司祭の言葉 12/27

聖家族(ルカ2章22-40節)

主の奉献

 わたくしの好きなテレビ番組に「ドクターX」があります。マイペースな大門みち子のセリフが痛快でした。「論文の手伝いいたしません。院長回診のお伴いたしません。医師の免許がなくてもできる仕事は致しません。」
 司祭は何というべきでしょうか。 「司祭の免許がなくてもできる仕事は致しません・・」ですか? そうすると一日中ほとんど何もしないことになります。司祭しかできないことは何か。七つの秘跡のうち、堅信、聖体、ゆるしの秘跡、病者の塗油の4つですね。 叙階は司教様 洗礼と婚姻は司祭に限りませんから。もっとふさわしい方がいらっしゃいますが、それでも、ミサの説教は司祭の仕事ですね。  

 さて今日の福音です。旧約聖書には出産についての規定がありました。
「妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚(けが)れの日数と同じ七日間汚れている。八日目にはその子の包皮に割礼を施す。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない」(レビ記12章2-4節)。
 ですから、「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき」とは誕生から40日後ということです。

  このいけにえは本来「一歳の雄羊一匹」と「家鳩または山鳩一羽」です。でも、「産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合」として鳩だけのいけにえが認めていました(12章8節)。この生贄はどのような意味を持つのでしょうか。
 出エジプト記13章11節から16節までに、贖いの規定がありました。これも読んで見ましょう。
 主があなたと先祖に誓われたとおり、カナン人の土地にあなたを導き入れ、それをあなたに与えられるとき、初めに胎を開くものはすべて、主にささげなければならない。あなたの家畜の初子のうち、雄はすべて主のものである。ただし、ろばの初子の場合はすべて、小羊をもって贖わねばならない。もし、贖わない場合は、その首を折らねばならない。あなたの初子のうち、男の子の場合はすべて、贖わねばならない。将来、あなたの子供が、『これにはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『主は、力強い御手をもって我々を奴隷の家、エジプトから導き出された。ファラオがかたくなで、我々を去らせなかったため、主はエジプトの国中の初子を、人の初子から家畜の初子まで、ことごとく撃たれた。それゆえわたしは、初めに胎を開く雄をすべて主に犠牲としてささげ、また、自分の息子のうち初子は、必ず贖うのである。』あなたはこの言葉を腕に付けてしるしとし、額に付けて覚えとしなさい。主が力強い御手をもって、我々をエジプトから導き出されたからである。」
 申命記6章のシェマー同様に「あなたはこの言葉を腕につけてしるしとし、額につけて覚えとしなさい」・・・と、あります。忘れてはならない最重要な事柄なのです。

 最初に胎を開くものはすべて犠牲として主に捧げられるべきものなのです。それを神から買い取る行為が贖いです。鳩を生贄としてあがなわれたイエスは、今度は自分を生贄として私たちを購うことになります。

司祭の言葉 12/20

待降節第四主日B年 2020.12.20

マリアのフィアット

 主の降誕を間近に迎えた今日のみ言葉は、マリアへのお告げです。マリアはこの時喜んだのでしょうか。皆さんはどう思っておられましたか?
 マリアは心底困惑したと思います。フランスの宗教史家ダニエル・ロップス著(1901~1965)「イエス時代の日常生活」はこう記します。「イスラエルは早婚であった。男は18歳が結婚に最適であると考えた。娘は早く結婚させられた。律法によれば12歳半が適齢であった。童貞マリアがキリストを生んだときは、かろうじて14歳の少女であったに違いない。」婚約者によらない妊娠・・それが神の業であっても、ユダヤ人社会の厳しい道徳律がありました。石打の刑です。「姦淫の罪を認められた婚約者は、妻のごとく投石された」とダニエル・ロップスは記しています。
 マリアは(なれかし)と答えました。命の危険を覚悟してのことだと思います。

 信仰が人間を否応なしに困惑する事態に直面させることがあります。人間の弱い心はそれを嘆かずにはおれません。遠藤周作の短編 最後の殉教者に登場する 浦上中野郷の喜助は、象のように大きいからだですが、しかし無類の臆病者です。 蛇をみても飛び上がりますし、悪ガキから一物を見せろと言われても堪忍してつかわさい、堪忍してつかわさいと平謝りするだけです。同じ仲間の伸三郎はそれを見ていて、ゼズスさまを裏切るユダのようになるかもしれないと危惧します。
 1867年の夏 浦上四番崩れで提灯を掲げた取り方が包囲、捕らえられた時、取り方が両手両足 首、胸に縄をかけ、一か所にくくると、「かんにんしてつかわさい 」とくりかえしころびます。しかし、のちに、捉えられた仲間を見て津和野の仲間のもとに戻るのです。その時、甚三郎は「くるしければころんでええんじゃぞ お前がここに戻ってきただけでゼズスさまは喜んでおられる」と叫びます。

 塚という石碑があります。青面金剛と三猿を彫った石で、青面金剛の身は青く、目は赤く身に蛇をまとい足下に二匹の鬼を踏みつけています。肺病を除く鬼で、神道では猿田彦・天孫降臨の道案内です。 鼻が高く神社の祭礼では天狗の面をかぶり矛を持っています。 渡良瀬遊水地の近くにある庚申塚の像は、ミトラのような被り物をかぶり、手に持つ錫杖の上部は十字架になっています。
 庚申講はあやしまれずに集まって祈ることのできるひとときでしたので、隠れキリシタンによって利用されたといいます。この庚申塚を彫ったキリシタンは、どのような思いで石を刻み、それを野辺において祈ったのでしょうか。露見したときのことを思わなかったか、どのように子孫に伝えようとしたか、など考えてみます。

 神を信じることが生命の危険を伴った、神の命をいただくことがこの世の生命と引き替えだった時代がありました。 
 でも、神の力はただ人間を困惑に陥れて終わるのではありません。  窮状を乗り越えさせ「さいわいなるかな」との声を上げさせることが起こるのが、教会なのです。そして、マリアの命がけの(お言葉通りになりますように)によって、かみの言葉は肉となったのです。

司祭の言葉 12/13

待降節第3主日B年(2020/12/13)

喜びの主日

 今日は「喜びの主日」です。今日の入祭唱にガウデーテGaudete in Domino semper:主にあっていつも喜べ。重ねて言う喜べ。主は近づいておられる(フィリピ4:4-6)とあるからです。

 第一朗読のイザヤの預言も「私の魂は私の神にあって喜び躍る」とかたり、答唱詩編はマリアの賛歌「私の心は神の救いに喜び躍る」とうたい、第二朗読はパウロのテサロニケの教会への言葉、「いつもよろこんでいなさい」という言葉を取り上げています。
 教会で降誕日が統一してこの時期に祝われるようになったのは4世紀も半ばのことのようですが、この祝祭への準備期間として、復活祭の前に設けられている「40日」の半分の期間を宛てるようになりました。そして、第三主日に「ばら色」の蝋燭が灯されるのも、受難節の典礼から借りたものです。
 待降節の典礼は、4週の前半を終末の「王なるキリスト」の来臨を待ち望む主日、また後半の2週を「預言の成就」を待ち望む主日となっていて、前半の二週では預言者の声に従って神に立ち返るよう呼びかけ、後半の二週では、預言の成就にたいする期待が述べられてゆきます。

 今日の福音は、ヨハネの証が述べられていますが、洗礼者ヨハネがその到来を予告した救い主が、すぐ近くに来ておられる、という喜びの雰囲気の中でこの主日は祝われるのです。
 20節の「メシア」はヘブライ語ですが、ギリシア語では「クリストス=キリスト」です。どちらも神から「油を注がれた者」「王」「救い主」を意味します。メシアを待ち望んでいた人々に対して、ヨハネは「わたしよりも優れた方」が来ると予告しました。「履物のひもを解く」のはしもべの仕事で、「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」 自分は、光について証しするために来たもの、荒れ野で叫ぶ声だといいます。
荒れ野は人のいないところです。ヨハネはひとのすくないところで叫んでいたのですが、その声を聴いて多くの人が集まってきたのです。ヨハネの言葉の中に心に響くものがあったため、そこでは真実が語られていたからでしょうか。
 「証しする」という言葉ですが、ある事件の証人とはその出来事を確かに見たり経験したりした人を意味します。自分が「見たこと、経験したことを語る」のが「証言する」ということなのです。洗礼者ヨハネも神から「後から来られる方」を示されたからこそ、その方について証言したのでしょう。

 私たちにとっての証は何でしょうか。私たちが経験した事とは何でしょうか。
 使徒たちが証したものは、キリストの死と復活でした。私たちが受け継ぐ証もまさにここにあると思います。そこに人がいなくても、荒野であっても、見たこと経験したことを、喜びをもって証しすることが求められているのです。いや、証ししないではいられないというべきでしょう。ミサにあずかるということは、最後の晩餐の出来事を体験しているということ、見聞きしているということ、神の恵みの実体験なのですから。

司祭の言葉 12/6

待降節第2主日B年 2020/12/6

回心の呼びかけ

 待降節の第2主日は、メシアの到来に備えて準備しなさいと言う、バプテスマのヨハネの言葉が朗読されています。
 メシアの来る裁きの時は近い、だから、悔い改めてバプテスマを受けなさい。頭まで水に浸かり回心の情を表し、生き方を改めなさい、そう呼びかけました。
 並行カ所のマタイとルカでは、「その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言った後で、「そして、手に箕をもって脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて蔵に入れ、殻を消えることない火で焼き払われる」と言っていますから、洗礼者ヨハネの思っていた洗礼とは、火による神の裁きでした。

 9月になるとセウイのお隣の作業小屋がにぎやかになります。お米を乾燥させ脱穀する音がしばらくの間続きます。小屋から長い太い筒が外に出され、そこから、脱穀されたもみ殻が吐き出されて大きな山を作ります。
 昔は箕と言う道具で脱穀されたコメを放り上げると、風で軽いもみ殻が飛ばされ、重いコメは箕の中に残りますので、これはカメの中に収められます。脇の方に飛ばされたもみ殻はそこに山を作りますが、その山にはあとで火がつけられ、焼かれて炭状になります。そして畑にまかれるのです。車で近くを通りますと車の中までその煙が入ってきて、小生はそこに秋の訪れを感じます。
 洗礼者ヨハネは裁き主としてのメシアの到来を予想していましたが、実際においでになった方は、ご自分を生贄として、人々の罪の赦しを願う仲介者としてのメシアでした。そして、聖霊による洗礼の意味が明らかになったのは、ペンテコステの時でした。それは、私たちが受けた洗礼そのものです。罪を許し、神の子とし、神の命に与らせるものです。

 待降節の今、私たちに求められる悔い改めとは、何でしょうか。それは回心、自己中心の生活から、イエス中心の生活に向きを変えることです。それは、イエスの目で周りの人たちに目を向ける事、イエスが愛したように互いに愛し合うことではないでしょうか。
 例えば、11月30日のさいたま新聞の記事ですが、世界の飢餓状態にある人たちに支援が届きにくくなっているそうです。コロナのために人の行き来や物質の行き来が制限され、必要な支援が届かないため、年末までに一日12000人の餓死者が出る恐れがあるそうです。一日は1440分ですから、12000を1440で割ると、8.3.今こうして話をしている間にも、一分間に8人ずつが死んでゆく計算になります。
 一昨日のニュースでは、女性の雇用危機が深刻だと述べていました。看護師やパート労働者、業務委託の方が仕事を失い、休業手当も受けられないそうです。それは休業者の25%に及び、休業者の38.5%の女性は再就職ができていないといいます。男性の24%に比べると、女性の方が苦しいところに置かれています。この方がシングルマザーでしたら、子供たちも飢えることになります。

 先日教会にポスターが届いていましたが、さいたま教区では毎年待降節の金曜日、イエスを食卓に招く、イエスの食卓献金が行われています。ご存知だったでしょうか。
 コロナ下の世界では厳しい現実があります。イエスならどうするのでしょうか、祈り且つ行動することが求められているのではないでしょうか。 私がアフリカで生まれていたなら、支援を受ける立場で、何もできないでしょう。でも日本に生まれています。イエスが私に何を求めているか、それを考えてみたいと思います。