司祭の言葉 4/17

主の晩餐の夕べのミサ ヨハネ13:1-15

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

聖木曜日。主の晩餐の夕べのミサを祝う度に、かつて、わたしが英国で、ユダヤ人の友人の家庭の春の「過越の祭」の食卓に招かれた時のことを思い出します。

ユダヤの人々は、古い仕来りのままにユダヤ暦ニサンの月の14日の過越の晩、家族ごとに食卓に集います。家長のブドウの盃による祝福によって過越の祭儀は開始され、詩編の朗詠に続き、今日お聞きしたのと同じ出エジプトの物語が朗読されます。続いて、家長はパンを取り、感謝の祈りを捧げた後、パンを裂き、一同に配ります。その後、食事の終わりに、再度、家長からのブドウの杯による祝福を以て、過越の祭の食卓は閉じられます。ルカによる福音が正確に伝えている通りの順序です。

ユダヤ人の友の家庭で過越の祭の食卓に加えていただき、福音書の伝える主イエスと十二人の弟子たちの過越の祭の食卓、「最後の晩餐」の様子を心に思い浮かべていた時、ふと、わたしたちが囲んでいる家庭の過越の食卓の、いちばん大切と思われる席が空席であることに気付きました。ユダヤ人の友によれば、それは、待ち望んでいるメシア・キリストのために、大切に空けてある席だとのことでした。

それを聞いて、ああ、ここには主イエス・キリストがいらっしゃらないのだなと、それまでの感動に代えて、突然一切が虚ろにさえ感じられた事を覚えています。

しかし、今、わたしたちが祝っているこのミサは、違います。わたしたちの過越の食卓の主は、メシア・キリストご自身です。ただし、それは決して自明のことではないのです。これは、ユダヤの人々にとっては、今なお待ち望んでいる出来事なのです。

主イエスご自身が、ご自身の過越の食卓にわたしたちをお招きくださった。この驚くべき出来事を、ヨハネによる福音は、食事の前に主ご自身が弟子たちの足を一人ひとり洗ってさえくださったというさらに驚嘆すべき事実をもって語り始めます。

ミサ、すなわち主の過越の祭りの食卓は、そのようにして始められたのです。

それだけではありません。主イエスの過越の食卓で、わたしたちのために裂かれるパンとわたしたちのために注がれるブドウ酒。それは、主イエスご自身です。じつに主ご自身の御からだと御血です。マルコによる福音は、次のように伝えます。

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしのからだである。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」

これが、主イエスと弟子たちの過越の食事。これが、主とわたしたちのミサです。

ユダヤの人々のみならず、わたしたちも悩みや苦労の多い人生で、救い主キリストをひたすら待ち望んできた日々があったのではないでしょうか。救い主のために食卓を整えて待っていても、いつもその席が空席のままのような、長く虚ろな時間に疲れてしまったことが、かつての皆さんにもあったのではないでしょうか。

しかし今日は違います。このミサは、主イエスご自身がわたしたちのために整えてくださった食卓。ルカの福音によれば、「イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過ぎ越しの食事をしたいと、わたしは切に願っていた』。」 

食事の前に、一人ひとりの足をご自身で洗ってくださるほどに、救い主キリストご自身が切に願ってくださっておられた、主ご自身とわたしたちとの過越の祝い

長い間、わたしたちは自分の願いの中に救い主を求めて来ました。しかし今、このミサでは、主イエスご自身の切なる願いの中にわたしたちが招かれています。

主イエスのわたしたちへの切なる願い。それは、ご自身のすべてを、ご自身の御からだ、ご自身の御血の最後の一滴に至るまで、わたしたちにくださること。それは、わたしたちを神の国の食卓に招き、ご自身のいのちに生かしてくださるためです。

救い主キリストを待ち望んできたわたしたちの願いに先立ち、わたしたちをご自身の愛の内に、ご自身のみ国に招き入れたいとの主イエスの切なる願いが、すでにわたしたちに向けられていたのです。そして今、わたしたちはこのミサで主ご自身の限りなく深い願いの中に、強く、優しく、また確実に抱きしめられてよいのです。

救い主キリストのわたしたちへの切なる願いに抱かれて、今、わたしたちは、このミサ、メシア・キリストご自身の食卓で、「神の国への過越」を祝っています。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 4/13

受難の主日(枝の主日)ルカ23:1-49

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

灰の水曜日から受難の主日までの間、福音にお聞きしながら四旬節を歩んで参りました。それは、ちょうど、主イエスに伴い、主とともに、福音に語られた多くの人々との出会いを重ねた旅のようでもありました。

主イエスの出会われた一人ひとりの辿ってきた人生は異なっていました。その中には、主に出会い、主を信じ、主に自分たちを委ねていった多くの人々がいました。しかし、主のみことばを聞き、主のみ業に与りながらも、なお主を疑い、主を神の子キリストとして受け入れることができなかった人々もいました。

あるいは、今日のルカによる福音23章の語るエルサレムの群衆のように、一度は主を救い主キリストと歓喜の声を以って迎えたにもかかわらず、その同じ週の内に、その同じ主イエスを、十字架につけよ、と叫び出した人々もいました。

これらの人々の内、いったい誰がこのわたしなのでしょうか。じつのところ、その一人ひとりすべてがわたしである、ないしわたしであった、というべきかもしれません。

ご復活の主イエスの使徒パウロは、「聖霊によらなければ、だれもイエスは主であると信じることはできない」(一コリント12:3)と告白しています。その通りだと思います。わたしたちが、主を信じさせていただいているというのであれば、それはひとえに、聖霊なる神の恵みであり、聖霊の御導きに他ならないと思います。

たとえば、わたしは、仏門に生まれ、若い時に仏教の修行をさせていただいた者です。キリスト教とは縁もゆかりもなく生まれ育ったわたしが、手探りのような歩みの末、今、現に主イエスを神なる主キリストと信じさせていただいているということは、これは神の聖霊による導きによるとしか言いようのないことです。

実際、主イエスを疑わず信じさせていただくことは、わたしたちにはとても重い事です。聖書においては、主なる神を疑うことを罪といいます。神なる主キリストを疑うのは、主を心底から信じることができないからです。言い換えれば、主なる神キリストに自分を委ね切ることができないと言うことです。アダムとエヴァのごとく、いつでも逃げられるように神と自分との間に距離を置く。それが、罪です。

主イエスの時代のファリサイ派の人々が、そうでした。彼らは、旧約の時代を通して約束されていた救い主キリストを、熱心に待ち望んでいた人々です。しかし、彼らは主にお会いした時に、彼を神の子キリストと受け入れることができませんでした。主を信じ、自分たちを主に委ねることができませんでした。主を疑ったからです。それを、罪というのです。主は、それを本当に悲しまれたに違いありません。

そのようなわたしたちのただ中で、わたしたちのために黙々と十字架を負って歩まれる主イエス。四旬節の間中、主とともに、福音の語るたくさんの人々に出会い続けてきた中で、わたしたちは、じつはわたしたち自身に、同時に主ご自身に、出会わせていただいて来たのではないでしょうか。主を信じ切れず、主を疑うわたし。主に自分自身を委ね切れないわたし。そのようなわたしのために、わたしの罪、わたしの惨めさを一身にご自身の十字架として背負い抜いてくださる主イエス・キリスト。

主イエスを信じきれず、したがって主に捧げる何物も用意できなかったわたしでした。しかし、主は、そのわたしのために、十字架の死に至るまで、ご自身の一切を、ご自身の御からだとその御血の最後の一滴に至るまで与え尽くしてくださいました。十字架の主こそ、わたしの疑いの罪を破り、信仰をお与えくださった唯一の神です。

信仰の神秘。それは、主イエスご自身が、罪なるわたしに信仰をお与えくださった、主ご自身がわたしの「信仰」となってくださったということです。神を信じきれず、神を疑うわたしが、神を信じさせていただくには、それしかなかったのです。主の十字架。ここに初めて、かつ最終的に、わたしたちの神への疑いが破られ、神を信じ、わたしたち自身を神に委ね切る、神に自己を捧げて生きる新しい命が、わたしたちの身の事実とされた。「信仰の神秘」。「神秘」すなわち「秘跡」とは、神のみ業です。

ミサでいただくのは、わたしたちの「信仰の神秘・秘跡」である主イエス・キリスト、十字架においてご自身を父なる神とわたしたちに捧げかつ与え尽くしてくださった主の御からだと主の御血。「聖霊なる神」活ける主によらなければ、誰も「信仰」をいただくことはできないとパウロは教えていました。聖霊は、十字架の死を経て甦られた主ご自身のいのち、わたしたちを信仰に活かすご復活の主のいのちの息吹。

十字架とご復活の主イエス・キリストは、疑いの罪からわたしたちを解放し、自らを主に委ね切って主の内に真実に安らぐことをゆるす「信仰」を、聖霊の結ぶ実としてお与えくださいます。ご聖体において。「信仰の神秘・秘跡」。それが、ミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 4/6

四旬節第5主日 ヨハネ8:1-11

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」神殿で教えておられた主イエスの前に、律法学者によって姦通の罪を指弾されて連れて来られた一人の女性に語られた、主のおことばです。

ヨハネによる福音はこの時の様子を、じつに印象深く伝えていました。律法の教師であった律法学者やファリサイ派の人々は、その時、この女性を主イエスの前に引き出し、「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と、主に詰め寄りました。

彼らの言葉が悪意に満ちたものであったことは、福音が続けて「イエスを試して訴える口実を得るために、こう言ったのである」と伝える通りです。執拗にくり返される彼らの詰問に、主イエスは次のようにお答えになりました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい。」

主イエスのこのおことばに、最前まで勢い込んでいた律法学者たちも、「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」その時、主はこの女性に言われました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」この主の問いかけにその女性が、「主よ、誰も」と答えたとき、主がこの女性にお語りになられたのが、冒頭に引用した主のおことばでした。

ここで注意しておきたいことがあります。ヨハネによる福音はこの出来事を、第7章から第10章前半にかけて伝えられる、当時のユダヤ人の「仮庵祭」を背景に物語っていることです。ユダヤの「仮庵祭」とは、神の民イスラエルの出エジプトを記念し祝う「過越祭」(「種入れぬパンの祭」)、さらに、その50日後にモーセがシナイ山で律法を受けたことを記念する「五旬祭」(「七週の祭」)と並んで、当時のユダヤ人のエルサレム神殿への三大巡礼祭の一つとされていました。

とくにユダヤ暦の一年の最後、秋の穀物・油・ぶどう等の収穫後に七日間祝われる「仮庵祭」は、「収穫感謝祭」(出エジプト記23:16)とも呼ばれ、一年で最も盛大な祭りであったとも言われています。ただし「仮庵祭」は、信仰においては、神の民の出エジプト後の荒野の旅の間、「神が民を仮庵(幕屋)に住まわせた」(レビ記23:42-43)こと、またこの間、神ご自身も「仮庵(臨在の幕屋)」に住まわれた(出33:7-11)ことを、感謝して想起するための祭儀でした。

したがって、「仮庵祭」の祭儀の中心は主なる神の記念です。荒野の旅の間、民の「唯一の牧者」として、ご自身も「幕屋」にあって民の旅に伴われ、昼には水も無く、夜には光とて無い荒野で、民のためにご自身が「活ける水」となり、「まことの光」となってくださった神の記念と感謝が祭りの中心です。この同じ仮庵祭を背景に、主イエスが人々にご自身を、「活ける水」・「まことの光」として、さらに、「良い羊飼い(牧者)」としてお示しくださるのも、理由のあることです。

それにしても、民の荒野の旅が40年の長きにわたったのはなぜでしょうか。聖書によればそれは、神の民によってくり返された、「良き牧者」なる神への忘恩と不従順、すなわち民の罪の結果とされています。神は、そのような民であるにもかかわらず、最後までこの民をお見捨てになることなく、言葉に尽くせない忍耐と大きすぎる犠牲をも顧みず、民を「約束の地」に導き入れてくださいました。この神に対する懺悔と感謝こそ、「仮庵祭」の祭儀の中心であるはずです。

そのような、エルサレム神殿の「仮庵」の祭りの最中、自らの罪と不従順の懺悔も、そのような罪人である彼らを赦してくださった神への感謝をもことごとく忘れ果てた上、事もあろうにその祭りのただ中で、罪を犯したと言われる一人のまったく無力な女性を主イエスの前に引き出し、主に罪の裁きを厳しく求めるという律法学者の行為の異様さ、彼らの異常な身勝手さが際立っています。

主イエスは、そのような彼らの前で、「かがみ込まれた」と福音は伝えています。その時主は、律法学者たちの前で、屈み込まざるを得ないほどに、彼らのことを深く悲しまれたのです。主から罪の赦しと憐れみを受けるべきであるのは、「罪を犯した女性」以上に、「仮庵祭」と言う神への懺悔と感謝の特別な時にさえ、主のみ前に自らを義とし、人を罪に定めて平然としている律法学者たちこそ、だからです。しかも、彼らはそのことに気付いていません。

主イエスは罪の女性のため以上に、むしろ彼らのためにこそ十字架を負われるのではないでしょうか。次の主日、主は終にエルサレムにお入りになられます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 3/30

四旬節第4主日 ルカ15:1-3,11-32

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」今日の福音の主イエスの「放蕩息子のたとえ」の中で、放蕩の後、行き場を失い父のもとに帰って来た息子を迎えた「父」のことばです。

「放蕩息子のたとえ」を含めて、主イエスは、ご自身の「神の国の福音」の宣教を、多くの「神の国のたとえ」を用いてなさっておられます。同時に、主は、それと並行して、これも繰り返して、ご自身の「十字架と復活」を予告されておられます。「神の国」とくに「その完成」と主の「十字架と復活」は、切り離すことができないからです。

さて今日の福音のたとえで、「放蕩息子」が父の許に帰って来た時、父は、まだ遠く離れていたにもかかわらず息子を見つけ、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と喜び、息子のために祝宴を開いたと言うのです。

「放蕩息子」には兄がいます。明らかに兄として暗示されているユダヤの民から見て、元来異邦人であったわたしたちは、主イエスの今日のたとえを、弟である「放蕩息子」に当てはめて聞く他無いと思います。ただここで、聞き逃してはならないことがあります。今日のたとえで、主は、元来異邦人であったわたしたちも、兄であるユダヤの民と「同じ父の子」である、とはっきり仰っておられることです。このことは、わたしたちには非常に重要であると思います。

元来異邦人のわたしたちが、その尊さをわきまえないままに、自分のためにだけ今日まで浪費し続けていた「財産」も、その一切は兄と「同じ父」からいただいていたものだからです。その事実を、わたしたちは今日の主イエスのたとえを通してはっきりと知らされました。その「父」から受けた御恩ばかりか、わたしたちのまことの「父」を忘れ果てての「放蕩」の後に、それにもかかわらず、「父」はわたしたちを喜んで「父の家」に再び迎え入れてくださったというのです。

それだけではありません。そのような「父」に対する兄の激しい抗議にもかかわらず、父はわたしたちを再び受け入れてくださったばかりか、「父」はわたしたちのために大きな犠牲をさえ払ってまでして祝宴を整え、わたしたちを「父の食卓」にまねいてくださいました。主イエスは、父は「犠牲を屠って」わたしたち「放蕩息子」のために祝宴を整えてくださっておられたと語っておられました。

「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、・・・それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」との、「父」の大きな喜びは、放蕩と忘恩の限りを尽くしながらも、そのようなわたしたちを、なお、ご自身の「子」としてくださる「父」の、大き過ぎる犠牲と引き換えでもありました。

今日の「放蕩息子のたとえ」は、「神の国のたとえ」の一つであると、先に申しました。「神の国のたとえ」とは、わたしたちのただ中で、「神の国の主」キリストが、すでにお始めになっておられる「神の国」の事実と、その事実の力と真実へと、わたしたちの目を開かせるために、主イエスが語られたものです。

今日の福音が指し示す「神の国」の真実。それは、「死んでいたわたしたちが生き返り、いなくなっていたわたしたちが見つけられた」という、「父」なる神の「大いなる喜び」のために、父なる神は、いかに大きな犠牲、たとえそれが御子キリストを十字架に付けると言うほどの犠牲であっても、わたしたちのためにこれを厭わず行ってくださる、と言うこと以外の何ものでもありません。

ユダヤの民から見たら「放蕩息子」以外の何者でもない異邦人のわたしたち。まことの神である「父」を忘れ、忘恩の限りを尽くして来たような長く深い罪の歴史がわたしたちにはあります。そのようなわたしたちを「父」は喜んで父の家に迎え入れ、わたしたちのために「犠牲を屠って」食卓を整え「神の国の祝宴」へと招き入れてくださいました。これこそ、「神の国の主」キリストによって、父なる神がわたしたちの内に始められている恵みの事実です。それがミサです。

ただしそのわたしたちのための「神の国の祝宴」・ミサの食卓(祭壇)のために、「父」なる神が犠牲として屠られたのが御子キリストであられたことを、わたしたちは忘れてはなりません。「神の国のたとえ」は、すでに主イエスによってわたしたちのただ中に始められている恵みの事実を語ります。その「神の国」の完成は、ひとえに御子キリストの犠牲の十字架とご復活にかけられています

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 3/23

四旬節第3主日 ルカ13:1-9

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の主日は、福音の語る「主イエスの山上の変容」の出来事から、出エジプトの指導者モーセと預言者エリヤが、主ご自身と、「主がエルサレムで遂げようとしておられる最期について話し合っておられたことをお聞きしました。ただし、最期と訳されていた言葉は、元来は、主の「過越」を意味する言葉でした。

したがって、この時主イエスは、モーセとエリヤとともに、「主の過越」、すなわち主がご受難と十字架の死を経てご復活の栄光へと「過ぎ越し」て行かれる、主のエルサレムでの出来事の全体を、予め話し合っておられたと言うことです。

実は、この山上での出来事の直前、さらに直後にも、主イエスは、弟子たちに、「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活することになっている」と、エルサレムでの「ご自身の過越」の予告をなさっておられました。

そしてその度に、主イエスは弟子たちに、「目を覚ましていなさい」と警告されておられました。その上で、今日の福音で、「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と、主は二度も重ねてわたしたちに悔い改めをお求めになっておられました。

確かに「悔い改め」は、わたしたちの信仰の死活問題です。しかし、それはいかなることなのでしょうか。目を閉じ、俯(うつむ)いて自問自答し、自らを責めることでしょうか。そうではありません。ユダヤの言葉で「悔い改める」とは、「わたしたちの顔を神に対して向けなおす」、「神に向けて目を開く」ことです。

大切なことがあります。ルカによる福音は、主イエスの「山上の変容」後、弟子たちを伴って最後にエルサレムに上られる途上、主は弟子たちに「祈るときには、こう祈りなさい」と、「主の祈り」をお授けくださった、と伝えていることです。改めて、「主の祈り」とは、いかなる祈りなのでしょうか。

「主の祈り」が、ミサの中で何時祈られるのかを思い出してください。それは、「奉献文」の奉唱後、すなわち「聖変化」の直後、主イエスが、わたしたちのただ中にご聖体のお姿で、ご自身の御現存をお現わしくださった直後です。

したがって、「主の祈り」とは、主イエスご自身が、わたしたちのただ中に在って、「わたしがここにいる。もう心配しなくていい。もう俯かなくていい。わたしに顔を向けてごらん。閉じた目を開いて、わたしを見つめてごらん。わたしと一緒に祈ろう」と、わたしたちをお招きくださっておられる祈りです。

確かに、「悔い改めなければ、滅びる」とは、その通りです。俯いて神から顔を背け、神に目と心を閉ざしてしまっては、救われません。しかし、わたしたちは、むしろ最も大切な時にこそ力を失ってしまうのではないでしょうか。その時、わたしたちは俯いて目を閉じてしまいます。主イエスはそのことをよくご存知です。わたしたちの人生の悩み、苦しみをご存知だからです。主に向かって顔を上げることができずに俯き、神と人生に目を閉じてしまう、わたしたちの弱さを。

「主イエスの時」・「主がエルサレムで遂げようとしておられる最期」・「主の過越」が近づく中で、主はくり返し、「悔い改める」、「目を開く」ことをわたしたちにお求めになっておられました。しかし、これは決して唐突なことではありません。主は福音の宣教の当初から、次のように仰せになっておられました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

「悔い改めて福音を信じること」「目を覚ましていること」それは、主イエスに「時が満ちる」中で、「主ご自身がエルサレムで遂げようとしておられる最期である「主の過越」、つまり主の十字架とご復活を、わたしたちがしっかりと見届けさせていただくためです。それのみがわたしたちの救いだからです。

福音の後半の「実のならないいちじくの木のたとえ」で、主イエスがご自身を「園丁」に喩えてお語りになっておられるように、「園の主人」・唯一の裁き主であられる父なる神のみ前に、ご自身を犠牲としてまで執り成してくださる主。

「悔い改め」「目を覚ましていること」。それは、時に重すぎる人生の苦しみの中で神に目と心を閉ざしてしまうわたしたちにとって、自分の力だけでできることではありません。主イエスはそれを良くご存知です。それ故「わたしと一緒に祈ろう」と、主はわたしたちを「主ご自身の祈り」へと切に招いてくださいます。

「時は満ち神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」わたしたちを「主の祈り」へと招く主イエスは、エルサレムでの「過越」へと旅を進められます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 3/9

四旬節第1主日 ルカ4:1-13

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の水曜日、「灰の水曜日」から四旬節に入りました。四旬節の40日と言う数字は、主イエスが、荒れ野で「四十日間、汚れた霊・サタンから誘惑を受けられた」ことに因むものです。

主イエスの荒れ野での40日に先立ち、先にルカによる福音は、「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」と、伝えていました。ここで「聖霊」とは、言うまでもなく、主が洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられた際に、天から注がれた「父なる神の霊」です。

今日のルカによる福音は、さらに続けて、「そして、荒れ野の中を「霊」によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」、と伝えていました。これは、新共同訳聖書の訳です。ただしこの訳では、主を荒野に導いたのは、父なる神の霊・聖霊ではなく、汚れた霊・悪魔であるかのような印象を受けます。これは、無自覚の内に善悪二元論的思考に慣らされて来たわたしたちには、分かりやすい話のようにも聞こえますが、しかし、そもそも、汚れた霊・悪魔に、神の御子キリストに何事かを強いるような力と権威があるのでしょうか。

実は、同じ個所を、カトリック・フランシスコ会訳聖書は、「イエズスは、聖霊に満ちてヨルダン川から帰り」とした後、続けて、聖霊によって荒野に導かれ、四十日の間悪魔の試みにあわれた」、と明快に、かつ事柄を正確に訳しています。主イエスが洗礼に際して父なる神から受けた「聖霊」と、その直後に、主を荒野の試練に導き出されたのは、明らかに同じ「聖霊」すなわち「父なる神の霊」であった、ということです。

そうであれば、御子キリストを荒野に導かれ、汚れた霊・悪魔に対して、主イエスを荒野で誘惑し、主を試みることをお許しになられたのは、神の霊、すなわち父なる神ご自身と言うことになります。これは一体どういうことなのでしょうか。福音は、わたしたちに何を伝えようとしているのでしょうか。

加えて、それが父なる神のみ旨であったとするならば、主イエスを荒野に導かれ、そこで悪魔に主を試みることを許してまで、むしろそのことを通してのみ成就されるべき、わたしたち罪人のための父なる神の救いと言うことが、必ずやあるはずです。それは、一体、いかなることなのでしょうか。

「汚れた霊」「悪魔・サタン」とは、「わたしたちを神から引き離そうとするもの」、さらには「わたしたちが神とともにあることを、妨げようとする力」のことです。今日の福音で、主イエスが荒野でお受けになられた「悪魔からの試練」は、実はわたしたち自身も人生で繰り返し受ける「誘惑」ではないでしょうか。しかも、もしその「誘惑」に負けて、その結果、私たちが「神から離れて」しまうならば、わたしたちの人生を空しくしてしまうようなものではないでしょうか。

ここで、「聖い霊」、すなわち「聖霊」とその働きについて確認しておきたいのです。主イエスは、荒れ野での40日の後、聖霊において成就される福音(みことば)の宣教をお始めになりますが、福音書は、そのご様子を、主は「汚れた霊」に取り憑かれた多くの人々から、「汚れた霊を追い出された」と、くり返しわたしたちに語ります。主において働かれる「聖霊」・「聖い霊」とは、まさにわたしたちから「汚れた霊・サタン」を駆逐・勝利してくださる神の力です。

「天の父なる神の霊」「聖霊」に導かれての主イエスの荒れ野の40日の試練とは、「汚れた霊サタンの誘惑」の一切を、主がわたしたちに先んじて受け、わたしたちに代って味わい尽くしてくださるためであり、その上で、主がわたしたちのために、わたしたちに先行して、本来わたしたちの受けるべき一切の誘惑に、あらかじめ「聖霊」において勝利を収め取っておいてくださるためだったのです。

「聖霊」によって荒野に導かれた主イエスは、この時、「聖霊」・父なる神の聖い霊によって、わたしたちのために「汚れた霊」「悪魔」に予め打ち勝ってくださったのです。「悪魔」に対する主の勝利。これこそ、「悪霊の誘惑」の前に無力なわたしたちにとっての救いそのもの、わたしたちすべてにとっての力強い福音そのものです。主の、わたしたちのための悪魔からの誘惑に対する勝利なしには、わたしたちの人生が無に帰してしまうからです。

ただし、「聖い霊」・「聖霊」による「汚れた霊」・サタンに対する完全なる勝利は、主イエスご自身の尊い自己犠牲である主の十字架とご復活、すなわち「主の過越」を通してのみ、最終的かつ完全に勝ち取られるものであることを、四旬節の始めから、わたしたちは深く心に留めておきたいと思います。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 3/5

「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」

灰の水曜日の黙想
マタイ6:1-6、16-18

灰の水曜日をもって四旬節(レント)に入ります。灰の水曜日から、十字架の苦難と死を経てご復活の栄光に過ぎ越して行かれる、主イエス・キリストの「聖なる過越の三日間」を祝うまでの、日曜日を除く40日間を、カトリック教会は、紀元2世紀以来、慎みと懺悔の時として守り続けて来ました。

教会の古い伝統に従い、灰の水曜日のミサの中で、司祭は、昨年の「枝の主日」(「受難の主日」)に祝福を受けた棕櫚の枝を焼いて作った灰で、回心の証として皆

さんの額に十字架のしるしを致します(あるいは、皆さんの頭頂に灰を授けます)。

棕櫚の枝は、「枝の主日」に人々が主イエスを救い主キリストと歓呼の叫びを以てエルサレムにお迎えした時に、彼らが手にしていたものです。主は、その同じ人々によって、その週の内に十字架につけられました。わたしたちは、その棕櫚の枝から作った灰を受けて、主のみ前に心の定まらない、むしろ簡単に心変わりさえするわたしたちの罪の現実を強く心に留め、深く身に刻ませていただきます。

加えて、この灰を身に受けて始まる灰の水曜日からの40日の間、主イエスが宣教のご生涯の初めに体験された荒れ野の40日の試練を、さらに遡って、出エジプト後の神の民の荒野の40年を、同じく心に留めるのみならず、身に刻みます。

主イエスは荒れ野での40日間の汚れた霊・サタンからの試みに対し、聖霊によって勝利を収められました。イスラエルの民も荒野の40年の試練の時を、神の霊(聖霊)の助けによって耐え、主なる神の約束された地に導き入れられました。そのようにわたしたちもレント(四旬節)の間、聖霊の導きと御助けを切に祈ります。

灰の水曜日に読まれるマタイによる福音は、主イエスの「山上の説教」の一節です。この「山上の説教」の中心は、「全福音の要約」とさえいわれ、わたしたちがミサの度に祈る「主の祈り」です。その「主の祈り」の直前と直後に語られる施し、祈り、そして断食についての主の勧めが、今日、灰の水曜日の福音の内容です。

福音は、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」との、主イエスのおことばに始まり、その後、主は、施し、祈り、そして断食についての各々の勧めを、「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」との同じおことばを三度くり返して、締め括っておられます。

主イエスがこのような勧めをなさるのも、わたしたちを主ご自身の祈りである「主の祈り」に招いてくださるためです。「主の祈り」。わたしたちが、主ご自身の祈りに加えられて、主のみ前に祈りの生活を整えさせていただく、その道が、当時のいい方で、施し、祈り、断食として、主によって勧められているのだと思います。

主イエスの祈りに加えられて、主と共に神のみ前に祈らせていただく。あるいは、主と共に神のみ前に、祈りを中心としての生活を整えさせていただく。四旬節を歩むわたしたちの願いは、実はこのことに尽きている、と言ってよいと思います。

ただしこのことは、わたしたちの祈りを導いてくださる唯一の方、つまり「隠れたことを見ておられるわたしたちの父」なる神の霊である聖霊の導きと御助けなしには、わたしたちには叶わないことではないでしょうか。

主イエスと共に祈りを奉げつつ、神のみ前に生きる。それは神の眼差しの内に生きることです。四旬節を歩むわたしたちの歩みが、「隠れたことを見ておられ、かつ報いてくださる」父なる神の眼差しの内に、常に守られ、導かれますようにと願います。

四旬節。それは、ご受難と十字架を通してご復活の栄光に過ぎ越された主イエスの、聖週間の「過越の秘義」に深く参入させていただくための大切な準備の時です。

この四旬節を、主イエスと共に祈る。主ご自身の祈りに加えられて生きる。「主の祈り」に導かれて、主と共に歩みを進める。聖霊の御助けによって、四旬節をそのように祈りと生活を整える時とさせていただけるようにと、わたしたちは切に願います。

来たる「主イエス・キリストの聖なる過越の三日間」への、皆さん自身の四旬節の備え、あるいは四旬節の間の皆さんの「施し、祈り、断食」は、何でしょうか。

実は、主日毎の、さらには日々のミサこそ、まさにそれではないでしょうか。ミサこそ、四旬節をご自身の過越によって成就される主イエスから、主ご自身の祈りにお招きいただける、まさにその恵みの時だからです。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。

司祭の言葉 3/2

年間第8主日 ルカ6:39-45

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音のような主イエスのおことばの前に、わたしたちは祈る他なすすべがありません。しかし、祈るとは、わたしたちにとっていかなることなのでしょうか。

ルカによる福音において、わたしたちは後に、主イエスから、主ご自身の祈りである「主の祈り」(ルカ11:1-4)をいただきます。使徒パウロは、「祈り」について、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、「聖霊」自らが、言葉に表せないうめきをもって(わたしたちを神に)執り成してくださる」(ローマ8:26)と語っています。

そうであれば、主イエスからいただく「主の祈り」を祈ること、それは「うめきをもってわたしたちを神に執り成してくださる「聖霊」」を求めさせていただくことです。このことは、ミサにお集まりの皆さんは、すでに良くご存知ではないでしょうか。

「主の祈り」は、古来、とりわけミサの中で大切に祈られて来ました。しかも、「主の祈り」は『感謝の典礼』に続く、「ご聖体拝領」に極まる主イエスとの『交わりの儀』の冒頭に祈られてきました。明らかに「主の祈り」は、聖別の祈りを経て、ご聖体における「現存」の主のみ前に、「ご聖体の拝領」を目指して祈られています

ここで、「ご聖体」を拝領することは、ご復活の主のいのち・生ける主イエスご自身をわたしたちの命としていただくことです。それは、活ける主のいのちである「聖霊」を、わたしたちが受けることに他なりません。この「聖霊」を求める祈りとして、主のみことばに従って、ミサの中で「主の祈り」は祈られて来ました。

今、「主イエスのみことばに従って」と申しました。実は今日の福音で「主の祈り」をわたしたちにお与えくださった主ご自身がそのことをはっきりと仰せでした。

主イエスは、「わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(ルカ11:9-10)と仰せの上で、「主の祈り」を祈るわたしたちに次のように明確に約束されました。

「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11:13)

「弟子の一人」が主イエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と願った時には、彼は主から「祈り」の模範を求めていたのかもしれません。しかし、これに応えて、主が、わたしたちに「主の祈り」をお与えくださったのは、主ご自身にとって特別なことです。それは、主がわたしたちに天の父なる神に「聖霊」を求めることをお赦しくださったことだからです。ただしそれは、主ご自身にとって、さらにわたしたちにとって、いかなることなのでしょうか。

それは、父なる神にとっては、御独り子キリストのいのちをわたしたちにお与えくださることをよしとされたということです。「聖霊」とは、御父との活ける交わりにある御子キリストのいのちそのものだからです。事実、そして確かに、御父は、「主の祈り」を祈るわたしたちに、御子キリストのいのちをくださいます。十字架においてただ一度。しかし、ミサのご聖体拝領の度ごとに。

ミサのご聖体拝領を目指して祈られる「主の祈り」。主イエスからいただいた「主の祈り」で、わたしたちは第一に、「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」と、「神の国」を祈ります。続けて、「わたしたちに必要な糧」を、そして最後に、「わたしたちの罪の赦し」「罪の誘惑からの護り」を祈ります。

ここには、わたしたちが「神の子」として生かされるための大切なことの一切が祈られています。しかもそのすべてが、すでに主イエスの内に完全に成就しています。そして、その一切を、わたしたち自身の恵みとしてくださる方こそ「聖霊」です。その「聖霊」を求めて良い、と主は仰せです。それが「主の祈り」です。その「祈り」に応えて、主は「聖霊」「わたしたちが目で見、よく見て、手で触れる」ことができる(ヨハネの手紙1:1)「ご聖体」においてお与えくださいます。それがミサです。

マタイによる福音は、主イエスの「主の祈り」を、ご自身の福音宣教の始めの「山上の説教」の中心に伝え、その際、主は弟子たちに、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。だから、こう祈りなさい」と言われた上で、「主の祈り」をお与えくださいます。

「主の祈り」とは、「聖霊」を求める「祈り」であり、「わたしたちに必要なものすべてをご存知の父なる神の霊」である「聖霊」に、わたしたち自身を委ねさせていただく祈りです。そのわたしたちに、父なる神は、御子キリストご自身をお与えくださいました。十字架に至るまで。わたしたちにご自身のいのちをくださるために。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 2/23

年間第7主日 ルカ 6:27-38

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

主イエスは、今日の福音の内にこのように仰せになっておられました。これを聞いて、皆さんはどのように思われたでしょうか。主は、端(はな)から不可能な要求をわたしたちにしておられるのでしょうか。

先の主日から、わたしたちは、ルカが伝える、主イエスの祝福のみことばに始まる説教からお聞きしています。これは、マタイによる福音の伝える主の「山上の説教」の並行箇所ですが、マタイは次のような主のおことばが伝えています。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)

ここで主イエスが「律法や預言者」と言われるのは、モーセと後の預言者たちを通して神がご自分の民に語られた「神のみことば」のことです。かつて、モーセは「神のみことば」をお聞きするために「山」に上りました。マタイの伝える主の「山上の説教」。主も、「山」に上られます。ただし、主はモーセと同じではありません。

人となられた「神のみことば」である主イエスは、ご自身わたしたちにおことばをくださいます。「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」と主は仰せでした。主は「律法と預言者」つまり「神のみことば」を成就するために来てくださいました。どこに。わたしたちに。どのようにして。「神のみことば」であるご自身そのものを、わたしたちにお与えくださることによって。

そうであれば、主イエスの「みことば」にお聞きすることと律法学者の「教え」を聞くこととは、まったく別のことです。今日の福音で、主は次のように仰せでした。

「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。・・・求める者には与えなさい。・・・あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

これは、律法学者の「教え」を遥かに超えています。律法学者は、「隣人を愛し、敵を憎め」と「教え」ました。これに対し主イエスは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と仰せです。ただし、注意したいことがあります。主が仰ったことは、すべて主が、すでにご自身でなさったことです。主ご自身の内に、すでに成就しておられることです。同じことを、わたしたちに成就させてくださるために。

そうであれば、わたしたちにとって主イエス(福音)に聞くことは、「神のみことばである主」ご自身を、感謝していただくことに他なりません。それがミサです。

「神のみことば」と申します。創造主なる神にとって、「みことばをお語りになられるる」ことと、「語られたことをその通りに創造される」ことは、全く同じことです。旧約の冒頭に、「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」といわれています。

そして、「人となられた神のみことば」である主イエスは、この「神のみことば」そのものです。そうであれば、主に聞くとは、「神のみことばであられる主イエス」をいただいて、主にすでに成就しておられる「神のみことば」の通り、わたしたちが新しく創造され、造り変えられてゆくことです。ただし、それはどのように、でしょうか。

「神の子」である主イエス・キリストの似姿に。「主のみことば」をいただいて、わたしたちが「主の似姿」すなわち「主と同じ神の子」「主の兄弟姉妹」に、造り変えられてゆく。今日の福音で、主は仰せでした。主が、わたしたちにお語りくださるのは、わたしたちが「神の子となるためである」それがわたしたちの救いです。

「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

この主イエスのみことばを聞くわたしたちに、主がお求めになっておられることはただ一つです。「おことば通り、この身になりますように」と、主のみことば・主ご自身にわたしたちをお委ねさせていただくこと、すなわち聖母マリアさまの信仰です。聖母マリアさまのように、主のみことば・主ご自身をいただいて、主によって、主の似姿に造り変えられて行くわたし自身を、喜んで受け入れることです。

皆さんは、律法学者から教えを聞くように、主イエスから教訓を聞くためにミサに来られたのでしょうか。そうではありません。主のみことば、つまり主ご自身をいただいて「神の子」である主の似姿とされるために、ミサに来ておられるのです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 2/16

年間第6主日 ルカ 6:17,20-26

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音は、ルカが伝える主イエスの「説教」冒頭の主の祝福のおことばです。興味深いことに、マタイの並行箇所では、主は「山に登り」、祝福のおことばに始まる説教をされますが、ルカでは「山から下りて」とされています。

カトリック教会は、福音の伝える主イエスの祝福のおことばを(マタイの並行箇所から)、古来11月1日の「諸聖人の祭日」にお聞きしてきました。11世紀から、列聖された聖人方を11月1日、他の帰天されたすべての方々を11月2日に分けて記念する習慣になりましたが、古くは、列聖の有無を問わず、11月1日を「神のすべての聖人方の日」とし、この一日で帰天されたすべて信仰の先輩方を記念していました。

ここで、「神のすべての聖人方」という時の「聖」とは、いかなることなのでしょうか。聖書では、「聖」である方は、神お一人です。主イエスお一人です。このことははっきりしています。そうであれば、「聖人」とは、自ら生まれながらに聖い人というのではなく、主の「みことば」と「聖霊」を受け、神によって「聖くされた人」のことです。

「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。

今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。

今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。」

「貧しい人々は、幸いである」と、主イエスは仰せです。「貧しい人々」とは、主が「あなたがた」とよばれるように、主の他に頼る方が誰もいないわたしたち自身です。「神の国」を望んで、わたしたちは主の外には誰も頼ることができません。そのわたしたちに、主は、ご自身の「神の国」を約束されます。これが、主の祝福です。

「幸いである」との主イエスのおことばから明確に、主のおことばは、わたしたちへの主の祝福です。ご自身「聖」にして、わたしたちすべてを「聖とする」ことがおできになる神からの祝福です。わたしたちが「聖とされ、神の国を約束されること」。それが、わたしたちの真の幸いであり、主から祝福されるということです。

わたしたちが主イエスによって「聖とされ、神の国を約束される」。それは、わたしたちが「神の国の主・キリストのもの(キリスト者)とされる」ことです。それを使徒ヨハネは、「御子キリストに似た者となる」(1ヨハネ3:2)と教えていました。わたしたちが「聖とされ、神の国を約束される」、主から祝福されるとは「御子キリストに似た者とされる」こと。主に祝福され「聖くされた」方々こそ、「主に似た者とされた方々」

その祝福を、主イエスは「祝福のみことば」とその祝福をわたしたちの内に成就させてくださる「聖霊」によって、わたしたちにお与えくださいます。「聖霊」は、主の「みことば」とともに働いて、わたしたちに「イエスは主である」と告白させてくださいました。「みことばとともに働かれる聖霊」こそ、洗礼においてわたしたちを新たに生まれさせ、ミサで、わたしたちの捧げるパンとブドウ酒をご聖体に、すなわち主イエスご自身の御からだと御血・主ご自身のいのちに変えてくださる方です。

「みことばと聖霊」において、主イエスがわたしたちにくださるのは主ご自身です。主はご聖体においてご自身をお与えくださることによって、聖霊によってわたしたちを「聖」とし、「キリストに似た者」としてくださる。それが主の祝福です。主こそ、祝福そのものだからです。わたしたちの信仰の先輩方・神に仕えたすべての聖人方は、主ご自身を祝福として受け、「キリストの似姿に変えられた」方々です。

今、わたしたちもこのミサで、天に帰られた彼らがかつてそう祈り願ったように、「主よ、わたしたちにみことばをください」と、主イエスに願います。主は、わたしたちにも必ず「みことば」とともに「聖霊」を、すなわち主ご自身をくださいます。主はわたしたちにも、ご聖体において、主ご自身を祝福としてお与えくださいます「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたものである」と、主は仰せです。

わたしたちは、天に帰られた方々に比してはるかに劣る者かも知れません。しかし、主イエスがご聖体においてわたしたちにお与えくださる主ご自身は、かつて、信仰の先輩たちを聖(きよ)くされた主とまったく同じ方です。主は今も、いつも、代々に、一人なる同じ主であられるからです。わたしたちのような小さな者にさえ、ご自身そのものをお与えくださる主イエス・キリスト。その恵み故に、主を心から畏れます

天に帰られた聖人方は、今や天で主イエスとともに、地上でミサが先取りしていた「神の国の食卓」に着き、主のみ前に一心に主を褒め、主を称えていると信じられています。ご自身を祝福としてわたしたちにお与えくださった主への愛と感謝は、地上での制約されたわたしたちの思いを遥かに超えるでありましょう。天に帰られたすべての聖人方は、このことをいちばんよく知っておられるに違いありません。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。