司祭の言葉 6/24

洗礼者ヨハネの誕生
ルカ1:57-66,80

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスのご降誕の6カ月前の今日、教会は洗礼者ヨハネの誕生を祝います。教会が聖人の誕生を祝うのは、聖母マリアさまを別にして、洗礼者ヨハネだけです。洗礼者ヨハネが、教会の信仰にとってそれだけ重要であるということです。

ヨハネは、聖母マリアさまの親族エリサベトから生まれました。ルカによる福音は、すでにヨハネを身ごもって6カ月になっていたエリサベトと、聖霊によってキリストを宿された聖母マリアさまとの、美しい出遇いの様子を伝えていました。

その中で、福音は、聖母さまの挨拶を受けたエリサベトの胎の子、つまり後の洗礼者ヨハネは、母の胎内でおどったと、伝えていました。まさに「その時」と、ルカは語り継ぎます。「エリサベトは、聖霊に満たされた」

聖霊によってキリストを宿された聖母マリアさまのご訪問を受けたその時、エリサベトは聖霊に満たされたのです。エリサベトの胎の子、ヨハネも聖霊に満たされたに違いありません。「ヨハネがエリサベトの胎内でおどった」。それは、ヨハネに、聖霊、すなわち、キリストによる活ける霊が新しい命としてが、ヨハネに吹き込まれた時であったはずです。

洗礼者ヨハネの誕生。ヨハネは、その様に、母エリサベトの胎にある時から、聖霊によるキリストの証人です。むしろ、ヨハネは、聖霊なるキリストを証しするために、母の胎において新しく形づくられ、生まれ、そして、主のために、彼は生きるのです。

後に、ご復活のキリストの使徒パウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラ2:20)と、聖霊によるご復活の主キリストとの出遇いによって与えられた、彼自身の新しいいのちを告白しました。ヨハネは彼の命の始めから、そのキリストのいのちを生きるのです。

そうであれば、ヨハネはその誕生に際し、いかに父ザカリヤの親類が反対しようとも、「父の名を取って、ザカリヤ(ヘブライ語で、「神は忘れない」の意)と、名付け」られる訳には行きません。ヨハネは、ヨハネと名付けられなければなりません。ヨハネとは、ヘブライ語で「神は恵み深い」と言う意味です。

聖霊によってキリストを宿された聖母マリアさまのご訪問を受けた時から、わたしたちには新しい時代が始まったのです。神はわたしたちをお忘れにならず、必ずわたしたちに救い主をお与えくださると言う、それまでの救い主を待望するわたしたちの長い時は、終わりを告げたからです。洗礼者ヨハネは、母の胎にあって、その証人とされた人です。

今や、新しい時が始まったのです。救い主キリストを、迎えたからです。救い主に、お会いしたからです。「恵み深い」神ご自身が、今や、聖霊によって、すでに母マリアさまのご胎内に神の子キリストとして、与えられたからです。その証人として生まれたヨハネは、だからヨハネ(「神は恵み深い」)でなければならないのです。

繰り返し確認しておきたい大切なことが、一つあります。それは、救い主キリストに出遇ったエリザベトも、喜びのあまり母の胎でおどったヨハネも共に、聖霊を受けたということです。彼らはわたしたちに、救い主キリストにお会いするとはいかなることなのかを、身を以て教え示してくれているのです。

聖霊を受ける。実は、それが、救い主キリストにお会いするということです。そうであれば、まさにそれは、わたしたちにもヨハネと同様にゆるされていることです。ミサにおいて。 なぜなら、ご聖体の内にご復活のキリストにお遭いさせていただくわたしたちは、そのご聖体において聖霊を受けるからです。

そして、ご聖体の内に働く聖霊は、わたしたちをキリストの似姿に変えてくださいます。否、わたしたちをキリストのからだへとさえ変えてくださいます。聖霊によってキリストを宿された聖母マリアさまのご訪問を受けた、エリサベトの胎内でおどった洗礼者ヨハネは、聖霊によってキリストのからだへと変えられて行く彼のいのちを、その驚きと感謝と畏れを、彼自身の殉教の死を目前に、次のように言い表しています。(ヨハネ3:30)

「わたしは、喜びで満たされている。キリストは栄え、わたしは衰えねばならない。」

キリストの証人として生きた洗礼者ヨハネの、これが最後の言葉でした。ヨハネの命は、母の胎内でキリストを聖霊として受けることによって始められました。聖霊は、ヨハネの命のすべての時を祝福し、彼の殉教の死においては彼の死を荘厳してくださいました。聖霊によって、彼をキリストのからだに変えることによって。

洗礼者ヨハネの命は、彼の死によって終わりません。キリストの内によみがえるからです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。