司祭の言葉 3/27

四旬節第4主日

 おはようございます。きょうはバラの主日です。司祭はバラ色の祭服をつけます。
 四旬節の犠牲や厳しさの中にも、心はいつも神を思って、喜んでいなければならないのです。
 新型コロナウイルスのパンデミックは私たちの日常を変えました。仕事を失った方も多くおられます。ローンが払えなくなり、家を失い、路上生活者となった方もおられます。ウクライナでの戦争は一か月も続き、たくさんの犠牲者が出ました。避難民は350万人を超えています。現実は厳しく、挫折しそうな時もあります。しかし、神様がともにおられる限り、わたしたちは失望することがありません。
 神がいつも共におられることを意識し、今日は祭壇に花を飾ります。

 今日の福音は放蕩息子の譬えと言われています。でも見て下さい、放蕩息子が帰ってきたところで話が終わるのではありません。お兄さんの話が続いています。
ともに考えてみたいのですが、弟の罪はどこにあるのでしょうか、放蕩三昧の生活だった事だと思いますか? 
 モーセの十戒という、犯してはならない戒律を基準に据えて、それに反することが罪であると考えるならば、そのとおりだといえます。そして、わたしたちは、このお兄さんを正しい人だと判断すると思います。でも、その判断は正しいのでしょうか。

 まず弟を考えてみましょう。
 彼は、遠い国で、天に対してもお父さんに対しても罪を犯しました・・・と、天とお父さんとの関係を破ったことを告白して、息子と呼ばれるのにふさわしくないと考えています。

 しかし、お兄さんはどうでしょうか。
 お父さんの言うことを守っていましたが、我慢して守っていただけなのです。
お父さんとの間の本当の交わりは欠けていた・・・というべきなのです。なぜでしょうか、兄の言葉がそれを明らかにしています。
「何年もあなたに仕えて一度も言いつけに背いたことはなかった」と兄は言いました。
「仕える」とは「奴隷として働く」と言うことです。兄は父の家での生活を奴隷的な屈辱と感じていたのです。従わされていた・・・と。

 ちょっと脇道にそれますが、
 私と一緒に住んでかれこれ12年ほどになる一人の青年が居ます。いまだに就職も難しく生活も落ち着きません。本人の希望は自立なのですが、まだ先が見えません。
何故でしょうか。彼の中には「お父さんお母さんにせウイホームに入れられた」という思いがあり、セウイで仕事をさせられていると感じているので、何をするにも身が入らないからです。
 家族との信頼関係が取り戻せれば、彼も変わってゆくのだろうと思います。

 聖書がわたしたちに教える罪は、神様との関係を破ることです。
弟はそのことに気づいて戻ってきましたが、兄はまだ気づいていません。
 そして、正直ものが馬鹿を見るのは許せないといって、父を責めます。弟は父の財産を損じたのであって、兄に損害を与えたのではありません。兄は弟の罪を口実として、自分に愛の無いことを正当化しようとしていると言えます。ここに正しいと思っている人が陥る偽善や罪があります。

 父を責める兄に対して、「あなたはいつも私と一緒にいるし、また私のものは全部あなたのものだ」という父の言葉は、何ものにもまさって、わたしたちとともにおられることを喜びとされる、神様の心をあらわしています。

 そして今日の福音は、わたしたちにもまた、兄弟と共に生きることを喜びとするように・・・と促しているのです。
 もしかしたら、私たちは義務感で教会に来て、心地よい説教を期待しているのではないでしょうか。 
 私たちはホミリアの助けを借りて、イエスの言葉を黙想しに来ているのです。

 父の慈しみの御顔であるイエスの生き方を見ながら、私たちもまた慈しみのうちに生きたい。イエスの福音を水で薄めずに、イエスの教えそのままに生活したいものです。

 ウクライナに対する支援の輪が広がっています。ともに祈りつつ、私たちにもできることはないか、平和を作り出すために何ができるかを考えてみましょう。
  主の平和がいつも皆さんとともに。

司祭の言葉 3/20

四旬節第3主日 (ルカ13章1‐9節)

 ロシアのウクライナへの侵略はいまだ続いています。もう三週間になり避難を強いられた人々は300万人を超えています。国際社会は、まだこの戦争を終わらせることができないでいます。 幼稚園の園児も、このニュースに心を痛めています。
 昔も今も権力者が力づくで人々をしたがわせようとしますが、人々は自由を求めて戦うことをやめません。話し合いによる解決が待たれます。

 「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」とはどのような事件なのでしょうか。残念ながら資料が乏しく正確にはわからないのだそうです。
 でも、バークレーと言う神学者は事件について次のように書いています。

 「ちょうどこの頃、ピラトは深刻な問題に巻き込まれていた。エルサレムにはもっと水の供給を増大する必要があると彼には思われた。確かにそれは的確な判断だった。彼は水道の建設を提唱し、その費用を賄うために、神殿の金を用いることを要求した。それは称賛されるべき企てで、そのような支出は極めて正当なものであった。
 ところが、そのようなことに神殿の金を使うという考えがそもそも間違っているとしてユダヤ人たちは武装ほう起した。反徒が集合するとピラトは兵士たちに、密かに、そのなかに潜入するように指令した。兵士たちは戦衣の上に外套をかぶって変装していた。彼らは剣ではなく棒を持つように指令されていた。合図により反徒にとびかかり、彼らを逃散させるという手はずになっていた。だが実際になってみると、兵士たちは反徒に対して指令よりもはるかにひどい暴虐を加えたので、相当数の人がそこで殺された。おそらくそこにはガリラヤ人も含まれていたのであろう。」

 シロアムの塔の場合は全く偶然の、不慮の事故と思われますが、これについてもバークレーは、「この説の言外には、この人々がピラトの忌まわしい水道工事中に災難にあった‥ということが示唆されているように思われる」と書いています。

 古代エルサレムには町に水を供給するための地下水道があり、その出口にシロアムの池がありました。(ヨハネ9章7節) その塔が倒れて大勢の人が死んだという大事故があったようです。 忌まわしい工事に手を貸したから罰を受けたというのでしょうか。

 当時は「人の不幸はその人の罪の結果だ」という考えがありました。事件や事故の被害者を見て、「あの人たちが何か罪を犯していたからだ」と決めつけたのです。

 イエス様は、そういう考えを否定します。
 「ほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」
それは、悲惨な出来事を自分たちへの呼びかけ、警告として受け取るように、ということです。
 さまざまな出来事はわたしたちの回心のチャンスなのです。
3.11 東日本大震災から丸11年が経ちました。
この間わたしたちは何をしてきたでしょうか。

災害を最小限の被害に食い止めるための工夫
 被災地の支援 被災者の受け入れ 被災地の人たちの作ったものをできるだけ買ってあげること いろいろなさったと思いますが、・・・今でもその支援は続いているのでしょうか。

 ウクライナ侵攻は、権力者による全くの人災ですから同列に置くことはできませんが、それでも、災難にあっている彼らのために何かしていますか?と、問われていると思います。
 そして6節からは実のならないいちじくの木のたとえ話です。
 このたとえ話の「主人」を「父である神」、「園丁」を「イエス様」と考えるなら、イエス様のとりなしに甘えて、いつまでも実を結ばない私たちを戒めていると考えるべきではないでしょうか。

 第1朗読では、神様は「わたしはあるというものだ」としめされています。神の名ヤーウエはこの「ある」という意味の込められた名前であるといわれています。

 そこには二つの意味があります。神さまは何者にもよらない、存在そのものだという意味と、いつもわたしたちと共にあるといういみです。
 そしてわたしたちと共にあることを示すために、神の第二のペルソナはマリアのうちに宿り、この世においでになりました。  主イエス様を遣わされたのです。

 しかしそのことに甘えて回心を遅らせてはいけないのです。

 今日のたとえ話のポイントは、「来年まで待つ」という言葉です。

 神は忍耐してくださるけれども、今が回心の最後のチャンスだと考えなければならない・・ということが強調されています。

司祭の言葉 3/13

四旬節第2主日C年(ルカ9:28~36)

 幼稚園の警備担当者 かつては銀行に勤めた方ですが、こちらがこそばゆくなるくらい褒めちぎります。 特に服装 花粉除けに40年も前に手に入れたよれよれのレインコートを着ているのですが、すてきだ、このまま銀座に行っても様になるなどと言います。
 本人も、冬はミンクのコートを着て門に立ち、いつもバーバリーの背広やハンカチーフ、傘などを身に着けています。
 卒園式には、私も白いシャツを身に着け一張羅のスーツを着ますから、また褒めちぎるでしょう。 人には変身願望があります。幼稚園の園児も、ブロックを組み立てて銃を作り、ヒーローの真似をします。
 かつて母に、髪を染めないかと言うと一蹴されましたが、私はやってみたい方ですね。神父でなければ・・・。

 四旬節に、「主の変容」の箇所を読むのは、教会の古い伝統です。変身とは違います。
自分以外の何かになるのではなくイエス本来の姿が・・・普段見に見えない神性の輝きがあらわれた出来事です。

 ペトロの信仰告白の後、イエス様は受難の予告をするようになります。そして「私に従いたい人は自分を捨て、日々自分の十字架を背負って従って来なさい」と教えます。そして高い山に登り、そこで御変容の姿が示されるのです。

 この「山」とはどこでしょうか。
  伝統的には、ガリラヤ地方エズレル平原にあるタボル山説がとられてきました。平野の中にお椀を伏せたような形で、標高は558m。そして最近多くの学者によって支持されているのが、「ヘルモン山」説です。こちらは2800m級の山々 完全に人里離れたところです。共観福音書のマタイとマルコでは、この箇所の直前に出てくる地名は「フィリポ・カイサリア地方」で、フィリポ・カイサリアとヘルモン山はそう遠くないのです。

「モーセとエリヤ」
  モーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「イエスの受難と復活が、聖書に記された神の計画の中にあることを示しています。

「仮小屋を建てよう」
  この光景のあまりの素晴らしさが消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからでしょう。しかし、この光景は一瞬にして消え去りました。今はまだ栄光のときではなく、受難に向かうときだからです。

「雲」は「神がそこにおられる」ことのしるし。
  荒れ野の旅の間、雲が神の臨在のシンボルとして民とともにありました(出40・34)。

「これはわたしの愛する子」
  ヨルダン川でイエスが洗礼を受けられたときに天から聞こえた声と同じです(マルコ1・11)。この受難の道も神の愛する子としての道であることが示されるのです。

「これに聞け」
 この言葉によってイエス様はモーセやエリヤを凌駕するものであることが示されています。
 そして、イエス様の変容の姿は受難のイエスに従うよう弟子たち、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを励ますものでしたが、弟子たちは結局従うことができませんでした。

 イエスが逮捕されたとき、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(14・50)と、マルコは書いていますし、ペトロは召使の質問に三度もイエスを知らないと答えています。

 受難予告を理解できず、最後までついて行けなかった弟子たちでしたが、ヨハネもペトロもこの出来事を忘れることはありませんでした。

「私たちはこの方の栄光を見た」(ヨハネ1の14)とヨハネは書き、
 「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちはみな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。」(Ⅱペトロ1の16~18)
と、ペトロは書いています。

ところで・・・私たちキリスト者に求められているのはどのような変身でしょうか。

 イエス様は神からの良い知らせ、福音を携え、平和をもたらすために来ましたが、いまだ世界は争いのなかにあり、平和は遠いと言わなくてはなりません。
 世界はキリストの平和ではなく、武力を背景にしたパックスロマーナ(ローマの平和)、武力を背景にしたアメリカの平和をのぞみ、これに反発するロシアは、世界一の核を準備して、ロシアの平和を進めようとしています。そしてロシアではなく、アメリカやナトーの平和を求めようとするウクライナを、力で押さえつけようと戦争を起こしています。
 武力を背景にした平和は、危ういものです。

神の愛が支配する平和、主の平和が世界に行き渡るように祈りましょう。

司祭の言葉 3/6

四旬節第1主日 (ルカ4章1-13節)

 ロシアがウクライナに侵攻して、激しい戦いが続いています。超大国ロシアにあとどのくらい持ちこたえることが出来るのでしょうか。心が痛みます。
 3月2日、幼稚園の送迎バスの中でロシアのウクライナ侵攻のニュースの話が出ました。「大変なことになっているね、何もできないけど早く戦争が終わるといいね」と言う話に、年長の子から「お祈りすることが出来るよ、カトリック幼稚園だもの」と言う声が返ってきたそうです。その場にいた先生が感激して、話してくれました。子供は祈りの力を信じています。
 わたしたちも、今日のミサの中で、ウクライナの皆さんと心を一つにして、一日も早い戦争の平和的な終結を祈りましょう。

 「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」・・・今日の箇所での誘惑との戦いは、イエス様のこれからの活動、十字架の死に至る活動全体に繰り広げられることになる誘惑との戦い・・の始まりを示しています。
 そのすべての誘惑の中でイエス様は神への信頼と従順を貫きました。  

 神の助けを信頼し、生活に必要な物や、安全を手に入れることを願うことは勿論良いことです。イエス様も実際、5つのパンで大群集を満たし、多くの病人をいやしました。わたしたちにもパンが必要ですし、健康や安全が必要です。また、お金や力もある程度は必要でしょうから、これらすべてを悪の誘惑と決め付けることはできません。日ごとの糧をお与えください・・と祈ることをイエス様は教えたのです。

 苦しみをくださいと祈った女性がいます。  その意味を知らぬままに子供のころの話です。そして彼女は、精神的な病にかかったのはその祈りのせいだと思っていて、後悔しているそぶりを見せます。ですから、その話が出るたびに、私はこう答えます。 「すごいじゃん。願いを聞いてもらえるなんて、感謝しなくちゃ」 すると彼女はころころと笑い出して、その話は終わるのです。
 わたしも、まだもう少し生きさせてくださいと祈ります・・・何のために?
 歯の治療、目の治療、膝の治療をすれば、・・まだ助けを必要とする人のために働けるかもしれませんから・・・

 権力と繁栄の何が問題なのでしょうか?
 問題は、自分のためにだけそれらを求めることです。それらを求めるあまり、神との、隣人との親しい交わりを失ってしまうことだ・・と言ったらよいでしょうか。
 わたしたちの人生も「荒れ野」だと言えるかもしれません。だれもがいろいろな試練に遭遇しますから。 わたしたちはその中でいつも、神とのつながりをどう生きるか、人とのつながりをどう生きるかということを問われています。
 四旬節の初めに当たり教会は、イエス様の受けた試みを黙想させ、具体的に四旬節をどう過ごせばよいのかを考えさせようとしています。
 初代教会から教会が守ってきたこと、それは祈り、断食、愛の業 でした。

 預言者イザヤの次の箇所を、祈り、断食、愛のわざを行うこの季節にあたって、黙想するのが良いと思います。

 「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、しいたげられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
 さらに、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。
 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。
 あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。
 あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば『わたしはここにいる』といわれる。
 軛を負わすこと、指をさすこと、呪いのことばをはくことを、あなたの中から取り去るなら、飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。
 主はつねにあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる」(イザヤ58・6―11)。

 最後の誘惑で悪魔は「神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる」「あなたの足が石に打ち当たることの無いように、天使たちは手であなたを支える」と、詩編91編の11-12節を引用します。
 この詩編は確かな守りを与えてくださる神への信頼を呼びかける詩編ですが、悪魔はそれを自分のために使うように誘惑するのです。

 試練は無い方が良いのです。私たちは弱い存在ですから。だから主は、私たちを試みに合わせないでくださいと祈るように教えたのです。
 でも与えられたなら、雄々しくそれに立ち向かうことが、求められています。勿論私たちは本当に弱いので自分一人では戦う力がありません。でも主が助けて下さるならできるはずです。
 「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」フィリピ人への手紙4の13・・聖パウロの言葉です。

 四旬節に当たり、全ての試練に於いて、主が助けて下さるように祈りましょう。

 ウクライナに一日も早い平和が訪れますように。アーメン(真実です・・の意)