司祭の言葉 2024/1/1

「抱(いだ)いたキリストによって抱(いだ)かれる」
―新しい年をマリアさまとともにー

神の母聖マリアさまの祭日(2024年1月1日)の黙想(ルカ2・16~21)


クリスマスの夜、天使のお告げを受けた羊飼いたちは急いで行って、マリアさまとヨセフさま、そして飼い葉桶に寝かされた乳飲み子キリストを探し当てました。彼らは、その光景を彼ら自身の目で確かめ、主イエスを礼拝した後、幼子について、彼らが天使から告げられたことを人々に知らせました。しかし、聞いた者は皆、羊飼いたちの話に戸惑い、不思議に思いました。そのような中で、

「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」


と、ルカによる福音は伝えます。福音は、この時と同じマリアさまのご様子を、後に主イエスが12歳になられた時の過越祭に、マリアさまが主とともにエルサレムの神殿に詣でた際のエピソードの結びにも伝えています。

羊飼いたちが天のみ使いに告げられた事のみならず、主イエスの出来事は、人の目には不思議に見えます。確かに、神のなさることは、旧約の預言者イザヤの語るように、「人の思いや考えを超えて」います。イザヤは告げます、「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道は、あなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55:8,9)

預言者を通して、このようにあらかじめ語られていた神のみことばにもかかわらず、後に、人々は主イエスについて正しく理解できないままに自分たちの判断で主を裁き、結果として主を十字架につけてしまいます。

マリアさまは違います。主イエスのおことばとそのみ業を、それらの不思議のままに一切を「すべて心に納めて、思い巡らしていた」と、福音は伝えます。

母として主イエスを身ごもり、産み、養い育て、つねに主のお側に生活しながらも、主は不思議であり、マリアさまの思いや考えをさえ超えておられたことでしょう。しかし、マリアさまは主イエスについて、ご自分の思いや考えで判断するようなことは決してなさいませんでした。すべてをそのお心に大切に納めて、神ご自身がマリアさまにその一切を明かされる時まで、静かに待っておられました。「思い巡らしておられた」とは、そういうことだと思います。

なぜなら、マリアさまは主イエスを素直に、素朴に信じておられたからです。子をそのように信じる。これは、母の子に対する愛であり、あるいは母にしかできないことかもしれません。母を天に送ったわたしは、このことを強く思います。

実は、1月1日は母の誕生日です。母は生きていれば、今日91歳になります。わたしは、母の臨終の病床で、母にカトリックの洗礼を授けましたが、1月1日神の母聖マリアさまの大祭日に生まれた母に、母の霊名は迷わずマリアといたしました。

母の願いや期待どおりに生きてきたとは、到底言えないわたしでした。それでも、母はいつもわたしを信じ、支え励まし続けてくれました。主イエスと聖母マリアさまを、わたしとわたし自身の母に当てはめて考えることは、もちろん出来ません。しかし、マリアさまが主イエスの母であるがゆえにおできになられたこと。それは、いかなるときにも素直に、素朴に御子キリストを疑うことなく愛し、信じ抜かれた、と言うことではなかったでしょうか。ご自身をそのまま主に委ねて行かれるとともに、まったく私心なく、一筋に御子キリストを信じ、支え抜かれた。それが、神の母聖マリアさまであられたと、今のわたしには思われてなりません。

新年の初めに、このように聖母マリアさまをなつかしく想い起こさせていただくのは、まことに相応しいことです。神が年の初めにわたしたちにお求めになられておられることは、聖母マリアさまのような主イエスへの聖い愛と信仰と信頼ではないでしょうか。

教会は、マリアさまのことを、感謝を込めて「神の母」と呼ばせていただいて来ました。神の母であられるマリアさまを、ご聖体の神なる主イエスをお納めする「ご聖櫃(せいひつ)」ともお呼びして来ました。聖母マリアさまは、ちょうど「ご聖櫃」のように、ご聖体の主イエスをご自身の内に、いつも大切に抱(いだ)き、納めておられます。

「抱(いだ)いたキリストによって抱(いだ)かれる」という美しい信仰の言葉があります。聖母マリアさまは、御子キリストをご自身の内にいつも大切に抱(いだ)き納めつつ、実は、主の愛の内に、むしろマリアさまこそ大切に抱(いだ)かれておられることを、マリアさまは至福の内にご存知であられたに違いありません。

わたしたちは、神の母聖マリアさまとともに新しい年を迎えます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 12/31

聖家族 ルカ2:22-40

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

マタイによる福音は、彼の伝える福音の始めに、ヨセフさまの夢の中に主の天使が現れ、次のように告げたと語っていました。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(1:21)

ヨセフさまの夢のみ使いのお告げの通り、マリアさまからお生まれになられた幼子は、「イエスと名付け」られました。新約ギリシャ語の「イエス」の名は、元来の旧約ヘブライ語では「ヨシュア」で、主は救うという意味です。ただし、主イエスにおいて、神はどのようにしてわたしたちを救ってくださるのでしょうか。

クリスマス夜半のごミサの冒頭、今年も教会の古い伝統に従い、わたしは幼子キリストの御像を両掌で抱かせていただいて聖堂に入堂し、祭壇前の小さな馬小屋の前に跪き、その中の飼い葉桶の稟の上に、幼子イエスの御像を安置させていただきました。そのようにさせていただきながら、後に幼子イエスをエルサレムの神殿で、その老いた腕に抱きしめた老シメオンのことを思い起こしていました。その日、老シメオンが感激の余り歌わずにはおれなかった歌を、ルカの福音は伝えています。

「主よ、今こそあなたは、おことばどおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカ2:29-32)

老シメオンのようにわたしたちも、マリアさまからご聖体の内に同じ幼子イエスを両の掌に受け取り、大切に抱かせていただきます。老シメオンと共にわたしたちもごミサで、ご聖体の幼子キリストの内に神の恵みの約束の一切を、すべての神の救いのご計画の成就を、わたしたちへの祝福として受け取らせていただいてよいのです。これが、主イエスにおいて神がお与えくださる救いです。老シメオンの歌ったように、マリアさまと共にわたしたちも、「神の栄光をこの目で見た」からです。

神の栄光。ヨハネによる福音は、それを次のように伝えていました。「言は肉(フランシスコ会訳では「人」)となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14) さらにヨハネは続けて、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(1:18)

確かに、「いまだかつて、神を見た者はい」ません。罪なる者が、聖なる神に見(まみえ)ることは許されていないからです。神を見ることは、罪なる者には死と滅びを招きさえします。ただしかし、自らの罪を自らで贖い切れないわたしたちは、罪を赦してくださる神に会わせていただく他に、救われる道はありません。この二律背反(ディレンマ)の中に、人は長くその身を置き続けて来ました。クリスマスの夜まで。

しかし神は、今ここに、人となられた神イエス・キリストにおいて、わたしたちにお会いくださいます。老シメオンの言葉のように、それは(神が)万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」

ただしそれは、主イエスが、わたしたちの罪を十字架で一身に負われ、わたしたちの罪を贖い切ってくださることによってのみ、わたしたちに成就する救いです。老シメオンはマリアさまに告げていました。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。」

先に、「イエス」という名は、ヘブライ語ではヨシュアであると申しました。旧約でヨシュアとは、神がモーセによってお始めになられた神の民の救い、すなわち神の民のエジプトから約束の地への「過越(出エジプト)」のために、モーセと共に働いて神の民をエジプトから導き出し、さらにモーセ亡き後、モーセを継いで神の約束された約束の地に神の民を導き入れた、「旧約の過越」の成就者の名です。

明らかに主イエスの名には、旧約のヨシュアが隠されていると思います。神が主イエスの聖家族を最初にエジプトに導かれた(マタイ2:13-23)のは、後に、神が彼らを「エジプトからわたしの子を呼び出」されるため」、新しいヨシュアであるキリスト・イエスによって、新しい神の民である聖家族に、新しいエジプトからの過ぎ越し・主イエスの十字架と復活による「新約の過越」を成就させることの「しるし」でした。

「聖家族」。それは、主イエスによって「神の国」へと確実に導き入れられ、「神の国の主」キリストを主として生きる新しい過越の神の民です。洗礼によってわたしたちが招き入れられたのは、この「聖家族」、しかもその「食卓」、すなわちごミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 12/25

主の降誕(日中)ヨハネ1:1-18

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「ことばは人となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」

クリスマス、おめでとうございます。皆さんに神の御祝福がありますように。

今年も未だコロナ終息が見通せない中でのアドベントの期間、わたしたちは使徒ペトロの言葉を頼りに、主イエスとそのみ国を「神が約束されたゆえに待ち望み」ました(ペトロ2,3:13)。この世にあって確実なものは「神の約束」だけです。そしてクリスマス。主イエスを、母マリアさまを通して、心からの感謝と喜びの内にお迎えします。

わたしが長く奉仕させていただいた英国の教会では、クリスマスの深夜のミサで、司式司祭が幼子キリストの小さな御像を両の掌(たなごころ)に抱いて入堂します。そして、祭壇の前か祭壇脇に置かれた小さな馬小屋の前に跪き、その中の飼い葉桶の稟(わら)の上に、そっと幼子キリストの御像を安置してからミサを始めます。

英国での毎年のクリスマス深夜ミサの度に、司祭であるわたしは、生まれて間もない赤ちゃんをわたし自身この手に抱いた時のことを思い出しました。同時に、かつて幼子キリストをエルサレムの神殿で、その老いた腕に抱きしめた老シメオンのことも。その時、彼が感激のあまり歌わずにはおれなかった歌をルカは伝えています。

「主よ、今こそあなたは、おことばどおり、このしもべを安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの光栄です。」

(ルカ2:29-32)

「ことばは人となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」

主イエスは、わたしたち人間の思いや力を超えた、だからこそ確実な「神の約束ゆえに」、母マリアさまを通してわたしたちのもとに来てくださった神ご自身です。

クリスマスの礼拝で、マリアさまから老シメオンのようにわたしたちもご聖体の内に同じ幼子キリストを両の掌に受け取らせていただき、大切に抱かせていただきます。老シメオンとともに、ご聖体の幼子キリストの内に神の約束の一切を、神の恵みのご計画のすべての成就を、わたしたちへの祝福として受け取らせていただきます。

クリスマスのミサで、わたしたちも母マリアさまとともに、マリアさまのように、幼子キリストを小さなご聖体の内に抱かせていただき、見つめさせていただきたいのです。幼子キリストをご自身の胸に抱かれたクリスマスのマリアさまの神への畏れ、驚き、喜びと感動、そして安堵の涙、その聖母さまの心の動き、さらに感謝と祈りの一切を、わたしたちも、今、ここで、マリアさまとともにさせていただきたいのです。

人が神に代わろうとしてきたわたしたち人類の長く空しく倒錯した過去は、ここに終わりました。そのために、本当に多くの人が自らを偽り、自分を失い、さらには多くの人を惑わし、傷つけ、犠牲にしてきた過去は、今、ここに確実に終わりました。

「神が人となられた」今、わたしたちが母マリアさまとともに幼子キリストに見つめているのはこの事実です。かつてのように見知らぬ神とその恵みを虚ろに求めて彷徨(さまよ)い続けた時は終わりました。今から後は、クリスマスに神が主イエスにおいて成就された受肉の恵みの事実に立って生きて行けるのです。老シメオンの歌うように、マリアさまとともに、わたしたちも「神の栄光をこの目で見た」からです。

「ことばは人となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

「主イエスにおいて人となられた神の栄光」。それは老シメオンの言葉のように、「神が万民のために整えられた救い、異邦人を照らす光、神の民イスラエルの光栄。」主イエスは人を救い、活かし、人に光栄を与える神のいのち神の栄光とは主イエスにおいてわたしたちに与えられる神の恵み。実は、それは主なる神ご自身です

神はご自身をお与えくださるために人となられた。主イエスとは、そのようにわたしたちにご自身をお与えくださる神ご自身の栄光のお姿です。老シメオンがマリアさまとともに、幼子キリストの内に見つめた神の栄光とは、実は神の自己奉献の事実。それは、わたしたちがミサの度に、ご聖体の内に見つめ味わう神の真実です。

クリスマスから後、主イエスにおいて神の栄光は、さらに輝きを増し加えて行きます。クリスマスの幼子キリストは、栄えて行かれます。十字架、さらにご復活に至るまで。

クリスマスの出来事は、決してクリスマスだけで終わりません。それは、毎日のミサ毎に、ご聖体においてわたしたちに体験され続ける神の恵みの出来事です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 12/25

説主の降誕(夜半)ルカ2:1-14

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ルカによる福音は、主イエスのご降誕を、その当の夜半に最初にお祝いすることを許されたのは、マリアさまとヨセフさまの他には、貧しい羊飼いたちであったと伝えています。彼らは、マリアさまたちが滞在しておられたユダヤのベツレヘムの地方で、その夜、「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番を」していました。

灼熱の日中とは異なり、夜半には気温が零下にも降ることのあるベツレヘム郊外の荒野。おそらく小さな焚火だけを暖を取る手立てとして、野外で肩を寄せ合うようにして夜通し太陽の昇る朝を待ちわびていたに違いない貧しい羊飼いたち。神は、とくにその彼らを、世界で最初のクリスマス夜半の祝いに招かれました。ルカによる福音は、その時の様子を次のように伝えています。「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常におそれた。」

羊飼いたちは恐れました。何を、でしょうか。彼らは神を恐れました。なぜ、でしょうか。町の城壁の外で羊の群れの番をして生活を営む他無い貧しい羊飼いたち。彼らは律法学者が求めるユダヤの律法を守れる境遇にはありませんでした。律法を守ることも、律法に従って神を礼拝する事もできない羊飼いたちを、町の人々は、神の恵みにふさわしくない者たちとして蔑んでいました。羊飼いたち自身も、罪人の彼らにはアドベントは無縁だと思っていたと思います。クリスマスの夜までは。

しかし、神がわたしたちのもとに来られる(アドベント)との決断は、人ではなく神ご自身によることです。使徒ペトロは、わたしたちは神が来られるのを、人の期待や計らいにではなく、「神の約束に従って待ち望んでいる」(2ペトロ3:13)と教えています。

神のみ使いガブリエルは、マリアさまに遣わされた時、驚き恐れるマリアさまに「おめでとう(ギリシャ語kaire、恵まれた方。主があなたと共におられる」と告げました。

み使いが告げたのは、マリアさまが気付かない内に、すでに、神が彼女とともにおられる(インマヌエル)と言う事実です。アドベントとは、この事実への気付きの時です。

実は、クリスマスの遥か以前から、主イエスをわたしたちのためにお遣わしくださるための神ご自身のご準備が、み使いガブリエルに象徴される旧約の預言者の長い時代を貫いて続けられていたのです。その上で、地上のアドベント(神が来られる)は、母マリアさまが聖霊によって神の御子キリストを宿されることによって、歴史の事実、さらに、後にご聖体を受けるわたしたちの身の事実となりました。

真のアドベント来たり給う神をお迎えすることとは、神への恐れと感謝の内にマリアさまと共に、マリアさまのように、わたしたちもこの身に神の御子を宿させていただくことではないでしょうか。ただしそれは、偏に神の恵みにのみよることです。

アドベントとは、ユダヤの律法学者たちのように、律法を上手に解釈し神との一定の距離を保ちながら、自分の心を自分で操作するようなことではありません。わたしたちにとってアドベントとは、マリアさまのようにこの身をそのまま神に明け渡してしまうことです。神の御子をこの身に宿させていただくとは、そういうことではないでしょうか。律法を読むこともできず、律法を解釈して神と自分の間に距離を置く術も持たない羊飼いたちは、ただ神の恵みによってアドベントへと導かれました。

その羊飼いたちは天使のことばを聞いて、神を「非常に恐れ」ました。彼らは、主なる神が来られたならば、主のみ前に自らを弁護する術もなく、主に自分たちを明け渡してしまう他ないことを良く知っていました。同時に彼らは、自分たちが神のものとされることに堪え得ない罪人であることをも、誰よりも良く知っていました。

だからこそ、み使いは、羊飼いたちに告げます。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。神が求めておられるのは、マリアさまのように、また彼ら貧しい羊飼いたちのように、真に神を恐れる者たち、神のみを恐れる者たちだからです。「神を恐れる」者にこそ、神はご自身の御子を宿させてくださるのです。さらに、彼らに宿された神の御子によって、彼ら自身を福音の使者、すなわち「民全体に与えられる大きな喜び」の使者とさえしてくださるのです。

畢竟、それは神の天使たちに加わって神を賛美することです。羊飼いたちの見上げる天には、すでにみ使いたちによる神の勝利と歓喜の歌声が響いています。

「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」

クリスマスのこの夜、マリアさまとヨセフさま、また、羊飼いたちのように真に神を恐れるみなさんに主イエスが来てくださいます。「恐れるな」とのおことばを携えて。

クリスマス、おめでとうございます。神の御祝福が皆さんの上にありますように。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。

司祭の言葉 12/24

待降節第4主日 ルカ1:26-38

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように。」

いよいよ、アドベント最後の主日を迎えました。わたしたちのただ中に輝くアドベントの4本のろうそくに、みことばとご聖体における光なるキリストをみつめさせていただきつつ、クリスマスの秘義に備える緊張感と喜びに胸がはずみます。

クリスマス前の12月17日から24日までの8日間を、カトリック教会は、古来、アドベント・オクターブ(8日間)と呼んで大切にしてきました。今日はその最終日。この期間、教会は伝統に従い、日毎のミサの「アレルヤ唱」及び「晩の祈り」の「福音の歌(マリアの賛歌)」の交唱)に示される特別な主題を覚えて、一日一日を歩んでまいります。

この期間の福音朗読は、(主日に重なった場合、主日の福音朗読個所が優先されますが、) 17日のマタイによる福音の「イエス・キリストの系図」に始まり、18日は同じマタイから、マリアさまの夫ヨセフさまへのみ使いの啓示。19日には、ルカによる福音から、キリストの先駆者・洗礼者ヨハネの誕生の予告。12月20日は、ルカによる福音から、キリストの母とされるマリアさまへの天使ガブリエルのお告げ。21日には、同じルカから、マリアさまのエリザベト訪問。22日は、ルカによる福音から、マリアさまの賛歌。23日も、ルカから、洗礼者ヨハネの誕生。アドベント・オクターブ最終日の24日も、同じくルカによる福音から、洗礼者ヨハネの父ザカリアの賛歌からお聞きいたします。

毎日の主題と福音朗読箇所に導かれて、アドベント・オクターブはアドベントの仕上げとして、クリスマスの秘義に備えて今一度祈りを深めさせていただく時です。(実は、クリスマスChristmasとはChrist-massであり、「クリスマス」それ自体「キリストの秘義」の意。)

クリスマスにマリアさまを母としてお生まれになられるキリスト。この方こそ、わたしたち一人ひとりに命を与え、聖霊によって導き、そのようにしてわたしたちと「始めから」「いつもともに」あってくださった、インマヌエルなる神ご自身です。

罪なるわたしたちには目に見ることが許されないその神ご自身が、主イエスにおいて、ご自身をわたしたちに「よく見て、手で触れる」ことをさえ許し、さらにわたしたちにご自身を「永遠のいのち」としてお与えくださる。それが、クリスマスの秘義

待降節第4主日の今日の福音は、大天使ガブリエル(「神のことば」という名の天使)によって、母マリアさまに、主イエスの受胎告知がなされます。み使いは、ナザレの村のおとめマリアさまを訪れて、神のみことばをお告げになりました。「おめでとう(ギリシャ語kaire)、恵まれた方。主があなたとともにおられる。」マリアさまは、主を畏れました。そのマリアさまに、天使は告げます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」

なお戸惑うマリアさまに、さらにみ使いガブリエル(神のことば)は、優しく、しかし力強く語り続けます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」

「聖霊があなたに降り」と、わたしたちが決して聞き逃してはならないことをみ使いはマリアさまに告げていました。神の御子をその身に宿されるために、マリアさまは聖霊によって守られる。わたしたちも同様です。本来神を見ることさえ許されない罪人であるわたしたちこそ、秘跡の内に、つまり洗礼およびご聖体の二重の秘跡の内に働かれる聖霊の、わたしたちの罪を赦す慈愛のみ力により守られて始めてキリストのからだであり主のいのちであるご聖体を受けることが許されるのです。

母マリアさまへの神のことばは次のように結ばれます。「神にできないことは何一つない。」秘跡の内に働く聖霊なる神は、そのみ力によってわたしたちを守り、罪人のわたしたちにご自身を「永遠のいのち」として与えることさえおできになる。もはや、疑うべくもないみことばなる神ご自身に、マリアさまはお応えになられました。「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように。」

キリストの誕生。クリスマス、すなわちキリストの秘義。神は、見えないご自身を見える方としてくださいます。それのみならず神は秘跡によってわたしたちを守り、さらに秘跡においてご自身をわたしたちにお与えくださいます。キリストは、わたしたちにご聖体として、さらにご聖体の内に働く聖霊として、ご自身をお与えくださるために人となってくださる。神なる主キリストの受肉こそ、神の究極の愛の秘義です

クリスマスの秘義。わたしたちへの神のこの究極の愛ゆえに、神の母として選ばれたマリアさまは、神の奉仕者としてその尊いご生涯全体を捧げて行かれます。「おことばどおりこの身になりますように」 これは、わたしたちの祈りでもあります。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 12/17

待降節第三主日 ヨハネ1:6-8,19-28

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

待降節も第三週を迎えました。アドベント・リースに明るいバラ色のろうそくが灯されました。教会は昔から、この主日を、今日の入祭唱に歌われた使徒パウロの『フィリピの信徒への手紙』の言葉、「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」から、「喜びの主日」(kairete Sunday)と呼んできました。

実は、ここで「喜べ」と訳されたギリシャ語kaireteは、受胎告知に際して天使ガブリエルを通して父なる神が聖母マリさまに語られた最初の言葉(ルカ1:28)であり、さらにはご復活の主イエスご自身がマグダラのマリアに語った最初のことばです(マタイ28:9)。このことから明らかに、神の受肉およびご復活の主との出会いと重ねられた主の到来para-ousiaに、使徒パウロは主を指し示して告げます。「喜べ。主は近づいておられる。(ギリシャ語副詞engusはparaと同義で「目の前に」の意) (フィリピ4:4,5)

このパウロの言葉は、旧約の時代に主を待ち望む者に預言者ゼファニヤを通して語られた神のみことばを思い起こさせます。「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び踊れ。」(ゼファニヤ3:14) 実は、預言者はこれに続けて、「その日、人々はエルサレムに向かって言う」(ゼファニヤ3:16以下)と、神が来られるのを来るべき未来のこととして語ろうとするのですが、驚くべきことに、神ご自身が、預言者を遮って次のように、未来ではなく、今現在の事実を宣言されます。イスラエルの王なる主はお前の中におられる。(ゼファニヤ14:15)。

パウロも同じことを語っていました。「主にあっていつも喜べ。主は近づいておられる。」つまり「近づいて来られる主(直訳は、目の前の主)この主にあって、喜べ。」 つまりアドベントに、わたしたちが気付くべき神の事実があります。実は、わたしたちが待ち臨んでいた方は、すでにわたしたちと共におられる。もちろんその方は、預言者を通して歴史の始めからみことばを語って来られた神なる主ご自身です。使徒ヨハネも、降誕日に来られる主イエスを、初めからあった方と証ししています。

「初めから(すでに)あった方」が来られる。どのようにしてなのか。主イエスの弟子ヨハネは、明らかにご聖体の秘跡における主の現存の事実の彼自身の体験から、次のように記します。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、いのちのことばについて。このいのちは現れました(ギリシャ語で事実・現実を示す過去形!)(1ヨハネ1:1,2)主イエスの降誕祭で祝う神の秘義とは、初めからあったいのちのことばが、わたしたちに現れてくださった(わたしたちの現実となった)ことなのです。それは、主が「初めからあった」にもかかわらず、見えないゆえに主を疑っていたわたしたちに、主がご自身を「よく見て、手で触れ」ることができるようにしてくださったということです。

その恵みの事実を、ヨハネは、彼の福音に次のようにも伝えています。「ことばは肉(フランシスコ会訳では「人」)となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」(ヨハネ1:14)「いまだかって、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(同1:18)見えない神が、ご自身を見える方としてくださった。旧約の預言者たちを通して世の始めからみことばを語ってこられた見えない神ご自身が、マリアさまを通して、その御子イエス・キリストにおいて見える方となってくださった。これが、クリスマスの秘義です。

「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる(副詞engusは、直訳すればほら、ここに)。」わたしたちは、もはや見えないゆえに神を疑う罪の暗闇に迷い続ける必要はありません。「闇に打ち勝つ光」が灯ったからです。アドベント(「神が来られる」の意)という神ご自身の約束の内に、実は、神は、わたしたちのために、わたしたちのただ中で、すでに、主にあっての喜びの時」を始めておられます。

見えなかった神が主イエスにおいて見える方となられる時。それは、同時に、わたしたちが預言者を通してお聞きして来た主のみことばの一切が成就する時でもあります。否、それ以上です。洗礼者ヨハネは、わたしたちに告げていました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(マタイ3:11)

見えるようになられた神は、すでに語られたみことばを成就されるだけではなく、わたしたちに「聖霊と火」をくださる。主ご自身のいのちである聖霊を、わたしたちの内に永遠に光り輝き続けるいのちの炎としてお与えくださる。見えない神が主イエスにおいて見えるようになるばかりではなく、さらに神ご自身が、「聖霊」としてわたしたちの内にまで来て、わたしたちに「いのちの炎」を灯してくださいます。

クリスマス。それは、わたしたち一人ひとりにおける「いのちの炎・主イエス」の誕生です。実は、それはミサ毎にわたしたちに体験されている命の事実でもあるのです。

「主にあって喜べ!」 父と子と聖霊のみ名によって。

司祭の言葉 12/10

待降節第二主日 マルコ1:1-8

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

アドベントの第二のろうそくに火が灯りました。主イエスの使徒ペトロは、待降節のわたしたちは、「義(即ち、救い主キリストの宿る新しい天と地(即ち、神の国を、神の約束に従って待ち望んでいるのです」と教えていました(第2朗読、2ペトロ3:13)。

そのわたしたちに、洗礼者ヨハネは、「悔い改めよ。天の国(すなわち、約束されていた義であるキリストの宿る新しい天と地)は近づいた」と、今日の福音の内に、待降節(アドベントad-ventつまり、神の到来)を高らかに告げています。

その洗礼者ヨハネを、福音記者マタイは、旧約の預言者イザヤのことばを引いて、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」「荒野で叫ぶ者の声」であると紹介していました(イザヤ40:3a)。このようにして、マタイはわたしたちに、先の言葉に続くイザヤの預言の次の言葉を想い起こさせます。すなわち、「わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。」(イザヤ40:3b,4)

主なる神が近づいて来られる。「来るべき神をお迎えするために、荒野に広い道を準備しなさい。そのために、高い山は削り、深い谷は埋めなさい。険しく狭い道があれば、広く平らにしなさい」と、神は、預言者イザヤを通してわたしたちに求めておられます。神にお会いさせていただくためです。

しかし、神はなぜこのように仰せになられるのでしょうか。わたしたちが、天地の創造主、全能の父なる神にお会いさせていただくためには、わたしたち一人ひとりに高い山を上り、深い谷を降る努力が求められてしかるべきではないでしょうか。実は、神は、預言者イザヤを通して、その理由を次のようにお告げになられます。「主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者(すなわち、わたしたちのすべて)は共に見る。」(イザや40:5)

神がお会いになることを求めておられるのは、高い山に自力で上ることができる者たち、あるいは低い谷を自らの足で降りきることができる者たちだけではありません。そのような優れた者たち、つまりわたしたちの内の選ばれた者たち、限られた者たちだけではなく、「肉なる者」すなわち「わたしたちのすべて」が、「共に」神に見(まみ)えることができるようにと、神は強く願っておられるのです。

ここで「わたしたちのすべてが共に」と言う以上、「弱い者」、「貧しい者」、「小さい者」など、自力では高い山に登ることも、深い谷を渡ることもできない者たちが、その中に含まれていなければなりません。むしろ、神に助けていただくこと無しには生きて行くことができない彼らこそ、神にお会いさせていただかなくてはならないはずです。しかし彼らとは、実はわたしたち自身のことではないでしょうか。

そのようにして神にお会いさせていただいた者すべてに、神はイザヤを通して、「見よ、あなたたちの神。見よ、主なる神」(イザヤ40:9c、10a)と、わたしたちの周りの多くの人々にも、主なる神を示し、救いを告げ知らせることを求めておられます。

わたしたちにとって、生涯かけて礼拝し、お仕えさせていただく神、真に畏れるべき唯一人の神にお会いさせていただくことこそ、真の救いです。もし、わたしたちが真の神にお会いできないならば、神ならぬあらゆるものを恐れて生きる人生を送る他ありません。真に畏れるべき神が不明ならば、神以外のすべてのもの、すなわち恐れる必要のないものすべてを恐れて生きる他無いからです。まことの救いとは、そのような悲惨な人生から解放されることではないでしょうか。

待降節(ad-vent)は、このようにして洗礼者ヨハネに励まされ、降誕日(Christ-Mass)に「わたしたちのすべてが共に」「神の栄光を仰ぎ見」させていただくために祈り備えるための大切な時です。

わたしたちは、ヨハネが彼の命をかけて指し示した「聖霊と火で洗礼をお授けくださる」主イエス・キリストが来られるのを切に待ち望んでいます。「その日」、主は、わたしたちのみ前にお立ちくださるだけではありません。主は、ご聖体においてわたしたちの内にまで来てくださいます。主は、ご聖体の内に、主の霊・聖霊としてわたしたちの内に働かれ、わたしたちすべてをご自身の似姿に変えてくださいます。実は、ごミサこそ当にその時です。

キリストは、わたしたちにご自身のいのちを与え、聖霊によって新たにするご聖体の秘跡となってくだるために、受肉し人となってくださいます。待降節の間、わたしたちが待ち望むのは、この主のご降誕です。「主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者(わたしたちのすべて)は共に見る。」それが主とわたしたちのクリスマスです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 12/3

待降節第一主日 マルコ13:33-37

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

教会はアドベント(待降節)からアドベントへと一年の歩みを進めます。今日アドベント第一主日。アドベント第一ろうそくに火を灯し、教会暦の新しい一年の始めをミサで祝います。一週ごとに光を増すアドベントのろうそくの光は、ヨハネによる福音冒頭の「光であるキリスト」を証しする次のことばをわたしたちに想い起こさせます。

「光は闇の中で輝いている。闇は光に打ち勝たなかった。(フランシスコ会訳)

闇がいかに深く重くとも、また闇の支配が永遠に続きそうに思えても、「一燭の光」が灯されれば、闇は終わります。闇は光に対しては完全に無力だからです。(新共同訳は「闇は光を理解しなかった」としますが、ギリシャ語kata-lambanouは「全く力が及ばない、完全に無力である」が原意で、「闇は光に打ち勝たなかった」と訳すフランシスコ会訳がより自然です。)

アドベントは、祭色の「紫」が示すように、神のみ前に「目を覚まして」祈り備える大切な時です。日本ではアドベントを、人を主語に「待降節」即ちキリストのご降誕をわたしたちが「待つ時」とします。しかし、ラテン語の「アドベント」は、使徒ペトロの言葉「神の確かな約束に従って来たりたもうキリスト(ペテロ第2、3:13)の如く、主なる神が主語で「主が来られる」と神的事実を宣言する緊張感のある言葉です。

「神の確かな約束」ゆえに、わたしたちは空しく時を「待つ」ことはありません。ペトロの言葉のように、主イエスは、「神の確かな約束に従って来たりたもう」からです。この神の確かさの前に、わたしたちには単に「待つ」という以上に、緊張感をもって「来たり給う主にしっかりと備える」ことが求められます。マルコが、いわゆる「終末預言」の一節とされる今日の福音の内に、主がわたしたちに対して「目を覚ましていなさい」と、三度も繰り返して仰せになられたと伝えるのはこのためです。

聖書のギリシャ語で「終末」eschatonが、単に時間の経過による「時の終わり」でなく、神が創造の力と権威によって「古きを終わらせ、新しきを始める特別な時・歴史の転換点」を意味する言葉であることは既にお話ししました。したがって「終末」とは、具体的には古きを終わらせ、新しきを始めることがおできになられるただ一人の方・天の父なる神が、決定的な目に見えるお姿、つまり主イエス・キリストにおいて歴史にご自身を現わされる時とその事実を示します。「終末」とは、主の時です。

この「終末」、つまり古きを終わらせ新しきを始める「神の新しい創造の時」の中心に立っておられるのは、神なる主イエスご自身です。「目を覚ましていなさい」と主は仰せです。この主イエスから、わたしたちは目を反らしてはなりません

今日の福音に先行する主イエスのいわゆる「終末預言」の中で、主は天変地異や戦争などの「大きな苦難」に触れておられました。2011年の東日本大震災に続く、世界各地での自然災害と2019年以来のコロナ感染症で日本と世界では多くの命が奪われました。さらには、昨年来のロシアとウクライナ、パレスチナでの戦乱。これらの出来事に触発されて、いわゆる「終末の徴」を巡っての巷の議論は尽きません。

ただし主イエスは、そのような「大きな苦難」でさえ「まだ世の(正確には、神の時の)終わりではない」(マルコ13:7)と仰せの上で、ご自身の「終末預言」をいわゆる「主の来臨」の約束によって結ばれます(13:24-27)。「来臨(再臨)」と訳されたギリシャ語parousiaは、元来「目の前の(para)存在(ousia)」を意味する言葉であることは既にお話ししました。この主のみ前に(parousia)「目を覚ましていなさい」と主は仰せです。「終末」eschaton・神の新しい創造の大切な時に、「新しい時」の中心に立っておられる神ご自身の確かな存在(para-ousia)を見失ってはなりません。主はそのためにこそ、神との確かな出会いの時であるミサをお定めになっておられるのです。

「目をさましていなさい」との主イエスのおことばは、ゲッセマネの主を思い起こさせます。弟子たちのすぐ傍らで(parousia)世を徹して祈っておられる主のみ前で(parousia)眠り込む弟子たちに、「なぜ眠っているのか。目を覚まして祈っていなさい」と仰せでした。ルカは「終末預言」の結びに、「主の前に立つ力が与えられるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(21:36)との主のおことばを伝えています。             

「目を覚ましていなさい。」それは、主イエスがともにいてくださる(parousia)というミサ毎に体験する事実に立って、この主による新しい時、つまり「主の時」の証人とされるためです。「終末、つまり主の時」であるアドベントは、降誕日に聖母マリアさまからお生まれになる救い主キリストのみ前に立つ力が与えられるように、わたしたちにその力をお与えくださる聖霊を求めて、目を覚まして祈る大切な時です。

アドベント第一ろうそくに火が灯されました。「闇は光に勝てない」のです。さらに二本目、三本目、四本目とアドベントのろうそくに火を灯し続けて、この世を光であるキリストで満たしつつ、主のご降誕の日に、目を覚まして祈り備えたいと願います。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 11/26

王であるキリスト マタイ25:31-46

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)

待降節直前の主日を、カトリック教会は「王であるキリスト」の祭日として祝います。来週から始まる4週間の待降節を経て、降誕日に聖母マリアさまを通してお迎えする主イエスこそ、天地万物の主であり、わたしたち神の民「すべて」の王であられることを、待降節を控えた今主日、あらかじめ深く心に留めさせていただくためです。

この主なる神であり、王であられる主イエスが、人知れぬナザレの村の貧しいおとめを母としてお生まれになられる。「王であるキリスト」の祭日は、来るべきクリスマスの神の受肉の秘義について、立ち止まって黙想させていただく時でもあります。

元来、聖書において「王」とは、神によって、神と神の民「すべて」のための奉仕者として立てられる存在です。したがってその「王」には、神と神の民「すべて」に果たすべき二つの使命があります。一つは、神の民「すべて」にパンとブドウ酒、すなわち日毎の糧を保証すること。二つには、その同じパンとブドウ酒を奉献しての神の民「すべて」の神への礼拝を神のみ前に責任を以って整え、司(つかさど)ることです。

神の民「すべて」と言う時、神が最も心にかけられるのは、民の内「最も小さい者」のことです。もし「最も小さい者」が無視され犠牲にされるならば、民の「すべて」ではありません。強い者たちだけのためなら王は不要です。「最も小さい者」をこそ含んで「すべて」の人々のために神は王を立てられるのです。しかし、イスラエルの歴史で、この神のみ旨に生涯忠実に、神と人とに仕え切った王はいませんでした。

それゆえにこそ、父なる神は「最も小さい者」をこそ含んで、わたしたち「すべて」のために、御子キリストを王としてお与えくださいます。しかし、そのために神がなさったことがあります。それは、神が主イエスにおいて、わたしたちの「最も小さい者」とご自分をひとつにしてくださった、むしろ、ご自身を「最も小さい者」としてくださったことでした。実はそれなしに、主が神の民「すべて」の王となってくださる道はなかったからです。主は仰せでした。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

主イエスが、わたしたちの中の「最も小さい者」を「兄弟」・ご自分と同じ者と呼んでくださる。主にとってそれは極めて具体的な事実でした。主はご自身、わたしたちの「最も小さい者」が日々味わっている「飢えと渇きに苦しみ、家のない旅の生活や身を守る術の無い裸の辱め」を味わい、「病気や入牢」さえも経験されました。

これだけでも驚くべきことですが、話はこれで終わりません。今日の福音は、続いて詳細に語られる主イエスの十字架に至るご受難と死の直前に、主ご自身がお語りになられたおことばです。実は、主が続いて実際に体験されることになる十字架のご苦難と死の事実の前には、今日、主が語られた「飢えや渇き」などの体験の一切をしても、それらはいわば序曲にしか過ぎません。主が、ご自身を「最も小さい者」と完全に一つにされ、そしてそれゆえにこそ言葉の真実の意味において神の民「すべて」の王となられるためには、実に、神の御子キリストをして、「十字架上の戴冠式」が求められたのです。

事実、主イエスの十字架上の戴冠式無しには、神と人とに対するまことの王の第一の使命、すなわち、わたしたち神の民「すべて」に、パンとブドウ酒をくださることは不可能でした。まことの王である主が、神の民、つまりわたしたちの「すべて」にお与えくださろうとされるのは、わたしたちのこの世の命を支えるパンとブドウ酒だけではないからです。実はそれは、わたしたち神の民「すべて」に「永遠のいのち」を与える唯一のパンとブドウ酒、つまりご自分の御からだと御血に他ならないです。

加えて、主イエスの十字架上でのご自身の犠牲奉献無しには、神がわたしたち神の民「すべて」のためにまことの王に託された神と人とに対する第二の使命、すなわちパンとブドウ酒を捧げて、神の民「すべて」を、神への真の奉献の礼拝に整えることも不可能でした。天の父なる神への唯一の捧げものは、永遠のパンとブドウ酒、すなわち主ご自身の御からだと御血以外には、実際にはあり得ないからです。

天の父なる神は、唯一のまことの王である主イエスにおいて、ご自分の民、即ちわたしたちの「最も小さい者」にご自分をひとつにしてくださった。むしろ、神なる主こそ、わたしたちのただ中で「最も小さい者」になってくださった方、その方ご自身でした。わたしたち「すべて」のために、ご自身を十字架上で犠牲にされるまでして。

この主イエスを、唯一のまことの王としてお迎えします。降誕日の夜マリアさまを通して。これが、わたしたち「すべて」が祝うクリスマス・神の受肉の秘義です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 11/19

年間第33主日 マタイ25:14-30

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

聖週間、即ち主イエスの地上で最後の週に、主がエルサレムでお語りになった、日本語では「終末預言」と呼ばれる主のおことばを、マタイによる福音は、第24・25章の二章を費やして丁寧に伝えています。今日の福音はその後半の一節です。ただし、「終末」や「再臨」という翻訳語が独り歩きしている様な日本の状況は気になります。

そもそも、「終末預言」の「終末」eschatonとは、いかなる時なのか。聖書のギリシャ語eschatonは、単に「時の終わり」を意味せず、古い時の終わりと同時に新しい時の始めを意味する特別な言葉です。ただし、古い時を終わらせ、新しい時を始めることがお出来になるのは神のみです。それゆえeschatonは、そのために神が目に見える仕方で歴史に介入なさることをも意味し、事実、天の父なる神は御子キリストにおいて、歴史の中にそのお姿を現わされました。その事実に立って主ご自身は、「終末預言」を主の「再臨」parousiaの確証によって結ばれています。

「再臨」とは何事か?これをミサと無関係に翻訳から「再び臨む」つまり「主イエスが再び来られること」と理解すると、未来のいつかことであり、如何にしてかは不明です。しかし「再臨」と訳された聖書の原語ギリシャ語parousia(para-ousia)は、para=「傍ら」ousia=「存在」で、明らかに、主が「目の前に、つまり、今、ここに現存・到来している」という現在の事実を示す言葉です。つまり、「再臨」とは、ミサの体験を語る言葉で、主のミサ制定のことば「記念」むしろ「現存」を意味するanamunesisと同義です。(「再臨」は、元来「再度の臨在(つまり現存)」の意味の訳語です。)

また、「時は満ちた。神の国は近づいた」と、主イエスの宣教の初めのことばは訳されていますが、parousiaは、実はこの「時は満ちた」と訳されたpuleromaと同義です(『カトリック教会のカテキズム』参照)。また、「神の国は近づいた」と訳された言葉のギリシャ語の時制は現在完了で、正確には「神の国は(主において)今すでにここにきている」との意味であり、ここに「時は満ちた」の内実が語られるわけです。つまり、「再臨」と訳されたギリシャ語parousiaは、ミサにおいて事実「到来」し「現存」するわたしたちのキリスト体験であり、同時に主において到来し現存する「神の国」の体験を語る言葉なのです。聖書聖典の成立以前、ミサで信仰を死守した迫害時代の初代教会にとって、主の「再臨」とは、このように、主が「ご聖体の秘跡・ミサ」において「再び現存・臨在」されるという彼らのミサにおける圧倒的キリスト体験です。

わたしたちが「終末」を生き、主イエスの「再臨・到来」の証人とされる、まさにその「場」はミサなのです。そうであれば、「終末」に生きるとは、現実を蔑(さげす)み与えられた日々を無為に過ごすのではなく、主の「到来・現存」の証人として日々信仰に生きることです。「終末預言」の一部とされる「タラントンのたとえ」と呼ばれる今日の福音は、終末を生きる、つまり、「今」、神のみ前に生きるわたしたちへの主から問いかけです。主の今日の「神の国のたとえ」には、複数の僕(しもべ)たちが登場します。主人から、5ないし2タラントンの財産を預かった僕たちは、各々預かった財産を有効に用いて、主人の帰るまでに預かった財産を倍に増やしました。しかし1タラントン預かった僕は、ただそれを「隠して」おくばかりで、時を無為に過ごしました。

これらの僕たちの決定的違いは、どこにあるのでしょうか。それは、彼らの「預かった財産の額」つまり彼らの能力や資質にではなく、明らかに、彼らに財産を預けた「主人」に対する彼らの生き方の違いにあると思います。1タラントンを預けられた僕にとっては、見えない主人は存在しないのです。つまり、見えない主人を信頼も期待もせず、おそれもしません。これに対し、5タラントンと2タラントンを預かった僕たちは、見えない主人を信頼し、その約束を固く信じ、主人が彼らに託されたものを大切にして、主人のために与えられた日毎の務めに忠実に励みました。彼らは知っています。彼らに見えるか否かによらず、主人は、常に「現存」されることを。

主イエスが、このたとえによって「終末eschatonを生きる」わたしたちに期待されるのは、後者の僕たちのように、常に「現存」parousiaされる主のみ前に、日々を大切に、誠実に生きることであることは明らかです。改めて、この「たとえ」が、主が十字架によってわたしたちの前から取り去られ、しかし三日目に復活される主の過越の三日間の直前に語られていることに注意したいと思います。確かに、主は十字架によってわたしたちから見えなくされたように思われたのです。しかし、だからこそ主はわたしたちに十字架の直前の「最期の晩餐」でミサ(ご聖体における目に見える主の「現存」の秘跡)を残してくださったのです。それこそわたしたちにとって永遠の主の「現存」parousiaであり、礼拝毎の主の「到来・再臨」parousiaです。

「終末」を生き、主イエスの「到来・再臨」に生かされる。わたしたちは、罪ゆえ閉ざされた目に主が見えないことを理由に時を無為に過ごすことは許されません。主は常に「現存し到来される」からです。「目を開いていなさい」とわたしたちに求められる主に、「わたしたちの目を開いて、現存の主を見させてください」と聖霊を求めるわたしたち。主はミサにおける祈りの内に必ず聖霊をお与えくださいます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。