司祭の言葉 9/27

年間第26主日A年(2020/09/27)

神からの呼びかけ

                        司祭 鈴木 三蛙
最近とみに忘れっぽくなりました。 昨年のある土曜の夜7時に、古河教会から電話がかかってきました。電話のこえをきいたとたんに「しまった」とミサの約束をしていたのを思い出しました。セウイから古河までは45分はかかります。向こうが気を利かして、自分たちでお祈りをするから、そのままセウイにとどまってください、事故を起こさないためにもとおっしゃってくださいました。色好い約束をして守れないと・・・心が痛みます。メモをしても、それを見るのを忘れるのですから、どうしようもありません。

今日の福音は共同訳聖書からとられています。もう一つの日本聖書協会訳をよんでみます。聞き比べてください。

あなたはどうおもうか、ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った「子よ、今日葡萄畑に行って働いてくれ」すると彼は「お父さん、参ります」と答えたが行かなかった。また弟のところに来て同じように言った。かれは「いやです」と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。この二人のうちどちらが父の望み通りにしたのか。彼等は言った。「あとの者です」イエスは言われた。よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなた方より先に神の国に入る。

ちがいがわかりましたか? この訳では、「行きます」と言って行かなかったのは、兄の方ですね。行くと言った兄がゆかなかったので、父は弟の方に声をかけた・・こちらのほうが自然です。この譬えで、父に声をかけられた兄は、パリサイ人やユダヤの指導者たちのことを示しています。そして、「いやです」と言っても、考え直した弟の方は、取税人や遊女たちのことですから、この順番の方がしっくりきます。この違いは写本の違いによるものだと考えられています。

徴税人と娼婦は当時のユダヤ人社会の中で、罪びとの代表とされていましたし、周囲の人々からは、神の救いに程遠い人間と考えらていました。また、自分たちも救われることに絶望していました。洗礼者ヨハネのメッセージは、このような人々に希望を与えることになります。「すべての人は今回心しなければならない」ということは「どんな人でも今回心して救いにあずかることができる」ということだからです。

一方、パリサイ人や民の指導者たちは[自分たちは律法を守っている」と考えていましたから、洗礼者ヨハネの回心の呼びかけを自分たちに向けられたものとしては受け取りませんでした。

このたとえ話の中で、弟は「承知しました」と言いながら、なぜ出かけなかったのでしょうか。 父親の呼びかけに同感せず、無関心だったのかもしれません。マザーテレサは、愛の反対は、憎しみではなく無関心ですと言います。聖書の神のことばを通して神はわたしたちに呼びかけています。と同時に、今この世界に起こるさまざまな出来事も神からの呼びかけとして関心を示すこと、それがたいせつです。

司祭の言葉 9/20

※20200920 年間第25主日A年

デナリオン・信仰の恵み

                      司祭 鈴木 三蛙
日本国内でも、とくに新型コロナウイルスによる打撃は激しく、健康で働きたくても仕事がなく働けないという現実があります。多くの方が派遣切りにあい、8月初め、失業者は265万人、戦後最悪の6%台になり、隠れ失業者517万人を含めると11%台になるそうです。さらにこれは世界中の傾向で、米国などでの失業者は、20%を超えるともいわれています。現実に、春日部教会でもこども食堂を行っていましたが、現在は部屋に招いて食事を提供することが難しく、母子家庭などではお母さんの失業や休職で、食べるものにも事欠く事態に陥っています。

マタイ20の1~16の今日の福音のたとえは、全ての人に働く権利があること、また働く者はその働きに対して生活できる賃金を得る権利がある事をも、示唆しています。

今日のたとえ話でぶどう園の労働者に支払われた賃金は、私たちの社会の基準で考えれば、同じ現場で同じ労働をしていた労働者の時給が10倍近く違うのですから、これは明らかに不当な行為だろうと思います。 でもイエスさまは「あなたに不当なことはしていない」のだから「自分の分を受け取って」それで満足しなさいとおっしゃっています。

1デナリオンは本当にわずかなお金です。家族みんなのパンがやっと買える程度のお金だったのです。このお金がなければ家族は今日一日ひもじい思いをすることになります。 たとえ話で語られる労働者は「9時ごろ」「12時ごろと3時ごろ」に雇われた人たちも、「5時ごろ」に雇われた人たちも「何もしないで1日中ここに立っている」ので雇われたのですが、彼らは「誰も雇ってくれない」のでしかたく、声をかけられるチャンスを逃さないために、働くチャンスを逃さないために、「何もしないで広場に立って」いたのです。逆に同じ賃金であったことに抗議をした最初に雇われた者たちは、あとから雇われても同じ賃金なのであれば、自分たちも五時ごろに雇われれば良かった、つまり朝から働かないほうが良かったという思いがにじみ出ています。

ここで語られているのは社会正義ではなく神の憐れみなのです。1デナリオン、この神から与えられるものは、信仰の恵だということが大切な点です。この労働者が神から与えられるのは賃金ではなく贈り物であり、報酬ではなく恵なのです。パウロは言います。「ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(ロマ4の4)

わたしたちはみな神から恵みを受ける資格を持ちません。自分で自分を義とする事のできる人は一人もいないからです。もし、人が義とされるのなら、それは、ただ、神のあわれみによるのであって、イエスがわたしたちのかわりに贖いをされた事によるのです。

ラビの言葉に、「ある者は1時間で神の国に入り、ある者は一生かかってやっと入る」と言うのがあるそうですが、今日の福音は、神は全ての人を神の国へと招いておられ、信仰に後先はないことを物語っています。

司祭の言葉 9/13

※20200913 年間第24主日A年

許しの限界

                   司祭 鈴木 三蛙
今日のテーマは許しの限界についてです。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回許すべきでしょうか。7回までですか?」イエスにこの質問をしたとき、ペトロはお褒めの言葉を大いに期待していたと思います。

日本のことわざにも「仏の顔も三度まで」というのがあります。どんなに温和な人でも顔を撫でられて気持ちのいいはずがありません。やめてよ‥というでしょう。コロナの今の時代ならなおさらです。それを三度も撫でられたら、どんなに温和な人も怒り出すというわけです。

ユダヤのラビの言葉にも、次のように言われているそうです。「ラビのヨセ・ベン・ハニナは言った。隣人から許しを3回以上乞うことはできない。」ですから、ペトロは自分を寛大な人間だと思っていたことでしょう。ラビの許しの倍許し、さらにもう一回加えているのですから。でもイエスの言葉は7の70倍許しなさいというものでした。それは際限なくということです。そしてたとえをもってその根拠が示されます。一万タラントンを許された者が100デナリンオンの負債のある仲間を許さなかった・・。1デナリオンを労働者の日当1万円と仮定するなら、1万タラントンはその同僚の負債の60万倍でしたから、6000億円にあたります。べらぼうな額です。

このたとえが示すのは、私たちは神の子の命というべらぼうな額によってあがなわれているということです。贖われている‥それはキリストによって買い取られ、その所有とされたということです。キリストの所有となったのですから、私のすべてはキリストのものであり、キリストの聖心に沿って行動することが求められているという事です。

パウロがローマの教会への手紙の中で、「生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものです」といっているのは、まさにこのことです。「私たちは主の僕であり、主の聖心を生きるのだということです。「私たちの中には誰一人自分のために生きるものはなく、誰一人自分のために死ぬ人もいません。」借金を帳消しにしてもらった家来は、王の心を生きるべきだったのです。

私たちが人を許さないのは、自分がべらぼうな値によってあがなわれたものであるということを意識していないことによります。自分はキリストの命によってあがなわれ、キリストの僕となったのです。だからキリストの思いを自分の思いとして生きる・・・そのことを改めて黙想してはいかがでしょうか。

司祭の言葉9/6

※20200906年間23主日(A年)

         困難な問題の解決


                   司祭 鈴木 三蛙
 今日のカ所をお聞きになってどのように感じられましたか?・・・ 教会の誕生はペンテコステの後ですし、言われている内容も教会の規約のようで律法的です。取税人や異邦人について言われていることも疑問に感じると思います。
 イエス様自身、「徴税人や罪人の仲間」と言われたほどですし、この後の21章の31節では祭司長や民の長老たちに向かって「徴税人や娼婦たちの方が貴方たちより先に神の国に入るだろう」と言っているのですから。さらに疑問を大きくするのは、赦しには限度があるかのように言われていることです。今日のお話の後に、7の70倍まで許しなさいと言われたイエスさまが、このようなことを言うはずがないのです。ではこの個所はどう理解したらよいのでしょうか。様々な理由から、ここに記されているとおりの言葉はイエスさまが実際に言ったのではなく、後年、教会が、懲戒処分を規約に盛らなければいけなくなった時に、イエスさまが言われた何かの言葉を適用したのだろう・・というのが、神学者たちの理解です。イエスの言葉を正確に記録したとは言えないでしょうが、イエスの発言に由来していると考えられるというのです。
 一昔前になりますが、神奈川県のある施設で職員と園長の間に溝が生じました。2年後、神奈川県独自に付いていた補助金2000万がカットされるというのです。それは人件費4〜5名分にあたります。それで園長は、「今後、園の行事計画などは、勤務時間内で処理するようにしてほしい。残業手当は出せなくなるから」と言いました。職員は説明してほしいと思いましたが、園長は相手が判ってくれるだろうと思いました。
 説明が足りずボタンの掛け違いでずっと来たため、職員たちは組合に入りました。説明不足で行動すると、誤解が生じやすくなります。その時両者の間に入って、溝の原因がどこにあるのか2回ほど、3人で話を聞きました。どちらかを裁くためではなく、こんがらかったヒモを解きほぐすために。
 だれかが自分に対して罪を犯した時には直接あって本人に話すべきですが、個人的に会っても目的が達成されない時には、和解を助けるため第三者を連れてゆく。それでもだめなら問題を教会の、祈りと愛の交わりに持ってゆく。それでも実らなかった場合には異邦人か徴税人のようにみなす。・・ここはよく見なければなりません。救われる望みが無いかのように取られますから。
 イエスさまがそんな事を言うはずはありません。今日のパンフレットは「新しい神の民に属していない人」と言う意味であると述べています。それは、その人の心を愛をもって勝ちとるように、宣教の対象と考える・・と言う意味になります。
 この言葉を言いながら反省しています。私にとっては説教しにくいテーマです。自分に資格がないと感じますから。杉戸で14年来挨拶が返ってこない人がいました。じりつ村の設立当初の、反対運動の急先鋒だった方です。私の努力不足もあって、時間だけがたってゆきました。しかしあるとき、ご主人が亡くなって、弔問に行ってから、その方の態度が変わりました。挨拶が返ってくるようになったのです。時が解決したとも言えますが、教会の中ではどうでしょうか。
 教会の中でもいろいろな人間関係で悩むことがあると思います。でもその問題をできるだけ当人に直接話して、誤解を解き、早急に解決することが求められているのだと思います。
 さらに大切な言葉が記されています。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」イエス様はそうおっしゃいます。一人ではだめなのです。少なくとも二人いれば、そこには教会が存在するのです。そして、先に、私たちのために取り次いで祈っていて下さっている弁護者イエスが、ともに、そこにおられると言うのです。だから、困難と思える問題もイエス様とともに解決に向かう、そう信じることが出来ます。
 ここには聖体とみ言葉に加えて、もう一つの、キリストの現存の真理が語られています。


※2020.09.06 23th Sunday in Ordinary Time(A)
In the face of hard troubles
Fr. Suzuki, Michael Kunihiro
How do you feel about today’s Bible? The birth of the church was after Pentecost. Besides, this is legal matters just like rules inside our church. You may have doubt about what Jesus says on tax collector and foreigners. Jesus, in fact, was called “tax collectors or sinner’s companion”. He even says to the head of the priests or the elders of people “tax collectors and prostitute will enter into the kingdom of God earlier.” Moreover, what increases our doubts is his remark that his forgiveness of sins has a limit. It is impossible for Jesus to say that because he told us to forgive as many as 7 multiplied by 70 times. How should we understand this contradiction? Some theologist believe that when the church needed to introduce some disciplinary measures into the Covenant, they used some language. They say that part is rooted from what Jesus had actually spoken even though they are not accurately recorded.

A decade ago, a conflict occurred between the principal and the staff at an institution in Kanagawa prefecture. Kanagawa prefectural government informed they will cut their subsidy. The amount equals to labor cost of 4 or 5 stuffs. Then, he asked, “Finish preparing activity by the end of business hours from now on. We will not be able to provide overtime payment”. While the staff wanted to him to explain more, he thought they will understand. Because the explanation was not enough, they were still left misunderstanding him and joined labor union. If things are promoted with insufficient explanation, we cannot understand in the right way. I entered between the two to find what caused the trouble. Not to judge one of them but to untie a tangled knot.

When someone sins against you, you need to see and talk. If it fails, go to a third party for help. If it fails, bring the trouble to the church, communion of prayer and love. If it fails, treat them as if he is a gentile or a tax collector. We need to examine carefully here. It might give you the impression that he cannot be forgiven. Jesus cannot say that. According to today’s brochure it means they has not yet belonged to new God’s people. Therefore, we need to try to win his heart with our love in our faith in the Lord, Jesus Christ.

This is not a theme I can easily preach as I still feel sorry and criticize myself over a trouble. I confess that there was a faithful who would not answer to my greetings for fourteen years. He was the leader of opposition movement against founding Jiritu-mura, or independence village literally, from its foundation. I cannot say I made an enough effort in the long time that had already passed. I once made a call to express condolence after her husband passed away. One day, she changed her attitude and gave me a greeting back. It can be said the time has settled. I guess it is the same in church. We sometime are bothered with human relationship also here. We need to talk over the issue face to face, resolve our misunderstanding, and solve it as soon as possible.

Here are other essential words, “if two or three are gathered together in my name, there am I in the midst of them”. Jesus says he cannot be alone, a church will be among us if more than one of us is there. And we say that Jesus, the council will be there with us praying for us and interceding us. For this reason, we can believe even the problems looking difficult will be settled in Him. This is the truth of Christ’s presence as well as the Eucharist and words of the Lord.
(Translation: TK)