司祭の言葉 9/26

年間第26主日(B年)(マルコ9.38~43、45、47~48)

 9月1日に経済評論家内橋克人さんが亡くなり、先日「未来への遺言」と言う追悼番組が放映されました。その中で氏は「戦前の、お上に疑問を提示することができない、頂点同調主義が、戦後も続いている。それがどんなに危ないか。」と警鐘を鳴らしていました。 

 わたしたち人間は、「主流派」に流されていきやすい傾向があります。 はじめは不本意ながらも、それに「慣らされていく」と、自分の中でもいつの間にか「信念」となっていき、新しい動きに対しては「ノー」という態度をとるようになります。

 今日の福音の弟子たちはまさにこうした態度をとります。
 イエスの時代、すべてのものが悪霊を信じていました。すべての人は、肉体的精神的病気は悪霊の悪意ある影響によると思っていたのです。さて、この悪霊をおいはらう一つの方法がありました。その悪霊よりも有力な霊の名を知ることができれば・・。そしてそれを唱えれば追い出せると。実際イエスも、「悪魔の頭、ベルゼブブによって追い出しているのだ」・・・と言われています。

 仲間でないものたちが、イエスの名によって悪霊を追い出しているのを目撃した弟子たちは、「その人はわたくしたちの仲間ではないのです」(38節)と、イエスさまに訴えます。さらに「そのためにわたくしたちはそれをやめさせようとしました」とまで言います。
 イエスさまはそれに対して「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である」(40節)と注意されます。

 ここには寛容の教えがあります。すべての人は自分の思想を持つ権利を有します。
 全ての人は彼自身の結論や信仰に到達するまで、物事を考え抜き、考えをまとめる権利を持っています。 第二バチカン公会議は、信教の自由に関する宣言を発布しました。
 本当の救いを願うといういことは、狭いグループ意識、選民意識、人間的な面子に左右されてはいけないのです。これがイエスさまのメッセージです。
 今日の第一朗読も、預言状態になっている仲間の姿を見たヨシュアが、モーセにやめさせてくださいと頼み、あなたはねたむ心を起こしているのかと注意される場面が語られています。

 その点仏教のほうが寛大かもしれません。 3年ほど前永平寺に行きましたが、多くの修行僧がおりました。かつてカトリックの神父たちもそこで修行し、イエズス会の門脇神父は印可を受けていますから。 修行を終え指導者となることのできる印です。 秘跡ではありません。加藤神父も僧籍にありますから、神父であり和尚でもあります。カトリックの神父が祭服を着て参列すれば、葬儀の時、内陣に入れてくれるそうです(加藤神父談)
 でもカトリックの叙階式では、山野内司教の友人のお坊さんを内陣に入れることはありませんでした。

 そして、マルコ9章41節「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」という言葉も、狭いグループ意識に凝り固まらないイエスの心を示しています。
 イエス様の深いやさしさを理解せずに、自分の思い込みで語ってしまうときに、私たち自身がつまずきの石となり、イエスのそばに来る人を遠ざけてしまうことになります。イエス様はどのようなお方であったのか、神の子と理解するだけではなく、その慈しみの心も理解することのできる恵みを祈りましょう。

 いよいよ来週は共にミサを捧げることができますね。パンデミックで苦しむ世界の上に、主の恵みを祈りましょう。
 そして今日は「世界難民移住移動者の日」でもあります。
 紛争や迫害により故郷を追われている人は、8000万人を超えているそうです。
 イエス様もマリア様ヨゼフ様に抱かれて、エジプトに避難した経験を持っています。
 祈りましょう。彼らの痛みを自分の痛みとして感じることができますように。

司祭の言葉 9/19

年間第25主日(マルコ9:30-37)

 皆さんお元気でしょうか。今日から公開ミサが行われるはずでしたが 、緊急事態宣言が延長されたので、今日のミサも非公開となりました。司祭は春日部教会の皆さんを覚えてミサを捧げますので、どうぞ心を合わせてお祈りください。

 このところなかなかチャンスがないのですが、小生は映画を見に行くとき、いつも席は一番後ろに座ります。最近の映画館はすいているのですが、それでも後ろに人がいると落ち着かないのです。・・やはり自分にとって一番いい席を取っているのだろうと思います。
 教会においでの皆さんも、すわり心地の良い場所があって、いつもそこに座るという事になるのではないでしょうか。観劇では前の方がS席で皆さん前に座るのを喜びますが、教会ではどう言う訳か皆さん後ろを好みますね。教会でも前の方がイエス様に近いのだからS席だと思うのですが・・・。

 今日の福音朗読は、二度目の「死と復活の予告」から始まっています。「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(9・32)とありますが、一度目の予告のあとに弟子の代表であるペトロが「サタン、引き下がれ」(8・34)と叱られたあとのことですから、弟子たちが何も尋ねられないのはよく分かります。また叱られるのではないかと思えば、尋ねたいことも尋ねられないものです。


 弟子たちはそれでも「だれがいちばん偉いか、良い場所をとるか」を途中で議論していました。・・・メシアについて理解していなかったからです。

 自民党の総裁選の立候補者が4名でそろいました。誰も過半数が取れず、決選投票になるだろうと予想されていますが、総裁が決まれば組閣が行われ、誰がどのポストに就くか、色々取りざたされることでしょう。だれがボスなのかという議論は人間に限ったことではありません。猿山のサルたちも、だれが一番よい場所をとるか、ボスにふさわしいかをいつも争っています。
 冷めた言い方をすれば、弟子たちが熱中していた議論は、サルがいちばん問題にしている程度の話題だったわけです。「途中で何を議論していたのか」というイエスの言葉は、「早くそんな愚かな議論から離れなさい」と言っているかのようです。

 そこでイエスは、人間が最も高められるような形でいちばんを目指す道を示そうとされました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(9・35)。 そして、その高い理想は自分たちの足下に、大人たちにまとわりつく子どもたちを受け入れることにあるというのです。

 先日、幼稚園の門を入った三歳児が、後ろを振り返った後、急に手提げ袋を放り出し、家に帰りたいとぐずり始めました。元気よく門をくぐり、お母さんに手を振ろうとしたら、お母さんは後ろを振り返らず行ってしまったのです。そして先生が来て抱き上げなだめて落ち着きました。子供はちょっとしたことで機嫌を損ねたり、泣き出したりします。
 イエスは「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた」のでした。(9・35)「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(9・36)。

 持っている力を見せつけるような人になるのではなく、小さな子供、つまり弱く小さな相手を寛大に受け入れる人になるように・・と教えられたのです。
 イエスの時代、律法を守る人間かどうかが人の評価の基準でしたから、子どもは「無能力者」の代表のようなもので、子どもであること自体には価値がないと考えられていたと言います。そのような考え方は、現代でも皆無ではありません。
 ユニセフによれば、人身売買によって兵士にされたり、強制労働や強制結婚、臓器売買の犠牲にされたりする子供の事例が、各国から報告されているそうです。

 小生は小さな子供が苦手です。小さな子供の動きにはハラハラさせられますし、小さな子供を受け入れるのは大変です。
 でも、イエス様の教えはこうなのです。
 子どもを受け入れてみること。そこからすべてが始まります。小さな子どもに大切に接してみること。愛情深く謙虚になって相手に仕えてみることが、ねたみや利己心から脱却するための手がかりとなるのです。

 迫害されている弟子や助けを必要としている小さな人々と、「子どもを受け入れる」ことはつながっています。この小さな人々を大切にすることこそが、イエスと神を大切にすることだと、神によって評価されるのです。

 イエスがここで言われるのは私たちのために何か出来る人々を求めるのではなく、
私達がしてあげられる人々を求めるべきであるというのです。
 イエスは同じ事を他の場所で「これらのいと小さき兄弟の一人にしたのはすなわちわたしにしたのである」と表現しておられます。
「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(9・36)。

肝に銘じておきましょう。

皆様のご家庭の上に、主の恵みが豊かに注がれますように ❕

司祭の言葉 9/12

年間第24主日 (マルコ8章27-35節)

 ある人物を正確に捉えるには、時間がかかります。
 セウイにいたYさんもその一人でした。本人は、自分の病気は先生になぐられた為だと言っていましたが、精神障害と知的障害があると診断されていました。  資料ではIQ38 知的な能力は7才程度でした。 
 皆さんの思うところでは、この人はどんな本を読み、どんなテレビ番組を好むと思いますか?  7才の子供の好むテレビや本を想像するでしょう? ところが、私は本当に知的障害者かなと疑問に思うのです。歴史に興味があって、 毎日、新聞のテレビ欄を見て世界遺産の番組や歴史ドラマを探してみていたのです。かつて、大河ドラマ篤姫が放映されたときなど・・「篤姫のお父さんの島津斉彬(なりあきら)」と言ったら 「父は忠剛(ただたけ)で斉彬は養父です」と訂正されました。しかも愛読書は文藝春秋なのです。

 2000年前ユダヤ人社会に彗星のように登場したイエスは、人々に強烈な印象を与えています。説教の力強さに人々は驚き、病人をいやすイエスの力に人々は興奮しました。 イエスの噂は 村から村へ町から町へ そして一時の興奮から、やがてイエスは何者なのだろうと言う問が浮かんできます・・当然、問に対する答はさまざまで・・人々の戸惑う姿をマルコはありのままに報告しています。  
 気が変になっている  汚れた霊にとりつかれている 大工の子ではないか
 洗礼者ヨハネがよみがえったのではないか エリアではないか 預言者の一人ではないか・・・→ 人々にはイエスの正体をつかみきれなかったことがわかります。

 それでは弟子達はどうでしょう。 イエスの正体がつかめていたのでしょうか。

 イエスは次に弟子たちに向かって、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけました。ずっとイエスと共に歩み、イエスのなさることを見てきた弟子たち自身の判断を迫ったのです。  その時、「あの人はこう言っています」とか「この人にこう教えられました」ではなく、自分の判断として、自分とイエスのかかわりの中で、自分にとってイエスという方はどういう方なのかを答えなければならないのです。
 これは、わたしたち一人一人への問いかけでもあります。

 すかさずペトロが答えます 「あなたはメシアです」
「メシア」はギリシア語になおすと「クリストス」 「メシア」はアラム語で「油注がれた者」と言う意味です。サウル王もダビデ王も預言者サムエルから油を注がれ、ソロモン王は祭司ツァドクから油を注がれて王になりました。油は王の使命を果たすために神の霊が与えられることのシンボルでした。 のちには、「油注がれた者」は、神から遣わされる「救い主」を意味するようになっていきました。

 イエスはペトロの言葉を否定しませんでした。イエスはメシアであることには違いありません。しかしペトロの頭にあるメシア像と、イエスの頭にあるそれとは雲泥の差がありました。それはそのすぐ後のペトロの言葉によって明らかになります。

 ペトロが描き人びとが期待していたメシアは、強烈な影響力を持って人々の心を捉え、群衆を一つに集結させ、ローマの支配から解放し、自由と独立を与える力強い存在です。
しかし それは人間の思いであり 神の思いではありません。

「人の子は多くの苦しみを受け、・・・殺される。」

 この言葉に驚いたペトロはイエスをいさめますが
 イエスは、厳しい言葉で「サタン、引き下がれ」といいます。サタンは人間を神から引き離す力のシンボルです。神の意志を行なおうとしている受難の道から、イエスを引き離そうとすることはサタンの働きであるとの意味です。
 イエスはペトロのメシア像をうち砕き、真のメシア像の理解にペトロを導きます。

 そして、イエスはご自分の十字架の道を弟子たちにも示します。十字架刑に処せられる人は処刑場まで自分の十字架を担いで行きました。
 「自分の十字架を背負ってイエスに従う」とはどういうことなのでしょうか?

 十字架はない方が良いのです。私たちは弱いですから。 主の祈りで、「試練に遭わせないでください」と祈る様にとイエスは勧めています。
 イエスも出来るならこの杯を遠ざけて・・・と祈っています。
 でも与えられたなら、それを喜んで担う覚悟が必要なのです。イエスをチネレのシモンが助けたように、私たちの苦しみをイエスが助けてくださる・・との信仰を持って。

 新型コロナウイルスの緊急事態宣言は9月30日まで延長されることになりました。今日はその、試練に立ち向かう力が与えられるように祈りましょう。

司祭の言葉 9/5

年間第23主日B年

 今日の第一朗読では、6世紀にバビロンに捕囚となっていた人々に、ユダの回復を告げるイザヤ書の言葉が読まれていますが、この預言はイエスの時代にはメシア到来の時のしるしと考えられるようになっていました。そして盲人が見えるようになり、歩けない人が歩けるようになり、重い皮膚病も癒されるイエスの業は、その時が来たことを示します。

 今日の福音は耳が聞こえず下の回らない人の癒しです。イエス様が当時の話し言葉アラマイ語で開け(エッファタ)とおっしゃると、たちまち耳が開き、舌のもつれが取れて、はっきり話すことが出来るようになった出来事が語られています。

 エッファタ・・小生にもこの言葉がほしいなと思います。最近幼稚園で子供を迎えるときに右の耳に集音器をつけています。子供たちが門を入ってくるとき「おはようございます」と声をかけますが、なかなか返事のかえってこない子がいると思っていました。あるときふと、子供は言っているのに小生の耳が聞こえていないのではないかと思い、集音器をつけました。すると何人かは、か細い声で「おはようございます」言っている子もいるのです。小生の耳がその声をとらえることが出来なかったのですね。子供の声は集音器で聞こえるようになりましたが、心の耳も最近聞こえにくくなっているかもしれませんので、もっと聞こえるようになる必要があると感じます。

 イザヤ書の「荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の湧くところとなる。」と言う言葉には、フランスの作家ジャン・ジオノの短編小説「木を植えた男」の物語が重なります。
 南フランスのプロバンスの、人も離れてゆくような荒野で、一人黙々と毎日100個のよいドングリを選び一晩水につけ、鉄の棒で大地に穴をあけ、それを埋めていた男の物語です。荒野でこの男にあった青年が再びこの地を訪れたのは、5年の後。第一次世界大戦が勃発し戦場に出た青年が心を癒すために訪れたのでした。すると荒れた地には楢の木が育ち始め、10年前に植えられた木は大きく育っており、次第に森が再生し水が湧き出るようになり、それが人々を引き寄せ、新しい村が再生していったという話です。

 バビロンに捕囚となっていたユダヤ人は、ペルシャ王クロスの時にエルサレムに戻って神殿を再建することを許されました。荒れ果てたユダの地に戻ったユダヤ人たちは、エルサレムの神殿を再建し、エルサレムの町も民族も命を吹き返したのです。同様に、イエスによってもたらされた福音は、人々の心に愛を取り戻し、新しい神の国の建設の始まりを告げるものとなります。