司祭の言葉 9/25

年間第26主日C年2022

 お早うございます。かなり涼しくなって過ごしやすくなってきました。
 新型コロナウイルスの新規感染者はだいぶ少なくなってきたように感じますが、新たな対応について、教区からは何も通達がありませんので、これまで通りのコロナ対策を続ける必要であると思います。

 さて今日のお話は金持ちとラザロのお話です。・・こう言っただけで皆さんはああ、あのお話だなと推測されるのではないかと思います。
 神学者によれば、タルムードにはその原型となるような話があって、イエス様がこの話をなさると、聞いていた人たちはそのタルムードの話と重ね合わせてイエス様の話を聞き、ラザロがアブラハムの懐にいるという話に、驚いたことだろうと言います。
 何故驚いたのでしょう? 分かりますか?

 まず、聖書学者エレミアスが伝えるタルムードの「裕福な徴税人バル・マヤンと貧しい律法学者」の話です。

 裕福な徴税人のマヤンが亡くなり、立派な葬儀が行われました。皆が彼を最後の休息の場所まで見送ることを望んだので、町全体の人の仕事が休みになりました。時を同じくしてある貧しい律法学者が亡くなりましたが、彼の葬儀にはだれ一人として注意を払いませんでした。このようなことを許すとは、神はそれほどまでに不公平なのでしょうか。

 その答えはこうです。バル・マヤンは敬虔さとは程遠い生き方をして来ましたが、一度だけ善い行いをし、その最中に不意に亡くなりました。彼のその善行はそれまでのいかなる悪行によっても帳消しにされないものであることが、彼の死の瞬間に確定しましたので、彼の善行は神から報いられねばなりませんでした。そしてあの立派な葬式を通してその報いを受けたのだということです。ではその彼の善行はどのようなものだったのでしょうか? かれは町の評議員たちのために宴会を準備しましたが、彼らは来ませんでした。そこで彼は食べ物が無駄にならないようにと、貧しい人々に、来て食事をとるようにと命じました。

 バル・マヤンは上流社会に受け入れられることを願って招待状を出しました。でも、全員が申し合わせたようにいろいろ言い訳をして断ったのでした。それに腹を立てたマヤンは、町中の物乞いたちを家に招き入れた・・・ということです。イエス様はこの話を王の宴会の話でも採用していることに、皆さんはお気づきになったと思います。イエス様は皆がよく知るこの話を使ってご自分の譬えを語っているのです。

 ラザロは「神は助けて下さる」という意味の名前です。日本語にしたらさしずめ、「太助」とでもいう名前になるでしょうか。

 イエス様の時代の人々は、ラザロがこのような悲惨な目にあっているのは、彼が罪を犯したか、先祖の罪の報いでそのような状況に陥ったのだと考えていました。ですからイエス様の、「この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れていかれた」という言葉には目を丸くしたと思われます。

 この話の意味するところは明白です。この金持ちは誰でしょうか。

 告白します。私なのです。今から40年以上前インドを旅行した時、ホテルの庭でビールを飲んでいました。当時、たばこは1ルピー30円ほど。ビールは8ルピー240円ほどでした。そしてチップは2ルピー。10ルピー300円はインドの日雇い労働者の一日分のお金であったと思います。それを鉄格子の扉の向こうで手を差し出しながら、しゃがみ込み見ている人たちがいました。それを眺めながらビールを飲み続ける私がいました。まさにこの話の情景だったと思います。

 次の数字がわかるでしょうか。 77億 8億 5秒に一人 420万トン 522万トン  

 77億は世界の人口 8億は十分に食べることが出来ずお腹をすかして寝る人の数 5秒に一人は飢餓が原因で命を落とす子供 420万トンは2020年国連世界食糧計画が支援した食料 522万トンは日本でまだ食べられるのに廃棄された食品の量です。

 私たちが捨てずに消費するなら、その分輸入せずに済み、それだけ食料に余裕が生まれることになります。

 マザーテレサは、現代の最大の罪は、無関心だと言います。

 金持ちも無関心でした。私も。
 今日の福音は、その無関心を捨てるようにと迫ります。 

司祭の言葉 9/18

年間第25主日C年

 このたとえ話を信者たちから聞いたルカは困惑したことでしょう。ルカに伝承を伝えた信者たちは、「イエス様はこの管理人のやり方を褒めて語ったんですよ」・・・と、驚きを持って言い添えたのではないか、と思うからです。

 今日のみ言葉を聞いた感想はいかがですか?
 どうして「主人」はこの管理人をほめたのでしょうか。

 イエス様が話の筋を「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と持ってゆくために、普通なら怒るはずの主人に、この管理人のやり方をほめさせた・・と受け止めているのではないでしょうか。

 なんでも疑ってかかるへそ曲がりな神学者たちは、「何か、からくりというものがないか」・・と、勘ぐって考えます。
 不正を重ねる管理人を許せるのか。二重に損害を与えたのに、主人はなぜ褒めたのか。

 もしかしたら、8節aの「主人」は、管理人をやめさせようとする「主人」と別な人ではないのか・・など。

 8節aの、「主人は、この不正な管理人の抜け目ないやり方をほめた」という言葉について、二つの解釈があります。

 一つは、破局を前にした家令の「賢さ」に限定してみる見方。

 もう一つは、デレットという方が、1970年に主張した見方で、家令のしたことは、律法にのっとったやり方で、主人にも、負債者にも益をもたらし、自分の将来も確保した「利口なやり方」であったというもの・・・・です。

 それはどういうことかというと、
 律法では同胞に対して利息を取ることは禁じられていました。そのため、取引の場合は利息を含めて、借用書を書く習慣がありました。それで、油の50パトス、小麦の20コロスは利息分だったというものです。
 油の50%というのは高いと思われますが、オリーブ油の場合は混ぜ物をしやすいので、補償のため利子が高くなり、麦の場合は混ぜ物をしにくいので低いと説明されています。
 棒引きによって、負債者は得をします。主人は律法通りなので文句を言えません。そして、管理者は負債者から感謝される・・という、展開です。

 信者たちは、イエス様がこのたとえ話を語ったのは確かだが、自分たちの常識に反してこの管理人のやり方を褒めて語ったということに、釈然としない気持ちを抱きながら、それでもこのたとえ話を伝承してきました。

 それでこの話の後、8節aの後に、ルカが、解釈を加えたとみられています。

 今日のパンフレットを見ますと、いろいろ理由をつけてみても、管理人の行いを許しがたい不正とみる以上は、詭弁にしかなりません。不正を良いと言いくるめるのは、詭弁でしかないからです。
 それで、まず最初に、「この世の子らは・・」が加わり、「不正にまみれた富で友達を作りなさい・・・」という言葉が加わった・・そう聖書学者は見ています。

 田川健三という聖書学者はこのようなことを言います。

「不正な管理人」といわれていますが、たとえ話の中には「不正」という言葉は出てきませんし、主人の財産を無駄遣いしているというのも、告げ口の言葉です。
 無駄遣いもどのように無駄遣いしたのでしょうか。小作人の借金の棒引きこそ、大きな無駄遣いですが、それをイエス様は褒めているのですから、不正とみなすはずがありません。もしかしたら、この管理人はもともと主人の財産を管理することよりも、小作人の負担を軽くすることに熱心だったのかもしれません。そして小作人たちに人気があったので、仲間がねたんで告げ口をしたのかもしれません。そうすると、無駄遣いといっても、自分のために使ったのではないことになります・・・と。

 この聖書学者は、この譬えが語られた状況をこう推測します。

 多数の小作人に対して権勢をふるっている大地主の管理人が、イエス様を食事に招いたような折りにでも「どうしたら私は救われるでしょうか」尋ねたのに対して、
『こんな管理人の話もありますよ』と皮肉交じりに、「救われようなどと考えるのなら、まず小作人の借金を棒引きにしてあげなさいよ」と語ったのかも知れない・・・と。

 そして、金持ちがイエス様に、「どうしたら永遠の命に入ることが出来るでしょうか」、とたずねたら、イエス様は「貴方の財産を売り払って貧しい人に施し、私に従いなさい」とおっしゃっている箇所がありますから、ありえない話ではありません・・・と。

 この個所の前も後も律法学者やパリサイ人たちに対する警告なので、ここも、当初は律法学者やパリサイ人たち裕福なものに対して、「危機に際して、断固として行動しなさい」という勧告であったものが、聞き手がキリスト信者になり、その聴衆の変化によって、譬えの後の部分が付け加えられ、「富の正しい用い方の指針」に変化した、とみられています。

 イエス様のお話は、当時の社会の姿をとらえて、厳しい言葉で、わたしたちのあるべき姿を語っていると思います。財産は自分のためだけではなく、神のお心に沿って、使わなければならないと。

司祭の言葉 9/11

年間第24主日 ( ルカ15章1-32節)

 皆様お元気でしょうか、ホミリアをお送りいたします。
 今日のみ言葉には徴税人や罪人という言葉と、ファリサイ派の人々や律法学者たち・・という言葉が出てきます。
 徴税人や罪人はユダヤ社会の被差別民(アンタッチャブル)です。ユダヤ社会を理念と実践において支えているのは自分たちだと自負するパリサイ人や律法学者たちによって、その社会から排除されていた階層の人たちです。

 徴税人は下請けの徴税請負人で、徴税現場で「決まっているもの以上に取り立て」て、民衆から忌み嫌われていました。(ルカ3の13)市民としての当然の役職からも除外されて、法廷で証人として立つ資格も奪われていました。

 いっさいの市民権がはく奪されていたという点では、「罪人たち」も同じです。犯罪者だけではなく、品行的にいかがわしいと思われていた、高利貸し、ばくち打ち、遊女、羊飼いなども罪人とされました。

 ユダヤ人は本来遊牧民で、ダビデ王も羊飼いでしたし、旧約時代の羊飼いのイメージはよいものだったと思います。しかしイエス様の時代は違います。羊飼いは他人の土地に羊を追い込んで、他人の草を無断で食べさせたりする不届きものという考えが一般化していました。さらには、安息日にも仕事をする不敬な輩と考えられていたのです。

 他方、パリサイ人という呼び名は「分離した」を意味するヘブライ語から来ていて、自分たちは「世の汚れから分離されたもの」なのだと自負していました。そのようなかれらは、律法を守らない徴税人や罪人たちを「地の民」と軽蔑して呼び、そこには越えがたい壁がありました。
 パリサイ派の規約には、血の民には金を預けてはならず、何の証言をとってもならない。秘密を明かしてはならない。孤児の保護を頼んではならない。旅の道ずれになってはならないとあり、接触することを避けていたのです。そういう人の客となること、あるいは客とすることを禁じていたといいます。

 ですからイエス様が彼らと交わり、その客となるのを見て衝撃を受けたのです。彼らは、自分たちにとって当然と思える価値を、真っ向から否定する現実を目にしたのです。

 とくに、ユダヤ人にとって「共に食事をすること」は「神の前での大宴会」のイメージでした。出エジプト記はイスラエルの長老たちがシナイ山で「神を見て、食べ、また飲んだ」ことを、特別な恵みのしるしとして伝えています(出エジプト記24章11節)。
 地上で「共に食事をすること」は、この「神のもとでの宴とそこに集う共同体」を目に見える形で表すものと考えていましたので、自分たちだけが神の救いの食卓にあずかれると考えていたユダヤ人には、異邦人や罪人たちと食事を一緒にするなどということは、ありえないことだったのです。

 徴税人や罪人たちが白昼、同時に姿を現し、大勢でイエス様のもとに来るのを見ることも、信じられない出来事だったのです。
 そして、彼らがイエス様の話を聞こうとして集まってきた・・ということも、ありえないことが起こったと、驚きをもって受け止められたのでした。

 彼らには理解できないイエス様の行動に思わず「この人は罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしている」と、驚きと非難のまじりあった言葉が出てきました。

 それに答えてイエス様は、今日の譬えを語ったのです。
 そこに示されているのは、失われた羊とドラクマ銀貨の話を通じて、それらが見つかった時の喜びを例にとって、罪びとの悔い改めは、神の大いに喜びとすることなのだということでした。

 それはユダヤ人たちにとって、驚天動地の言葉でした。なぜなら、心の狭いパリサイ人たちは「罪びとが一人でも神のみ前で抹殺されるなら、天に喜びがある」とさえ語っていたからです。(バークレーのルカ福音書p222)

 ここで天と語られているのは神様のことです。感情を神に帰すべきではないとされていましたから、このような遠回しの言い方で、神をあらわしています。
 聖書学者のエレミアスは、ここは次のように訳すべきだと言い、パリサイ人たちに対するイエス様の弁明は、次のようなことだと語っています。

「このように、神は、どのような大きな罪を犯すことのなかった99人の立派な人々以上に、悔い改めた一人の罪びとのことを喜ばれるであろう」

「神の慈しみは限りなく、神の至上の喜びは赦すことにある。それゆえ、救い主としての私の使命は、サタンが奪ったものを取り上げ、迷い出たものを家に連れ帰ることである」・・と。

司祭の言葉 9/4

年間第23主日C年

 訳文をそのまま読んだのでは全く混乱してしまう箇所ですが、今日の個所はイエス様の後に従おうとするものに覚悟を問う場面です。

 「大勢の群衆が一緒についてきたが、イエスは振り向いて言われた。」・・・とあります。
イエス様について行った群衆・・・病人を癒し、奇跡を行い、パリサイ人たちを論破しエルサレムに向かうイエス様・・イエス様をメシアではないかと考えた群衆は、熱狂し、これからエルサレムに入り、ユダヤの独立のために立ち上がることを期待していました。その彼らにイエス様は冷や水をあびせます。弟子となることの難しさを気付かせることで、自分につき従うのを思いとどまらせようとした・・と聖書学者のエレミアスは言います。

 「もし誰かが私のもとに来るとしても、父、母、妻、こども、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない」
 驚きの言葉ですね。イエス様の教えと矛盾するかのように聞こえますね。
   第四 汝父母を敬うべし
   あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい

 実は、近東の人たちは比較級を表すのに、しばしば対立する概念(愛と憎しみ)を用いることがあるので文字通り解釈するのではなく、
憎む=より少なく愛する・・という意味と理解されています。マタイ福音書には次のようにありますから、比べてみればわかりやすいでしょう。
   わたしよりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。
   わたしよりも息子や娘を愛する者も、私にふさわしくない。 マタイ10の37 

 そして、塔を建てようとするものと、戦いを始めようとする王のたとえ話によって、イエス様はよくよく熟慮せよ・・と説いたのです。

 わたしたちはどちらを選べばよいのかと判断に迫られることがよくあります。
選択の余地があまりない場合には、悩みぬくことも多いと思います。 

 11年前、福島原発の事故で放射能汚染が広がり、人々は避難を余儀なくされました。被災地の南相馬と浪江に行った折、「この先は汚染地につき立ち入り禁止」という看板があり、通行止めになっているところがありました。そこは牧場でした。 いまだに片付いていない車  のこされた300頭のべこたち エサを与えなければ死んでしまいます。 国は殺処分を申し渡してきました。
 飼い主はぎりぎりの決断をせまられます。 果たして被ばくした牛を飼うことに意味があるのか。 経済的には何の価値もありません。ミルクも肉も人の口に入ることはありません。 でも、役に立たなくなったからと言って、殺してしまっていいのか。飼い主にしても、収入はゼロ 300頭もいれば冬場のエサ代もばかになりません。
  「牧場の牛は原発事故の生きた証 これからも生かし続ける」

 熟慮の末、牧場主はこれからも苦しみ続けることを選択しました。協力者たちは一般社団法人を設立し、寄付を募ってきましたが、10年たって、この春法人は解散したとのことです。そして飼い主は、個人的に、有志と共に、あと10年は飼育を続けると言っています。 希望の牧場といいます。

 そこにイエス様がいたらどうするのだろうかと思います。
 殺すだろうか、生かすだろうか・・。

 塔を建てようとするものと、戦いを始めようとする王のたとえ話によって、よくよく熟慮せよ・・と説いたイエス様は、もし自分に従って来ようというのであれば、自分の持ち物一切を捨てる覚悟が必要だとおっしゃって、人々の熱狂を戒めた・・それが今日のみ言葉です。さて、私は覚悟が出来ているでしょうか。