司祭の言葉 6/16

年間第11主日 マルコ4:26-34

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスは、「神の国」をお語りになられる時、「たとえ」で語られます。なぜなのでしょうか。「神の国」を「たとえで語る」とは、どのようなことなのでしょうか。

「たとえで語る」と訳されますが、ギリシャ語の元来の言葉パラ・バロないしスン・バロの意味は、「一緒に(ともに)飛び込む」という意味です。つまり、主イエスがわたしたちに「神の国をたとえで語る」というのは、主からわたしたちへの、「神の国に一緒に飛び込もう」、あるいは「神の国にともに生きよう」との招きなのです。

つまり、主イエスが「神の国」を「たとえで語る」とは、聞くわたしたちに「神の国」というものを説明し想像させることではありません。実際、その必要もありません。なぜなら語られる主ご自身が「神の国の主であり王」であり、その方のもとに「神の国」は「すでに来ている」つまり「すでに始められている」からです。それが、「神の国の主であり王であるキリスト」がわたしたちのもとに来てくださったということです。

そうであれば、「神の国の主であり王であるキリスト」から「神の国」の「たとえを聞く」とは、わたしたちが、今、主イエスに在って体験している事実、つまり主とともにわたしたちのただ中で、すでに始まっている現実、わたしたちがすでに招き入れられている「神の国」と、その真実とその力に、わたしたちの目が開かれ、その真実の世界、つまり「神の国」に「神の国の民」として自覚的に生かされていくことです。

主イエスにおいて「神の国」が来ている。このことは、主によって今日唐突に語られたことではありません。主は、「神の国」の宣教のはじめから仰せでした。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

ただし、「神の国は、近づいた」と訳された元の文章は現在完了形で、「神の国は、すでに来ている」ないし「すでに始まっている」という意味になります。しかし、それはどこに? もちろん、「神の国の主であり王であるキリスト」のもとにです。

ただし、主イエスが、招き入れてくださったご自身の「神の国」に、わたしたちが生かされるためには、どのようにしたら良いのでしょうか。主は、続けて仰せでした。「悔い改めよ」と。文字通りには、「(主イエスと)心を合わせなさい」ないし「(主と)思いを重ねなさい」という意味です。さらに同じことが、「福音を信じなさい」という主イエスのことばによって念を押されます。

「福音」とは、主イエスご自身であり、その主を「信じる」とは、主にわたしたちを委ねることでです。つまり、「主と心を合わせ、主と思いを重ねさせていただく」ことに他なりません。そしてこのことこそ、わたしたちにとって主とともに「神の国」に生きるということ、「神の国」の真実とその力に生かされるということです。

ただし、わたしたちは罪のままでは聖なる主イエスのみ心を知る由もなく、主と「心を合わせ、思いを重ねる」こともできません。つまりわたしたちは罪のままで「神の国」に生きることはできません。わたしたちは、主から聖霊を求め、聖霊による罪のゆるしと聖化を願うべきです。主ご自身との「神の国」の食卓であるごミサの冒頭で、わたしたちが聖霊による罪のゆるしを求めるのはこのためです。

実は、ルカによる福音では、主イエスが「神の国のたとえ」を語られるに先だち、わたしたちに、「目を覚まして、神の時を見分ける目をもつ」ようにと仰せでした(ルカ12-13章参照)。主は「神の国」の宣教の最初に、「時は満ちた」と仰せでしたが、「時(カイロス)」とは「神の定められた時」です。わたしたちに「神の時」むしろ「時を定められる神」を「見分ける目」がなければ、主において「神の国」が「すでに来ている」という事実にも、わたしたちの「目が覚め」ないでしょう。

ただし、「目を覚まして、神の時を見分ける目をもつこと」は、主なる神からの罪のゆるしの中でしか求め得ません。「神の時を見分けること」を妨げているのは、神に目を閉ざすわたしたちの罪だからです。しかし、罪ゆるされてわたしたちの目が開かれる時、主イエスにおいてすでに始められている「神の国」の事実とその力は、かつて罪に曇ったわたしたちの目に映っていた停滞し混乱したこの世の姿とは、まったく別ものです。わたしたちは、すでに過去となった神の創造のみ業の結果の中に住んでいるのではありません。「聖霊」による新しい神の創造のみ業の内に、「神の国」に、今、生かされてあるのです。そのことを、主は次のように仰せです。

「(神の国は、)からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 6/9

年間第10主日 マルコ3:20-35

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみ心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

福音にお聞きしつつ、主イエスの宣教の旅に伴わせていただいています。主は、すでにペトロを始めとする十二使徒たちをお選びになっておられました。マルコによる福音は、この12人に対し、「主ご自身の望む人たち」であった、と伝えていました。しかし、大切なことは、主は彼らに何を「お望み」になられたのかということです。

マルコはそのことも明快に伝えてくれていました。二つのことです。第一に、「この

12人をご自分とともにおらせる」ことであり、さらに、彼らに「悪霊を追い出す権能を授けて宣教に遣わされる」ことであったと。

第一に、ご自分とともにおらせることをこそ、主イエスは彼らにお望みになられた。このことは、現在のわたしたちにとっても極めて大切です。またこのことは、主の十字架の死の後も、同様でした。事実、主は、十字架の後は「ご復活の主」として、ご昇天後には「聖霊なる主」として、使徒たちが、さらには彼らに続くわたしたちも、主といつもともにおらせてくださっておられます。マタイによる福音全体は、ご復活の主イエスによる彼らへの次のおことばによって、結ばれています。

「わたしは天においても地においても、すべての権能が与えられている。だから、あなたがたは行って、すべての国に人を弟子にしなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちとともにいるのである。」

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちとともにいる。」ご復活の主イエスのご昇天の後も、同じ主が「聖霊なる主」として使徒たちと、さらにわたしたちとも世の終わりまでいつもともにいてくださる。それは、使徒たちが、続いてわたしたち教会が、歴史を貫いて経験してきた事実です。福音書に続く使徒たちの宣教の記録である『使徒言行録』が、古来『聖霊言行録』とも呼ばれてきたのはこのゆえです。

第二に、主イエスは、「聖霊」なる主として時と場所を超えていつもわたしたちとともにいてくださるゆえに、使徒たちの内に、またわたしたちの内に働かれ、さらにわたしたちを通して働いてくださり、主ご自身の権威とみ力により、わたしたちと多くの人々から「悪霊を追い出す」ことがお出来になる。

「聖霊なる主イエス」が「悪霊を追い出」される。この事実には、二つの意味があります。第一に、「聖霊なる主」は、わたしたちの内に、またわたしたちを通して多くの人々に働き、わたしたちと人々の罪の赦すことがおできになる、という事実です。

福音記者ヨハネが伝えるように、洗礼者ヨハネは、彼から洗礼を受けようとされる主イエスを指さし「見よ、神の子羊」と告白しました。その時同時に、ヨハネは「神の子羊」・主イエス・キリストを、「世の罪を取り除かれる方」と証ししています。御子キリストの罪を赦す権威が、「聖霊なる主」において働かれる。それは、聖霊なる主がわたしたちの内に働き、さらにわたしたちを用いて働き、わたしたちや多くの人々から「悪霊を追い出」してくださるということです。「悪霊」とは、あらゆる形で、わたしたちを神から引き離す力であり、働きです。そして、神から離れることが、罪です。

さらにヨハネは、その「神の子羊キリスト」こそ「神の子」であり、わたしたちに「聖霊によって洗礼を授ける方」、つまり主イエスは、「聖霊なる主として」わたしたちの罪を赦し、わたしたちをご自身のものとしてくださる方であることをも証しします。

従って第二に、聖霊なる主イエスによって罪赦されたわたしたちは、同時に、聖霊なる主によって聖くされ、神への捧げものとされて、神に帰ることさえ赦されます。

これは驚くべき恵みです。「聖霊なる主イエス」は、わたしたちの罪を赦してくださるのみならず、わたしたちを聖めて、神への捧げものといて、ご自身の許にお返しくださる。だからこそ、今日の福音の始めに、主は、この「聖霊(なる主)を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と、警告しておられたのです。  

主イエスは、「神のみ心を行う人こそ、わたしの母、わたしの兄弟・姉妹である」と仰せでした。「神のみ心を行う」。それはわたしたちの知恵や力によってではありえず、神のみ心を唯一知る「聖霊なる主」のお助けによってのみ、わたしたちに可能とされることです。従って、「神のみ心を行う」者とされるために、わたしたちは、聖霊なる主によるわたしたちの罪の赦しと聖化を求めさせていただく他ありません。その時、聖霊なる主は、先にご自身の母マリアさまと兄弟たちを招かれた「神のみ心」に生かされる者たちの交わりへと、わたしたちをも喜んでお招きくださいます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 6/2

キリストの聖体の主日 マルコ14:12-16,22-26

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

マルコによる福音は、主イエスと十二人の弟子たちとの「最後の晩餐」の様子を、目に見えるように鮮やかに、そして端的に伝えてくれています。

その中でも圧巻は、主イエスご自身が、みことばと行為をもって、ペトロたちに、「ご聖体の秘跡」すなわちごミサを制定してくださったことを伝える場面です。これは、後にルカおよびマタイによる福音、さらには初代教会の貴重なごミサの記録でもある使徒パウロのコリントの教会への手紙によっても一致して証言されます。

しかし、なぜ、主イエスは十字架とご復活に先立つ「最後の晩餐」で、「ご聖体の秘跡」つまりごミサを制定してくださったのでしょうか。

主イエスは、「最後の晩餐」に続くご自身の十字架とご復活によって、わたしたち罪人の救いのために「主の過越の神秘」を完成・成就してくださいました。その恵みに、使徒たちのみならず、後のわたしたちすべてが、一人も漏れることなく確実に与ることができるように、主は、「これをわたしの記念として行いなさい」と、「ご聖体の秘跡」を制定してくださったのです。

実はそのおことばで、主イエスが制定してくださったのは、ご聖体の秘跡・ごミサだけではありません。同時に司祭の叙階の秘跡をも制定してくださいました。この二つの秘跡は「同時制定の二秘跡」と呼ばれます。ご聖体の秘跡に仕える司祭の叙階の秘跡を欠いては、ご聖体の秘跡の正しい執行を教会は保証できないからです。

したがってご聖体の秘跡・ごミサで、司祭は、「これをわたしの記念として行いなさい」との「最後の晩餐」での主イエスの十二使徒へのご命令に忠実に、主ご自身がなさったように、皆さんから捧げられたパンを手に取り、「奉献文」の感謝の祈りの内に聖霊の注ぎを求めつつ、主ご自身の次の制定のおことばを繰り返します。

「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡される、わたしのからだである。」(マルコによる福音では、「取りなさい。これはわたしのからだである。」

続けて、司祭はブドウの杯を手にとり、主イエスの次のおことばを、繰り返します。

「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。」(マルコによる福音では、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」

司祭を用いて、十字架とご復活の主イエス・キリストご自身が、みことばと行為によって聖別されたご聖体の内に、聖霊によって現存されます。数えきれない信者・殉教者たちが、ご聖体の内に聖霊によって現存される主ご自身に、彼らの生涯を託し、最後には彼らの命を捧げ、唯一人たりとも裏切られたことの無い、これがカトリックの信仰です。この信仰には、東・西の教会の違いはまったくありません。

ご聖体においてご復活の主イエスのいのちを受けた、聖アウグスティヌスは語ります。「主イエス・キリストのご聖体を拝領する時、わたしたちは、主をわたしたちの体へと消化するのではありません。ご聖体を受けたわたしたちの方が、主によって消化されるのです。その時、わたしたちの罪なる身体が、キリストの栄光のからだへと変えられます。それゆえ、驚嘆し、かつ喜んでください。皆さんは、ただキリスト者とされるのではありません。ご聖体によって、キリストのからだとされるのです。

わたしたちの内にまで来てくださって、「わたしたちの罪なる体を、キリストの栄光のからだに変えてくださる」ことがおできになるのは、ただ「聖霊なる神」お一人です。したがって聖アウグスティヌスは、ごミサでわたしたちが受けるご聖体の内にキリストの霊・「聖霊」が、現に生きて働かれる、と明確に教えてくれているのです。

「福音とご聖体において活けるご復活のキリストにお会いさせていただくのです」と先のベネディクト十六世教皇は繰り返し教えてくださいました。聖アウグスティヌスが教えるように、ご聖体においてわたしたちが受けるのは、「聖霊」です。そして、じつは「聖霊」こそ、目に見えないけれども活けるご復活の主イエスご自身です。

ご聖体の祭日。今、ここに、ご聖体の内に聖霊によって現存されるご復活の主イエスご自身が、わたしたちにお会いくださいます。ご復活の主は、「聖霊」において、自らをご聖体としてわたしたちにお与えくださいます。まさに「驚嘆」すべき主の遜(へりくだ)りの事実。さらに、ご聖体の主をいただくわたしたちは、聖霊において、罪なる身体から主のからだへと変えられます。じつに「喜ぶ」べきわたしたちの光栄。わたしたちがごミサで記念し祝うのは、聖霊において働き、わたしたちをご自身のからだとしてくださるご聖体のキリストの、この大いなる恵みの奇跡です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 5/26

三位一体の主日(年間第8週)マタイ28:16-20

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「聖霊降臨の主日」に続く今日は「三位一体の主日」。集会祈願で、「唯一の神を礼拝するわたしたちが、三位の栄光をたたえることができますように」と祈りました。

唯一の神を、父・子・聖霊の三つの位格を以てお呼びさせていただく。これは、ご復活の主イエスご自身がなさっておられることです。主は、仰せになられました。

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名(「名」は単数)によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

先の「聖霊降臨」の主日の福音で、ご復活の主イエスは、天の父なる神のみ許からわたしたちに遣わされる「聖霊」を「弁護者」と呼んでおられました。ただし、日本語で「弁護者」と訳されたギリシャ語パラクレートスは、元来「(人を助けるために)傍らに呼ばれた方」という意味の言葉です。そうであれば、「聖霊」は、日本語で「復活する」と訳された元来のギリシャ語の意味する「倒れている者を抱き起こし、病む者を介抱してくださる」、つまりご復活の主イエスのお姿と、確実に重なります。

このように、「聖霊」において、ご復活の主イエスご自身がご昇天後も変わることなくわたしたちと共にいてくださる、むしろ「聖霊」こそ「ご復活の主イエス」ご自身であられることを、主は今日の福音でわたしたちに確信させてくださいます。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

同時に、「聖霊」としてわたしたちと共にいてくださるご復活の主イエスが、ご昇天という出来事を通して、全能の天の父なる神と一つであられることも明らかにされました。主は仰せです。「わたしは天と地との一切の権能を授かっている。」

マルコによる福音は、この真実を、さらにつぎのように具体的な事実を以って語っています。(ご復活の)主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、(父なる)神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。(マルコ16:19-20)

父なる神と一つに「天と地との一切の権能」を行使なさるご復活の御子なる主イエス。ご復活の主は、ご昇天の後の今、「ご復活の主の霊」である「聖霊」によって、地上のわたしたちといつも共にあり、さらに共に働いてさえくださっておられます。

それにしても、なぜ、唯一の神が、父・子・聖霊の三つの位格によって働かれると言われるのでしょうか。あるいは、わたしたちは、なぜ、「唯一」の神を、父なる神・子なる神・聖霊なる神の「三位」、つまり各々異なったお働き(存在の違いではなく、存在の仕方の違い)ゆえに、三つの異なった位格でお呼びさせていただくのでしょうか。

それは、わたしたちの救いのためです。罪なるわたしたち一人ひとりのために、神ご自身がわたしたちと共に在り、さらにわたしたちすべての内にまで来てくださって、わたしたちの内から救いのみ業を全うしてくださるためには、唯一なる神が、父なる神、子なる神、そして聖霊なる神として働いてくださる他ないからです。

わたしたちの救いのために、天の父なる神は、全知全能の力の座である天を離れること無く、御子キリストとして地のわたしたちの許に来てくださり、わたしたちの罪の贖いために、ご自身を十字架につけてくださいました。さらに、主イエスは復活され、そのご復活の主は、ご昇天の後にわたしたちにご自身の霊である「聖霊」を与えくださり、わたしたちの内に働き、またわたしたちと共に働いて、わたしたちのみならず、わたしたちを通してすべての人々の救いの業を完成してくださいます。

神がわたしたち一人ひとりの救いのためにしてくださった具体的な事実、その手続きの一つひとつを指折り数えるように、わたしたちは心からの懺悔と感謝をこめて、唯一の主なる神を、父・子・聖霊と、三位の位格でお呼びさせていただくのです。ただしそれは、神が難解で複雑な方だということではありません。わたしたちの罪が、わたしたちを救ってくださるための神の救いの手続きを複雑にしたのです。

したがって、わたしたちにとって、唯一の神を「三位」の位格でお呼びする「三位一体」の信仰は、単なる教理ではありません。わたしたち自身の心からの懺悔と感謝による信仰の告白です。罪なるわたしたちを救い取ってくださった神のご懇切なるみ業を思い起こす時、わたしたちは唯一の神を、父なる神、子なる神、聖霊なる神と、懺悔と感謝を以てていねいにお呼びされていただく他無いからです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 5/19

聖霊降臨の主日 ヨハネ15:26-27,16:12-15

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」

先に、主イエスのご昇天の証人とされたわたしたちは、今日、主の約束された聖霊の降臨を祝い、またその証人とされるべく、再び、主のみ前に集められました。

ここでわたしたちは、弟子たちとの最後の晩餐での主イエスの説教のおことばを、もう一度想い起こすようにと求められています。それが、今日の福音です。

最後の晩餐の間中、主イエスは、弟子たちとの晩餐に続くご自身の十字架をはっきりと見つめておられたはずです。しかしその時でさえ、否、その時こそ、主のお心を占めておられたのは、十字架の後に残されるわたしたち弟子たちの事だけです。

そのわたしたちに、主イエスはご自身の十字架とご復活、さらにご昇天の後、「真理の霊」を送ってくださること、そして「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と、約束してくださいました。

ここで、主イエスがお送りくださる「真理の霊」。今日の福音では、主はそのお方のことを「弁護者」とお呼びになっておられました。

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証をなさるはずである。」

「真理の霊」、すなわち「弁護者」が、わたしたちのために主イエスご自身の十字架の死の犠牲と引き換えに与えられることは、主の次のおことばからも明らかです。

「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたたちのところに送る。」

それにしても、主イエスは、ここで、「真理の霊」つまり「聖霊」のことを、なぜ「弁護者」とお呼びになっておられるのでしょうか。

「弁護者」。じつは、これはギリシャ語で、元来「(人を助けるために)傍らに呼ばれた人」を意味する言葉です。従って、助け手、介護者、保護者とも訳されて来ました。

先にわたしは、「復活」すると訳されている言葉は、『福音書』のギリシャ語、さらにその背後に考えられるユダヤの言葉でも、傷ついた人を介抱する、あるいは、倒れた人を抱き起こすと言う意味で、日常使われる言葉でもあると申し上げました。

主イエスのご復活。そこには、傷ついたわたしたちを介抱してくださる主、倒れ、あるいは死んでさえいたわたしたちを抱き起こしてくださる主が、立っておられます。

このご復活の主イエスのお姿。それは、今日の福音で、主が十字架の後に、ご自身の十字架の死と引き換えにわたしたちにお与えくださる「弁護者」、むしろ「助け手」、「介護者」、「保護者」のお姿と、明らかに重なり合っています。

そして、「弁護者」とも呼ばれるその方こそ「聖霊」なる主であられることは、最後の晩餐の説教の中で、主イエスご自身が繰り返し明らかにしておられる通りです。

しかし、この「弁護者」である「聖霊」が、主イエスから遣わされて来られる時、そこにはどのようなわたしたちの姿があるのでしょうか。それは、傷つき、倒れ、あるいは、主のみ前に命を失ってさえいるわたしたち、ご復活の主に抱き起こされることを、ひたすら待ち望んでいるわたしたちの姿ではないでしょうか。

「真理の霊」は、そのわたしたちを「導いて、真理をことごとく悟らせてくださる。」「真理の霊」が、「聖霊」つまり「ご復活のキリストの霊」に他ならない以上、「真理の霊」がわたしたちを導く「真理」とは、ご復活の主イエスご自身に他なりません。

「聖霊降臨」の今日、ご昇天の主イエスがお遣わしくださる「真理の霊」・「聖霊」は、わたしたちをご復活の主へとお導きくださいます。「弁護者」なる「聖霊」は、わたしたち一人ひとり、主のみ前に倒れ、死んでさえいるわたしたちを確実に抱き起こし、命へと回復してくださるご復活の主のみ腕の内に確実に導き入れてくださいます。

「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」「聖霊」が遣わされるところ、そこには、わたしたちの前にご復活の主イエスが確実にお立ちになっておられます。そして、ごミサこそまさにその主イエスとの出会いの時です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 5/12

主の昇天(復活節第7週)マルコ16:15-20

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日、わたしたちは、主イエスの弟子たちとともに、「天に上げられ、神の右の座に着かれる」ご復活の主の証人とされるために、このごミサに集っています。

マルコによる福音は、ご復活の主イエスがご昇天を前にして、ペトロたち十一人の弟子たちにお命じになられた大切なおことばを伝えてくれていました。

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

マルコはその生涯を、使徒ペトロの弟子として誠実に生きました。したがって、マルコによる福音書は、ペトロが、マルコに直々に伝えたに相違ない主イエスのおことばに基き、師であるペトロの教えに忠実に記録されたと信じられています。

そうであれば、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」との、主イエスのペトロたちへの世界宣教のご命令も、マルコがペトロの口から直接聞かされた主ご自身のおことばであったに違いありません。

ペトロは主イエスのおことばをマルコに語る時、いかなる思いだったのでしょうか。

恐らく、ペトロはその時、このおことばを主イエスご自身からご昇天の直前に聞かされた時の、彼の身の竦(すく)むような畏れと、さらには十字架の際に一度は主を捨てさえした彼に対しての主のまったく変わらぬ真実と信頼に、深い懺悔と抑えきれぬ感謝の思いが、溢れる涙と共に込み上げて来たのではなかったでしょうか。

ペトロから、主イエスのこの宣教のご命令のおことばを聞かされたマルコも、それを語るペトロの決意と情熱に圧倒されたに違いありません。マルコのその時の感動が、後に彼に福音書を執筆させる動機と力となったに違いありません。

さらに、後にマルコ自身、ローマで宣教し殉教した師であるペトロに習って、主イエスの宣教のご命令に従い、自らアレキサンドリアに宣教し、使徒ペトロのローマ使徒座に一致して、コンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレムと共に初代教会の五大司教区の一つとなる当地の教会の建設に献身しました。

さて、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と、「ご復活の主は、弟子たちに話した後」と、マルコは今日の福音で、さらに、ご昇天の主イエスについて、大切な二つのことをわたしたちに語ってくれています。

第一に、「主は天に上げられ、神の右の座に着かれた」、ということです。ご復活の後四十日の間、ペトロたち多くの弟子たちと共に地上に留まってくださったご復活の主イエス・キリストは、その後、「弟子たちの見ているうちに天に上げられ」ました。それは、「天の父なる神の右の座に着かれる」ためでした。

「父なる神の右の座に着かれた」とは、父なる神と権威と力とを完全に一つにされたのみならず、父なる神の権威と力を行使することがおできになる唯一の方となられた、と言うことです。言い換えれば、今後、神の権威もその力も、御子キリストを通して、そして御子を通してのみ現わされる、と言うことです。

第二には、主イエスのご命令を受けて、文字通り全世界に「出かけて行って、至るところで宣教した弟子たちと、主は共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」、ということです。

ご復活の主イエスは、弟子たちに全世界への宣教を託されて、ご自分は帰天されたというのではありません。ご昇天後も地上で彼らと一緒に働いてくださる。目に見えない聖霊において。しかしそれは、目に見えるしるしを伴って、と主は仰せです。

マルコが伝えるこれら二つのことは、共に同じ主なる神キリストのみ業です。したがって、「全世界に出て行って宣教する弟子たちと共に働かれる主」は、「天に上げられて、神の右の座に着かれたキリスト」ご自身に他なりません。

弟子たちを用いて働かれる、弟子たちを通して語られる方は、主イエスご自身です。彼らを用いての主の宣教は、天の父なる神の権威と力によるみ業。そして神は、無から有を生み出すことがおできになる。それこそが目に見える確実なしるしです。

弟子たちを通して語られる主イエスのみことばは、常に真実です。今や天の父なる神の右に座し、神から全権を託された主は、そのみことばによってすべてを創造することがおできになるからです。弟子たちへの主の宣教のご命令。それはわたしたちを用いて働かれる、聖霊によるご復活の主イエスの新しい創造のみ業です。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 5/5

復活節第6主日 ヨハネ15:9-17

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「神は愛です。」(1ヨハネ4:8b)

この言葉を、主イエスの十字架とご復活の後、主の弟子ヨハネはどのような思いで綴ったのでしょうか。彼は、さらに次のように手紙の文章を続けます。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。」(1ヨハネ4:9)

主イエスに愛された使徒ヨハネには、主の十字架とご復活を経て、彼の心の内に明らかにされて来た事実があったはずです。それは、神はその愛を主イエスによって現わされた、すなわち、神の愛は主イエス・キリストである、と言う事実です。

愛とは、たんなる教えではありません。愛とは、人のために命を捧げることです。それは、今日の福音で主イエスご自身が、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と、極めて具体的に仰っておられる通りです。

事実、愛とは具体的である他ないものではないでしょうか。神は、一人ひとり異なるわたしたちを、一人ひとり掛け替えのない子として愛してくださいます。

「神は愛です。」 それは、天の父なる神が、御子キリストにおいて、この地上で、このわたしたち一人ひとりを愛し、わたしたち一人ひとりにご自身のいのちをお与えくださったと言うことです。ヨハネは、彼の言葉を次のように結んでいます。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

(1ヨハネ4:10)

「ここに神の愛がある。」 ここ。それは、主イエスの十字架とご復活です。

その主イエスご自身、今日の福音の内に、わたしたちに仰せになられます。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」そして、「わたしの愛にとどまりなさい。」

主イエスの愛に「とどまる」。この「とどまる」と言う言葉は、先週の主日の福音の主の「ぶどうの木のたとえ」の中で、ぶどうの枝であるわたしたちが、ぶどうの木である主に「つながる」と言う時の「つながる」と言う言葉と同じです。

主イエスの愛にとどまる。それは、ちょうどぶどうの枝が、ぶどうの木に堅くつながるように、わたしたちが、主にしっかりとつながらせていただくと言うことです。そのわたしたちに主は、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15:5)と、約束しておられました。

同じことを、今日の福音で、主イエスは次のように仰っておられました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願う者は何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」

主イエスは、既に、わたしたちを選んでおられます。それは、主がわたしたちに、主ご自身のみことばによって、みことばなる主ご自身をご聖体としてお与えくださることによって、すなわち主の自己犠牲によって、既に、わたしたちをぶどうの木であるご自身の枝としてしっかりと結び付けてくださっておられる、ということです。

二つの理由を、主イエスは仰せでした。第一は、枝であるわたしたちが、ぶどうの木である主からいのちの水を十分に受けて、豊かな実を結ぶために。次に、わたしたちが主のみ名によって祈る時、父がその祈りを聞いてくださるために。

実は、これらはともに、わたしたち自身のためだけではなく、主イエスの救いと主の愛を求めるさらに多くの人々を、主の愛で満たすためであるに違いありません。

今日の福音を、主イエスは、次のおことばで結んでおられます。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

主イエスに愛された者として、主の愛の内に、主の愛に応えて、神と人とのために生涯を捧げて主の愛に生きる。この主の愛のご命令は、主のわたしたちへの、愛の主とともにある喜びに満ちた新しいいのちへの招待です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 4/28

復活節第5主日 ヨハネ15:1-8

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。

ヨハネによる福音は、主イエスの「最後の晩餐」での十二弟子への説教と祈りを、五章にもわたって、実にていねいに伝えてくれています。今日の福音はその一節で、その内容からとくに、主の「ぶどうの木のたとえ」とも呼ばれてきました。

聖地を旅行された方は、お気付きと思います。ぶどうは乾燥した地で生育し得る数少ない植物です。しかもそのような地において、とりわけ豊かに水分を蓄える事のできるぶどうは、日本でいう果物と言うよりも、乾燥した地の人々にとっていのちの水ともいい得る、まことに貴重な植物です。

主イエスは、わたしたちに「わたしはぶどうの木」と、仰ってくださいました。主のおことばには、水を求めて得られないような荒地においても、主はわたしたちに豊かにいのちの水を与えることがおできになる、との主のおこころを強く感じます。

「わたしはぶどうの木」と言われた主イエスは、さらにわたしたちに、「あなたがたはその枝である」と仰せでした。「ぶどうの木」である主に、「枝」として繋がらせていただかなければ生きることができないわたしたちであることを、主は良くご存知です。わたしたちは誰一人、いのちの水なしに生きることはできないからです。

ところで、主イエスは続けて、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と、仰せになっておられました。

一つのことに気付きます。主イエスは、わたしたちをぶどうの木の「枝」であると仰っておられるのであって、「実」であると仰ってはおられません!

主イエスはわたしたちを、ぶどうの「実」ではなく、主のぶどうの木の「枝」としてくださいました。「枝」であるわたしたちが、主なるぶどうの木からの豊かないのちの水を受けて生きるのみならず、「豊かに実を結ぶためであると、主は仰せです。

「ぶどうの実」は、わたしたちという「枝」を通して、「ぶどうの木」である主イエスからのいのちの水を豊かに蓄えさせていただきます。そのわたしたちという「枝」を通して多くの「実」が豊かに受けるのは、主のいのちです。

ところで、わたしたちに、「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」と仰せになられた主イエスは、天の父なる神については、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と、仰っておられました。

その上で、主イエスは続けて、父なる神ご自身が農夫として、ぶどうの木の枝を手入れしてくださる。実を結ばない枝は取り除かれ、実を結ぶ枝は、さらに豊かに実を結ぶようにしてくださる、と仰せになられました。わたしたちは、どちらでしょうか。

実は、主イエスは、決定的に大切なことを、わたしたちに仰せになっておられました。「わたしの話したことばによって、あなたがたは既に聖(きよ)くなっている。」

「既に」です過去の、あるいは今後のわたしたちの様子を見て、ではありません。主イエスは、わたしたちに与えられたみことばによって、「既に」わたしたちを聖くしてくださった。父なる神は、みことばなる主を与えてわたしたちを、「既に」父なる神のもの・豊かな「実」を結び得る枝としてくださっておられる、と主は仰せです。

「わたしの話したことばによって、あなたがたは既に聖(きよ)くなっている。」わたしたちを聖くすることがおできになるのは、聖霊のみです。つまり、主イエスは、ご自身であるみことばをわたしたちにお与えくださることによって、「既に」わたしたちに、聖霊をお与えになっておられる、と仰っておられるのです。

事柄は明確です。主イエスがわたしたちにみことばをくださる、それはみことばなる主ご自身をくださることです。みことばなる主は、聖霊なる主ご自身です。

主イエスの「ぶどうの木のたとえ」は、最後の晩餐での主の説教の一節です。そこでの主の約束は、「最後の晩餐」を経て十字架で裂かれ、わたしたちに与えられる主ご自身、つまりご聖体において、わたしたちに聖霊をくださる、ということです。

主イエスのみことばとご聖体において聖霊をいただいたわたしたちは、聖霊によって既に聖くされている、と主は仰せです。それはわたしたち、さらにわたしたちを通して多くの人が、主から同じいのちの水をいただいて豊かに生きるためです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 4/21

復活節第4主日 ヨハネ10:11-18

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」

これは、主イエスのおことばです。ここで、「良い羊飼い」とは、誰のために「良い」のでしょうか。もちろん、わたしたち「羊のために」です。わたしたちを生かすために、ご自身を犠牲になさるほどに、わたしたちのために「良い」ということです。そうであれば、「良い羊飼い」とは主だけです。ただ主だけが、このみことばの通りに、「良い羊飼い」として、事実、わたしたち「羊のために命を捨て」てくださったからです。

ここで思い出すことがあります。主イエスは、宣教のご生涯の始めに、「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ9:35)と、マタイによる福音は伝えていました。ただし、その時、行き廻られた町や村で、主がご覧になったわたしたちの現実とは、どのようなものだったのでしょうか。

マタイによる福音は続けていました。「主は、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(マタイ9:35,36) フランシスコ会訳『聖書』では、ここを次のように訳しています。「イエスは、群衆が牧者のいない羊の群れのように疲れ果て、倒れているのを見て、憐れに思われた。」

先に、主イエスの話されたユダヤの言葉でも、また福音が伝えられた新約のギリシャ語でも、「復活する」とは、元来、倒れている人を抱き起こす、さらには、傷ついた人を介抱する、と言う時に日常的に使われる言葉(他動詞)でもあると申しました。

そうであれば、「牧者のいない羊の群れ」こそ、主イエスのみ前に「疲れ果て、倒れて」いたわたしたちの姿、ご復活の主に見いだされ、抱き起こされ、介抱されることをひたすらに待っているわたしたち自身の現実の姿ではないでしょうか。

「わたしは良い羊飼いである。」主イエスは、今日の福音で、このおことばを二度繰り返された後、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と、仰せになっておられました。この時、主が「羊であるわたしたちを知って」おり、羊も「神である羊飼いを知る」とは、どういうことなのでしょうか。主は、仰せです。

「それは父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。」

御父なる神と御子キリストが互いを知る。それは、御父と御子が一つであるということです。そうであれば、御父が御子を知っておられるように、羊飼いである主イエスが、わたしたち羊を知ってくださる。それは、父なる神と御子が一つであるように、主は、ご自身とわたしたちとを一つにしてくださる、ということです。

驚くべきことに、「牧者のいない羊」であるようなわたしたちを、主イエスはご自身と一つとしてくださる。ご自身そのものとさえしてくださる。自らの罪ゆえに主のみ許から迷い出たわたしたちの負うべき十字架、つまりわたしたちの悩み、苦しみ、悲しみ、罪の一切を、主ご自身がご自分に引き受けてくださる、と言われるのです。

「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」ここに神の愛があります。御子にわたしたちを固く結びつけご自身と一つにしてくださる父なる神の愛。

しかしこの父なる神の愛は、わたしたちの罪の赦しために御子キリストを十字架につけ、さらに御子を復活させてわたしたちに命を与える聖霊をくださることにより成就する神の愛です。主は仰せでした。「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。」

かつては「牧者のいない羊」のようであったわたしたち。それは、自らの罪ゆえに牧者を失っていたわたしたちの現実の姿、唯一人の牧者なる神から罪によって離れてしまっていたわたしたちの姿でした。そのような愚かで惨めなわたしたちと、敢えてご自身を一つにしてくださるまで、わたしたちを愛し抜いてくださる主イエス。

御子キリストによる、この神の愛の内に、わたしたちの罪を贖う主イエスの十字架が堅く立てられています。この神の愛の内に、罪贖われたわたしたちに永遠の命を与え、さらにそのわたしたちを神への捧げものとしてくださるために、聖霊を注いでわたしたちを聖くしてくださるご復活の主ご自身がお立ちになっておられます。

羊飼いなる主イエスが、羊であるわたしたちを知り、ご自身と一つに結び合わせてくださいます。主は、十字架とご復活によるご自身のご奉献に、わたしたち自身の奉献を一つに結び合わせてくださいます。ごミサこそ、まさにその時です。

「わたしは良い羊飼いである」と主イエスは仰せです。 

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

司祭の言葉 4/14

復活節第3主日 ルカ24:35-48

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」(ルカ24:32)

「そのとき、エルサレムに戻った二人の弟子は、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を(ペトロたち十一人の弟子たちに)話した」(ルカ24:35)と、今日のルカによる福音は、語り始めていました。

ところで、遡って、主イエスの十字架の死から三日目のことでした(ルカ24:13-34)。この二人の弟子たちは、エルサレムを離れてエマオと言う村に向かっていました。彼らは、主のことを道々話していました。すでにその日の朝早く、十字架の主のおからだが納められた墓を訪ねた婦人たちから、「主は生きておられる」と聞かされていました。しかし、二人はそのことを信じることができませんでした。

エルサレムから離れて行くこの二人に、いつの間にかご復活の主イエスが寄り添い、ともに歩き始めてくださっていました。しかし彼らは、この方が主ご自身であることに気づきませんでした。「二人の目は遮られていた」と、聖書は伝えています。

何が、ご復活の主イエスに対して、彼らの目を遮っていたのでしょうか。それは、彼らの人間的でこの世的な主への期待、したがって主の十字架の死による失望と落胆。さらには、その後の主のご復活を疑う疑いではなかったでしょうか。

実は、そのような二人には最初から、主イエスの真実が目に見えていなかったのかも知れません。それは、彼らが主に呼ばれたその時から、主の十字架の死、さらには主のご復活の後の今この時に至るまで、神が一時も休むことなく、主イエスにおいて彼らになさってくださっておられた恵みの事実です。

しかし、この神の恵みの事実に、二人の目が開かれる時が来ます。

二人、否、今や三人がともに歩き続けて夕方になりました。二人は、もう一人の方を夕べの食卓に招きました。その方は彼らとともに家に入られ、一緒に食卓に着かれました。そして、その方が二人に「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」まさにその時、「二人の目が開け、イエスだと分かった」(24:30,31)。

「主は生きておられる。」

十字架を控えての最後の晩餐の時と同じ主イエスが、しかし、まぎれもなく、今やご復活の主が、その食卓で、二人のためにパンを裂いておられる、彼らのために、ご自分の御からだを裂き、ご自分の御血を注いでくださっておられる。 

実は、ご復活の主イエス・キリストに対して「目が遮られていた」のは、この二人の弟子だけではありませんでした。エルサレムに留まっていたペトロたち他の弟子たちも、同様でした。彼らは、この二人から主のご復活の証言を聞かされていたにもかかわらず、ご復活の主がペトロたちにご自身を現わされた時、主から「なぜうろたえているのか。どうして心に疑いを起すのか」と言われなければなりませでした。

しかし、ご復活の主イエスは、ちょうど、かつてエルサレムを離れてエマオに向かった二人になさったように、ペトロたち十一人の弟子たちにも、主ご自身について、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活するとの聖書の言葉を悟らせるために、彼らの心の目を開いて」くださいました。その上で、主は、「あなたがたはこれらのことの証人となる」と、ペトロたちに約束されました。

後にペトロたちは確かに、主イエスのお約束通り、主の十字架とご復活の証人とされました。しかしそれは今日の福音のように、ご復活の主ご自身が、彼らの心から疑いが無くなるまで、くりかえし彼らを訪ねてくださったことによって、でした。

わたしたちも、同じではないでしょうか。わたしたちの「遮られた心の目」が、ご復活の主イエスにはっきりと開かれるその時まで、主はうむことなく、休むことなくわたしたちを訪ね、わたしたちのためにご自身について聖書を悟らせ、さらにごミサで、主とのこの食卓でご自身の御からだを裂き、御血を注ぎ出してくださいます。

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」

わたしたちも同様です。ご復活の主イエス・キリストは、すでにわたしたちとともに歩いてくださっておられた。この事実に気づかせていただく。それがごミサです。

ご復活の主が、皆さんとともに。 父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。