司祭の言葉 10/25

年間第30主日A年 2020/10/25

聞け、キリスト者よ

                          司祭 鈴木 三蛙
 今日の福音は、常日頃意見の対立していた司祭たちのグループサドカイ派がイエスにやり込められたと聞き、今度はファリサイ派の者たちがイエスを試そうとして質問する場面です。イエスがもし律法の一つだけを重視するなら、他の律法をないがしろにするものとして非難しようと目論みます。しかしイエスは、ユダヤ人たちがいつも祈りの時に額に結んでいる小さな小箱の中に入っていたシェマーイスラエルという言葉を取り上げます。この言葉は申命記6章5節に「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」と述べられているもので、イエスはこれを第一としました。そして第二としてレビ記19章18節の言葉を取り上げましたが、同じように重要なのだと強調します。そこには「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」と述べられています。イエスはさらに言葉を続けて、律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいているとお答えになったので、ファリサイ派の人々の目論見は完全に潰えてしまいました。偽善者という言葉は、律法学者たちが言葉の解釈にこだわり、現実世界の問題に目を向けていないその態度を厳しく指摘したものなのです。

 さて、私たちはどうでしょうか。他人の間違いばかりを指摘し、愛のない態度で生活をしているということはないでしょうか。聖書研究ばかりに時間を費やしたり、自分の信心や祈りに自己満足して、社会の現実から目をそらしてはいないでしょうか。

 先日一人の信者さんがインターネット上でさりげなく語った言葉に対し、非難の言葉ばかりが次から次に書き込まれるのを見て、怖くなったと語っていました。ネットは顔が見えませんので、それをよいことに、言いたい放題になってしまいます。時には面白半分に、社会から抹殺してしまおうという態度も見えます。誹謗中傷ではなく、間違いをただす注意や意見、アドバイスならば建設的なものとして大いに社会に役立つと思うのですが。

 また、自分のように隣人を愛するためには、隣人に心を向けなければなりません。何を求めているのか、どのような状況に置かれているのか、まずは関心を持つことです。「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」というマザーテレサの言葉が思い出されます。隣人への無関心をなくすことがまずひつようなのです。そうすれば、隣人の中におられるイエスと出会うことも可能になりますから。
 自分に問いかけてみましょう。コロナ下の今、苦しんでいる人、悩んでいる人に具体的に手を差し伸べることを何かできただろうかと。

 また隣人を自分のように愛するためには、自分を大切にすることを知らなくてはなりません。自分に問いかけてみましょう。私は自分を大切にしているだろうか・・と。自分を律することも大切ですが、自分を許すことも大切なのです。さもないと人にも厳しくなってしまいますから。
 聖書の教えの全体が神への愛と隣人への愛に基づくと知った今、さあ、隣人の中にいるイエス様に会いに出かけましょう。隠れているイエス様を探しに行きましょう。無関心をやめて。

司祭の言葉 10/18

年間29主日A年 2020.10.18

仕組まれた罠

                           司祭 鈴木 三蛙
 痛烈な批判にさらされ、歯ぎしりしてきた祭司長や民の長老たちは、イエスに対する最高と思える罠を仕掛けてきました。この罠を思いついたとき、彼らは絶対の自信をもって、小躍りして喜んだことでしょう。自分たちの勝利間違いなしと思われたからです。

 この納税の是非は、抜かりなく仕組まれた罠でした。

 当時のパレスチナはローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国はユダヤ人の宗教的自由を認めながら、税を徴収することによって支配地域からの利益を得ようとしていました。しかし、ユダヤ人にとって徴税の問題は、ただ単に経済的な圧迫という問題ではなく、宗教的な信念の問題でした。「神が王である」と信じるなら、ローマ皇帝を王と認めることはできないし、そのローマ皇帝の徴税も認められないという考えが当時のユダヤ人にはありました。
 納めるべきと答えれば、ローマの支配を認める 神以外のものを神とする不信仰者として弾劾できますし、否定すれば、ローマへの反逆者として訴えることが出来るからです。この罠をこれまで反発してきたヘロデ党のものと一緒になって仕掛けてきたことからも、その自信が読み取れます。どちらに転んでもイエスは窮地に陥り、自分たちには都合のよいことになります。彼等は勝利を確信してイエスに挑みました。

 しかし、彼らの罠を見抜いたイエスは、納税のためのローマの銀貨を持ってこさせます。
デナリオン銀貨にはローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていました。その銘は「ティベリウス・カエサル・神聖なるアウグストゥスの子」というもので、ローマ皇帝は神格化されていました。イスラエルの宗教は偶像崇拝禁止という点で徹底していましたから、このデナリオン銀貨は本来なら神殿に持ち込むことがゆるされないものでしたが、しかし、実際には誰もがその硬貨を使わざるを得ませんでした。デナリオン銀貨は広く一般に用いられており、誰の財布の中にも入っていたのです。彼らはその銀貨を用いて生活しつつ、皇帝に税金を納めることが良いか悪いかと論じている、彼らのその矛盾を、イエス様は偽善者と断定します。

 キリスト者は二重の国籍をもっています。第一は 自分が生れ育った国の国籍をもち、多くの恩恵を受けています。パスポートには、これをもつものは日本人だから保護してほしいとしるされています。 ユダヤ人の歴史が示すように、国家をもたないと悲惨です。キリスト者は信頼に足るものとして国家に対してよき市民でなければならないのです。国の政治に無関心であるなら 利己主義なものにまかせるならどうなるでしょうか。
 
 神のものは神に。 第二は、わたしたちのうちには神の姿が刻まれています。 神の支配を受け入れた神の国の市民として、神に対する義務の遂行がもとめられているのです。神の似姿にふさわしい生き方、それを考えてみましょう。「この人を見よ」 イエスの中にその答えを見つけることが出来ます。

司祭の言葉 10/11

年間第28主日A年 2020/10/11

婚宴の譬え

                         司祭 鈴木 三蛙
 婚宴の譬えは、ルカでは大宴会の譬え。トマスでは晩餐の譬えとして語られています。三つの譬えに共通するのは最初に招かれた客たちが、夫々理由をつけて招待を断っている事、その代わりに道に出てだれかれ構わず集め、招かれたことです。これはブドウ園の労働者や見失った羊のたとえ話のように、イエスの批判者や敵対者に対して語られた、福音を弁明した数多くのたとえ話の一つと言われています。

 そしてイエスは「あなた方は招待をなおざりにする賓客の様だ。招待を受け入れないので神は代わりに徴税人や罪びとを招き、あなた方がみすみす取り逃がした救いを彼らに与えたのだ」と言っているのだと言います。ルカは最後に「あの招かれた人たちの中で私の食事を味わう人は一人もいない」と結び、トマスでは「買主や商人は私の父の場所に入らない」と結んでいます。マタイでは礼服の着ていないものの話が加わり、そのあとで「招かれる人は多いが選ばれる人は少ない」と結んでいます。
 そして誕生したばかり教会はこのたとえ話を宣教の指令として受け取りました。

 今日の福音で一つ、驚くのは、王が家来たちを送ると、招待を受けた者たちから理由もなくとらえられ、乱暴を受け殺されたしまったことです。しかも激怒した王が宴会に先立ち兵を送り、その者たちを滅ぼして町を焼き払ったと言うことです。
 ここには先週のブドウ園の譬えの僕たち同様、家来たちに旧約の預言者たちを重ね、さらには、紀元70年のエルサレムの崩壊という出来事が反映していると見られています。

 もう一つ不可解なのは、手当たり次第に集めてきたのに、礼服を着ていないからと、何故放り出されるのか、と言うことです。急に連れてこられて礼服を着る暇なんてないでしょうに。 列王記下の10の22をよみますと「イエフは衣装係に『バアルに仕えるすべての者に祭服を出してやれ』と言った」とあり、招待客に礼服を提供するのが習慣であったようにも思われ、これまではそのように説明されてきました。
 そして実際にも今日、司教叙階式の時には、全司教に同じ祭服を用意する習慣があります。さいたま教区ではお金がないので、中央協議会から借りていますが。韓国での聖体大会(1989?)では何千人もの参加司祭全員に大会のシンボルマークの十字架の模様の付いたストラが用意されましたし、日本でも、高山右近の列福式では参加した司祭全員のためにアルバと祭服が用意され、皆さんが同じ祭服でミサをしました。

 しかし、聖書学者のヨアヒム・エレミアスは、「イエスの時代にそのような習慣があったことを立証するものはない」といいます。そして、ルカにもトマスにもこの話はないので、本来独立した話がここに挿入されたと見ています。
 挿入された理由についてはこう説明しています。
 「はっきりしているのは招かなかった人を見境もなく呼び入れることから生じかねない誤解、すなわち呼び込まれた人たちの行動は全然問題ないかのような誤解を避ける必要があったということである。」 初代教会はこの譬えを挿入し、最後の審判で無罪とされる条件として、悔い改めの必要性を強調したと言うことです。

 このたとえ話の中で、なぜ招かれた人々は来ようとしなかったのでしょうか。
 マタイでは5節に「一人は畑に、一人は商売に出かけ」とあるだけですが、
 ルカ14章18-20節では、「最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った」となっています。

 彼らは嫌だとは言っていません。でもそれ以上に優先することがあると考えたようです  彼らは結局、招かれたことの素晴らしさ・ありがたさを本当には感じていなかったのだと言わざるをえないでしょう。わたしたちはどうでしょうか。

 神の招きは婚宴という喜ばしい祝宴への招きです。クリスチャンが招かれているのは 
→ 喜びを主と共に味わうためです。ですから、キリスト教を・・・人生の喜び、明るさ、幸福な交わりを全て断念させるものと考えるのは大きな誤りです。

 キリストの招きを拒否させるものは、必ずしもそれ自体は悪くありません。

 人生においてしばしば・・二番目によいものが、1番目によいものを阻止し、最高のものを妨害します。神の子が目の前にいるのに、幸せの秘訣を示してくれているのに、遠くを捜しています。毎日あくせくして、幸せやーいといって、見当違いのところを捜しています。  冨を沢山ためたら幸せになれるだろうか。新しい車を手に入れたら幸せになれるだろうか。自分の家を建てたら幸せになれるだろうか・・・と。 

かくいうわたしもそうですが、あれも、これもと、なすべきことに毎日追われています。

その日の事に忙しすぎて、キリストの招きを聞き逃します。

宋の詩人(戴益)たいえきの詩があります。
尽日(じんじつ)春を訪ねて春を見ず
杖藜(じょうれい)踏み破る 幾重の雲
帰り来たりて試みに 梅梢を把って見れば
春は枝頭(しとう)にありて 已に十分

- 春が来た春が来たというので どうにかして 春に会いたいと思い、
朝から弁当持ちで一日中春を訪ね歩いたがどこにも見いだせなかった。

- 向こうの山、こちらの谷、あちらの丘とずいぶん歩いたが、いたずらにあかざの杖をすり減らしただけだった。

- 疲れた足を引きずり、日の暮れ方、しおしおと家に帰り、ふと入口の梅の枝をとって見ると、梅の花が数輪、いともふくよかに良い香を放って咲いていた。
なんだここに春があった、この梅の花のさいているところに春はあるじゃないかと言う詩です。

わたしたちは既に、神に招かれているのに、幸せはわたしたちの内にあるのに、・・・遠くを捜している。今日の福音はそこを指摘します。

ヨアヒム・エレミアス(1900-1979)著書「イエスのたとえ話の再発見」「イエスの宣教」等

司祭の言葉 10/4

年間第27主日A年 2020/10/04

邪悪な農夫

                             司祭 鈴木 三蛙
 皆様お元気ですか? ようやく司教様から出されていた年齢制限が解除され、今日から、高齢者の方もミサに参加できることになりました。でも、ご心配な方は今まで通り家の中でお祈り下さいとのことです。

 今日の福音はマタイによる福音です。同じ譬え(たとえ)はマルコもルカも記しているのですが、このイエスの「ブドウ園のたとえ話」を、マタイ福音書は寓喩的(ぐうゆてき)に紹介しています。寓喩とは、ある事柄を直接的に表現するのではなく、他の事物によって暗示的に表現する方法とされています。
 イエスが最初語った時の聴衆は祭司や民の長老たちでしたが、教会が誕生し、聞き手が信徒に替わることによって、信徒たちの置かれた現状に合わせ、次第に寓喩的に解釈、伝承されるようになったと考えられています。

 今日の福音では、最初につかわされた者たちの一人を袋叩きにし、一人を殺し、一人を石で撃ち殺したとあります。また他の僕たちを前よりも多く送りましたが、農夫たちは同じような目に合わせています。この僕たちは旧約の預言者たちで、聖書学者は、先に送られた者たちは捕囚前の預言者たち、後に送られた者たちは捕囚後の預言者たちであると見ています。そして、最後に送られた息子はブドウ園の外で殺されていますで、イエスのエルサレム城外での十字架刑を示していると考えています。
 今日の第一朗読のイザヤの預言がこの話の根底にありますので、ブドウ園はイスラエルの家、主が楽しんで植えられたのはユダの人々としますと、農夫たちはイスラエルの指導者たちを指すことになります。マタイはこの話の中に、イスラエルの指導者がキリストを拒否した結果、救いが異邦人に及んだ歴史を見ているのです。

 このたとえ話は、「邪悪(じゃあく)な農夫のたとえ話」ともいわれています。土地を手に入れるために地主の息子を殺してしまうとは、何とも乱暴な話ですが、この譬えはあり得る話なのでしょうか、たんなる作り話なのでしょうか、皆さんはどう思われますか? 息子を殺せば相続権が手に入ると言う農夫たちの考えは、ばかばかしく思われます。

 ヨアヒム・エレミアスと言う聖書学者は、このたとえ話は外国の農園主に対するガリラヤの農民たちの姿勢を記したもので、その行動はガリラヤに本拠を置く熱心等によって引き起こされたと述べています。(イエスのたとえ話の再発見p87)
 ガリラヤ湖の北岸と北西岸、そしてガリラヤ山岳地帯の大部分は、当時外国人の所有者で、地主が外国に暮らしていたので、地主が外国に暮らしている限り借地人たちは使者に対して好き勝手なことをしました。また、特定の条件下では、遺産は主人のいない財産とみなされ、誰でも自分のものだと主張でき、最初に専有獲得したものが優先権を得ることが出来たのだ・・と言うことです。
 この場合、息子がやってきたのは、土地の所有者が死に、息子がその遺産を取りに来たのだと考え、もし息子を殺せばブドウ園は主人のいない財産となり、自分たちが最初のものとしてその場所を占有できると考えたということです。そしてイエスが一人息子を登場人物に取り入れたのは「神の子」としてのメシアと言うことではなく、この物語の本来の筋として、ブドウ園主の息子を殺すことで、最後に決定的な神の使信(ししん/メッセージ)が拒否されることを示しているということです。日常生活からとられた話としては、あまりにも残酷ではないかと思われるのですが、この物語は借地人の邪悪さを強調し、聴衆が聞き漏らさないようにする必要があったと考えます。

そして、もう一つの見方があります。
この譬えはマルコとルカにも記されています。マルコでは使わされる僕(しもべ)は一人ずつで、一人目は袋叩きにされ、二人目は頭を殴られ侮辱されます。三人目は殺されます。他にも送られましたが同様にされ、息子なら敬ってくれるだろうと送られた息子はブドウ園の中で殺されたのちブドウ園の外に放り出されます。
 ルカでは三人目は傷を負わせて放り出します。そのあとに送られた息子はブドウ園の外に放り出されて殺されます。
 また、偽福音書として知られるトマスによる福音書にも、この話は記されています。グノーシス派に属するこの書物の編集者は、たとえ話を確実に寓喩的感覚で理解するのを常としていたのですが、トマスによる福音書のたとえ話には寓喩的特徴がみられないのです。「彼は僕を送った。ブドウ園の収穫をださせるためである。彼らは僕を捕まえて袋叩きにし、ほとんど殺すばかりにした。僕は帰ってそれを主人に言った。『多分彼らは彼を知らなかったのだ。』主人は他の僕を送った。農夫たちは彼をも袋叩きにした。そこで主人は自分の子を送った。」
 そして、マルコもルカもマタイより話の筋が単純なので、こちらの方がイエスの言われた実際の言葉に近いと考えられるといいます。

そこで、寓喩的見方を取り除きますと、もともとイエスが言わんとしたのは、
あなた方ブドウ園の借り手たちである「人々の指導者たち」は、これまで何度も神に逆らい、預言者たちに聴こうとしなかった。今もまた神の遣わした最後の使者を拒絶している。もはや限界だ。したがって神のブドウ園は「他の人たち」に与えられる・・ということでした。

 そしてヨアヒム・エレミアスは、マルコもルカも「他の人たち」がだれを指すか、何も明らかにしていないので、関連するイエスの説教から類推して、他の人たちとは「貧しい人々」を指していると考えねばならない・・・と結論して、
 本来は「祭司長たちや民の長老たちよりも、神から遠いとされている取税人や遊女たちの方が神の国に入る」とおっしゃったのだ、と読み解きます。(マタイ5の5山上の垂訓)

イエスのたとえ話の多くは、取税人や罪びとたちとともに食事をしているのを非難する、パリサイ人や律法学者たちに対するイエスの弁明で、「かたくなな祭司長たちや民の長老たちよりも、悔い改めた取税人や遊女たちの方が神の国にふさわしい」と、福音の正しさを言明するために語られているということです。