司祭の言葉 4/24

復活節第2主日

 復活節の第2主日はいつもヨハネによる福音の20章19節から31節が朗読されます。
 今日は神の慈しみの主日と副題がついていることにお気づきだと思います。今日の福音には神の慈しみが溢れています。
 イエス様が捕まった時、「イエスと一緒にエルサレムに行って死のう」といったトマスも、「あなたのためなら命も捨てます」といったペトロも、散り散りに逃げ去ってしまいました。一人大祭司の屋敷に入ったペトロも、あなたも弟子のひとりですねと言われると、3度も否定してしまいました。弟子たちは恐怖におびえ、1つの家に閉じこもり、中から鍵をかけて災いが過ぎ去るのを待っていたのです。

 わたしは刑事物が好きです。終わってしまって残念なのですが、特に「相棒」がすきです。非常に知的で、クールでおもしろい。
 いろいろな刑事物でよくあるパターンが、逃亡していた犯人が時効間近で捕まってしまうと言うものです。そんなときいつもあと数日であればどこかの山の中か、地下にでも潜っておればいいのに・・・と思います。アルセーヌルパンなら決して捕まらないのにとか、犯人の方に肩入れしてしまいます。どうして時効間近でのこのこ出てくるのか、あるいはあまりにも長く潜んでいると、我慢が出来なくなってしまうのでしょうか。
 時々夢を見ることがあります。何が理由か解りませんが、ひたすら逃げている自分がいます。身を隠し息を潜めている自分が・・・。
 刑事物のテレビの見過ぎでしょうか。でも、サスペンスは見ないのです。
 小生の心臓はノミの心臓です。はらはらどきどきは、心臓に悪いから・・・。同じ理由でホームドラマも見れませんし、サッカーなどの試合や、フィギアスケートも見れないのです。

 恐怖で固まっている弟子たち、そこへイエス様が来て、弟子たちの集いの「真ん中に」立ち「あなたがたに平和」と言います。どんなにか嬉しかったことでしょう。 弟子たちが求めていたのは自分たちの身の安全でしたが、いくら鍵をかけていても心は恐怖でいっぱいだったのです。本当の平和はイエス様がともにいてくださるところから来ます。

 イエス様を見捨てて逃げてしまった弟子たちは、弟子だという資格はありません。でも、復活したイエス様は、そのことには一言も触れず、弟子として、新たに派遣をしていきます。
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)と。
 私たちなら皮肉や恨みの一言でも言いたくなるところですが、主は慈しみをもって「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。」と、かれらを、許しを宣言するために派遣なさったのです。
 次に続く「だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」という言葉は「許さなければ、その人の上に神の許しが実現しないままになるではないか」「だから許しなさい」・・・という意味でしょう。許すこと・・それがイエス様の弟子としての務めなのです。

 トマスは、最後までイエス様に従うという覚悟(ヨハネ11章16節参照)を果たせなかった自分に失望し、他の弟子たちにも失望して、弟子の集いから離れていたと思われますが、このトマスにイエス様が生きているという知らせが届きます。

 トマスにとって「主を見た」というほかの弟子の言葉は、とても信じられない言葉であったと同時に、信じれば自分の人生のすべてが変わる、という言葉でもありました。
 そして弟子たちの集いに復帰していたトマスのもとに、再び主が現れ、「あなた方に平和があるように」と挨拶なさったのです。この言葉に許しを受けたと感じたトマスは「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白します。

 これまでイエス様には多くの称号が使われていました。ダビデの子・メシア・人の子など、主よ、という呼びかけも福音書には出てきますが、それは、先生に近い呼びかけでした。
 ツロ、フェニキアの女も、サマリアの女もイエスを主と呼んでいますが、何れも先生という意味の域を出ていません。
 しかしここで、トマスが「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白したことによって、「主」という言葉に特別な意味が加わったと言えます。神・ヤーウエと同義の言葉としての「主」です。そして「イエス・キリストは主である」という初代教会の信仰告白は、イエス・キリストはヤーウエ、そのお方である・・という信仰告白の意味を持つのです。

 イエス・キリストは主である…という同じ信仰を告白するウクライナとロシアの人々の上に一日も早い平和が訪れるように祈りましょう。

司祭の言葉 4/17

主の復活

 アレルヤ 主の復活、おめでとうございます。
 復活徹夜祭の典礼は、旧約聖書から7つの朗読がなされ次いで使徒書と福音が朗読されます。
  1.万物と人間の創造、
  2.アブラハムへの試練と祝福の基となると言う約束、
  3.エジプト脱出にあたり紅海を渡って救い出された事、
  4.イスラエルを贖い平和の契約についてのイザヤの預言、
  5.私のもとに来るが良いと招きを語るイザヤの預言、
  6.主の輝きに向かって歩めと勧めるバルクの預言
  7.新しい心と新しい霊を約束するエゼキエルの預言・・と旧約の救いの歴史をたどり、続く使徒書は、私たちが洗礼を受けたのはキリストの死と復活の結ばれるためであることを述べています。
 これらの朗読によって、十分に黙想ができるようになっています。

 徹夜祭の朗読は、ルカによる福音のヨハネによる福音の24章1節から12節。お聞きになって、どんなことをお感じになられましたか?

 わたしは安心しました。婦人たちの話を聞いて使徒たちは、「この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」とありますから。
 何度もイエス様自身から聞かされていたにもかかわらず・・・です。 わたしはきいていませんからね。一度も。だから、私にも信じるのは難しい。  
しかしペトロは殉教したのです。主の復活を証言しながら・・・。

 ペトロは十字架に向かおうとするイエス様を止めようとしてサタン退けと言われた男です。
 イエス様が捕まった夜には、あなたもあの男と一緒でしたねと言われて三回も知らないと、しかもそれを誓って言った男ですよ。
でもそのペトロが復活のイエスと出会って変わりました。
十字架を恐れなくなったのです。逆さ十字架にかかったほどに・・・。
 だから信じてみようかなという気になります。

 復活はなかなか信じがたい。 だから、ミサの度に「信仰の神秘」と言い、
私たちの信仰は、何でしたか?   そう質問して思い出させ、確認しているのです。

イエス様のお言葉です。
「二人または三人が、私の名によって集まるところにはわたしもいる」マタイ18の18 
「私は世の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」マタイ28の20
「私の兄弟であるこの最も小さいものの一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」マタイ25の40

 復活の主はいつも私たちとともにいます。私たちの周りの小さくされている人々の中に。この方々を意識すると、復活のイエス様に会えるのです。

 もし自分が、まだ復活のイエス様に会えていないと思うなら・・・彼らの中に探してみましょう。
 マザーテレサも、ブラザーロジェも、ジャンバニエも、ありの町のマリアも、そして石川神父も、小さくされている人たちの中にイエス様を感じています。彼らに教えられることが沢山あります。
 きっと素晴らしい模範に出会えると思います。

 未だにウクライナの戦争は終結の兆しがなく、多くの難民を生んでいます。
 復活祭も祝えない彼らのために、主の憐れみを祈りましょう。

皆様の上に主の豊かな祝福がありますように、アレルヤ

司祭の言葉 4/10

受難の主日 (ルカ23章1-49節)

 皆さんおはようございます。ウクライナの戦争はまだ先が見えません。一日も早い終結を願いながら今日のミサを捧げましょう。

 式は、始めにイエス様のエルサレム入場が記念され、ミサの中ではピラトによる裁判の場面とイエス様が十字架にかけられる場面が朗読されます。
 今日黙想すべき最大のポイントは、イエス様に対する群衆の態度です。それは私たちもまた同じであるとの、深い反省を呼び起こします。イエス様を歓呼のうちに迎えた群衆は、その舌の根も乾かぬうちに、イエス様を十字架につけよと叫んでいるのです。エルサレム入場について入祭唱は、過ぎ越し祭の六日前と言っています。聖土曜日が過ぎ越し祭に当たりますから、万歳万歳と言ってイエス様を迎えた5日後には十字架に着けよと叫んでいる事になります。 

 受難の朗読前半では「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」というピラトの宣言が、繰り返されています。4節、14-15節、22節。しかしかれは群衆を恐れ、祭司長の言うがままになってしまうのです。

 十字架の道行きの中に印象深く取り上げられていますが、イエス様のために泣く女性たちの場面があります。 イエス様はご自分のために泣いているエルサレムの女性たちを逆に慰め、これから起こる大きな災いを予告します。 その災いは、子どもがいれば、自分の苦しみだけでなく、自分の子どもについても苦しまなければならないから、子どもがいないほうがましだ、と思わせるほどのものです。それはエルサレム滅亡の時の様子を語っているものと思われますが、今回のロシアによるウクライナ侵攻とも重なり、今の時代にもまさに起こっている問題として、深い憂慮を覚えます。


 次にルカだけが伝える祈りがあります。
 「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです』」
 この箇所は、新共同訳聖書ではでは〔 〕の中に入れられています。その理由は重要な写本に欠落しているからです。
 聖書学者たちはその理由を、写本を書き写した誰かが、「イエスを十字架につけた人々の罪だけは絶対にゆるされない」と考えて省いてしまったため・・と考えています。十字架の上にあってなお、父なる神に許しを願うイエス様がそこにいるのです。

 ルカだけが伝えるもう一つの話は、一緒に十字架につけられた犯罪人のうち、一人が回心してイエス様に救いを願う話・・・です。
 「イエスよ、あなたの御国においでになるときには私を思い出してください」
 この言葉はこの人が、イエス様を神が油注がれた王として認めていることを示しています。
 イエス様はこれにこたえ、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束します。
 イエス様が救いを宣言した唯一の人です。

 ルカが伝えるイエス様の最後の言葉、「父よ、わたしの霊を御手(みて)にゆだねます」
 これもルカ福音書だけが伝える言葉です。

 ルカは、これらのエピソードを記述しながら、イエス様が最後の最後まで人々を愛し続け、神に信頼し続けた姿を伝えようとしています。

 無差別の殺人事件などで、被害者が加害者の死刑を願う厳罰を望む姿がよく放映されます。今回のロシアによるウクライナ侵攻も不条理としか言いようがありません。そのために430万人もの避難民が生み出されているのです。無実の罪で死刑になる、そのような不条理なことがあれば、ただ怒りや憎しみ・恨みに支配されてしまい、絶望して、神を呪い、人を呪うのが普通かもしれません。
 しかし、十字架のイエス様はそうではなかったのです。

 私たちは戦争反対の意思表示をするのをためらっているかも知れません。でも、イエス様はあるとき、私に反対しないものは味方であると言われました。これを今回の戦争に置き換えるなら、ロシアの侵攻に反対しないものはロシアの味方であるということができます。何らかの形で反対の意思表示をしてはいかがでしょうか。
 イエス様を訴える事に反対した議員方もおられたと聖書は述べています。でもその声は小さく、かき消されてしまったのです。

司祭の言葉 4/3

四旬節第5主日

 今日の福音の背景にあるのは、ユダヤ人たちのイエスに対する激しい妬みです。下役たちを逮捕に向かわせましたが、彼らもイエスについて、「いままで、あの人のように話した人はいません」といって、手ぶらで戻ってきました。
 何とかしてイエスをおとしいれ、捕まえようとする彼らは、考えに考えた挙句、このシナリオを作ったのです。
 イエスの前に連れてこられた女は、そのために利用されたのです。姦通の現場を押さえられた女・・という設定のために、女を見張り、ようやくその現場を押さえたというわけです。そして、とうとうイエスを窮地に陥れる時が来たと、意気揚々とイエスの前に女を連れだしたのでしょう。
 石殺しを命じれば、死刑の権限はローマにあるとする、ローマの支配権に反することになりますし、民衆もイエスの答えに失望するでしょう。許すと言えば律法に反することになります。

 今回のロシアによるウクライナ侵攻についても、プーチンはウクライナが化学兵器を作りロシアを攻撃しようとしている、核兵器を作りロシアを攻撃しようとしている・・・そのようなシナリオを作り、フェイクニュースを流し、ロシア侵攻の口実としたとの事

 「罪を犯したことの無いものが、まずこの女に石を投げなさい。」今日の福音は姦通の女に石を投げつけようとする、自らを正しいと信じているものに向かってのイエスの言葉でした。自分は律法を守っていると信じるパリサイ人は、律法を守れない人々に厳しい態度で望みました。
 教会内でも周りの人にきびしい人がいるでしょう。善意がぶつかり合い、軋轢を生みます。聖書は初代の教会内部にも、異邦人にきびしい律法を守らせようとする人達が居て、論争があったことを伝えています。
 わたしたちは皆罪人です。しかし、いつのまにか自分が全く正しいものかのように行動し、人を裁きます。

 そのような、大人たちの偽善に苦悩する若者たちがいます
 時々若者は自分の望むこととは正反対のことをして自分自身を痛めつけることがあります。自分の存在を確かめるために、自己主張のために、自分を本当に愛しているのかどうか・・・ 親の愛情を確かめるために。
 大人たちはいつも試されていると考えるべきです。

 かつて病院に見舞った一人の女性は、スタッフを試そうとして2階から飛び降りて圧迫骨折をしました。下半身麻痺 もう足が動かないと言われていましたが、リハビリで左足が動くようになり、立つ訓練も始めていました。 

 彼女もいつもみんなに振り向いてほしくて 彼女は人が見ているときに二階から飛び降りました。

 愛を求めながら、愛に反する行為に走った少女も居ます。両親はカトリック信者でした。援助交際という名前は、オブラートのようです。それが売春行為であることを感じさせません。中学2年生でした。

 なんのために?・・・理由はわかっています。母親に自分の方をむいて欲しくてでした。お金を貯めて一緒に生活したかったからでした。 

 家庭には一人一人の個性を生かす場所になって欲しいと思います。容積が同じでも、丸い器に四角いものを四角い器に丸いものを入れようと無理に押し込もうとするなら、器は壊れてしまいます。無理をしすぎています。
 大人の考えを押しつけ、望まぬ方に無理矢理曲げようとする・・のではなく、一人一人の個性が花開くように、子供たちの可能性を見つけ、それを引き出してゆくのが教育なのです。
 大人たちは指図し、道をつけすぎます。答えを先に出してしまう。
 施設職員に大切なことはあまり、自分がやりすぎないことです。
 同じことは家庭でも言えます。

御言葉に戻りましょう。

「罪を犯したことの無いものが、まずこの女に石を投げなさい。」今日の福音は姦通の女に石を投げつけようとする、自らを正しいと信じているものに向かってのイエスの言葉でした。
 姦通の女を捕まえた人々が、年長者から始まって、一人また一人と立ち去った後、イエスと女だけが残ります。イエスは罪を犯したことの無い者ですから、女に石を投げつけることが出来る唯一の方です。

 しかし、イエスは許しの言葉を投げかけ、わたしもあなたを罪に定めない。これからは、もう罪をおかしてはならない・・といたわり、励まします。
 自分の弱さを認め、神の義にふれることを望む者を神は許します。みずから造った者を滅ぼすことは神の本意ではなく、神の栄誉を褒め讃えることが出来るようにと、神との生きた関わりに招き入れることこそ神の望みだからです。