年間第27主日B年 (マルコ10章2-16節)
ようやく今日から公開ミサ再開です。ともに聖体祭儀の出来ることを感謝したいと思います。そして引き続き主の哀れみを願ってともに祈りたいと思います。
熟年離婚が多くなっていますね。ご主人の定年退職後、奥さんの常日頃の不満が爆発。いつも一緒にいるのは耐えられないと・・。 ご主人のほうも奥さんに対する不満があります。部屋の片付けができていない。よく料理を焦がす。遊び歩いてばかりいる。それらも離婚の原因になるのでしょうか?
女性の社会進出は目覚ましいですね。 幼稚園で運動会の日、ご老人が倒れて、お医者さんがおいででしたらお願いしますというと、女医さんも含め3人が駆け付けました。
数年前、東京大学医学部では女性の点数を低く抑え、差別をしていたことが明るみにでました。女性の成績がよく、女医ばかりになってしまうと言うのが理由でした。女性の社会での地位は日増しに向上していますが、まだ十分ではありません。国民を代表する国会議員の女性比率は9.9%ですから・・。
春日部教会は違います。女性の皆さんが大活躍しています。
ファリサイ派の人たちが離婚の問題をイエスに突きつけたのには、どのような背景があるのでしょうか。
ファリサイ派の人たちはイエス様がモーセに律法と矛盾したことを言うのを聞きたいと思い、それによってイエスを異端者として、訴える口実を作ろうとしたのでしょうか。
あるいは、その妻と離婚し別な女性と結婚したヘロデ王をバプテスマのヨハネが糾弾し、捕まえられ首をはねられた、その問題に引き込み、ヘロデ王との敵対関係に持って行こうとしたのでしょうか。
申命記にはこう規定されていました。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24章1節)。
日本でも江戸時代に、三行半という離縁状が夫から妻へ、あるいは妻から夫へも渡されることがありました。離別状あるいは去状、暇状とも言います。
三行半とは、離縁状の俗称です。離縁状の内容を3行半で書く習俗があったことから、このようによばれました。もっとも、必ずしも全ての離縁状が3行半であったわけではありません。多くは前段で離婚文言を述べ、後段で再婚許可文言を述べるのが常でした。
当時は字が書けない人もいましたが、その場合は3本の線とその半分の長さの線を1本書くことにより、離縁状の文言を書いた取扱がされていたそうです。
当時のラビたちには、この「何か恥ずべき事」のについて、二つの解釈がありました。シャンマイ派とヒレル派です。
シャンマイ派はこの文言を厳重に解釈し、「何か恥ずべきこと」を妻の側の異性関係の問題とだけ解釈し、どんなに浪費癖のある妻でも、それだけでは離婚できないとしました。一方ヒレル派は「何か」と「恥ずべきこと」を分けて読み、この「何か」を出来るだけ広く解釈しました。彼らは妻が料理をだめにしたり、通りで紡いだり、見知らぬ男と話をしたり、夫の聞いているところで夫の身内を軽蔑する話をしたり、大騒ぎをする女で、隣の家に声が聞こえるような女だとしたと言うことです。つまり、妻のどんな小さな落ち度でも、夫が気に入らないとなれば、離縁する正当な理由になったのです。そして一般に、このヒレル派の解釈が通用していました。
「離縁状さえ書けば、妻を離縁してよい」これが当時の一般的な考えでした。
律法学者は皆、男性でしたから、何百年かの間に、この律法は男性に都合のいいように解釈されていきました。 ラビのアキバなどは、この意味を拡大して、男の目に、自分の妻よりも美しい女がいた場合にも当てはまる・・としたと言われています。
しかしながら、モーセのこの言葉の後の24章の5節には、次のような言葉があります。
「人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。彼は、めとった妻を喜ばせねばならない。」
そこには妻を大切にすべきことが述べられているのです。
イエス様は当時の社会の中で、夫に追い出され、路頭に迷う多くの女性たちを見ていたと思われます。そして断固として離縁に反対します。取るに足らぬ理由で、あるいは全く理由なしに離婚されることが普通になった結果、イエス様の時代には結婚が不安定なものとなり、女たちが結婚を躊躇するような事態が起きていたと言います。
イエス様は結婚を本来あるべき姿に回復なさろうとなさいます。
「神は人を男と女とにお造りになった」
神にかたどって創造された男女が神の前に対等であることを語る箇所です。
「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」
そして結論として、イエス様はこう言います。
「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」
妻とは、神が与えてくださったかけがえのないパートナーです。妻を自分の都合で家に置いたり、追い出したりできる「物」のように考えるのは間違っているのです・・と。
そして、イエスの言葉の本来の意味は「離婚してはいけない」という掟ではなく、結婚とは、「互いに相手を神が結び合わせてくださったかけがえのない相手として大切にしなさい」・・・ということであったと思われます。