司祭の言葉 1/21

年間第3主日 マルコ1:14-20

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

主イエスご自身の最初の福音の宣言です。主はこの宣言を、洗礼者ヨハネが「捕らえられた後」、時を措かずになさっておられます。ヨハネは主ご自身が宣教に立たれたことを聞きおよんだ後、喜んで殉教の死を遂げていきました(マルコ6:14以下)。

洗礼者ヨハネは、「主イエス・キリストの道を整える者」として神から遣わされたことを自覚していました。その使命はただ一つ。人々の身も心も、福音そのものである主に向けさせることでした。彼は生涯を通して、人々の中でひとえに主を指さし、主を告げ示しました。「見よ、神の子羊」。ヨハネのこの信仰告白は、現在もわたしたちカトリック信者にとって、聖体(聖餐)拝領前の信仰告白とされています。

ヨハネは人々に主イエスを告げ示す時、神について教えを垂れる律法学者のように振舞ったことは一度もありません。彼は、主を礼拝する者として生き抜きました。それは彼の殉教の時まで変わりませんでした。最期の時を前に、彼は語っています。「わたしは喜びで満たされている。キリストは栄え、私は衰える。」(ヨハネ3:29,30)

主イエスの福音の宣教、福音そのものとしての主の公生涯は、主の道を整える者として神から遣わされた洗礼者ヨハネ、主に自らの生涯のみならず、彼の弟子たちさえも捧げ切ったヨハネの一生を、主ご自身が心からの感謝を以て、その一切を掛け替えのない宝としてお受入れくださることによって始められました。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

ここには、わたしたちに神のことばを告げるだけの主イエスはいません。主に命を捧げた洗礼者ヨハネの信仰に応えて、ご自分を十字架に至るまで神と人とに捧げ切って行かれた主ご自身がおられます。福音そのものとしての主イエス、わたしたちのための犠牲そのもの、奉献そのものとしての主。福音の宣教の最初から、すでにわたしたちのための十字架をはっきりと見つめておられる主がおられます。

同時に、ご復活をも確実に見据えておられる主イエスがお立ちになっておられます。主イエスのご復活は、倒れているわたしたちを大切に抱き起こし、わたしたちにご自身のいのちの息・神の息・聖霊をお与えくださるためです。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」 主イエスは、預言者のように神のことばを告げるだけではありません。神の子として、みことばと共に聖霊をわたしたちにお与えくださいます。そして、この聖霊こそ、主のおことばを、わたしたちの内に成就してくださる神の力です。

わたしたちに「時が満ちる」ということ。わたしたちに「神の国が近づいた」と言うこと。わたしたちが「悔い改めて福音を信じる」ということ。これら一切の主イエスのおことばは、わたしたちへの主のご命令や戒めではなく、わたしたちに聖霊によって結ばれる実として、主によって今やわたしたちにその成就が約束されています。

しかし、主イエスがわたしたちに聖霊をくださるために、主ご自身には何が求められるのでしょうか。聖霊は、ご復活の主によって、そしてご復活の主によってのみ、わたしたちに与えられます。しかし主のご復活は、わたしたちの罪のあがないとしての主の十字架上の犠牲の死を前提としていることを忘れてはなりません。

わたしたちの罪の一切をご自身に負われて、主イエスは十字架におつきになります。この主が、この十字架の主だけが復活し、わたしたちに聖霊をくださることがおできになるのです。主の十字架による罪の赦しは、ご復活の主がくださる聖霊により、わたしたちが新しい人として生まれることによってこそ成就します。

福音が、主イエスの最初の宣教のおことばに続いて、主の十二弟子たちの召し出しを語るのは意義深いことです。主の十二弟子たちこそ、主の十字架の死による罪の赦しとご復活の主からの聖霊の授与により、主によって新しい人とされて生きた最初の人たち、主の十字架と復活の証人です。彼らは、文字通り、主によって、主の聖霊によって、主ご自身の命である主の十字架とご復活を、彼らの自身の命として生かされた最初の人々です。わたしたちは、その彼らに続く者たちです。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

主イエスの福音は、空しく宙に木霊(こだま)する真理ではありません。聖霊によって皆さん一人ひとりを召し出しご自分の弟子とし、皆さんに成就する神のいのちです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。