年間18主日 ヨハネ6:24-35
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。
「わたしがいのちのパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
来る8月6日は、「主の変容」の祝日です。マルコによる福音は、「主の変容」が、主キリストの「五つのパン」つまり「神の国の食卓」の奇跡の後の、「主の過越」である主の十字架の死と復活の告示(マルコ8:31)に続く出来事とされています。したがって、これら三つのことは、主が神の子キリストであることを、主ご自身が弟子たちに明らかにされた一連の出来事であり、切り離して考えることはできません。
今日の福音は、先の「神の国の食卓」の物語に続く出来事です。主キリストから「五つのパン」で養われた人々が、翌日、再び主を訪ねました。彼らに主は仰せでした。
「朽ちる食べ物のためではなく、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。これ(「永遠のいのちに至る食べ物」)こそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである」。
主キリストは、わたしたちに「永遠のいのちに至る食べ物」、むしろ「永遠のいのちそのもの」をお与えくださるために、天の父なる神から遣わされたことを明言されました。主のこのおことばを聞いた人々は、続けて主に、「神の業を行うためには、何をしたら良いでしょうか」とたずねました。主キリストは彼らに、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と、おこたえになられました。
「神の業」とは、フランシスコ会訳が「神が(わたしたちに)求めておられること」と説明するように、人々が主キリストにおたずねしたのは、「永遠のいのちに至る食べ物をいただくために、神がわたしたちに求めておられるのは何でしょうか」と言うことです。これに対して、主は彼らに、「神の遣わされたキリストを信じること。これが、神が求めておられることである」と、お応えになりました。ただし、ここで「主キリストを信じる」とは、わたしたちにとって具体的にはいかなることなのでしょうか。
主キリストと人々との会話はさらに続きます。主が、「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世にいのちを与えるものである」と語られると、人々は、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と願いました。その時、主は、次の驚くべきおことばをもって、彼らにお応えになりました。
「わたしがいのちのパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
つまり、主キリストご自身が「いのちのパン」そのものであると明言された上で、「(いのちのパンである)主キリストのもとに来るものは決して飢えることがない」。つまり、主をいのちのパンとして「受けるために来るもの」は、いのちに満たされると約束されたのです。そして、それがキリストを「信じる」ことであると。神がわたしたちに求めておられることは、「キリストを信じること」。それは、主キリストを「いのちのパン」として受けるために主のもとに来ること(拝領すること)に他なりません。
「神の業」、それは神のお求めに従うこと。それが、わたしたちにとって神から「永遠のいのち」を受ける唯一の道です。その道はまさに信仰の道であり、ここで信仰とは、主キリストを「いのちのパン」として拝領することに他ならない、と主は言われるのです。だからこそ、主はわたしたちにごミサを制定してくださったのです。
これは驚くべきことです。しかし、これがカトリックの信仰です。事実、主キリストが弟子たちとの最後の晩餐でミサを制定された晩から今日に至るまで、わたしたちカトリックは、ミサこそカトリックの信仰として、ミサ毎に主キリストご自身を、その御からだと御血を「永遠のいのちに至るパン」として拝領させていただいています。
実は、「(キリストを)信じる」と訳されたギリシャ語ピスチュウオーは、人ではなく、神を主語に、「(キリストを)信じさせる(疑わせない)」という意味に加えて、「(キリストとの)神秘的な交わり(communio)に入らせる」という意味です。このことは、カトリックにおいては体験の事実です。「信じる」ことが「ご聖体の拝領」(communio)として全うされることは、入信の秘跡の体験そのものだからです。実に、カトリックの信仰で「キリストを信じる」とは、わたしたちの心の確信に止まらず、ご聖体の拝領において体験されるキリストとの神秘的な交わり(communion)の事実です。
このように、わたしたちカトリックの信仰は、入信の秘跡の完成であるミサの度に、主キリストの御体と御血を拝領し、ご聖体の内に働く聖霊によって「キリストとの神秘的な交わり」へと参入させていただくことです。それが「永遠のいのち」です。
(第2コリント3:18)
父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。