司祭の言葉 3/28

受難の主日B年

 皆さんおはようございます。今日から聖週間が始まります。この聖週間の間にイエスの受難のカ所が2回朗読されています。まず今日が一回目、A年はマタイから、B年はマルコ、C年はルカから、そして聖金曜日はヨハネからです。受難の主日は枝の主日とも呼ばれ、ミサの初めに枝を祝福し、イエスのエルサレム入城の場面が朗読されます。これも4福音書に記述がありますので、A年B年C年それぞれ、マタイマルコルカからとられますが、B年はヨハネを選んでもよいことになっています。それで今日はヨハネから選びました。

 ところで、どうして受難の朗読が2回もあるのでしょうか、不思議に思ったことはありませんか? 今日は福音書が2カ所読まれるのですがそれも疑問ではありませんか?
 今日私たちはミサ前に、枝を打ち振ってイエスを迎えた民衆の役割を演じました。そして受難の朗読では、イエスを十字架につけろと叫ぶ民衆の役割をも演じました。何故でしょうか。実際にエルサレムの民衆がイエスに対してとった態度を再現し、そのとき何が起こったのかを、私たちに思い起こさせるためです。

 その経過をしっかりと辿って見せているのが、ヨハネです。
 過ぎ越し祭の六日前イエスはベタニアに行き、よみがえったラザロと食事を共にします。このときマリアは、300デナリオンもする高価なナルドの香油を持ってきてイエスの足に塗ります。「その翌日」とありますから、イエスがエルサレムに入城したのは過ぎ越で、翌日が「用意日」と言われていますから過ぎ越し祭の二日前、木曜日ということになりますが、イエスは弟子たちの足を洗い、新しい掟を与え、ゲッセマネの園に行き、ここで捕らえられ、即日裁判にかけられるのです。

 この時、三日前にイエスを歓呼の声で迎えた同じ群衆が、「イエスを十字架につけろ」と叫んでいますので、ホザンナと言ってイエスを迎えた三日後、舌の根も乾かないうちにイエスから離反していることがわかります。

何と激しい変わり身でしょうか、しかし、万歳と歓呼して迎えた者と、十字架にかけろと叫んだものは別人ではない、同じ人たちなのです。まさに、それが私であり、それがあなたの姿なのですよ・・と語り掛けているのです。激しい叫びに付和雷同する群衆はまさに私の姿。あるいは付和雷同していないとしても、拱手傍観している私の姿がそこにあるのです。

 わたしたちがいまなお回心していないとすれば、イエスの愛の掟を無視しているとすれば、十字架につけろと叫んでいる群衆となんら変わるところがないのです。
 ところで、自分自身に問いかけてみましょう。

この四旬節の間、愛の献金は実行してきましたか?
苦しむ隣人に想いを馳せ何か具体的に行動しましたか?
拱手傍観している自分がいましたか? 

今日持ち帰る枝は、私自身の忘恩の想起と回心の実行を迫るものでありたいですね。

司祭の言葉 3/21

四旬節第5主日B年 (ヨハネ12章20-33節)

  過越祭のときで、ギリシア語を話す異邦人がイエスに会いたいとやってきます。頼まれたフィリポは、アンデレと一緒にイエスのところに行ってそれを伝えました。するとイエスは「人の子が栄光を受ける時が来た・・・」とおっしゃったとあります。この個所はイエス誕生の時に東方の博士たちがやってきたことを想起させます。
 イエスのエルサレム入城に出会い、人々がメシアだと叫んでいるのを聞いた彼らは、真理を求めていた人たちなのでしょう。ギリシャ人は古代からソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの哲学者を輩出し真理を探究していました。会いに来た彼らも、イエスに真理とはなにか尋ねたかったのかもしれません。
 イエスは彼らの到来に「時が来た」ことを感じ取ります。カナの婚礼の時ブドウ酒がつきたことを知らせた母に向かってイエスは「わたしの時は未だ来ていません」(2の4)と語り、イエスの兄弟達が仮庵の祭りが近づいているからエルサレムに行ってあなたの力ある業を公に示したらどうかとそそのかしたときにも同じ言葉で答えたイエスは(7の6)

・・今、「人の子が栄光を受ける時が来た」と明確に告知します。それは十字架の時です。

 そしてイエスは一粒の麦の話をします。
そろそろジャガイモの植時です。今植えれば夏には収穫を迎えます。
畑でジャガイモ掘りをした時沢山の子芋にまじって茎のところに変色した種芋の姿がありました。触るとくしゃっとつぶれてしいます。全ての養分を与えて役目を終えた芋姿です・・。
多くの母親は子どもに全てを与え尽くし、小さくなって行きます。

   たはむれに 母を背負いて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず 石川啄木

 今、杉戸近辺の麦畑には青々とした緑が広がっています。その根元には役目を終えた種もみの殻があるに違いありません。そして5月末には豊かな収穫の時を迎えるはずです。
 イエスのいのちはまさにそのような命でした。
 イエスは生かすために命を与え、父なる神に豊かな実りをもたらす・・・そのような命であったことを示しています。
 最近のニュースは自分の主張を通すために、他人の命を奪って平然としている人たちの多いことに慄然とします。ミャンマーでも軍部が自分たちの主張を通すためにクーデターを起こし、多くの市民の命が犠牲になっています。1995年3月20日に起きた地下鉄サリン事件から26年になりますが、この事件でも多くの人の命が奪われ、今なお後遺症で苦しんでいる人たちがいます。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(1ヨハネ4章9節)
とヨハネは語ります。イエスの十字架の時は、イエスが究極の愛を示すことによって、「神が愛である」ことを完全に現す時なのです。 ヨハネは十字架のみじめさや悲惨さには目を止めません。ヨハネが私たちに指し示したいのは、そこに現れる「神の愛」なのです。
 こうしてイエスは神の栄光をあらわしました。私たちもまたこのイエスに従ってゆくとき、共に神の栄光をあらわすことになります。

司祭の言葉 3/14

四旬節第4主日(ヨハネ3章14節-21節)

 今日はバラの主日です。今日の入祭唱は、「神の民よ、喜べ。悲しみに沈んでいたものよ、喜べ。」「神は豊かな慰めで、あなた方を満たしてくださる」(イザヤ書66の10.11)と謳います。皆さん十分に疲れていますよね、コロナコロナで一年になりますから。でもこのままいけば、今年は復活祭を祝うことができそうですね、そして復活祭には、春日部教会で一人のご婦人の洗礼式も予定されています。大きな喜びです。

 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された・・・イエス様はそう述べています。ですから勇気をもって進みましょう。

 ところで、皆さんは蛇を毛嫌いしていませんか? 何故嫌いなのでしょう、地べたを体をくねらせながら這いずり回っているからでしょうか。もしかしたら、楽園物語の中で、人間の誘惑者として描かれているからでしょうか。
 今日の福音はそのような先入観を打ち砕くものです。なぜなら、木に挙げられた蛇は十字架のキリストのシンボル、救いのシンボルなのですから、蛇はもっとみんなに愛されてもいいのではないかと思います。
 蛇のペンダントを首に下げるなどと言うのはどうでしょうか、だってみなさんが首に掛けている十字架は死刑の道具なのですよ。

 民数記の21章に燃える蛇の話があります。あまりにも身勝手あまりにも恩知らずなイスラエルの民を懲らしめるために、神は砂漠で燃える蛇を遣わしました。人々はこの蛇にかまれると体が燃えるような痛みを感じ苦しんで死んだといいます。
 民が回心の情をあらわしモーセを通じて許しを願うと、神は青銅の蛇をつくり、旗竿の上に掲げて、これを仰ぎ見るようにさせます。そしてこれを仰ぎ見るものは癒されたのです。イエスご自身が述べられていることから、この蛇こそは十字架のキリストのシンボルであることが解ります。蛇は脱皮をすることから復活のシンボルでもあるともいわれています。

 イエスはニコデモに、「神はその一人子をお与えになったほどに世を愛された」と述べています。
 今日のみ言葉では、大切な点が三つあります。
 まず、神様が「世を愛している」こと、「独り子をお与えになった」ということ、そして「一人も滅びないで」ということ。ここに神の愛が余すことなく表されています。神様は、たとえそれが神様に逆らい、神様に背いてばかりいるような人であっても、滅んでほしくはないと思っておられるのです。

 イエス様は 「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者か皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」とおっしゃっています。
 神がわたしたちを滅びから救うためにイエスを遣わされ、このイエスによって罪の許しを得た・・ということを信じて十字架を仰ぎ見るものはすくわれる・・・信じる者には命が与えられるということです。
 言い換えれば、「信じる者は滅びることはない」と約束されます。

 私たちは時には罪を犯してしまったり、失敗をしてしまったり、不信仰になってしまったりします。しかしそんなときでも「御子を信じる者は、十字架の愛を信じるものは滅びることはない」のです。

 ここが大切なのですが、「私たちの行ないに依るのではなく、神様の愛が無限の愛か注がれているから、私たちは決して滅びることはない」のです。

 それは、私たちか駄目になってしまわないように、神様の愛がいつも支えていてくださるということではないでしょうか。

 さあ、迷わず、神の愛を信じて前に進みましょう。バラ色の希望をもって、今日はバラの主日です。

司祭の言葉 3/7

四旬節第3主日 (ヨハネ2章13-25節)

 今日の福音は、イエスの宮きよめの出来事です。この場面だけ見ると第一印象としてはイエスの激しさに驚かされます。
 セウイホームでは入所したてのころ、食堂のテーブルをひっくり返した女の子がいます。
 ロッカーを倒し蹴り破った男の子もいます。
 神学生の時監督をしていた上級生の中には、怒りっぽくやたら机の脚を蹴り飛ばす人が居ました。イタリア人で面白くない事があるとマケーと叫んで机の脚をけるのです。サッカーも上手な人でしたけれど。
 小生も、部屋中の物をたたき壊したい衝動に駆られた事があります。でもそのあとそれを片づける自分を考えるとバカらしくなって思いとどまります。

 いろいろな怒りがあります。しかしながら、正当な当然といえる怒りがあります。
 まもなく11年3月11日の大地震から丸10年になります。大地震や津波は天災です。これを止めることは出来ません。しかし、福島原発の大事故それはまさに人災でした。ヨーロッパでは1999年、フランスの原発が洪水で外部電源を一部喪失したのをきっかけに、アメリカでは2001年の同時多発テロ事件をきっかけに原発の電源喪失対策が強化されたのに対して、日本はこうした対策を怠ったといいます。
 今ミャンマーでは、軍部によるクーデターに対して、正当に選挙で選ばれた代表を開放せよと、3週間以上も市民の抗議が続いています。

 イエス様の怒りは何だったのでしょうか。両替も売られていた動物たちも、神殿にささげられるために必要なものだったのです。

 まず両替を見てみましょう。パレスチナでは普通の用途のためには、ローマ ギリシャ エジプト ツロ シドンなどの、全ての種類の貨幣が使われました。しかしながら、当時神殿に納めるお金は ガリラヤのシケルか神殿のシケルでなければなりませんでした。
 宮の納入金は 半シケルでした。1シケルの半分ですが、2デナリに相当しました。
神学者のバークレーによれば、ある人が2シケルの価値のある銅貨を半シケル4枚に両替してもらおうとすると半シケルの半分 1デナリほどの手数料をとられたといいます。労働者の一日の賃金分です。

 また、律法によれば犠牲に供せられる動物はみな完全で傷が無く汚れない物でなければなりませんでした。 神殿当局は犠牲に供せられる動物を調べるために検査官を任命しました。礼拝者が動物を宮の外で買ったとすると、その動物が傷の無い相応しいものであるかどうか検査されますが、ほとんど例外なく不合格になったといいます。

 そして問題は、鳩は宮の外では一つがい500円ほどであったとすれば、宮の中ではその20倍ほど1万円もしたと言うことです。神殿側が暴利をむさぼっていたのです。

 さらに、商売が行われた場所にも問題があります。商売は異邦人の庭で行われていました。ユダヤ教徒に改宗したものであっても、異邦人の礼拝できる場所はここだけでした。それより奥には入れなかったのです。唯一礼拝できる場所が、牛や羊やハトを売る人々の声と動物たちの鳴き声で、静かに祈ることのできる雰囲気はありませんでした。

 そしてさらに、イエスは次の言葉を思い浮かべていたと思われます。ゼカリヤ書の結びのことばです。
 「その日には、(中略)エルサレムとユダの鍋もすべて万軍の主に聖別されたものとなり、いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る。その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる。」(14の21)

「鍋」は日常生活の象徴ですから、その日(救いの完成の日)には、日常生活のすべてが聖化されるので、もはやエルサレムの神殿で行なわれる生贄の儀式は不必要になる、だから生贄の動物を売る商人もいなくなる。つまり日々の生活が神との出会いの場になる。礼拝が神殿ではなく、どこででも行われるようになる・・・と宣言したのです。

 いま私たちはそれぞれの地域で集まり感謝の祭儀をしています。新型コロナウイルスの緊急事態宣言が解除されるまで、ミサに参加することはできませんが、自宅でもみ言葉に触れ、神に出会うことが出来ます。祈ることが出来ます。
 イエスはそのような思いを胸に、宮の清めを行ったのかもしれません。