司祭の言葉 12/6

待降節第2主日B年 2020/12/6

回心の呼びかけ

 待降節の第2主日は、メシアの到来に備えて準備しなさいと言う、バプテスマのヨハネの言葉が朗読されています。
 メシアの来る裁きの時は近い、だから、悔い改めてバプテスマを受けなさい。頭まで水に浸かり回心の情を表し、生き方を改めなさい、そう呼びかけました。
 並行カ所のマタイとルカでは、「その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言った後で、「そして、手に箕をもって脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて蔵に入れ、殻を消えることない火で焼き払われる」と言っていますから、洗礼者ヨハネの思っていた洗礼とは、火による神の裁きでした。

 9月になるとセウイのお隣の作業小屋がにぎやかになります。お米を乾燥させ脱穀する音がしばらくの間続きます。小屋から長い太い筒が外に出され、そこから、脱穀されたもみ殻が吐き出されて大きな山を作ります。
 昔は箕と言う道具で脱穀されたコメを放り上げると、風で軽いもみ殻が飛ばされ、重いコメは箕の中に残りますので、これはカメの中に収められます。脇の方に飛ばされたもみ殻はそこに山を作りますが、その山にはあとで火がつけられ、焼かれて炭状になります。そして畑にまかれるのです。車で近くを通りますと車の中までその煙が入ってきて、小生はそこに秋の訪れを感じます。
 洗礼者ヨハネは裁き主としてのメシアの到来を予想していましたが、実際においでになった方は、ご自分を生贄として、人々の罪の赦しを願う仲介者としてのメシアでした。そして、聖霊による洗礼の意味が明らかになったのは、ペンテコステの時でした。それは、私たちが受けた洗礼そのものです。罪を許し、神の子とし、神の命に与らせるものです。

 待降節の今、私たちに求められる悔い改めとは、何でしょうか。それは回心、自己中心の生活から、イエス中心の生活に向きを変えることです。それは、イエスの目で周りの人たちに目を向ける事、イエスが愛したように互いに愛し合うことではないでしょうか。
 例えば、11月30日のさいたま新聞の記事ですが、世界の飢餓状態にある人たちに支援が届きにくくなっているそうです。コロナのために人の行き来や物質の行き来が制限され、必要な支援が届かないため、年末までに一日12000人の餓死者が出る恐れがあるそうです。一日は1440分ですから、12000を1440で割ると、8.3.今こうして話をしている間にも、一分間に8人ずつが死んでゆく計算になります。
 一昨日のニュースでは、女性の雇用危機が深刻だと述べていました。看護師やパート労働者、業務委託の方が仕事を失い、休業手当も受けられないそうです。それは休業者の25%に及び、休業者の38.5%の女性は再就職ができていないといいます。男性の24%に比べると、女性の方が苦しいところに置かれています。この方がシングルマザーでしたら、子供たちも飢えることになります。

 先日教会にポスターが届いていましたが、さいたま教区では毎年待降節の金曜日、イエスを食卓に招く、イエスの食卓献金が行われています。ご存知だったでしょうか。
 コロナ下の世界では厳しい現実があります。イエスならどうするのでしょうか、祈り且つ行動することが求められているのではないでしょうか。 私がアフリカで生まれていたなら、支援を受ける立場で、何もできないでしょう。でも日本に生まれています。イエスが私に何を求めているか、それを考えてみたいと思います。