司祭の言葉 11/29

待降節第一主日マルコ13の33から37 (2020/11/29)

 目を覚ましていなさい。車を運転していると目をしっかり開けていたつもりがハッとすることがあります。昨日も加須に行く途中そうでした。あわてて珉珉打破を飲みました。眠気覚ましのドリンクです。一本300円ですが、50本の大量買いで222円で手に入れました。目を覚ましているつもりでも眠ってしまうことは多々あります。

 今年はコロナに対する警戒が2月ごろから絶え間なく続いています。でも気を許すとすぐさま感染者が増えてしまいます。営業時間の短縮、ゴーツ トラベル、ゴーツ イートの見直しが図られることになりました。
 先日ある通夜では、歌を3曲、答唱詩編が3回、しかも3番4番まで皆さんが歌い、その中にはマスクを外して歌う人も。司教さんの注意も忘れてしまうのでしょうね。 葬儀では奏楽にして、歌わないようにお願いしました。ずーっと目覚めていると言うのは本当に難しいです。
 今パンデミックを引き起こしている新型コロナウイルス出現は、クローン人間を作り神になったかのように錯覚している人類への警告にも思えます。この目に見えないウイルスに、全人類がほんろうされています。ここに、時のしるしを見るべきだろうと思います。
 いかなる時にも、イエスと面と向かい合って顔を合わせられるように、今なすべきことを確認し、備えをするということが大切であると思います。

ところで、何故キリスト誕生を待ち望む待降節の最初の主日に、終末に備える朗読があるのでしょうか。
 聖書学者ヨアヒム・エレミアスは、今日のカ所も本来は「天の王国の鍵を持っている」と主張する人々に対して語られた、と言うのがもっともありうる話だと言います。律法学者たちに対して、最後の決定的な時間を迎えた時、眠っているのを見られないように注意しなさい・・と。
 ユダヤ人たちは長い間、メシアの到来を待ち望んでいました。でも彼らは先駆者として送られたバプテスマのヨハネをうけいれることもできませんでしたし、イエスをも受け入れることが出来ませんでした。目が有っても見えず、耳があっても聞こえなかったのです。
 教会は待降節の第一主日にこの朗読を置いて、ユダヤ人の轍を踏まないようにと、注意を促しているのです。

司祭の言葉 11/22

王であるキリスト マタイ25章31-46節 2020/11/22

有罪の理由

 今日の王の裁きの譬えは、5人の賢い乙女と5人の愚かな乙女の譬え、タラントンの譬えに続く話となっています。用意の無かった油とは何か、土に埋めたタラントンとは何か、今日の箇所がその説明になっていると神学者たちは考えています。

 昨日の新型コロナウイルスの新規感染者は東京都で543名となりこれまでで最大となりました。全国で見ますと19日現在で感染者は122966名となり死者は1922名。戦後、これほど毎日死と向かい合うことになった年なかったと思います。人類はほとんどの病気や災害に対して克服できたと有頂天になっていました。今回のパンデミックはそのような人類への大きな試練です。
 今日の福音は私たちが神の前に立つときに、何をもって裁かれるかを示しています。
疑問の余地はありません。隣人愛です。 「この最も小さい者」とは、実際にわたしたちの目の前にいて、助けを必要としているすべての人を指しています。

 油の用意の無かった乙女たちも、タラントンを土に埋めた僕も同じです。善い行いを怠った乙女たち、善い行いを土中に埋もれさせていた僕なのです。 しかも、イエスはそれ以上のことを言います。「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と。そのため「キリスト信者が苦しむ人を助けるのは、相手のためではなく、キリストのためなの? 結局自分が最後の裁きで有利になるためなの?それが本当の愛と言えるの?」・・と疑問を呈する人がいます。決して、そうではないと思います。
 イエスのためではなく、そこにいるその人を大切にして注がれる愛、それだけで良いのです。裁きではキリスト者であるかどうかも問われていませんし、神のためにしたかどうかも問われてはいないのです。
 正しいものは、どのような助けを施したかについて意識した事もなく、貧しい人や疲れ果てた人を介して、隠れたメシアがその人に出会っているという考えもないのです。

 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」とイエスがおっしゃったのはなぜでしょうか。
 イエスご自身が、ゴルゴタの丘への歩みの中で、彼らと同じになったのです。エルサレムの町に入ったとき、イエスは「飢え」ていましたし(マルコ11章12節参照)、十字架の上では渇くと呻き(ヨハネ19章28節)。イエスの公生活は旅の連続でした。逮捕されたイエスは一晩、大祭司の屋敷の「牢」にも入っています。十字架にかけられるとき、イエスは衣を脱がされて「裸」となり、十字架の道では何度も倒れ、弱り果て、鞭うたれ、命まで奪われまたのは病気以上の苦しい出来事でした。
 イエスの十字架への歩みは、苦しむすべての人と一つになる道だったのです。だからこそ、イエスはその小さくされた人たちを「わたしの兄弟」と呼び、彼らとご自分が一つであると語られたのです。

神の目から見て何が決定的に大切なのか、旧約聖書にも記述があります。「私が喜ぶのは愛であって生贄ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」(ホセア6の6)

司祭の言葉 11/15

年間33主日 2020.11.15

タラントンのたとえ

 かつて教区会計をしていた身としては、今日の話はいつも引っかかるんですよ。5タラントン2タラントンを預かって商売をしてそれぞれ倍に増やした話でしょう。それと比べれば、確かに銀行に預けてはいるのですが、さいたま教区の会計を預かる司祭たちも、あまり役に立たない僕だなあと思うのです。増やすこともできず、減らす一方ですから。専門外だから仕方がないといえばそうですが。
 さいたま教区の持っているお金は、せいぜい6億円ほど、10タラントンです。でも、この主人は大金持ちですよ。5タラントン(3億円)をわずかなものというのですから。この主人が神様なら、何タラントンでも、何十タラントンでも僅かなお金でしょうね。

 今日の福音は何を言いたいのでしょうか、お金儲けの話でないことは確かです。
1タラントンは6000デナリオンと説明されています。1デナリオンは労働者の一日の賃金ですから、仮に1万円としますと6000万円。それを埋めておいたことが非難されているのです。そして役に立たない僕と言われています。ルカによる福音書ではミナの例えとして、10人の僕それぞれに1ミナずつ預けられています。1ミナは100デナリオンで非難された僕は布に包んで持っていましたから、土に埋めていたマタイの僕のほうが安全に保管していたといえます。でも非難されたのはなぜでしょうか。

 まず、イエス様は誰に向かって、何を言おうとしてこのたとえを語られたのでしょうか。そこが問題です。実は、この怠惰な僕こそイスラエルの指導者、特に律法学者とパリサイ人を指しているのです。彼らは律法を授かったのですが、その細かい規則を作り、人々に重荷として背負わせ、それを守ることにきゅうきゅうとして、律法の真髄、神様への愛と隣人への愛、神の寛大さについては語りませんでした。神を独占して、祝福の基とならなかったこと、宣教に力を尽くさなかったこと、そこが非難されているのです。埋めておいたのはまさにそのような神のたまものでした。

 そしてマタイの教会はこのお話を自分たちに当てはめて考えました。イエス様のイスラエルの指導者に対しての非難は、私たちにとっても他人事ではないと。自分のこととして読まねばならないのです。そして、反省しなければならないのです。果たしてわたしは自分のタラントンをうまく活用しているだろうか・・・と。運用するのが面倒だと言って、穴を掘ってうずめてしまってはいないかと。
 わたしたちはみな神様からお預かりしているタラントン(能力)があります。
神様はその力を使って、ご自分のみ業に協力するよう招いておられるのです。

 譬えが難しいのは、持っている物まで取り上げられると言うことですが、持っている物まで取り上げられるのは、なんでしょうか? 神の国の相続人と言う特権から外されること、と考えられませんか?

 あるいは、タラントンは、愛の業を指しているとも考えられます。この後に続くすべての民族の裁きで問われているのは、自分のタラントンを生かしていますかという、まさに隣人愛の実践ですから。役に立たない僕と言われたくないでしょう?
 今日のみ言葉をそれぞれ、自分に向けられた神様の声として考えてみたいと思います。

司祭の言葉 11/8

年間第32主日A年 2020/11/08

5人の乙女の愚かさとは

今日のたとえ話を聞いてみなさんはどのような決心あるいは反省をしますか?
今日のたとえ話は、小生には耳が痛い。先日花畑と呼んでいる友だちの家の荒れ果てた農園のパイプハウス一棟と、そこに立つ立派すぎるトイレを解体しました。農作業のできるメンバーがいなくなり、荒れ果ててしまったので、きれいに元に戻し返却するためです。このハウスには災害用の備蓄として薪を保管しておいたのですが、今はその備えもなくなりました。セウイホームの駐車場に災害用備蓄倉庫を建てようとの話は出ているのですが、まだ具体化していません。セウイの場所が周りに貝塚や竪穴式住居跡がるような高台にあるので、ハザードマップを見ても色が塗られておらず安全な場所となっているものですから、備えがおろそかになっているのです。皆さんは大災害に備えていますか? 大いに反省しているのですが、小生は気ばかり焦り、何もできていません。

マタイ福音書は24章の神殿崩壊の預言から、終末的な様相を帯びています。
今日のたとえ話の一番大切な強調点は何処にあるのでしょうか。「目を覚ましていなさい」でしょうか、ランプの油を用意していなかったことでしょうか。
目を覚ましていなさい・・この言葉は24章の42節にもあります。人の子は思いがけない時に来る・・だから・・・と。
マルコ福音書では13章の34節で、「門番には目を覚ましているようにと言いつけておくようなものだ。だから目を覚ましていなさい。いつ家の主人が返ってくるのか(中略)わからないからである」とあります。その日その時は誰も知らない、天使たちも、子も知らないとあるのは、再臨の時です。 
また、マルコでは目を覚ましているように仕事を割り当てられたのは一人ですが、ルカでは何人もいる僕たち全員が見張りをしなければならないことになっています。(12の39)
聖書学者ヨアキム・エレミアスは、「目を覚ましていなさい」という言葉は、このたとえ話のもともとの形には入っていなかったものが、勧告的な言葉として入ってきたのだと考えています。

話の本筋の強調点は、「目を覚ましていなさいで」は無いとするその理由は何処にあるのでしょうか。 
賢い乙女たちも愚かな乙女たちもみな眠っていたのです。だから、たとえ話の中心はここではないのです。油を用意していなかったことが問題なのです。

聖書学者バークレーは、パレスチナの中流家庭の結婚式では、花婿は花嫁の付き添いが眠っている間に不意を打とうとして真夜中に来ることがあること、花婿が到着したら戸が閉まり遅れてきたものは結婚式に参列できないという話を伝えています。式は一週間続きますから、その間式に参列出来ないことになります。

この話は直接にはユダヤ人に向けられたものであり、愚かな乙女はユダヤ人を指すのでしょう。ユダヤ人の歴史は神の子を迎える準備のためのものでした。しかし、彼らはイエスが来られた時、イエスを認めることが出来ませんでした。その準備ができていなかったのです。

私たちはどうでしょうか。大災害への備え、キリスト再臨への備え、よき死への備えエトセトラ・・どこから備えてゆきましょうか。
ちなみに、ボーイスカウトのモットーは全世界的に「備えよ常に」です。ご存知でしたか? それは心の備え、体の備え、技の備えをして、いつでも隣人の役に立てるようにしているのです。毎週の活動はそのための訓練となっています。

司祭の言葉 11/1

諸聖人の祝日 2020.11.01

聖人との出会い

                         司祭 鈴木 三蛙
あなたは聖人と出会ったことがありますか?  聖人とおぼしき人とは?

私が出会ったのは、サレジオ会の最初の宣教師の一人 チマッチ神父 マザーテレサ ヨハネパウロ二世  三人とも握手をする機会がありました。  教皇とは東京カテドラルで マザーテレサとは、支援組織のメンバーと一緒に面会して、チマッチ師は、恩師ですから聖書を教えていただき、試験の都度、正解に誘導していただいて、ベネベネ(よしよし)といって頭をポンポンとたたかれました。

でも、握手が何になるでしょう。 アイドルやヒーローたちとファンとの関係ならそれなりに話題や羨望の対象となります。しかし、事 聖人との出合いでは・・・・論外です。 聖人はわたしたちのならうべき信仰の模範ですので、その模範にならわなくては意味がないのですから・・・。
マザーテレサについては皆さんご存じです。 チマッチ神父は、サレジオ会員として日本に来た最初の宣教師で、ドンボスコの精神を生きた人です。
→ まず、祈りの人で、夕暮れ時聖堂に行けばいつもロザリオを手に祈っていました。
→ また、いつも子供たちと共にいる教師の模範でした。サレジオ会の教師は子供よりもさきに子供たちのいるところにいなくてはいけない、職員室でお喋りしていてはいけないのですが、これがなかなかできないのです。チマッチ師は、年を取って足が不自由になっても、いつも子供たちのそばにいて運動場の小石など危険物を拾っていました。

→ 病気の時も、いつも笑顔で一度も苦しい様子を見せたことがありません。
口癖はコラッジョ(さあ、さあ 元気を出して・・)でした。

マザーテレサも、チマッチ神父も、全面的に神に信頼していた聖人たちだったと思います。

ところで今日は、山上の説教の二つの言葉に注目したいと思います。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

イエスがすでに確定したものとして天の国を保証したのは、心の貧しい人々と、義のために迫害される人々です。
私たちにもできる一番身近な、聖人となるための手立ての一つは、心の貧しい人となることです。イエス様は繰り返し、祭司長や民の長老たちに代わって、罪びとや貧しい人が、神の国に入ると述べてきました。バプテスマのヨハネの呼びかけに応えて、悔い改めたのは彼らだったからです。
心の貧しい人とはすべての希望を神に置く人、この世のものを頼りにせず、全面的に神を頼る人を指します。私たちもそのような一人であるなら、すでに天の国は保証されているのですから、天国の聖人だけではなく、地上にあっても、今日はそのような心の貧しい人の祝日でもあるといえます。