司祭の言葉 5/30

三位一体の主日B年

 復活、主の昇天、聖霊降臨と祝日は続いて、今日は三位一体の祝日となります。

 福島市の桜本寺の住職 佐藤老師に一枚の系図を見せていただいたことがあります。
 悟りを開いたものにそのしるしとして印可と言う証明書が与えられますが、その印可が、達磨禅師から何代目の弟子によって与えられたものかを示す、悟りの系図です。
 それはまた、老師として次の弟子を指導してもよいと言うしるしにもなります。

 しかし、キリスト教では、悟ったものにだけ洗礼を授け、弟子にするのではありません。
司祭職も、按手によって与えられるもので、悟りを求めるものでもありません。

 今日の福音の、「しかし疑う者もいた」・・と訳されている部分ですが、原文は、「しかし彼らは疑った」です。
 日本語的には・・「みんなが疑った」と言う意味になるでしょう。

 教会は、弟子たちのように疑っていても、イエスの復活を信じイエスに従いたい、イエスのように愛に生きたいと思うもの、疑いは有っても信じたいと思うものには、洗礼を授け弟子にしています。

 この洗礼は父と子と聖霊の名によって授けられます。
 救いの歴史は父と子と聖霊の共同作業なのです。

 それを如実に示しているのが、第4奉献文です。 
 今日は第4奉献文でミサを捧げたいと思います。

 その叙唱では、
 あなたは溢れる愛、命の泉、万物の作り主・・と、創造者としての神を称え、

 奉献文の中では、
 人が神に背いてからも、慈しみの手を差し伸べ、人とたびたび契約を結び、救いを待ち望むように励まし、

 時が満ちると、ひとり子を遣わしたこと。
 ひとり子は聖霊によって人となり、父の計画を実現するために死に身をゆだね、復活して死を滅ぼしたこと。 

 そして、信じるものに聖霊を遣わし、聖霊はイエスが天に昇られた後、世にあってその技を全うし、全てを聖なるものになさいます・・・と、称えています。

 ここには、救いは三位一体のなせる業であることが、示されているのです。

司祭の言葉 5/23

聖霊降臨の主日B年

 今好んで見ている番組があります。  イチケイノカラス  検事もの、刑事もの、弁護士ものなど、いろいろありますが、裁判官ものと言うのはあまりなかったように思います。弁護士物はたくさん作られています。依頼者が途中で投げ出し放棄しようとしても、熱心な弁護士が依頼者を説得し裁判に勝利する・・など。

 きょうの福音の箇所は、最後の晩さんの席でイエスが語られた弁護者を送ると言う約束です。「弁護者」はギリシア語で「パラクレートスparakletos」です。
 「パラpara」は「そばに」、「クレートス」は「カレオーkaleo(呼ぶ)」という動詞から来ていて「そばに呼ばれた者」の意味です。
 ヨハネの第一の手紙2章1節には「御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」という言葉があります。

 システィーナ礼拝堂正面壁画には、ミケランジェロの最後の審判の絵が描かれています。そこにはイエスが審判をしている様子が描かれていますので、審判者としてのイエスのイメージが強いかもしれませんが、イエスはご自分の血をもって私たちのために執り成しをしてくださったのですから、イエスこそは第一の弁護者なのです。
 そこで、今日の福音書では、イエスの約束として、聖霊について「別のパラクレートス」という言葉が使われています。
 教会が祈るときにいつもイエスの名によって祈るのは、イエスこそが第一の弁護者、とりなすお方だからです。

 ペンテコステに始まる教会の誕生は、大きな試練の始まりでもありました。試練に立つ教会は弁護者の助けを必要としていました。
 イエスは迫害の予告をしてから、弁護者としての聖霊を約束しています。そして言うべきことは聖霊が教えてくださると勇気づけます。

 弁護者である聖霊は、現代に生きる私たちにも派遣されています。私たちがどの様に歩むべきかを迷い途方にくれたときに、聖霊は「助け手」となって、真理を悟らせます。神は聖霊を遣わしてイエスが語られた言葉をわたしたちにも思い起こさせます。そのような体験は無いでしょうか。

 キリストを信じるものは、天と地の両方に「弁護者」を持ち、父と子と一緒に住むことを許されていると言うことを、忘れないようにしましょう。

司祭の言葉 5/16

主の昇天

 現在はロケットで頻繁に宇宙に飛び出す時代です。今の子供たちはこのご昇天をどのようにとらえるのでしょうか。いや皆さんはどうでしょうか。

 ソ連の宇宙飛行士ガガーリンは、人類初の有人宇宙飛行士として、1961年ボストーク1号に乗りました。 その言葉として知られる「地球は青かった」は、1961年4月13日付けのイズベスチヤに掲載された言葉によるものです。
 ガガーリンの地球周回中の言葉として報道され、有名になったものとして「ここに神は見当たらない」というものがありますが、記録にはその種の発言は一切残されていないそうです。

 ビデオのルカによる福音では、イエスの目から見て地上がぐんぐん小さくなってゆきやがて雲が周りを覆う映像でイエスの焦点が表現されています。
 使徒言行録は、イエスが雲に覆われて彼らの目から見えなくなったと表現しています。
 神の 栄光 のうちに入られたことを、雲という言葉で示しているのです。 天は場所ではありません。 だから何故天を見つめて立っているのかと言われたのです。

 栄光は ヘブライ語もギリシャ語も 「重い」が本来の意味で荘重 威厳 卓越性を意味するようになり、聖書で言う 神の栄光は、神の卓越性を意味しています。
 イエスはご自分の十字架によって神の卓越性を示しました。
 神の栄光とは 一人子を与えるほどの神の愛そのものです 

 旧約において、神の栄光はエジプト脱出の時 もえる芝の中とにあらわれ、シナイのもえる炎の中にあらわれましたが、新約において、その栄光はキリスト誕生と十字架 復活を通して現れ、その昇天を持って完成するのです。

 フィリッピ人への手紙は(2の6~11)次のように言います。

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしくして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

 このことから教会の典礼では、昔からの伝統的では、栄光の賛歌のときに、イエスの名がてくると式長は司祭の方を向いてレベレンチアといい、皆頭を下げます。

 神と人との隔ての幕を取り去られた主は、天にのぼられ、わたしたちの中に住まわれます。キャンドルの火は消され、私たちの心のうちに復活の火を移します。
一人一人はそれぞれ聖なる宮を携えているのですが、多くの人はその宮に入ることを忘れているのです。

司祭の言葉 5/9

復活節第6主日B年        

 今日のみ言葉は、「わたしがあなた方を愛したように互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」と言うものです。主が最後の晩餐の食卓で語られた遺言です。マタイマルコルカは聖体の制定を最重要な出来事として伝えていますが、ヨハネは3人の書き残さなかった別れの言葉を詳細に伝えています。

 私はジャズを聴きながら、ショットバーの隅っこでパイプの香りを楽しみながら、ウイスキーを飲むのが好きです。ジャズがわかるわけではありませんが、その雰囲気が好きなのです。でもコロナで、春日部に来てからは一度も出かけていません。
 ウイスキーを飲むときには先ずはストレートです。ウイスキーの味の違いがよくわかりますから。水割りもおいしいし、何杯も飲めますが、ストレートを頼むと必ず水も出てきます。水を飲んでリセットして別なウイスキーを飲む、味を比べて楽しみます。
 もちろん日本酒でも違いが分かって面白いと思います。中村神父は日本酒の利き酒の会に入っていました。でも私は日本酒ですと悪酔いしてダメなので、もっぱら洋酒です。

 なぜこんな話をしたかと言うと、私たちはイエス様の話をいつも水割りで聞いているのではないかと思ったからです。水割りは美味しいんですよ、何杯でも飲めるんです、軽いから。でも、いつも水割りでは本当の味がわからない。ストレートを飲んでみなくては。

イエス様が言葉と行いで説いた愛は 当時のユダヤ社会にとって革命的新しさをもっていました。挨拶をくれないひとに挨拶しなさい。 お返しの出来ない人を宴会に招きなさい。 上着をほしがる人には下着も与えなさい。 敵をゆるし迫害者のためにいのりなさい。・・・これらのどれかをそのまま実行してみたことはあるのでしょうか。
 旧約でも神と隣人への愛は重要な掟でした・・・しかし、それは自分の不利益を犠牲にするほどの隣人愛ではありませんでした。良きサマリア人のたとえの、祭司とレビ人のとった行動にそれをみることができます。

 イエス様の掟は「互いに愛し合いなさい」ですが、「私があなた方を愛したように」と条件があるのです。 ここが難しいところです。命を与えるほどに愛したのですから。

 私たちは命がけで隣人を愛しているのでしょうか。まず自分を安全圏に置いてから愛しているのに気づかされます。 それでは命がけとは言えません。

イエス様は、旧約の掟でどの掟が大事か聞かれたとき、第一の掟として「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という申命記6の5をとりあげ、次に第二の掟として「自分自身を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」というレビ記19の18をとりあげています。ですから、まずしっかり自分を大切にしなければいけないのです。 それから、自分のように他の人を愛することになります。

 イエス様のお言葉通りに、ストレートにとれば、自分の10分の1とか、半分とかではないのです。
 わたしたちは週の一日でも、食べるものの無い人に、自分の食べるものの半分を分かち与える努力をしているのでしょうか。
 この原稿を書いている最中、国境なき医師団からSOS 「感染力は新型コロナの10倍近く 、はしかの再流行で子どもたちの命が危機に」と言うニュースが飛び込んできました。 そこには、「2018年から2020年にかけて、コンゴは史上最悪のはしかの流行に見舞われた。わずか2年で46万人余りの子どもがこの病気にかかり、8000人近くが死亡。その4分の3は5歳未満だった。」とありました。 困窮する兄弟たちの声に耳を傾けてみませんか。

 強制されてすることではありません。イエスの勧告に従って、私たちが選ぶことですが、一度くらい徹底的に、イエスの言葉通りにしてみてはどうでしょうか。そうすればイエスの言葉が腑に落ちます。 

司祭の言葉 5/2

復活節第5主日B年

 イエスはわたしにつながっていなさいと言われます。
・・・ぶら下がってじゃないことに感謝します。子供大はぶら下がるのが大好きです。幼稚園。の子供たちは、お猿さんみたいに庭の雲梯というアーチ形の鉄棒を渡って行きます。私も小学生のころには好んでこの雲梯で遊びましたが、今はもう無理です。腕の力がなさすぎますから。最近久しぶりにぶら下がり健康器にぶら下がってみたら15秒ほどでダウン。その点スポーツクライミングする人にはただ驚くばかりです。

 イエス様は私につながっていなさいといわれますが、ただつながっているだけではだめなんです。そこのところがポイントなんですね。
 まず、枯れ枝ではだめですね。当たり前ですけど。
 そして実のならない枝もダメなんですね。「私につながっていながら実を結ばない枝は父が取り除かれる」とあります。

 イスラエル民族が、今のパレスチナ、かつてカナンと呼ばれていた土地にエジプトを脱出してやってきたときに、乳と蜜の流れる良く肥えた土地であることを示すために、斥候はそこのブドウの一房を担いできました。巨峰よりも大きな実がたわわになっていたといたといいます。
 ブドウはイスラエルにとって神の恵のシンボルでした。マカバイ王朝の紋章はブドウの木でしたし、神殿の栄光の一つは聖所の前面にある大きな黄金のブドウの木だったと言います。  イエス様がよく話されたカペナウムの会堂の門には、ダビデの星、ソロモンの星とともに、一房のブドウが刻み込まれていました。

 旧約聖書にはブドウの木のたとえが沢山出てきます。でもいずれも、預言者を通じて、神の嘆きの対象として出てくるのです。 
 「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁きを待っておられたのに見よ、流血。正義を待っておられたのに見よ、叫喚。」(イザヤ5の7)
 わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる確かな種として植えたのにどうして、わたしに背いて悪い野ぶどうに変わり果てたのか。(エレミヤ2の21)

「イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木。実もそれに等しい。実を結ぶにつれて、祭壇を増し、国が豊かになるにつれて、聖なる柱を飾り立てた。(ホセア10の1)

 イエス様は良い実を付けないイスラエルに代わって「真のブドウの木」となります。  このブドウの木の実りは、父である農夫の働きによってもたらされます。
 農夫は実りのために心を砕いて枝に手入れをします。この農夫の働きに身をゆだねるとき、枝はよい豊かな実を付けることが出来ます。そして、父と人を結ぶ絆は「わたし」すなわちイエスなのです。

 でも実をつけない枝は切り取られてしまいます。切り取られた枝は何の役にも立ちません。神殿ではある時期、生贄を焼くための薪になる木を持って行くことになっていましたが、ブドウの枝は持ってきてならないと定められていたということです。何故でしょうか。火力が弱すぎるからです。

私の部屋の前には、アケビの棚があります.樹勢が強くどんどん伸びますから剪定をします。春先のはだめですが、秋の枝は丈夫でよくしなりますので、かごなどを編むのに使うことができます。でもぶどうのつるは折れやすく弱いのでそのような役にも立ちません。ただ集めて焼かれるだけです。
 
 さて、イエス様の驚くべき言葉は、イエス様も私達につながっているという約束です。「私はブドウの木」ということばの、その中央の、3~4節には「わたし」の働きが語られています。 「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」 イエスの言葉には、弟子達を清くする力があります。それはイエスが神にとどまっているからです。

 2節「手入れをなさる」は原文では、3節の「清くなっている(カタロスkatharos)」という形容詞から派生した動詞で、「清くする」が普通の意味ですが、「枝を清くする」というのは「刈り込む」「剪定(せんてい)する」ことを表しているそうです。

「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」も「イエスの言葉によって刈り込まれる」というイメージなのでしょう。 イエスの言葉は、わたしたちにとって時として厳しく、痛いことがありますが、それが自分にとって大きな成長のチャンスでもあった、そんな経験があるのではないでしょうか。
 そして、キリスト者はイエスの言葉によって「すでに清くなっており」、そのようなものとしてイエスにとどまり続け、うちにもそとにも、その実を示すのです。

 もう一度思い起こしましょう。実のならない枝は、刈り取られるのです。この実を結ぶとはどういうことか、考えてみましょう。花芽の無い、葉だけ茂らせる枝は刈り取られるのです。