司祭の言葉 1/5

主の公現 マタイ2:1-12

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

東方から来た占星術の学者たちは、マリアさまとともにおられた幼子イエス・キリストを礼拝した後、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と福音は伝えます。

教会は古くから、クリスマス夜半の礼拝から主の公現の祭日までを、クリスマス(降誕節)の12日間としてお祝いして来ました。クリスマス夜半の礼拝以前のアドベントの期間は、復活祭前の四旬節の期間のように、静かで落ち着いた時が流れていました。その後、クリスマス夜半の礼拝で幼子イエスをお迎えして始められた喜びに満ちたクリスマスの祝いの期間は、主の公現日(本来は1月6日)まで続けられます。

降誕節の12日間の祝いの締めくくりである主の公現日、わたしたちは救いの喜びがユダヤを超えて、東方からの占星術の学者たちに象徴されるユダヤの民以外の諸国の民・全世界の民のものとされたことを、感謝の内に記念します。

ところで、「東方の占星術の学者」と言う言葉を聞く度に、わたしは昔の自分を思い起こさざるを得ません。わたしは、仏門に生を受けた者ですが、仏教、とくにわたしの学んだ真言密教には、古来占星術が伝えられています。聖書に登場する「東方の占星術の学者」の「占星術」の実際は分かりません。しかしそれが「占星術」と言われる以上、普通の人間には隠されているとされる神の秘密ないし奥義を、人間の知恵を極めて探ろうとする試みの一つであったに違いありません。

そのように、聖書の東方の占星術の学者たちも、おそらく先祖代々、人間の知恵の教えを頼りに生き続けて来たのでしょう。主イエスと出会わせていただく時までは、彼らにはそれしか真理に至る方法には思い至らなかった、と思います。

しかし、彼らが母マリアさまのみ腕に抱かれた幼子イエス・キリストを、彼ら自身の目で見、おそらくは、その主イエスを、マリアさまのみ手から彼ら自身の腕に抱き上げさせていただいた時、彼らは、占星術のような人間の観念的な知恵に頼ることの無力さ、その空しさ、無意味さに深く気付かされたのではないでしょうか。同時に、「神の秘義そのものであられるこの幼子イエス・キリスト、まことの神ご自身」の前に、彼らの知恵も含めて、彼らが頼りにしてきた一切のものが無価値であることを、骨身に沁みて思い知らされたに違いないと思います。

彼らの占星術も、所詮「人間が神(のよう)になろうとする試み」に他なりません。その空しさ、それに対する彼らの無力さは、かつてわたし自身が身に沁みて感じたように、彼ら自身が体験上いちばん良く知っていたはずです。その彼らが主の公現日に、幼子イエスに見たのは、実に「神が人となられた」との真実でした。

占星術の学者たちは、神に近づくための特別な力と秘密の知恵を得るために、その代償として彼らに多大な犠牲を強いる存在を彼らの「神」と信じて礼拝してきたと思います。しかし、この幼子イエスにおいて「人となられた神」は、彼らに何らの犠牲も求めはしません。まったくその逆です。神ご自身が主イエス・キリストにおいて、犠牲としてご自身を彼らに与えておられるのです。十字架に至るまで。

彼らはこの時初めて「真実の神」を知り、したがって、真実の神に「真実の礼拝」を捧げたはずです。驚くべきことに、神ご自身の犠牲奉献が、まず先にあったのです。神がご自身をわたしたちにお与えくださって、すでに礼拝の中心になってくださっておられるのです。それが幼子イエス・キリストです。それをはっきりと知らされた時、東方の占星術の学者たちは、彼らの持てるものすべてを捧げて、否、彼ら自身を神に捧げて、主なる神キリストを礼拝したはずです。幼子イエスにおいて、彼らにご自身をお与えになっておられる、まことにして唯一の神を。

今日のマタイによる福音は、彼らは、幼子イエスにお会いした後、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と、伝えます。彼らは、最早、「占星術の学者」と呼ばれ続けるわけには行きません。また、そのように生き続けるわけにも行きません。主イエス・キリストにお会いした彼らは、かつての彼らと同じではあり得ません。彼らは、すでに「キリストのもの(キリスト者)」とされたからです。

主イエス・キリストにお会いした後には、最早、誰も「もと来た道」を再び辿って帰るわけには行かないのです。否、そのような道を再び辿らなくても良くなったのです。「神が人となられた」主イエスの前に、「人が神になろうとする」ような、永遠に報われようの無い、虚ろな苦行のような偽善的な人生から、彼らはここに初めてまったく自由にされました。かつてのわたし自身が、そうであったように。

主イエスのご降誕を祝ったわたしたちも主によって「神が人となられた」新しい世界にすでに招き入れられています。東方の学者と共にわたしたちも神ご自身を祝福として受け、神を恵みとして生きる「別の道・新しい道」を歩き始めてよいのです

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 2025/1/1

「抱(いだ)いたキリストによって抱(いだ)かれる」
―新しい年をマリアさまとともにー

神の母聖マリアさまの祭日(202511日)の黙想(ルカ21621


クリスマスの夜、天使のお告げを受けた羊飼いたちは急いで行って、マリアさまとヨセフさま、そして飼い葉桶に寝かされた乳飲み子キリストを探し当てました。彼らは、その光景を彼ら自身の目で確かめ、主イエスを礼拝した後、幼子について、彼らが天使から告げられたことを人々に知らせました。しかし、聞いた者は皆、羊飼いたちの話に戸惑い、不思議に思いました。そのような中で、

「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」


と、ルカによる福音は伝えます。福音は、この時と同じマリアさまのご様子を、後に主イエスが12歳になられた時の過越祭に、マリアさまが主とともにエルサレムの神殿に詣でた際のエピソードの結びにも伝えています。

羊飼いたちが天のみ使いに告げられた事のみならず、主イエスの出来事は、人の目には不思議に見えます。確かに、神のなさることは、旧約の預言者イザヤの語るように、「人の思いや考えを超えて」います。イザヤは告げます、「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道は、あなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55:8,9)

預言者を通して、このようにあらかじめ語られていた神のみことばにもかかわらず、後に、人々は主イエスについて正しく理解できないままに自分たちの判断で主を裁き、結果として主を十字架につけてしまいます。

マリアさまは違います。主イエスのおことばとそのみ業を、それらの不思議のままに一切を「すべて心に納めて、思い巡らしていた」と、福音は伝えます。

母として主イエスを身ごもり、産み、養い育て、つねに主のお側に生活しながらも、主は不思議であり、マリアさまの思いや考えをさえ超えておられたことでしょう。しかし、マリアさまは主イエスについて、ご自分の思いや考えで判断するようなことは決してなさいませんでした。すべてをそのお心に大切に納めて、神ご自身がマリアさまにその一切を明かされる時まで、静かに待っておられました。「思い巡らしておられた」とは、そういうことだと思います。

なぜなら、マリアさまは主イエスを素直に、素朴に信じておられたからです。子をそのように信じる。これは、母の子に対する愛であり、あるいは母にしかできないことかもしれません。母を天に送ったわたしは、このことを強く思います。

実は、1月1日は母の誕生日です。母は生きていれば、今日92歳になります。わたしは、母の臨終の病床で、母にカトリックの洗礼を授けましたが、1月1日神の母聖マリアさまの大祭日に生まれた母に、母の霊名は迷わずマリアといたしました。

母の願いや期待どおりに生きてきたとは、到底言えないわたしでした。それでも、母はいつもわたしを信じ、支え励まし続けてくれました。主イエスと聖母マリアさまを、わたしとわたし自身の母に当てはめて考えることは、もちろん出来ません。しかし、マリアさまが主イエスの母であるがゆえにおできになられたこと。それは、いかなるときにも素直に、素朴に御子キリストを疑うことなく愛し、信じ抜かれた、と言うことではなかったでしょうか。ご自身をそのまま主に委ねて行かれるとともに、まったく私心なく、一筋に御子キリストを信じ、支え抜かれた。それが、神の母聖マリアさまであられたと、今のわたしには思われてなりません。

新年の初めに、このように聖母マリアさまをなつかしく想い起こさせていただくのは、まことに相応しいことです。神が年の初めにわたしたちにお求めになられておられることは、聖母マリアさまのような主イエスへの聖い愛と信仰と信頼ではないでしょうか。

教会は、マリアさまのことを、感謝を込めて「神の母」と呼ばせていただいて来ました。神の母であられるマリアさまを、ご聖体の神なる主イエスをお納めする「ご聖櫃(せいひつ)」ともお呼びして来ました。聖母マリアさまは、ちょうど「ご聖櫃」のように、ご聖体の主イエスをご自身の内に、いつも大切に抱(いだ)き、納めておられます。

「抱(いだ)いたキリストによって抱(いだ)かれる」という美しい信仰の言葉があります。聖母マリアさまは、御子キリストをご自身の内にいつも大切に抱(いだ)き納めつつ、実は、主の愛の内に、むしろマリアさまこそ大切に抱(いだ)かれておられることを、マリアさまは至福の内にご存知であられたに違いありません。

わたしたちは、神の母聖マリアさまとともに新しい年を迎えます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 12/29

聖家族 ルカ2:41-52

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」

教会は、降誕日直後の主日を「聖家族」の祭日として祝います。クリスマスは、決して主イエス個人の出来事ではありません。神が、あらかじめマリアさまとヨセフさまを聖霊の恵みによって整え、主イエスをお迎えする家庭を備えた上で、主を聖母さまから誕生させておられます。その後、主はナザレの「聖家族」の内に成長し、マリアさまとヨセフさまと喜びと労苦をともにして行かれます。

今日の福音は、12歳の主イエスがマリアさまとヨセフさまとともに過越祭にエルサレムに上った時のことを伝えていました。冒頭の引用は、そのルカによる福音の結びです。「母はこれらのことを」以下の文章は、とくにマリアさまが、主の成長を温かく見守っておられるご様子を語り尽くして余りあると思います。

福音は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後の主イエスの宣教のご生涯に比べて、それ以前のナザレでの主のマリアさまとヨセフさまとの生活について多くを語りません。その意味で、先に引用した、主が「ナザレで両親に仕えてお暮しになった」との福音のことばは貴重です。むしろ、この短い文章が、ナザレの「聖家族」での約30年の主イエスの生活のすべてを語っているというべきかもしれません。

これは一見何気ない文章のようです。しかし、これは驚くべきことではないでしょうか。主イエスは「聖霊」による神の独り子だからです。神の神殿があったエルサレムから遠く離れたガリラヤ地方の、しかも小さなナザレの村で、貧しい大工のヨセフさまを父とし、また母マリアさまとともに、30歳になられるまで、ヨセフさまのもとで大工仕事に精を出し、母を助け、そのようにして、ご両親に仕えてお暮しになられた。神の御子が!それが主イエス・キリストです。

主イエスご自身は、もちろん、ご自分が誰であられるかを知っておられました。そのことは、今日の福音の主のエルサレム神殿でのエピソードが伝える通りです。ヨセフさまとマリアさまは、12歳になられた主イエスを伴って、例年のように他の村人たちとともにエルサレム神殿で過越祭を祝いました。しかし、エルサレムからの帰り道、一行の中に主のお姿が見当たりません。

慌てたマリアさまとヨセフさまは、主イエスを捜しながらエルサレムまで引き返し、神殿に留まっている主を見つけます。主を見つけた安堵の余り、主のこのような行動に、つい愚痴をこぼしたご両親に対して、主は次のようにお答えになりました。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

しかし、ルカによる福音は、主イエスのこのおことばに当惑したマリアさまとヨセフさまを主ご自身がいたわるように、「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった」と語り続けた上で、次のマリアさまのご様子をも大切に伝えていました。「母は、これらのことをすべて心に納めていた。」

このマリアさまの眼差しの中で、またヨセフさまのご保護のもとで、「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」と、今日の福音は結んでいます。

第2バチカン公会議を開始された教皇ヨハネ23世のご帰天後、公会議を成功裏に全うされたのはパウロ6世教皇です。この教皇さまは、ナザレの「聖家族」「福音の学び舎」「福音の学校」と呼ばれました。ナザレの「聖家族」の貧しくとも、祈りと愛に満たされた日常から、生きた「福音」を学ばせていただくように、と。

そこには、「福音」そのものであられる神の御子・主なるキリストが、清貧の内に、ヨセフさまとマリアさまに謙遜の限りを尽くし、従順に、また貞潔に生きておられます。また、今日の福音のエルサレム神殿でのエピソードのように、主イエスに対して理解がおよばないことがあっても、「母は、これらのことをすべて心に納めていた」。

ここには、主のみことばとみ業の「すべてを心に納め」て、人の知恵に頼らず謙遜と忍耐をもって、神ご自身からの語りかけを待っている主の母がいます。

「聖霊」において働かれる創造主キリスト、すなわち「福音」には、世界を造り変えることができる大いなる力があります。「聖霊」は、「福音なる主イエス・キリスト」を迎えた家庭の日常の生活の中に働き、わたしたちの家庭を「ナザレの聖家族」へと造り変えることがおできになります。そこには、主とともに「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」キリストの似姿へと造り変えられて行くわたしたちがいます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 12/25 日中ミサ

主の降誕(日中)ヨハネ1:1-18

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「ことばは人となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」

クリスマス、おめでとうございます。皆さんに神の御祝福がありますように。

世界各地での戦争の終息が見通せない中でのアドベントの期間、わたしたちは使徒ペトロの言葉を頼りに、主イエスとそのみ国を「神が約束されたゆえに待ち望み」ました(ペトロ2,3:13)。この世にあって確実なものは「神の約束」だけです。そしてクリスマス。主イエスを、母マリアさまを通して、心からの感謝と喜びの内にお迎えします。

わたしが長く奉仕させていただいた英国の教会では、クリスマスの深夜のミサで、司式司祭が幼子キリストの小さな御像を両の掌(たなごころ)に抱いて入堂します。そして、祭壇の前か祭壇脇に置かれた小さな馬小屋の前に跪き、その中の飼い葉桶の稟(わら)の上に、そっと幼子キリストの御像を安置してからミサを始めます。

英国での毎年のクリスマス深夜ミサの度に、司祭であるわたしは、生まれて間もない赤ちゃんをわたし自身この手に抱いた時のことを思い出しました。同時に、かつて幼子キリストをエルサレムの神殿で、その老いた腕に抱きしめた老シメオンのことも。その時、彼が感激のあまり歌わずにはおれなかった歌をルカは伝えています。

「主よ、今こそあなたは、おことばどおり、このしもべを安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの光栄です。」

(ルカ2:29-32)

「ことばは人となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」

主イエスは、わたしたち人間の思いや力を超えた、だからこそ確実な「神の約束ゆえに」、母マリアさまを通してわたしたちのもとに来てくださった神ご自身です。

クリスマスの礼拝で、マリアさまから老シメオンのようにわたしたちもご聖体の内に同じ幼子キリストを両の掌に受け取らせていただき、大切に抱かせていただきます。老シメオンとともに、ご聖体の幼子キリストの内に神の約束の一切を、神の恵みのご計画のすべての成就を、わたしたちへの祝福として受け取らせていただきます。

クリスマスのミサで、わたしたちも母マリアさまとともに、マリアさまのように、幼子キリストを小さなご聖体の内に抱かせていただき、見つめさせていただきたいのです。幼子キリストをご自身の胸に抱かれたクリスマスのマリアさまの神への畏れ、驚き、喜びと感動、そして安堵の涙、その聖母さまの心の動き、さらに感謝と祈りの一切を、わたしたちも、今、ここで、マリアさまとともにさせていただきたいのです。

人が神に代わろうとしてきたわたしたち人類の長く空しく倒錯した過去は、ここに終わりました。そのために、本当に多くの人が自らを偽り、自分を失い、さらには多くの人を惑わし、傷つけ、犠牲にしてきた過去は、今、ここに確実に終わりました。

「神が人となられた」今、わたしたちが母マリアさまとともに幼子キリストに見つめているのはこの事実です。かつてのように見知らぬ神とその救いを虚ろに求めて彷徨(さまよ)い続けた時は終わりました。今から後は、クリスマスに神が主イエスにおいて成就された受肉の恵みの事実に立って生きて行けるのです。老シメオンの歌うように、マリアさまとともに、わたしたちも「神の栄光をこの目で見た」からです。

「ことばは人となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

「主イエスにおいて人となられた神の栄光」。それは老シメオンの言葉のように、「神が万民のために整えられた救い、異邦人を照らす光、神の民イスラエルの光栄。」主イエスは人を救い、活かし、人に光栄を与える神のいのち神の栄光とは主イエスにおいてわたしたちに与えられる神の恵み。実は、それは主なる神ご自身です

神はご自身をお与えくださるために人となられた。主イエスとは、そのようにわたしたちにご自身をお与えくださる神ご自身の栄光のお姿です。老シメオンがマリアさまとともに、幼子キリストの内に見つめた神の栄光とは、実は神の自己奉献の事実。それは、わたしたちがミサの度に、ご聖体の内に見つめ味わう神の真実です。

クリスマスから後、主イエスにおいて神の栄光は、さらに輝きを増し加えて行きます。クリスマスの幼子キリストは、栄えて行かれます。十字架、さらにご復活に至るまで。

クリスマスの出来事は、決してクリスマスだけで終わりません。それは、毎日のミサ毎に、ご聖体においてわたしたちに体験され続ける神の恵みの出来事です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 12/25 夜半ミサ

主の降誕(夜半)ルカ2:1-14

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ルカによる福音は、主イエスのご降誕を、その当の夜半に最初にお祝いすることを許されたのは、マリアさまとヨセフさまの他には、貧しい羊飼いたちであったと伝えています。彼らは、マリアさまたちが滞在しておられたユダヤのベツレヘムの地方で、その夜、「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番を」していました。

灼熱の日中とは異なり、夜半には気温が零下にも降ることのあるベツレヘム郊外の荒野。おそらく小さな焚火だけを暖を取る手立てとして、野外で肩を寄せ合うようにして夜通し太陽の昇る朝を待ちわびていたに違いない貧しい羊飼いたち。神は、とくにその彼らを、世界で最初のクリスマス夜半の祝いに招かれました。ルカによる福音は、その時の様子を次のように伝えています。「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常におそれた。」

羊飼いたちは恐れました。何を、でしょうか。彼らは神を恐れました。なぜ、でしょうか。町の城壁の外で羊の群れの番をして生活を営む他無い貧しい羊飼いたち。彼らは律法学者が求めるユダヤの律法を守れる境遇にはありませんでした。律法を守ることも、律法に従って神を礼拝する事もできない羊飼いたちを、町の人々は、神の恵みにふさわしくない者たちとして蔑んでいました。羊飼いたち自身も、罪人の彼らにはアドベントは無縁だと思っていたと思います。クリスマスの夜までは。

しかし、神がわたしたちのもとに来られる(アドベント)との決断は、人ではなく神ご自身によることです。使徒ペトロは、わたしたちは神が来られるのを、人の期待や計らいにではなく、「神の約束に従って待ち望んでいる」(2ペトロ3:13)と教えています。

神のみ使いガブリエルは、マリアさまに遣わされた時、驚き恐れるマリアさまに「おめでとう(ギリシャ語kaire、恵まれた方。主があなたと共におられる」と告げました。

み使いが告げたのは、マリアさまが気付かない内に、すでに、神が彼女とともにおられる(インマヌエル)と言う事実です。アドベントとは、この事実への気付きの時です。

実は、クリスマスの遥か以前から、主イエスをわたしたちのためにお遣わしくださるための神ご自身のご準備が、み使いガブリエルに象徴される旧約の預言者の長い時代を貫いて続けられていたのです。その上で、地上のアドベント(神が来られる)は、母マリアさまが聖霊によって神の御子キリストを宿されることによって、歴史の事実、さらに、後にご聖体を受けるわたしたちの身の事実となりました。

真のアドベント来たり給う神をお迎えすることとは、神への恐れと感謝の内にマリアさまと共に、マリアさまのように、わたしたちもこの身に神の御子を宿させていただくことではないでしょうか。ただしそれは、偏に神の恵みにのみよることです。

アドベントとは、ユダヤの律法学者たちのように、律法を上手に解釈し神との一定の距離を保ちながら、自分の心を自分で操作するようなことではありません。わたしたちにとってアドベントとは、マリアさまのようにこの身をそのまま神に明け渡してしまうことです。神の御子をこの身に宿させていただくとは、そういうことではないでしょうか。律法を読むこともできず、律法を解釈して神と自分の間に距離を置く術も持たない羊飼いたちは、ただ神の恵みによってアドベントへと導かれました。

その羊飼いたちは天使のことばを聞いて、神を「非常に恐れ」ました。彼らは、主なる神が来られたならば、主のみ前に自らを弁護する術もなく、主に自分たちを明け渡してしまう他ないことを良く知っていました。同時に彼らは、自分たちが神のものとされることに堪え得ない罪人であることをも、誰よりも良く知っていました。

だからこそ、み使いは、羊飼いたちに告げます。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。神が求めておられるのは、マリアさまのように、また彼ら貧しい羊飼いたちのように、真に神を恐れる者たち、神のみを恐れる者たちだからです。「神を恐れる」者にこそ、神はご自身の御子を宿させてくださるのです。さらに、彼らに宿された神の御子によって、彼ら自身を福音の使者、すなわち「民全体に与えられる大きな喜び」の使者とさえしてくださるのです。

畢竟、それは神の天使たちに加わって神を賛美することです。羊飼いたちの見上げる天には、すでにみ使いたちによる神の勝利と歓喜の歌声が響いています。

「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」

クリスマスのこの夜、マリアさまとヨセフさま、また、羊飼いたちのように真に神を恐れるみなさんに主イエスが来てくださいます。「恐れるな」とのおことばを携えて。

クリスマス、おめでとうございます。神の御祝福が皆さんの上にありますように。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。

司祭の言葉 2024/1月〜6月


司祭の言葉 12/22

待降節第四主日 ルカ1:39-45

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。」 今日の福音は、主イエスを宿されたマリアさまのご訪問をうけたエリサベトが、「聖霊に満たされて、声高らかに」聖母さまに告げた言葉を伝えていました。

主イエスのご降誕を間近に控えた待降節の最後の主日の今日、福音から、とくに聖母マリアさまを想い起こさせていただくことは、まことに相応しいことだと思います。来たる降誕日に、わたしたちは聖母さまを通して、そして聖母さまを通してのみ、キリストをお迎えさせていただくことが許されるからです。

マリアさまご自身の待降節は、主なる神がみ使いガブリエルをマリアさまにお遣わしになられたことに始まります。このことは、神の内にはすでに、救い主をわたしたちにお送りくださるための長い準備の時が隠されてあったことを示しています。

神のみ使いガブリエルは、主イエスのご降誕に先立って、主なる神が預言者たちに託されたご自身のみことばとその約束の一切を携えて、主からマリアさまの許に遣わされました。だからこそ、み使いは、聖母さまに次のように告げることができました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(以下ルカ1:26-38)

待降節は、わたしたち自身の期待に胸膨らませる時である以上に、わたしたち自身にとっても、マリアさまとともに神の恵みをこの身に宿させていただき、マリアさまのように、神のみ前にわたしたち自身を、みことばによって整えさせていただく時ではないでしょうか。み使いガブリエルはマリアさまに次のように告げていました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」

待降節とは、主イエス、すなわち神の恵みをこの身に宿させていただく時。マリアさまには、それは御身に起こった事実です。わたしたちにとっても、そうではないでしょうか。待降節とは、主イエスに備えてわたしたちの心を整える時のみならず、主を宿させていただくためにわたしたちの「からだ」が恵みによって整えられる時。そして、信仰がわたしたちの「身(からだ)」の事実となる。それがクリスマスです。

ただし、神との間に距離を置こうとするような罪なるわたしたちには、それは恐るべきことかもしれません。しかし、神は、そのようなわたしたちに、汚れなきマリアさまとともに御子キリストを託し、宿させてくださいます。実はこのことこそ、わたしたちにとって、神のみ前に真に恐れるべきこと、なのではないでしょうか。

だからこそ、み使いはマリアさまに、さらにマリアさまを通してわたしたちすべてに、呼びかけておられるのです。「恐れることはない」と。そう、恐れなくてよいのです。なぜなら、「あなたは神から恵みをいただいた」のだから、と。

「神からいただいた恵み」。それは神の御子キリストです。同時に、この神の恵みが、御子キリストの霊、すなわち「聖霊」でもあることは、同じくみ使いガブリエルがマリアさまに告げた次のことばによって明らかです。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」

待降節は、人が始めた時ではありません。神が、恵みによってマリアさまに始めてくださった時です。さらに、聖母さまとともに歩むわたしたち一人ひとりに、主が恵みによって備えてくださった時。聖母さまを通して「見えるものとなられる神」ご自身が、聖霊のみ力によって降誕日に成就してくださる神のみ業を待つ時です。

そして、待降節の結ぶ実、すなわちクリスマスの祝福こそ、神ご自身であられる汚れなき神の御子キリストの誕生です。天使ガブリエルは「だから」と、続けてマリアさまに告げておられました。「だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」

聖母マリアさまご自身の待降節の始めに遣わされたみ使いガブリエルは、主から託された聖母さまへのおことばを次のように結んでいました。「神にできないことは何一つない。」この主なる神に、聖母さまはお応えになられました。「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように。」

今日の福音でエリサベトは、神のみことばをそのままに信じ、ご自分を神に捧げられたマリアさまを称えて、心を込めてマリアさまに告げます。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

エリサベトのマリアさまへの言葉は、恐れ多いことかもしれませんが、待降節をマリアさまとともに歩むわたしたちへの祝福の言葉でもあるのではないでしょうか。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 12/15

待降節第三主日 ルカ3:10-18

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

待降節も第三週を迎えました。アドベント・リースに明るいバラ色のろうそくが点されました。教会は、伝統的にこの主日を、今日の入祭唱にある使徒パウロの『フィリピの信徒への手紙』の言葉、主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」から、「喜びの主日」と呼んできました。(フィリピ4:4-5)

主イエスが来られるのを待つ時の重さの中で、パウロは、わたしたちの疑いや迷いを打ち破るように力強く告げます。「喜べ」「主が近づいておられる」

復活の使徒パウロのこの言葉は、主なる神が預言者ゼファニヤを通して、旧約の時代に神を待ち望む者、神が来られる「その日」を待つ者、に告げられた次のことばに基づいています。「娘シオンよ、喜び叫べ。イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。娘エルサレムよ、心の底から喜び踊れ」、「その日」が近づいている。預言者は続けて、「その日、人々はエルサレムに向かって言う、云々。」(ゼファニヤ4:14-17)

しかし、預言者が「その日」と語り始める前に、主は預言者を通して、すでに次のように仰せでした。「イスラエルの王なる主はお前の中におられる。」(ゼファニヤ4:15)

「主は近づいて来られる。」しかし、すでに、その「主はお前の中におられる。」

使徒パウロも同じことを語っていました。「主にあっていつも喜べ。主は近づいておられる。」すなわち、「近づいて来られる主」を、すでに「主にあって喜べ」と。

待降節の間、わたしたちは主イエスの来られるのを待ち望んでいます。しかしその方は、わたしたちが始めて聞いた方ではありません。預言者を通して、歴史の始めからみことばを語って来られた神ご自身です。キリストの使徒ヨハネはその方を、「初めからあった方」すなわち「いのちのことば」と証ししています。(1ヨハネ1:1-2) 

すでに「初めからあった方」が来られる。それは、いかなることなのでしょうか。ヨハネは、彼の手紙に、そのことを次のように語っています。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、いのちのことばについて。このいのちは現れました。」

待降節の後、クリスマスで祝う神の秘義とは、初めからあったいのちのことばが、わたしたちに現れてくださったことに他なりません。それは、見えないがゆえに神を疑うわたしたちのために、神が、「いのちのことば」なる神ご自身にわたしたちが「よく見て、手で触れ」ることができるようにしてくださったということです。

さらに使徒ヨハネは、彼の福音で次のようにも伝えています。「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」ヨハネは、続けます。「いまだかって、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:14-18)

「見えない神が、見える神となられた」。見えない神、すなわち、預言者たちを通してみことばを語り続けられた神ご自身が、聖母マリアさまを通して、主イエスにおいて見える神となられた。その時、見えなかった神と、見えるようになられた神は一つにして同じ神です。これが、クリスマスの秘義です。

主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる。」

最早わたしたちは、見えないがゆえに神を疑い、暗闇に迷い続ける必要はありません。待降節の今、「主を迎える大いなる期待」の内に、すでに「主にあっての喜びの時」が始まっています。わたしたちがクリスマスにお迎えさせていただく主イエスは、預言者によってみことばを語られていた主なる神ご自身です。見えなかった神が、主イエスによって見える神となられた時、それは、わたしたちが預言者を通してお聞きした、主のみことばの一切が成就する時でもあります。

否、それ以上です。今日の福音で、主イエスの先駆者洗礼者ヨハネは、わたしたちに告げています。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」

見えるようになられた神は、かつて語られたみことばを成就されるだけではなく、わたしたちに「聖霊と火」を注いでくださる。主イエスご自身のいのちである聖霊を、わたしたちの内に燃え続けるとしてお与えくださる。見えなかった神が、見えるようになられるばかりではない。わたしたちの外におられた神が、「聖霊」としてわたしたちの内にまで来て、新しいいのちの「光」を点してくださる。クリスマスの秘義、それは、わたしたち一人ひとりにおける「光なるキリスト」の誕生です。

父と子と聖霊のみ名によって。

司祭の言葉 12/8

待降節第二主日 ルカ3:1-6

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

待降節第2主日を迎えました。待降節の今、わたしたちはキリストの使徒ペトロの言葉のように「神の約束に従って、救い主・キリストを待ち望んで」います。(2ペトロ3:13)

そのわたしたちに、旧約のa「預言者イザヤにお語りになられたとおり」「神のことばを洗礼者ヨハネに降して」「キリストの日に備え」させてくださる神は、今日のルカによる福音で、次のようにお命じになっておられます。(以下、イザヤ40:1-11参照)

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」

しかしそれは具体的にはどうすることなのでしょうか。預言者イザヤは続けます。

「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。

曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、」

神にお会いさせていただくために、「低い谷があったら埋めなさい。高い山や丘は低くしなさい。曲がった道は真っ直ぐに、でこぼこの道は平らにしなさい」。 しかし、意外に思われた方もおられると思います。深い谷を渡り、高い山を登りつめてこそ、人は、始めて神にお会いできるのではないか、と。 イザヤは、告げます。

(こうして)人はみな、神の救いを仰ぎ見る。」

強い人だけが、ではないのです。「人みなともになのです。谷を埋め、山を削れば、弱さを覚えておられる人々を含めてわたしたちすべてが、皆ともに、来たりたもう神にお会いさせていただける。神は、わたしたちにそれを望んでおられるのです。福音に引用された旧約イザヤ書の元の言葉にも、「こうして、主の栄光が現れるのを、肉なる者(わたしたちすべて)はともに見る」とあります。(イザヤ40:3-5)

洗礼者ヨハネは、「わたしたちすべてがみなともに」主をお迎えできるように、との父なる神のみ旨に忠実に、神の御子・救い主イエス・キリストに対して、「わたしはその方の履物の紐を解く値打ちもない」(ルカ3:16)とのまったき謙遜と深い懺悔の内に、彼の生涯をささげ切った人でした。

事実、洗礼者ヨハネの、神なる主に対するこの姿勢は、彼の最期の時までまったく変わることはありませんでした。後に殉教の死を目前にして、彼は主イエスへの変わらぬ信仰を、次のように告白しています。「わたしは喜びで満たされている。キリストは栄え、わたしは衰えなければならない。」(ヨハネ3:29,30)

この待降節、わたしたちもヨハネとともに、彼にならって来たりたもう主を、みなでともにお迎えできるように、「主の日にともに備える」者でありたいと切に願います。

ところで、旧約の預言者イザヤは、今日の福音に引用されたことばに続けて、来たりたもう救い主キリストは、どのようにしてわたしたちにお会いくだるのか、主の栄光はいかに現わされるのかについて、明快に語り明かしています。

「見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。」(イザヤ40:9,10)

来たりたもう主イエスは、父のように強くなければなりません。力の無いわたしたちを、その力強いみ腕で抱き起こしてくださるために。同時に、主は母のようにやさしくなければなりません。そのやわらかいみ手でわたしたちを抱きしめてくださるために。イザヤは、語り継いでいました。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」(イザヤ40:11)

後に、ここに預言された羊飼いなる主イエスご自身、「良い羊飼いは、羊のためにいのちを捨てる」と、ご自身の羊であるわたしたちに現わされる「神の栄光」の究極の姿を、ご自身の十字架として明らかにされます。(ヨハネ10:11)

今日の福音に引用されているのは、預言者イザヤの書第40章です。その章の冒頭で、神は、イザヤを通して、わたしたちに次のように語り始めておられました。「慰めよ、わたしの民を慰めよ。エルサレムの心に語りかけよ。」(イザヤ40:1、2)

このみことばの内に、御子キリストを「良き羊飼い」としてわたしたちに遣わされる父なる神の慈しみに満ちた御こころが鮮やかではないでしょうか。その「目に見えない御父の、目に見えるみ顔は、主キリスト」、「イエス・キリストは、父のいつくしみのみ顔です」と、教皇フランシスコが、先の「いつくしみの特別聖年」(2015年)の「大勅書」および「祈り」に記しておられたことを、改めて思い起こしたいと思います。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。