司祭の言葉 4/24

復活節第4主日 (ヨハネ10章11-18節)

 よき牧者のたとえです。イエスは弟子たちに私の羊を牧しなさい・・・と言われました。
 司祭に叙階されるとき3つの職務をいただきます。教職・祭職・牧職・・・司祭は秘跡としてこの三つの職務を特別に受けます。信者さんは一般祭司職と言われますが、信者さんも洗礼を受けるとき司祭とは別な形でこの三つの職務を受けると教会は教えています。

 皆さんは聖書を朗読するとき祭壇に上ります。そのとき司祭の前に来てお辞儀をします。
 其れは司祭への挨拶ではありません。御言葉を伝えるために派遣されるという役目を、今お引き受けいたします・・・という意味でのお辞儀なのです。司祭もよろしくお願いしますという意味でお辞儀を返します。この時皆さんは司祭を見ますが、信仰のなかでイエスに挨拶をしているのです。皆さんはイエスによって派遣されているのですから。神父じゃない。これが教職(預言職)です。典礼にはいろいろな約束があるのです
 そして祭職は、特に司祭と共にミサを捧げる(教会法906)とき、また日々の祈りの中で親族恩人友人、祈りを必要としている人のために祈るときに、その役割を果たしているのです。
 そして牧職、 牧職は羊を飼う職務・・・羊飼いとしての職務です。 病気の信者さんを見舞うとき、お年寄りを教会に連れてくるとき、その職務を果たしています。 イエスは「私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない」といいます。囲いは教会と考えれば、教会の外にも羊がいる・・・ということです。
 幼稚園の仕事も囲いの外の仕事です。教誨師の仕事も ホームレスの方がたに声をかけるのも、受刑者に手紙を書くのも、子供食堂に携わるのも牧職です。

 ところで話を今日の福音に戻しますが、ヨハネ10章のイエスの言葉は、9章の終わり(41節)から続いています。9章は「生まれながらの盲人のいやし」の物語でした。
 安息日について旧約の律法の中では、「それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる」(出エジプト記31章14節)と言われていましたが、その安息日にもかかわらず、イエスは泥をこねてその人の目に塗り、その人をいやしました。 このことは、言わばいのちがけの行為でした。
 このイエスの行動が背景にあって、羊と羊飼いのたとえが語られ、「わたしは良い羊飼いである」(10章11節)と宣言されるのです。
 イエスはここでよい羊飼いである自分の使命を明らかにします。使命という言葉は命の使い方を表します。どのように命を使うかそれが使命です。イエスの使命、それは自分の命を羊のために使うことでした。羊のために命を使うだけでなく命を捨てること、それがイエスの使命でした。命を与え尽くすのがイエスの使命でした。
 彼はこの自分の使命を全うした。その結果は何であったか。復活です。

 今日の福音から読みとれるメッセージはイエスが単に「良い羊飼い」と言うことだけではなく、別のメッセージがあります。それは羊のために命を捨てたイエスが復活させられたと言うことです。人のために命を使うと、たとえそれを失ってもまたいただくことができる。

 わたしたちの信仰、それはあのナザレのイエスがイエスキリストであると言うことを信じることです。  そのイエスの何を信じるのか。キリストのなにをしんじるのか。

 イエスが私たちの救いのために死に、復活させられたことを信じることです。

 イエスは復活の初穂です。初めて父なる神によって復活させられた方です。
 そしてわたしたちも復活させられるのです、人のために命を使えば・・・。

 人のために命を使う人は永遠に生かされる。どんな小さな愛の行いもそれが愛であるかぎり永遠の価値をもつのです。

 さて、自問してみましょう。「わたしは人々への愛のために命を使っているだろうか」と。

司祭の言葉 4/18

復活節第三主日 (ルカ24章35-48節)

 小生の勤める精神障害者のグループホームセウイでは、時々みんなに配るお菓子が人数分以上あって、少し余ったりします。そんなときは何とかして、できるだけみんなに配り切ります。残っていると、誘惑に弱い私が食べる羽目になり、あとで後悔することになりますから。
 ところでセウイでは何も隠し事ができません。お菓子などが少し残ったとき、その時そこにいるメンバーたちにだけ「よし特別だ、みんなには黙っていて下さいね」そう言って配っても、ぽろっと「さっきのお菓子おいしかった」と言ってしまう。
 「黙っていてと言ったでしょう」・・と言うと、「あ、そうか」との反応。誰も秘密を守りません。楽しかったこと、おいしかったこと、嬉しかったことはみんなに言いたいのです。

 復活は単なる信仰箇条ではありません。キリスト者になるために受け入れなければならない事柄、あるいは命題というよりも、何よりもまずそれは、喜びに満ちた報告なのです。
 「私たちは、主に出会った」「主は生きておられる」 包み隠しておくことのできない、体験の披瀝、体験話なのです。 それは抽象的な知識の伝達ではなく、具体的な体験に基づいているのです。 「わたしたちは主に出会った。」・・この体験の報告が持ち寄られ、分かち合いの中で教会の共有の信仰になり、伝えられ、分配されるようになったのです。

 今日私たちは復活の証言の言葉を聞き、教会の復活信仰を分かち与えられています。その私たちの信仰が、生き生きとした活力を得るためには、私たちの中で、今も、生きて働いておられる復活の主との具体的な出会いをそれぞれが経験し、その体験の報告に耳を傾けて受け止める必要があります。

 エマオの宿で主に出会った二人の弟子は、仲間たちに自分たちの体験伝えようとエルサレムにとって返します。彼らの報告に耳を傾けていた弟子たちの中に、静かなしかし期待を秘めた興奮が高まっていったに違いありません。二人の弟子の心の高まりが、他の弟子たちにも伝わって行き、「実はシモンにも、主はお現われになったんだ」と言うような報告が、主は生きておられるという報告が、あちらからもこちらからも寄せられてきたのです。互いの信仰体験の分かち合いです。そして集まっていた彼らの語り合いの中に、主は現れて下さったのです。
 イエスは聖書を悟らせるために、彼らの心の目を開いて言われます。
 「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する・・』旧約聖書のある箇所の引用ではなく、それが旧約聖書全体をとおして告げられていた神の計画だということです。
 「これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(44節)・・そう言われて「婦人たちはイエスの言葉を思い出し」ました。(24章8節)

 わたしたちも、イエスのおっしゃるとおりだった・・と、イエスの言葉を思い出すという体験をしたとき、イエスの言葉がわたしたちの中で実現していると感じたときに、イエスはほんとうに今も生きている・・・と、感じることができるはずです。
 復活の主はいつも私たちの傍におられるのですから。

司祭の言葉 4/11

復活節第2主日

「その日、週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」・・とあります。想像してみて下さい。イエスを裏切って逃げてしまった弟子たち、イエスを否定したペトロ、どんなにか自己嫌悪に陥っていたことでしょう。そして「ユダヤ人を恐れて自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」のです。イエスを捕まえ、あの凄惨なむち打ちを受けたイエスを十字架につけろと叫んでいたユダヤ人たちが、今度は自分たちを捕まえに来る・・ 恐怖のため外の足音に耳をそばだて、息を殺していた弟子たち。
 そこに現れたイエスは「あなた方に平和」と挨拶します。心の平和などなく、ただただおびえていた弟子たち。彼等に傷跡を見せ自分であることを示し、「あなた方に平和」と、おっしゃったのです。弟子たちは赦されていると実感し、心に喜びが戻ってきたことでしょう。イエスとともにいた時の平和と誇らしさが、再び満ち溢れました。
 仲間とともにいる事さえ疎ましく、一人自分の殻にこもっていたトマスはそこにいませんでした。
 弟子たちの裏切りについて一言も触れず、ただ「あなた方に平和」と言われた主は、その言葉で弟子たちのすべてを許していたのです。
 ですからイエスは弟子たちに、あなた方も赦しなさいとおっしゃったのです。許さなければ、相手はいつまでたっても平和を得ることが出来ません。イエスが無条件で赦したように、私たちも赦すべきなのです。
 そしてそこにいなかったトマスは見るまで信じないと言います。トマスはイエスの復活だけではなく、イエスの赦しの言葉が、「あなた方に平和」と言ったということが、信じられなかったのです。

 赦しのための派遣、ここは十分注意を要する言葉です。  誰も他人の罪を許す権限はありません。イエスだけが持っています。パリサイ人たちはイエスが『子よ、あなたの罪は赦された』といったときに激怒しましたが「人の子が地上で罪を赦す力を持っていることを知らせるために・・」といって、「起きなさい、床を取って帰りなさい」と仰いました。
マタイ9の2「中風の人のいやし」

 ここで一つ確かなことは、今日の出現が人間に対する神の赦しの事実とその宣言だということです。そして、十字架による神の赦しと、福音を伝えることは教会の大いなる特権というべきなのです。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(mt9:13)と言われたイエスは、最後の晩餐の折、葡萄酒の満ちた杯をとって「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と言われ、翌日十字架の上に血を流しました。(同26:28)

 そして、復活されたイエスは弟子たちの罪を赦し、罪を赦すことを、弟子たちの使命とすることによって、教会をお建てになったのです。
 だから、教会はイエスによって罪を赦されたことを自覚する者たちの集いなのです。そして「主の平和」と言う挨拶は、互いに罪を赦しあう言葉でもある・・わたしはそう信じます。

司祭の言葉 4/4

主の復活

 主の復活おめでとうございます。この季節が大好きです。花粉には悩まされますが、自然界は花盛り、レンギョウ、モクレン、梨、桃、菜の花、タンポポ、そして桜。
 この時期になると思うのですが、何と桜の木の多いこと・・。なぜ桜の木がこんなにも愛されるのでしょうか? まず、散り際が美しい。水面の上に落ちると筏のように列を作り花筏になります。下流ではヘドロにならないようにすくい上げています。
 この散り際のよさから、その潔さを強調し、戦時中には軍歌「同期の桜」のような歌詞がつくられました。「咲いた花なら散るのは覚悟、見事散りましょ国のため」
 その散り際は散華ということばで美化され、多くの若者が死に急ぎました。
 しかし今はその桜の満開の見事さが喜ばれています。桜のよさは散り際だけではありません。桜前線はいつ来るのかと期待を持たせます。また来年同じように美しい花を咲かせてくれることを皆が信じています。
 私はそこに復活の期待を持ちます。秋にはすっかり葉を落とし寂しげですが、そこにはすでに花芽を持っているのです。私たちに満開の花を見せるために、その準備として眠りにつくのです。寒い冬の日々があってこそ、美しい花をつけます。

 死は全ての人に訪れますが、そこで終わりではなく、復活の日がやってきます。
 イエスの復活こそはその証なのです。しかしイエスの死はなぜあのような死でなければならなかったのでしょうか、なぜ釈迦の涅槃のような死でなかったのでしょうか。十字架上の死がなぜ必要だったのでしょうか。イエスの死はエルサレム入場のわずか4日後のことでした。すべての人に捨てられた思いの中で、イエスは鞭打たれ十字架を背負い、罵声の中で息絶えました。

イザヤ書53章はその予言を通して、神のしもべの死にざまを予告しています。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 でもイエスは信じていたのです。自分のことが記念されてゆくと。弟子に裏切られる絶望に近い苦悩の中で、弟子たちを、人間を信じていたのです。私には信じがたい出来事です。

 ゴキブリは共食いをします。その共食いをやめさせるために、あなたはゴキブリになれますか?我々は神の目から見ればゴキブリ以下です。二つの大戦を経験して、戦争がいかに愚かしいことかを見てきたのに、何も学んでいません。

 今年の2月、中国は海警局に武器の使用を許可したとのニュースが流れ、世界の耳目が集まりました。ミャンマーでは内戦が起きるのではないかと危惧されています。
 また、日本では、福島の原子炉が大津波のためにすべての電源を失い、制御不能となって水素爆発を起こして放射をあたり一面にまきちらしました。10年たった今、なお避難を余儀なくされている人が数万人もいるのに、すでにそのことを忘れてしまっているかのようです。安全のための確たる対策も取られないまま、原子炉は再稼働を始めています。
 大量破壊兵器、核弾頭をつけたミサイルがつくられ、今まさに第三次世界大戦の勃発が危惧されています。私たちが排出した炭酸ガスは地球温暖化を招き、今のまま行けば30年後には地球は滅亡への道を歩み始めると言われていますが、夫々のエゴがぶつかり合って平和の道は遠のくばかりです。そんな人間はゴキブリ以下ではないでしょうか。

 その人間のために神は人となり、十字架上の死をもってその罪を贖い、復活の命を約束して下さいました。
 今こそ、私たちはその贖いにふさわしい実を結ばねばならないと思います。
 イエスが愛したように、自分を大切にし、隣の人も同じように大切にする・・・その生きかたを実行してゆかなければならないのだと思います。
 今日はイエスの復活の出来事を記念しながら、イエスに付き従う決意を新たにし、そのための勇気を与えられるように、祈りたいと思います。