年間33主日 2020.11.15
タラントンのたとえ
かつて教区会計をしていた身としては、今日の話はいつも引っかかるんですよ。5タラントン2タラントンを預かって商売をしてそれぞれ倍に増やした話でしょう。それと比べれば、確かに銀行に預けてはいるのですが、さいたま教区の会計を預かる司祭たちも、あまり役に立たない僕だなあと思うのです。増やすこともできず、減らす一方ですから。専門外だから仕方がないといえばそうですが。
さいたま教区の持っているお金は、せいぜい6億円ほど、10タラントンです。でも、この主人は大金持ちですよ。5タラントン(3億円)をわずかなものというのですから。この主人が神様なら、何タラントンでも、何十タラントンでも僅かなお金でしょうね。
今日の福音は何を言いたいのでしょうか、お金儲けの話でないことは確かです。
1タラントンは6000デナリオンと説明されています。1デナリオンは労働者の一日の賃金ですから、仮に1万円としますと6000万円。それを埋めておいたことが非難されているのです。そして役に立たない僕と言われています。ルカによる福音書ではミナの例えとして、10人の僕それぞれに1ミナずつ預けられています。1ミナは100デナリオンで非難された僕は布に包んで持っていましたから、土に埋めていたマタイの僕のほうが安全に保管していたといえます。でも非難されたのはなぜでしょうか。
まず、イエス様は誰に向かって、何を言おうとしてこのたとえを語られたのでしょうか。そこが問題です。実は、この怠惰な僕こそイスラエルの指導者、特に律法学者とパリサイ人を指しているのです。彼らは律法を授かったのですが、その細かい規則を作り、人々に重荷として背負わせ、それを守ることにきゅうきゅうとして、律法の真髄、神様への愛と隣人への愛、神の寛大さについては語りませんでした。神を独占して、祝福の基とならなかったこと、宣教に力を尽くさなかったこと、そこが非難されているのです。埋めておいたのはまさにそのような神のたまものでした。
そしてマタイの教会はこのお話を自分たちに当てはめて考えました。イエス様のイスラエルの指導者に対しての非難は、私たちにとっても他人事ではないと。自分のこととして読まねばならないのです。そして、反省しなければならないのです。果たしてわたしは自分のタラントンをうまく活用しているだろうか・・・と。運用するのが面倒だと言って、穴を掘ってうずめてしまってはいないかと。
わたしたちはみな神様からお預かりしているタラントン(能力)があります。
神様はその力を使って、ご自分のみ業に協力するよう招いておられるのです。
譬えが難しいのは、持っている物まで取り上げられると言うことですが、持っている物まで取り上げられるのは、なんでしょうか? 神の国の相続人と言う特権から外されること、と考えられませんか?
あるいは、タラントンは、愛の業を指しているとも考えられます。この後に続くすべての民族の裁きで問われているのは、自分のタラントンを生かしていますかという、まさに隣人愛の実践ですから。役に立たない僕と言われたくないでしょう?
今日のみ言葉をそれぞれ、自分に向けられた神様の声として考えてみたいと思います。