。信仰の力とは「信じるとその人に不思議な力が備わる」というようなものではなく、「信じて神にゆだねたときに、神が働いてくださる」ということだと言えるのではないでしょうか。だからこそすべてが可能になるのでしょう。 聖人たちの、ドンボスコやマザーテレサの神に対する信頼は絶大なものがありました。ですから大きなこともなしえたのだと思います。

 福音書の中で「神を信じる」というのは「神の存在についての考え方の問題」ではなく、「神に信頼を置いて生きるかどうか」という問題だったのです。
 似たような話はマルコとマタイにもあり・・そこでは桑の木ではなく山となっています。山に向かって海に移れという方が壮大だし、山と海ならつりあいます。桑の木ではしっくりきません。
 そこで神学者はこう考えます。

 伝承の大元では山だった話が、マルコにはそのまま伝わり、マタイはそれを書き写した。しかし他方では、長い口伝の過程でどこかでこんがらかって桑になり、それがルカに伝わったのではないかと。
 マルコでは、イエス様が呪ったイチジクの木が枯れてしまったのに驚いた弟子たちが、どうしてそういうことが可能なのかを尋ねたところ、イエス様が山をも移すほどの信仰という言葉で答えたとなっています。
 もしかすると今日の言葉は伝承段階でもイエス様がイチジクを呪った話と結びついて伝えられており、それが伝承のどこかの過程で、桑と入れ替わった可能性もあると言います。

 さらに次の奴隷の話ですが、ルカは桑の木の話の続きとして書いていますので、本来は別の話をルカがまとめたと考えられています。

 もともとは、人々の関心を集めるために、街角で祈ったり、衣の房を大きくするパリサイ人たちに対する話で、譬えの意味するところは、人々の称賛を当てにするようなパリサイ的生き方をやめて、謙虚に生きることを求めています。
 意味するところは、私たちは神の称賛に値することは何もしていないし、どのような良い業をしても、神に向かって自慢することは何もないということです。

 ルカはこれを桑の木を移す話と結び付けて書いています。とすればルカはこれを使徒によって代表される、教会の指導者に対する説教として位置付けたと思われるということです。

 教会にはいろいろな問題があります。意見の対立もよくあることです。そして一番厄介なのは皆さん善意だという事だ・・・とは、教会の役員さんなどからよく聞く話です。

 ルカが桑の木を採用したのは、教会の役員さんたちに対して、傲慢になるな、許せないという思いが桑の木のように心の中に枝葉を茂らせ、はびこっているとしても「抜け出せ、海に植われ」と信じて命ずればその通りになる。
 これこそ奇跡である。心に許しという奇跡を起こし、奉仕しなさい。・・・と言いたかったのかもしれません。

 信仰は、問題をそのまま打ち捨てることはせず、山を動かすか、人を変えるか、どちらかをします。いずれにしても偉大な奇跡というべきであると思います。