司祭の言葉 12/26

聖 家 族

 これまで聖家族を描く絵は多くの絵のヨゼフが、頭の薄い老人のように描かれています。何故? 私はそのような絵を見るたび、不思議でなりませんでした。

 そのわけがわかったのはヤコブ原福音書を読んでからです。書かれたのは2世紀半ば。・神の母、永遠の処女、マリアの誕生物語。正福音書以前の物語が書かれているから原福音書とよばれているのです。

 その記述=マリアのお母さんアンナとお父さんのヨアキムはマリアが3歳になったとき神殿に預けました。マリアは主の神殿で鳩のように保護されて、天使の手から食べ物を受け取っていたとあります。12歳になったとき祭司たちがどのようにマリアの純潔を守ろうかと協議し、祈っていますと、主の使いが現れ、ザカリアを召して、民の中で男やもめとなった人を集め、それぞれが杖を持ってくるように命じます。そして主が誰かにしるしを示されたら、彼女はその人の妻となるのだというのでした。するとその中の一本の杖から鳩がでてヨゼフの頭に舞い降ります。
 そのときヨゼフは「わたしには息子たちもあるし、年寄りです」といって断るのですが、神を恐れなさい、断ってはならないとさとされ、保護者となることを引き受けたというのです。

 この物語によりますと、イエスにはヨゼフの連れ子である腹違いの兄弟がいる、ということになります。 ヨゼフはマリアを引き取った後、、建築の仕事のために家を離れます。そして戻ってきてマリアの懐胎を知り、「私は彼女を主なる神の神殿から引き取ったのに、マリアを守らなかったといって、激しく泣きます」   
 (しかし、このときマリアは16歳であったといいますので、保護者として12歳のマリアを引き取っておきながら、建築のために4年間も家を留守にする事は考えられませんので、ここに大きな時間的な矛盾が見られます。)

 ヨゼフははじめ彼女が罪を犯したのかと思いますが、マリアの口からどうしてそのようになったか知らないとの言葉を聞き、「彼女の罪を隠せば律法に反することになるし、明らかにすれば罪の無い血を死の判決に引き渡すことになる。それでは密かに離縁しよう」・・そう決心するところへ神の使いが現れ、聖霊によって身ごもっていることを告げますので、ヨゼフは神を賛美し彼女を守護した。・・とあります。

聖書的考察

 きょうの福音の中で特別に注目したいのは、エルサレムに上るときには“両親”が主語であったのが、エルサレムから下るときには“イエス”に代わっていることです。それは、神の子としてのイエスの姿がエルサレム神殿で示されたからです。

 これは雨上がりの虹のように突然出現した、ひと時のさわやかな出来事です。このあと、時がくるまでイエスはナザレでふだんの
 生活に戻りますが、物語の主人公が両親からイエスへと移行し始めたことをこの主語の変化は示しているのです。

 イエスの不在に気づいた両親はエルサレムへととって返し、神殿でイエスを見つけます。神殿に居合わせた人々はイエスの賢い受け答えに驚嘆しますが、両親は驚き「なぜこんなことをしてくれたのです。」とイエスを戒めます。
 一緒に暮らしていない他人はかえってイエスの輝きを見落としはしませんが、子は親に従順であるべきだと思いこんでいる両親には、その輝きが隠されています。
 隠されているから「ご覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです」とたしなめます。この個所を読むたびに、拉致被害者の家族のことを思います。そしてマリアとヨゼフの不安と後悔を。

 次の節でイエスは「どうして私を捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」といって、神との関わりをはっきり述べますが、両親にはイエスの言葉の意味が分かりませんでした。
 天使ガブリエルを通してイエスが誰であるか知っているはずのマリアであっても、イエスの言葉が理解できずに、イエスをたしなめています。

 しかしマリアは「これらのことを全て心に納めていた」とも書かれています。言葉の理解はいちどきに終わるとは限りません。
完全に理解できなくとも、すべてを心に納め暖め続けること、それがイエスを知ることにつながるからです。       

 家族はできるだけ助け合って寄り添って生活します。
 家族は、同じ問題を一緒に考え、解決しようと努力します。
 わたしたちも、よく理解できなくても、できるだけマリアのようにイエスの言葉を心に納めるようにしたいものです。そうすれば、マリアの子供、イエスの兄弟として、聖家族の一員に加えていただけるでしょう。そしてイエスの祝福を豊かにいただくことができるでしょう。

 今日の社会には、家族関係の崩壊が見られます。
 イースタービレッジは虚弱児の施設でしたが、今は児童養護施設になっています。その入居児童の多くは、家庭崩壊によるのです。
ドンボスコ学園 サレジオ学園 マルコの家  経堂憩いの家など 
 核家族も崩壊、父子家庭母子家庭、幼稚園も延長保育が当たり前になっています。
 現代のオアシスといえるのは 子供食堂かもしれません。

 世界に目を向ければ、内戦による難民の増加に歯止めがかからず

 家を失い崩壊する家庭が増えています。生活のための人身売買、子供の拉致、兵士、児童結婚など・・・、聖家族の祝日に当たり、これ以上家庭崩壊が進まないように、共に祈りたいと思います。

司祭の言葉 12/24

主の降誕2021

 皆さんクリスマスおめでとうございます。クリスマスは24日の日没から始まります。
 私たちはキリスト誕生の厳粛な夜を迎えました。
 マリアとヨセフの後に、謙遜な救い主の栄光を最初に見たのは、ベツレヘムの羊飼いたちでした。彼らは天使が告げたしるしを認め、幼子イエスを礼拝しました。私たちも幼子イエスの誕生を喜び、その前に跪いて祈りましょう。
 皆さんは何を祈ったのでしょうか。私は平和を祈りました。
 大人の祈り、母親の祈り、父親の祈り、子供の祈り、青年の祈り 移住者の祈り祈る人の数だけ、いろいろな事情があります。

 ローマ教皇がクリスマスに何を祈っているのか。その祈りはどのような祈りなのでしょうか、そこに私たちの祈りのヒントもあります。
 教皇の クリスマスのメッセージは「ウルビ・エト・オルビ(ローマと全世界へ)」と呼ばれ、その名の通り世界情勢に触れるのが慣例となっています。

2014年
 内戦が続くシリアやイスラム国の台頭で不安定化が進むイラクに言及。
故郷を追われて難民化した人々に思いを寄せるよう訴え「今、苦しみのなかにある人々すべてが厳しい冬を乗りこえるのに必要な人道援助を得られるように」
イスラム過激派の襲撃やエボラ出血熱の流行に見舞われたアフリカ諸国についても言及。また、「暴力の犠牲になったり人身売買の対象とされたり、兵士になるよう強要されたりしている多くの子どもたちが救われるように」と祈っています。

2015年
 無関心で、時に容赦の無い文化の中で、わたしたちの生き方はこれに対して、憐れみと、共感、同情、いつくしみに満ち、祈りの泉から毎日汲み取ったものであるようにと、祈っています。

2016年
 世界中で行われている戦争や激しい紛争の結果、苦しんでいる全ての人たちの元へ平和が訪れますように」と祈り、テロの犠牲者たちに慰めの言葉を贈りました。

2017年
 中東の子どもたちの中に、シリアの子どもたちの顔の中に、イラクの子どもたちの中に、わたしたちはイエスを見ます。
 アフリカの子どもたち、平和と安全が、危険に満ちた緊張と新たな紛争によって脅かされている世界のすべての地域の子どもたちの中に、イエスを見ます。
 失業中の両親を持つ子どもたちの中にイエスを見ます。彼らの両親は子どもたちに確かで安心な未来を与えるために苦労しています。子どもたちは、少年期を奪われ、小さいうちから働くことを義務づけられ、あるいは良心の無い傭兵隊から子ども兵士として徴兵されていきます。
 自国を離れ、非人道的な状態で一人で旅をし、人身売買の危険にさらされている多くの子どもたちの中に、イエスを見ます。彼らの目を通して、わたしたちは多くの強制的移住者たちの悲劇を見ます。

教皇は苦しむ子どもたちのなかにイエスを見て祈りました。

 そして、春日部教会の皆さん、幼子の瞳を覗いてみてください。その瞳には何が映っているでしょうか。あなたの顔です。その瞳を覗けば、世界中のどの子の目にも、皆さんの顔が映ります。
 無防備な幼子、助けを必要とする幼子、神はこの世に来るにあたって、このような姿でお出でになったのです。何故でしょうか、私たちに訴えるためです。わたしたちの愛に。

 この待降節の間私たちは、イエスの食卓献金をしました。これらはさいたま教区に送られます。そしてそれは助けを必要とする子供たちに送られるでしょう。
 でもクリスマスに当たり申し上げるとすれば、お金を送ればよいという問題ではありません。皆さんに声をかけて募金をするのは容易です。そしてそのようにすれば沢山のお金を送れるかもしれません。でも違うのです。
 幼子のその瞳には代表者の顔だけではなく、皆さんの顔が映るべきです。
 少なくとも、直接子供たちに接している方々を通じて、幼子の瞳に皆さんの顔が映ってほしい。間接のまた間接ではなく。

 ご存知でしょうか、国境なき医師団、国連難民高等弁務官事務所、シングルマザーズフォーラムなど、など、子供たちを守るために働いておられる方々、そこに直接支援をしてみて下さい。
 領収書とともに、ニュースレターが送られてきて、子供たちの現状を知ることが出来ます。生の声を聴くことが出来ます。

 クリスマスは幼子の前に跪く夜です。イエスはこの世に平和をもたらすためにお生まれになりました。神の愛に感謝しつつ、この夜を賛美しましょう。

司祭の言葉 12/19

待降節第4主日 困っている人々とのふれあい

 今日のお話は、マリアのエリザベト訪問です。天使のお告げの時に、いとこのエリザベトが妊娠6ヶ月になっていると聞いたマリアは、直ちに彼女のもとへ向かいます。エリザベトは高齢でした。出産前の何ヶ月かは手助けが必要であるに違いない・・・そう思ったからでしょうか。あるいはエリザベトと共に神の御業について語り合い、喜びを分かち合うためだったのでしょうか。
 マリアは長い間待たれていた、救い主の母という最も祝福された立場になったばかりでした。でも、自分の身に起こった出来事で頭が一杯になってしまい、自分のことしか考えられないという女性ではありませんでした。エリザベトの喜びを分かち合い、大変な時期にある年上の従姉のために急いで駆けつけるのが自分のつとめであると考えたのだと思います。

 マリアはエリザベトの家に着くとすぐに、シャローム!とヘブライ的に挨拶を交わしたはずです。その挨拶は抱擁しながらする習わしでした。そしてこの時、エリザベトはすべてを知ったのです。
 3年ほど前心臓の検査をしたとき、カテーテルを血管に入れて心臓近くで造影剤が注入されました。注入されたとたん、一瞬のうちに全身にひやりとした感覚が走りました。
 はっとする感覚でした。マリアと抱擁したとき、エリザベトのうちに似たような、でも不快ではなく、甘美な喜びの感覚が走ったのだと想像します。その感覚は一瞬のうちにエリザベトの胎内の子にも伝わりました。そしてヨハネは喜び踊ったのです。丁度、契約の櫃をエルサレムへ運びあげるときのダビデのように  (サムエル下6の5)

 この時エリザベトは、聖霊に満たされ、預言者のごとく声高に、「わたしの主のお母様が、わたしのところにきてくださるとは、どういうわけでしょう」・・・と叫びました。マリアが主から選ばれた者であることを認めて賛美したのです。そしてマリアは、今も世界中で多くの人が唱えている賛歌、マグニフィカトをもって応えたのです。
 この祈りは毎日、教会で晩の祈りの時に唱えられています。

 マリアはエリザベトの身の回りの世話をはじめましたが、マリアの行いを突き動かしていたのは、彼女に満ちていた聖霊でした。

 隣人の下にキリストを運ぶことは、マリアにならう大切な行為です。
 お話したことがあるかどうか忘れてしまいましたが、サレジオ会のボナノッテで聞いた一つのお話があります。

 フィリピンにボーイズタウンという少年の施設があります。

このボーイズタウンという孤児院、名前からも分かるとおり、男の子だけの養護施設です。

12歳から18歳の少年を受け入れています。運営しているのがカトリックのサレジオ会という修道会なのですが、ここがまた体育会系でして、規律を重んじていて、罰則が「祈りながら腕立て伏せ30回」とか、「教会まで走って祈りに行くのを10往復」とか、精神と体が鍛えられるものになっているそうです。職業訓練などにも力を入れており、卒業生は真面目に働くことでよく知られています。
 さて、ある神父さんの話ですが、そこのポスターには、若者が年下とはいえかなりまるまると太った男の子を背負っている姿があって、そこには「その子は重くないかい?」という問いかけと、問いかけに対する若者の答が書いてあったそうです。

 若者の答はどのようなものだったでしょうか。それは「重くないよ、弟だから」というものでした。

 キリストを運ぶことも重荷ではありません。キリストを必要としている人々の下に、キリストを運ぶことは喜びなのです。

 マリアも突き動かされるように出かけました。私たちも、愛のために豊かな感受性が与えられるように祈りたいとおもいます。どこかに困っている方はいないかと、いつも気にかけるものでありたいと思います。

 車を運転している方はご存知ですが、道路に菱形の表示が書かれているところがあります。それは、信号のない横断歩道の手前で、二つ書かれています。 この先には横断歩道がありますから注意してください。横断者がいたら止まってください、という注意喚起のしるしです。運転者には、渡る人がいないか・・・と、目を配ることが求められているのです。

 クリスマス直前のこの時期に、マリアの足取りを追い、現実に困っている人の助けになろうとするのは、時宜にかなったことと云えます。病人、体の不自由な人、老人に声をかけるだけでも良いし、援助の手を差し伸べるのも良いでしょう。身よりのない孤独な人を訪問することでもよいでしょう。それはキリストを運ぶ行為です。でも勇気がいりますね。

わたしたちが勇気を出して、キリストの心を運ぶことで、神の素晴らしさに気づく人もいるかも知れません。  長いこと忘れていた信仰と愛に気づく切っ掛けになるかも知れません。あるいは、人間不信に陥り、神に失望しかかっている人々に、新たな光と希望を与えることになるかも知れません。

 ちまたのクリスマスにはキリストの姿はありません。自分達だけが楽しい時間を過ごそうとする、そんなキリスト不在のクリスマスです。しかしながら、勇気をもって、クリスマスにキリストを呼び戻そうとするのは、真のキリスト者の行為です。
 キリスト無くして、祈りなくして、何がクリスマスでしょう、マリアに倣い、愛の業を行動に移す恵みを祈りましょう。

司祭の言葉 12/12

待降節第三主日

 洗礼と訳される言葉は、ギリシア語で水に沈めるという意味の「バプティゾーbaptizo」という動詞から来る言葉です。古い、罪の奴隷である自分に死んで、新しく神の子として生まれ変わることを意味します。
 「聖霊と火による洗礼」の「霊」は、ヘブライ語のルアッハ、ギリシア語で「プネウマpneuma」で「風、息」を表す言葉です。この「風と火」のイメージは本来、裁きのイメージでした。洗礼者ヨハネが予告した方は、風で中身のない殻を吹き飛ばし、火で焼きつくす、神の裁きをもたらす人でした。ヨハネはその裁きが来る前に、人々に悔い改めを呼びかけたのです。
 その回心の具体的行為として、洗礼者ヨハネは「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者にわけてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と言います。福音は実行されなければ何の意味もありません。
(だが、実際に来られた方イエスは、裁きではなく、許しをもたらされるお方でした)

 皆さんご存知のように待降節には、主の降誕の準備ということで、さいたま教区の取り組みとして、毎年主の食卓献金が行われています。金曜日の夕食に主をお迎えしてもてなす・・・と言う取り組みです。それは陰膳のように食事を供えるという事ではありません。代わりに一食分のお金をとりわけ、主の日に教会に持ってきて献金するというものです。
 でも、実際にお茶わんやお皿を置いてイエス様のご絵などを置くのはいかがでしょうか。そして一回の食事分のお金を底に置く・・・。

 今日のパウロの言葉も黙想してみてください。
「主において常に喜びなさい。(Gaudete in Domino semper)重ねて言います。喜びなさい。あなた方の広い心がすべての人に知られるようにしなさい。主はすぐ近くにおられます。」
 Gaudete in Domino semper・・ガウデーテインドミノセンペル・・この言葉から今日はガウデーテの主日として、バラ色のロウソクが灯されます。待降節の心の準備の中にも、喜びをもって・・ということを忘れないようにするのです。
 ・・・主は、私たちのすぐそばにおられるのです。とくに、小さくされている人々の中に。だから喜びをもって彼らを覚えるのです。

 フランスでは移民一世の30%が社会に受け入れられていないと感じ、移民二世は70%が社会に受け入れられていないと感じているそうです。そしてそこに、ISなどのイスラム過激派が付け入り、3年程前に頻発した、フランスでのテロが引き起こされたと分析されています。  
・・・はたして私たちはどうでしょうか。
 自分の幸せしか目に入っていないとすれば、周りの人にも心配りがなされていないとすれば・・・ 社会の不正を糾弾する声はますます大きくなり、暴発することになります。その責任はイエスの教えを聞き流す私たちにあるのではないでしょうか。

 皆さんは今日の洗礼者ヨハネの言葉、パウロの言葉をどのように聞くでしょうか。
 今の自分はイエスが愛されたように、隣人を愛しているのかどうか。イエス降誕のための最良の心の準備とはなにか、暫く沈黙のうちに考えてみましょう。

 わたしたちは毎年この季節に、特別に「主が来られる」ということに心を向けます。
 それは「今が回心のチャンスだ!」という福音を受け取る時でもあります。さらに、このチャンスとは、来られるイエスに目を向けると同時に、隣人に目を向け、隣人に対して不正を行なわず、愛を行なうチャンスなのだと言ってもよいでしょう。
 主の恵みが皆さんの上にありますように!!

司祭の言葉 12/5

待降節第2主日C年

 戸田のボートレース場から続く広い道があります。オリンピック道路と呼ばれています。1964年の東京オリンピックの時につくられました。
 わたくしが小学生の時には、母校に、昭和天皇を迎えるために、道路が整備されました。国賓などを迎えるときにも道路が整備されることがあります。

 今日の福音に引用されているのは、イザヤ書の40章の言葉です。当時、イスラエルは国を失った状態でした。エルサレムの神殿は破壊され、おもだったひとびとはバビロンに捕囚となって連れ去られていました。異国の地で人々は故郷を思い涙していましたが、イザヤは必ず祖国に戻れる日が来ると勇気づけました。
 イザヤのこの預言はバビロンに代わってペルシャが支配するようになったときに実現しました。エルサレムの神殿の再建が許され、捕囚の地から戻ることができたのです。

 広い大きな道はイスラエル人にとって忌まわしいものでした。アッシリア軍もバビロン軍もギリシャ軍もローマ軍もみな広い道を通って攻めてきました。バビロンには広い道があって、軍隊は凱旋してくるときにその道を通りました。
 特にローマ軍はすべての道はローマへ通じると言われるように、ローマから舗装された道を支配地に向かって整え、途中に駐屯地を置き、戦車を配置し、いったんことあればその道を通って鎮圧に赴きました。そしてそのためにローマ時代にはローマの平和という軍事力を背景にした平和が訪れたのです。

 そしてこの道を通って、使徒たちにより、イエスの福音は世界中にもたらされました。
 ルカはこのイザヤの預言が、今こそ実現したと思ったことでしょう。

 ところで今私たちにとって、広い道を通すということは、どのようなことでしょうか。
 バプテスマのヨハネの招きに従い、悔い改めることです。
 イエスの掟は愛の掟です。この掟が自分のうちで守られているのかどうか。
 無関心をやめ、時のしるしを見分けて、今必要とされていることに関心を寄せて、自分にできる事を、少しでも実行する努力をすることではないでしょうか。

 コロナ下の社会の中で、自分の周りだけではなく、世界の中で置いてけぼりになっている人たちを思い、そのために何かをする、それが道を整える事と言えるのではないでしょうか。

 ルカ福音書の中のヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ。下着を二枚持っているものは、一枚も持たないものに分けてやれ。食べ物を持っているものも同じようにせよ。」そのように勧めます。
 イエスに従う、従うと言いながら、実は無視しているということは無いか、もう一度自分の生き方を見つめなおしてみましょう。