司祭の言葉 6/27

年間第13主日 ヤイロの娘の奇跡の話

 会堂司のヤイロがイエスに助けを求めた話です。イエスに最も反対していたのは既成のユダヤ教の指導者たちでした。心がかたくなで、自分たちと少しでも考え方の違う人には反対しました。それは今日に至るまで変わっていません。同じ宗教を奉じる者たちの中での宗教的対立は消えることがありません。日本の宗教の中でもそうです。
 あるときプロテスタントの牧師さんから電話がありました。一人の女性のために払魔式をしてほしいと言うものでした。カトリックの昔の儀式では洗礼前に払魔の式がありました。カトリックの司祭に祈りを願ってきたのですから謙遜な方だと思いました。もちろん承諾しお祈りいたしました。

 ヤイロは会堂司、ユダヤ教の指導的立場にある人です。イエスに助けを求めることをまわりの人たちは反対したことでしょう。それを押し切ってイエスの下に来ました。何としても助けたかったのです。イエスが会堂司の家に行く間に一つの話が挿入されています。その対応をしている間に、「お嬢さんはなくなりました。もう先生を煩わすには及ばないでしょう」との知らせが入ってきました。この知らせがいかにも早いのは、どうしてもイエスに来てほしくなかった者たちがいたからでしょう。

 ヤイロは娘を生かしてほしいと願い、イエスも生かしたいと思いました。そして死んだはずの少女に奇跡が起こったのです。

 今日、奇跡をおこなうことができるのは、お医者さんだと思っています。でも患者はそのお医者さんとの出会いが作れなければ、癒しを受けることもできません。出会いのチャンスを作る。・・その役目なら私たちも引き受けることができます。
 国境なき医師団(MSF)がインドでも支援に当たっていますが、そこから支援を求めて次のような知らせが来ました。

 現場で医療チームリーダーを務めるアパルナ・イェルが、その必要性を語っています。

 MSFがムンバイで支援している薬剤耐性結核の患者の多くは、仕事を求めて地方からムンバイにやって来てスラムに暮らしている人びとだ。コロナで日雇いの仕事がなくなると、故郷に帰らざるを得なくなる。しかしこれは、大切な治療を途中で中断することにつながる。地方では必要な薬を手に入れることが難しいからだ。
そのためMSFは、ムンバイから離れる患者と連絡を取り合い、故郷の保健所に薬を送って治療が続けられるよう支援している。また、電話でのカウンセリングも行い、コロナで仕事を失いながら結核治療を続ける患者たちの心のケアにもあたっている。

 いま、多くの医療資源が新型コロナ対応にあてられているため、結核やHIVなどを患う人びとの治療環境は厳しくなっている。そのような状況下でも必要な治療を続けられるよう、それぞれの患者のニーズに合わせたサポートを行っていく。 

 世界中には助けてほしいと願う人がおり、イエスは助けたいと思っているに違いありません。しかし今それを行うことができるのはわたしたちなのです。

司祭の言葉 6/20

年間第12主日B年

 今日の福音で疑問に思うことがあります。何故ペトロたちは嵐を恐れ、イエスを起こしたのでしょうか・・と言うことです。今回の嵐はガリラヤ湖固有の嵐だといわれています。その地形が嵐を呼ぶのだそうです。

でも彼らは漁師ですよ。何度もそのような嵐には遭遇しているはずです。何をそんなに恐れたのでしょうか。しかも起こした相手はイエス、大工ですよ。船のことなど知っているはずはない。漁師のメンツにかけて、何とかしようと思うはずです。でもイエスを起こした。なぜでしょうか。船を出すように言ったのはイエス、確かに責任はあります。とは言え、疑問です。漁師が白旗を上げたのですから。いくら恐怖にかられたとはいえ、理解できません。あるいは船出したのはイエスのせいなのだからと、文句を言いたかったのでしょうか。

 人間はその誕生以来常に恐怖にさらされてきました。周りの獣たちはみな牙と鋭い爪、そして嗅覚を持っています。弱い人間はいつも逃げ回り、その中で道具を工夫し、火を発見し、文明を発展させ恐れを克服してきました。原初の人間にとって恐怖を持つことは、大切なことでした。それによって身を守り、生き延びてきたのです。
 この恐れを利用し金儲けをたくらむ人たちがいます。オレオレ詐欺がそうです。息子が孫が窮地に陥っている・・そう思わせて、その窮地から脱するためにお金が必要だといいくるめ、お年寄りからお金をだまし取る、許せない輩らです。
 先日は私のところに一通のメールが来ました。私のパソコンを支配し、自由に操作し、ついているカメラも自由に操って、部屋の中をくまなくのぞき見し、動画を撮った。これをインターネット上にばらまかれたくなければ、ビットコインで1700ドルほどを振り込め。そうすればすべてを廃棄し、二度と侵入しないなどと言うものでした。個人情報が流されるという恐れを持たせ、金を奪おうという手口です。

 聖書は「主を恐れることは知恵の初め」・・と言います。(箴言1の7)
 正しい恐れ、それは大切なことですが、むやみに恐れる事、不安にかられることを主は戒めておられます。主がともにおられる限り、わたしたちは主に信頼すべきなのです。
 今日の福音の要点は、イエスが嵐を鎮めたということよりも、弟子たちの弱さを通じて、神への信頼の大切さが語られていることです。

司祭の言葉 6/13

年間第11主日 (マルコ4章26-34節)

 聖書学者エレミアスは、聖書のたとえ話はイエスに対する非難などに対する弁明として語られていると言います。

 イエスの集団は、漁師や税吏、罪びとたちの集まる集団でした。イエスのもとに集まった人々はほとんど病人とその家族のようです。そして、イエスはこの人々を指して、「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」(3の34)と宣言されました。
 神の国のために戦う戦士になろうと考えていた「熱心党のシモン」(マルコ3の18)のような弟子たちは、この現実をどのように見たのでしょうか? 多くの人々から見ればイエスの周りで起こっていることはあまりにも小さく、弱々しい人の群れでしかなく、神の国からほど遠いものに見えたと思います。

そしてイエスは言います。
「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」  
 フランシスコ会訳は「どうしてそうなるかをしらない」
 日本聖書協会訳も「どうしてそうなるのかその人は知らない」同じ文章を、
 講談社のバルバロ訳は「気づかぬままに」と訳しています。
どうしてそうなるかその人は知らない と言う訳と
気づかぬままに と言う訳では かなり意味合いが違います。
 そうなるか・・というのは、成長の理由を指しますが、気づかぬままに・・というのは、そのことに気を配らないうちに・・いつの間にか・・・という意味になります
 ラテン語訳は 「dum nescit ille」 彼が知らないうちに・・いつの間にかです。

 次の「からし種」のたとえ マルコでは野菜 マタイ・ルカは木と表現されていますが、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張ります。
 実は、日本語訳には原文にはない言葉が付け加えられています。 葉と巣です。
 フランシスコ会訳は「その陰に鳥が宿るほど」
 日本聖書協会訳は「その陰に鳥が宿るほど」
 バルバロ訳は「空の鳥が陰に身を寄せるほど」と訳しています。
「からし種」の特徴は、その成長力です。わずか1.5ミリほどの小さな種ですが、ガリラヤ湖畔においては、2.5~3mほどになるそうです。
 神の国も同様、人間の反逆や不従順にもかかわらず、神の働きは続いてゆく。
 そこには達成の日があることを告げています。収穫の日、よき実は取り入れられ、雑草と毒麦は捨てられる。天の御国は、「からし種」のように、小さくて人々に気づかれないものであるが、結果的には、非常に大きなものに拡大し、この地上に満ちわたるものとなることが明らかにされています。

イエスに対する周りの人たちの非難や中傷、そんな中でイエスは今日のたとえ話を語っています。焦らないで神に任せなさい。神の業は素晴らしい・・そうは聞こえませんか。

司祭の言葉 6/6

キリストの聖体B年(マルコ14章12-16, 22-26節)

 司祭になって間もない40数年前、箱根の強羅温泉でベテル聖書研究会という、講師養成講座に参加しました。カトリックとプロテスタント両方が参加したエキュメニカルな研修でした。
 一週間の研修が終わって帰るバスの中で、隣に座ったプロテスタンド教会の牧師が話しかけてきて、しみじみと、カトリック教会はご聖体があるからうらやましいといいます。いつもキリストの現存を感じることができる。プロテスタントは最後の晩餐の記念はするが、終われば何も残らない。カトリックは神の恵みのしるしとしてのご聖体がいつも聖堂に安置されているので、いつもそこで神の現存を感じることができる・・・とも。

 お寺さんに行くと、本堂には仏像が置かれ礼拝の対象となっています。ご本尊と言うこともありますね。ご本尊と言う言葉を調べると、「ご本尊と言うのは寺院や仏壇の中で中央に安置している、信仰の大切な対象となるものです。同じ仏教でもそれぞれの宗派やお寺によって、ご本尊は異なります。例えば浄土宗ではあみださまのほか「南無阿弥陀仏」の名号をご本尊とすることもあります。日蓮宗では「南無妙法蓮華経」を中心とした曼荼羅を安置します」とあります。

 ところで私たちの信仰の対象であるご聖体は「ご本尊」でしょうか?
 どう思われます?
 所沢教会は今小手指と言うところにありますが、かつては、今のNTTのある「星の宮」と言うところにありました。今から47年前の話です。当時の岡神父さんはNTTに請求する移転費用の中に、ご本尊の移動のお金も入れました。私たちの信仰の対象ですから。
 NTTはカトリック中央協議会のほうに、「ご聖体はご本尊かどうか」という問い合わせをしました。返事は、「ご本尊ではない」というものでした。そして移転費用は出ませんでした。
 ご本尊かどうかは別として、ご聖体は私たちの信仰の根幹にかかわるものです。

 申16章には過ぎ越し祭の記述があります。
 「アビブの月を守り、あなたの神、主の過越祭を祝いなさい。アビブの月のある夜、あなたの神、主があなたをエジプトから導き出されたからである。あなたは、主がその名を置くために選ばれる場所で、羊あるいは牛を過越のいけにえとして、あなたの神主に屠りなさい。その際酵母入りのパンを食べてはならない。七日間酵母を入れない苦しみのパンを食べなさい。」 (青穂の月 カナン人の暦の古い呼び名 バビロン歴では1月 ニサンの月 太陽暦の3-4月) 

 今日の福音は、イエスと弟子たちとの最後の晩さんが「過越の食事」であったとはっきり述べています。新約聖書は、イエスの受難を過越祭と結びつけ、イエスの死が人々を罪の支配から解放し、神との和解をもたらす「新しい過越」の生贄であると考えています。

  「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えた」 
 イエスはここで特別なことを言いました。「これはわたしの体である」 ・・「これはわたしだ」という意味です。これを食べることは、イエスと一つに結ばれることなのです。

 また、「契約の血」は今日の第一朗読、出エジプト記24章8節にある言葉です。
 「これは・・・わたしの血」、ここには「多くの人のために流される」という言葉が加えられています。「多くの人」はヘブライ語的な表現で、意味としては「すべての人」ということで、イエスは自分の死を、すべての人の救いのための死であるとおっしゃっているのです。

 古い契約は十戒と言う10の掟を定めました。 そして新しい契約は「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」というただ一つの掟を私たちに示しています。

 私たちはご聖体をいただき、イエスと一つに結ばれることによって、この掟を守ることが可能となるといってもよいでしょう。イエスのように愛する・・・並大抵のことではありませんから。

 「新しい契約」はイエスによって実現しました。 しかし、最終的にわたしたちが神と完全に一つに結ばれるのはまだずっと先のことです。そこに向かって歩むための糧として、ご聖体が与えられている事を感謝し、おそれずに主に近づきたいと思います。