司祭の言葉 7/25

年間第17主日B年

 今日の聖書の御言葉はパンの奇跡です。イエス様の最大の関心事は神の国の到来、福音を述べ伝えることでした。そのために病人を癒し、空腹の人にはパンの奇跡も行いました。腹が減っては戦ができないといいます。福音も耳に入らなくなります。

 ところで今日の言葉で気になる表現があります。「パンくず」という言葉です。屑というといらないものという印象ですから、訳が悪いですね。原文はfragmentum 断片 フランシスコ会訳では「余ったパン切れ」バルバロ訳は「食べた残り」と訳しています。

 イエスさまが五つのパンを5000人に食べさせたとき、群衆はイエスさまを王様にしようとします。イエスさまが王様になれば働かなくても食べられるとおもったからだと解釈されています。イエス様ご自身このようにおっしゃいます。「あなた方が私を探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」

 もちろん、飢えている人たちを食べさせるために奇跡は行われたのですが、彼らの態度をみてイエスさまはがっかりしたに違いありません。彼らがしるしの中にみたのは、聞き従うべき牧者ではなく、自分たちの願いを満たすための王だったのですから。

 イエスの目線は横から目線です。上からではありません。共に暮らし、傍らにいるために人となられた方です。人々の必要をたちまちに感じ取られ、パンを分け合与えられたのです。
 イエス様はバプテスマをうけることによって、群衆と同じところに立ちました。そして、強みも弱みもあるがままの私を受け入れて下さいます。

 このパンの奇跡が今の私たちのためにはどの様な意味を持っているかと言えば、一つにはイエス様が神から使わされたものであると理解するため、さらには最後の晩餐のときの、聖体の制定を理解する助けとなるように、行われたというのが教会の理解です。

 イエス様は、私達の生活のしづらさを、とくに聖体によって養い、ゆるしの秘跡によって、じっくり話を聞いて、助けて下さるのです。

司祭の言葉 7/18

年間第16主日B年

 イエスは弟子を集め、派遣し、報告を聞き、いま休ませようとしています。弟子たちが疲れていると感じたからです。そのうち肉体が疲れるだけでなく、精神的にも疲れてしまうと思われたからでしょう。 今日の社会の中で疲れ切ってしまう人がたくさんいます。空っぽになる。 空回りする。 喜びを失ってしまう等など。
 イエス様はそのような時、まかせきることの出来ないことをかんじます。与えるものを持っていなければどうして与えることが出来るでしょう。

 ここにクリスチャンたちのリズムが示されています。一週間人々の中に生活した私たちは、週の初めに神の前に出てみ言葉に触れ、聖体祭儀で主の体を受け、派遣の祝福を受けてまた人々の中に、み言葉を伝え人々を癒すために出かけてゆくのです。
 昔はラテン語で、イテ ミサ エスト 行きなさい、あなたがたは派遣されています・・・と言って信徒を送りだしました。
最後の祝福は、そのための派遣の祝福と呼ばれているのです。

 イエスは自分達だけで人里離れたところへ行くように命じます。 = それは、神との交わりの場所です。でも、その時間は取れなかったようです。
 34節の「深く憐れみ」は、ギリシア語では、「スプランクニゾマイsplanknizomai」という言葉です。「目の前の人の苦しみを見たときに、こちらのはらわたがゆさぶられる」ことを表します。相手の痛みをわがことのように感じて共感する言葉で、イエスの愛の行いはいつもここから来ています。そしてイエスも弟子たちも働き続けたのです。

 あるとき、夢を見ました。「危ない危ない、早くブレーキを踏んで・・」と思っているうちに、前を歩いている人の方に車がだんだんよって行き、腕に接触してしまいました。となりの席の運転手をみると居眠りしています。示談の為に喫茶店を指示されました。そこに行く途中後ろの席の方が、神父さんたいしたことが無くて良かったですね、気をつけてください・・・といいました。それで運転していたのは隣の人ではなくて自分だったのだと気がつきました。夢でしたけど神様から、「あなたが疲れているんだよ」そう言われたように思いました。

 いま長江司教様を囲んでいたような時間がほしいと思います。司祭に成りたてのその頃は、ともに祈り、時間を忘れて宣教について分かち合い、激論を交わしました。
 先日、ボランティアの方が食事作りに来てくれました。 その日は私が食事の準備をしなくてもよいので助かります。そればかりか、おしゃべりをして疲れを忘れます。主に信仰の話です。そこで小生は大きな力をいただきます。

 ほんとうに皆さん疲れています。新型コロナウイルスで世界中が混乱しています。ミサに出るのも制限されている状況ですが、疲れたら十分に休みを取り、み言葉に触れて力を受け、主のお体に養われて派遣の祝福を受け、また前に進みましょう。

司祭の言葉 7/11

年間第15主日B年 12人の派遣           

 イエスは弟子たちを呼び寄せました
 「かれらを自分の傍に置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(Mc 3の14-15)

 特別な教育が始まりました。宣教に使わす前に彼らを自分のそばに置き、自分の人格の神秘自分の心、思い、メッセージの全てをとことんまで伝えようとされたのです。
 「わたしの言うのを聞いてさとりなさい。外から人に入って人を汚すものはない」
Mc7の14

 「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」  Mc10の42
 「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。  Mc8の34

 宣教は、イエスを伝える事です。→ 宣教の前にイエスの全てを知る必要がありますし、→ 揺るぐ事のない確信を形成するひつようがあったのです。
 そして弟子たちの派遣が始まりました。

2人ずつ 二つの理由によります。まず、重要な事柄についての証言は、2人以上でした。
 「長老に反対する訴えは、二人あるいは三人の証人がいなければ、受理してはなりません。」(Ⅰテモテ5の19)「死刑に処せられるには、二人ないし三人の証言を必要とする。一人の証人の証言で死刑に処せられてはならない。」(申命記17の6)

 着物  チューニック・・・下着  一枚の布で足に届く長さ 一方が縫い合わせてありました  新品の証拠として、頭のはいる穴なしに売られていたそうです。

 ヒマティオン・・・巾70センチ 長さ2mの布を縫い合わせたもので、縫い目は後ろにきました。昼は上着 礼服(神殿で、目上の前に必ず着用)となり、 夜は毛布替わりになりました。
 イエスの時代、外套にくるまっての野宿は良く行われました。

 袋 剥いだままの子山羊の皮袋で 羊飼い、巡礼者、旅行者の袋は・・数日分のパン、オリーブ、干しぶどう、チーズをいれました。 
 祭司たちの袋は・・・募金袋でした。 どん欲な祭司たちのようにしてはいけない、受け取る為ではなく与える為に行くのだから、すべてを神に頼れ・・・・それがイエスの派遣の言葉でした。

司祭の言葉 7/4

年間第14主日B年

 大工の子は大工、そんな時代です。イエスを迎えたナザレの人たちは、イエスをよく知っていると思い込んでいました。会堂で聖書の巻物を持ち出す老人も、会堂司も、会堂に集まった人たち皆が、かつてのイエスを知っていました。村に住んでいた皆が家具の修理や家の修理の依頼を、ヨゼフのもとに出し、イエスとヨゼフが力を合わせて仕事をしていたのを知っていました。だから、現在のイエスを受け入れることができませんでした。

 そこに、村人のイメージにそぐわないメシアの出現です。そして言います。大工ではないか。 技術者・便利屋・労働者であったがため、軽蔑しました。
 しかしそれはイエスの栄光なのです。神が地上に来られるとき、例外であろうとしなかったのですから。
 人々の思っていた救い主の出現は、壮大な、みんなを驚かせるような演出の中で行なわれるはずでした。 仲間内の一人であってはいけなかったのです。 髪の毛に鉋屑をつけて働いていた青年であっては幻滅だ、というわけです。(降誕の時もそうでした。認めたのは心の純朴な羊飼い達だけでした。)
 「彼はご自分の家にこられたが、その人々は受け入れなかった。」(ヨハネ1ノ11) 
 イエスの敵は、イエスを十字架に付けて当たり前だと思っていました。
 身内は気が触れたと思い、取り押さえ、拘束衣をつけさせようと思いました。

 私たちも、イエスを知っているけれども、認めないことが多いのではないでしょうか。神のイメージを自分でつくってそれに固執し、もしそのイメージと違う神が現われたら、それを迎えようとしない。
 神を外に捜し求めていませんか。  私たちの中にいるのに――
 神は遠くにいると思うので、目を細めて探ります。私たちのそばを通っているのに――
 キリストは、昇天の日にこの地上から去ってしまったのではありません。
 姿を消すのと 立ち去るというのは、別のことです。
立ち去れば――→当然不在となります。姿を消したというのは、かくれた現存・・を思わせます。
 ただ、姿を隠しただけ――あたりまえの男に変装してここにいるのです。

 祈りの時に、気を散らしました・・・ 良くそんな告解を聞きます。そんなことはたいしたことではありません。道を歩くときに こそ、気を散らしてはいけないのです。キリストとすれ違っているかも知れないのですから・・

 あまりにもよくしった顔ばかり――夫の、妻の、子どもの、姑の、病人の、家なしの、身なりの悪い人の・・・でもそこに、隠れたキリストがおられるかもしれないのです。