司祭の言葉 11/2

死者の日 ヨハネ6:37-40

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

11月1日の「諸聖人の祭日」に続いて、「死者の日」と呼ばれる11月2日は、英国では「諸聖徒の日」(Holy souls)と呼ばれます。日本では、洗礼を受けずに亡くなった方々に配慮して「死者の日」とされたのだと思いますが、この日は「諸聖徒の日」と呼ばれる方が、教会の暦には相応しいと思います。

「諸聖人」、あるいは「諸聖徒」の「聖」とは、如何なることなのでしょうか。聖書においては、「聖」である方は神お一人です。主イエスお一人です。このことははっきりしています。そうであれば、教会で列聖された「聖人」を含めて、広く「聖徒」とは、彼自身聖なる特別な人と言うよりも、神によって「聖くされた人」、つまり「キリストのものとされた人」のことであるに違いありません。

「父がわたしにお与えになる人は皆わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」(ヨハネ6:37-39)

ここで、主イエスが「ご自分のものとされた人」、つまり、主によって「聖とされた人」について、主ご自身は、それは「父がわたしにお与えになった人」と仰っておられるだけです。

主イエスは、わたしたちの中で、特に聖い人たち、正しい人たちを、主が選ばれたとは言われていません。「天の父なる神が、子なる神キリストに託された人たち」を、主イエスは、ご自分のものとする、「聖」とする、と言われるだけです。

即ち、「諸聖徒」とは、天の父なる神から主イエスに託され、主によって「聖」とされた人たちのことです。そうであれば、感謝すべきことに、これはわたしたち全てにも、信仰によって開かれている恵みではないでしょうか。

「諸聖徒」方は、主イエスによって「聖とされた人々」です。彼らについて、主は先のおことばに続いて、さらに、次のように仰せになっておられます。

「(わたしの父の)御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠のいのちを得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ6:39-40)

主イエスのみことばは、単なる慰めや約束の言葉では決してありません。神が聖霊によって成就される恵みの事実です。神のみことばは、聞くわたしたちに、今ここで、聖霊によって働く力であり、事実です。神のみことばは、聞く私たちをして聖霊によって「聖とする力」、即ち「主イエスのものとしてくださる力」です。主は、わたしたちにみことばをくださる時、みことばと共に必ず聖霊をくださいます。これがカトリックの信仰です。ここにわたしたちの希望があります。

そして、この聖霊なる神こそ、元来わたしたちに、「イエスは主である」と信じ、告白させてくださった方です。しかもこの聖霊こそ、みことばと共に働いて洗礼においてわたしたちを新たに生まれさせ、さらに、ごミサにおいてわたしたちの捧げるパンとブドウ酒を主イエス・キリストご自身の御からだと御血、つまり主トご自身のいのちとして私たちにお与えくださる方、に他なりません。

主イエスは、わたしたちにみことばを与えてくださるだけではありません。みことばと共に、主はわたしたちに聖霊をお与えくださり、その聖霊によってわたしたちの内に働き、主のみことばをわたしたちの内に結ばせてくださいます。これが、主イエスのみことばと聖霊の力、すなわち、福音の力です。

11月1日にわたしたちが記念した「諸聖人」方に続いて、今日記念している天にあるわたしたちの信仰の先達である「諸聖徒」方。彼らは、主イエスによって「聖」とされた方々です。主によって、祝福のみことばと共に聖霊を受けた方々です。聖霊によって、主のみことばが、彼らのいのちそのものとされた方々です。彼らは、聖霊によって、神と人とに対する祝福とされた方々です。

諸聖人方と共に諸聖徒方は、天のみ国にあって、愛と感謝を以って、ひたすらに主イエスを褒め、とこしえに主を称え賛美しておられると、教会は信じて来ました。わたしたちの主への愛と賛美は、地上において制約されたわたしたちの主への思いを遥かに超えて、天においてこそ全うされるに違いありません。諸聖人・諸聖徒方は、このことを既によく知っておられる方々であるはずです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 11/1

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」

諸聖人の祭日(B年・2024年11月1日)の黙想

マタイ5:1-12a

諸聖人と諸聖徒方を11月1日2日のミサで記念するカトリック教会の伝統は、英国とアイルランドが起源ではないかと言われます。英国では現在でも11月を「聖徒の月」と呼び、ちょうど日本のお盆のように、英国の人々にとっては教会でのミサの後、教会墓地を訪う時とされ、どの墓地もきれいに清められ、花壇のように花で埋め尽くされます。亡き方々を偲ぶ人々の思いは洋の東西を問わず変わりません。

諸聖徒の祝日に先立つ諸聖人の祭日には、主イエスの十二弟子たち、さらにご復活の主ご自身から「みことば」と「聖霊」を受けた聖パウロを筆頭にすべての聖人方を記念いたします。彼らの中には、わたしたちに代って地上の生活で多くの苦しみを負い、あるいはわたしたち同様、自らの弱さと戦われた方々もおられます。

諸聖人諸聖徒の「聖」とは、いかなることなのでしょうか。聖書においては、「聖」である方は、神お一人。主イエス・キリストお一人です。このことははっきりしています。そうであれば、「聖人」とは、生まれながらに聖(きよ)い人と言うよりも、主から「みことば」と「聖霊」をいただいて、神によって「聖くされた人」ではないでしょうか。

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国(神の国)はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。・・・

心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。・・・」

「心の貧しい人々は、幸いである」と、主イエスは仰せです。「貧しい人々」とは、主の他に頼る方がいない者たち、つまりわたしたちのことです。「天の国(神の国)」に関して、わたしたちは主以外に誰を頼ることができるでしょうか。わたしたちに「神の国」を約束してくださるのは、ただ「神の国の主」であるキリストお一人です。

主イエスの上記のみことばは、かつては「真福八端」と呼ばれていました。ご自身「聖」にして、わたしたちの罪を赦し「聖とする」ことがおできになる神ご自身からの八つの詩句からなる「祝福のみことば」です。神によってわたしたちが「聖とされ、それゆえに神の国を約束されること」。実は、それこそが主イエスの祝福です。

主イエスによって「聖とされ、神の国を約束される」。それは、わたしたちが「神の国の主・キリストのものとされる」こと。それを使徒ヨハネは、「御子キリストに似た者とされる」(1ヨハネ3:2)と教えてくれます。わたしたちが「聖とされ、神の国を約束される」、つまり主から祝福されるとは「御子キリストに似た者とされる」こと主に祝福された「聖人」方は、わたしたちに先立って「キリストに似た者とされた方」です。

その祝福を主イエスはいかにしてわたしたちにお与えくださるのか。それは、「祝福のことば」とその祝福をわたしたちの内に成就させてくださる「聖霊」によって「聖霊」は、主の「みことば」と共に働いて、わたしたちに「イエスは主である」と告白させてくださいます。「みことばと共に働かれる聖霊」こそ、洗礼においてわたしたちを新たに生まれさせ、ミサでわたしたちの捧げるパンとブドウ酒をご聖体つまりキリストご自身の御からだと御血・主ご自身のいのちに変えてくださる方です。

「みことばと聖霊」において、主イエスがわたしたちにくださるのは主ご自身。主はご自身をお与えくださることによってわたしたちを「聖」とし、「キリストに似た者」としてくださいます。それが主の祝福。主イエスこそ祝福そのものです。主の十二使徒を始め諸聖人方は、主ご自身、つまり聖霊を祝福として受け、聖霊によって「キリストの似姿に変えられた」方々。わたしたちすべてのお手本です。

わたしたちもミサで、諸聖人方のように、「主よ、わたしたちにみことばをください」と、主イエスに願います。主は、わたしたちにも必ず「みことば」とともに「聖霊」、つまり主ご自身をくださいます。主はどのように小さく、貧しいわたしたちにも、ご聖体において、主イエスご自身を祝福としてお与えくださいます「心の貧しい人々は、幸いである。神の国はその人たちのものである」と、主は仰せです。

わたしたちは、諸聖人方とは比べるべくもない者です。しかし、主イエスがご聖体においてわたしたちにお与えくださる主ご自身は、主の十二使徒始め、すべての諸聖人方にお与えになられた主とまったく同じ主ご自身。主は今も、いつも、代々に、一人なる同じ主であられるからです。わたしたちのような小さな者にさえ、ご自身をお与えくださる主。主イエスを、わたしたちはそのみ恵みゆえに畏れます

諸聖人諸聖徒方は、「神の国」で主イエスのみ前にみ使いと共に主を褒め称えていると信じられています。ご自身を祝福としてわたしたちにお与えくださる主への彼らの愛と感謝は、地上のわたしたちの制約された思いを遥かに超えています。彼らは、天に在ってそのことを最もよく知っておられる方々であるに違いありません。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 10/27

年間30主日 マルコ10:46-52

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき」と、今日の福音は伝えていました。エリコからエルサレムまでは、距離にして約20キロ。エルサレムに向かう主イエスの旅も、いよいよ終りに近づいて来ました。マルコによる福音も、エリコでのバルティマイという名の盲目の人と主との出会いの後には、主が弟子たちとともにエルサレムに迎えられた時の様子を語ります。

ガリラヤ地方の北限の町フィリポ・カイサリアで、「あなたがたは、わたしを誰というか」との主イエスの問いかけに応えたペトロの「あなたはメシア、生ける神の子」との信仰告白を受けて、主のエルサレムへの旅は始められました。その後、既に一年に近い歳月が流れていたはずです。この間、主は三度、エルサレムでのご自身の「十字架と復活」について、弟子たちに予告して来られました。

それにしても、エルサレムへの主イエスと弟子たちの旅が終わる直前に、福音が、主が盲目の人の目を開かれたことを伝えることには、何か訳があるのでしょうか。

ここでわたしたちは、今日の福音の直前に伝えられていた、先の主日の福音のエピソードを想い起こさない訳にはいきません。そこに、主イエスの三度目にくり返されたご自身の「十字架と復活」の予告の直後に、十二弟子たちの内のヤコブとヨハネが、「主がエルサレムで栄光をお受けになられる時、すなわち王に即位される時、わたしたちを重く用いてください」と主に願い出たと伝えられていました。

先のペトロのキリスト告白以来、約一年の間、主イエスの弟子たちは、主と旅をともにしてきたはずです。文字通り、主と寝食を共にすることを許されて来たはずです。しかもこの間、弟子たちは、旅の途上で主ご自身から、エルサレムでの主の「十字架と復活」、つまり彼らを伴っての主のエルサレムへの旅の目的をも、彼ら自身の耳にくり返し聞かされてきたはずです。

それだけではありません。弟子たちは、主イエスに伴われての旅の途上で、多くの人々に出会われてきた主が、一人ひとりに仰せになられたこと、またなさったことを、弟子たち自身の目で、逐一、つぶさに見聞きして来たはずです。しかし、彼らの心の目は、主に対しては閉じられたままであった、と言わざるを得ません。

先の主日の福音で、ヤコブとヨハネの要求に対して、主イエスは彼らに「あなたがたは、自分が何を願っているか分かっていない」と、仰せになっておられました。

ヤコブとヨハネに対する主イエスのこのおことばは、今日のエリコの町の盲目の人バルティマイに対する主の問いかけと、深く結び合わされているように思われてなりません。主は、バルティマイに問います。「あなたは、わたしに何をしてほしいのか。」彼は、主に応えます。「主よ、目が見えるようになりたいのです。」

盲目の人バルティマイだけではありません。実は、主イエスの弟子ヤコブとヨハネこそ、「主よ、見えるようにしてください」と、願うべきであったのではないでしょうか。彼らだけではありません。わたしたちもまた、彼らとともに、同じ願いを主に願わせていただくべきではないでしょうか。「主よ、見えるようにしてください。」

わたしたち一人ひとりが、わたしたちの心の目に、主イエスを救い主キリストと、はっきりと見えるようにさせていただく。それ以外に、わたしたちには救われる道はありません。わたしたちの「信仰」とは、ただ漠然と神の存在を信じているということではないはずです。「信仰」とは、主イエスをキリストと告白することです。主イエスをキリストと、心の目にはっきりと見させていただくことです。

主イエス・キリストに、正しく「主よ、見えるようにしてください」と求めた、バルティマイに、主は仰せになられました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」この主のみことばによって、「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」と、マルコによる福音は、今日の盲目の人バルティマイのエピソードを結んでいます。

わたしたちの「信仰」には、「人格としての姿personaがあります。「主イエス・キリスト」という「姿」です。その「姿」である「主イエス」に、わたしたちの目が開かれた時、「信仰」がわたしたちを救ってくださる。「信仰」は主イエス・キリストだからです。

「盲人は、すぐに見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」主イエスの旅は、ここエリコを出てエルサレムへと向かいます。罪によって閉じていた目を、主イエスをキリストと見る目に開いていただいた。その主へと開かれた目を以て、エルサレムへ向かわれる主に従う。それは、エルサレムで、主がわたしたちにしてくださることの一切を、この目ではっきりと見させていただくためです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 10/20

年間29主日 マルコ10:35-45

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「イエスは一同を呼び寄せて」と、今日の福音は伝えます。ここで「一同」とは、主イエスの十二弟子たちのひとり残らずすべて、です。何があったのでしょうか。

マルコによる福音は、この直前に、最初にはヤコブとヨハネ、後には十二弟子すべてを巻き込んでの、主イエスと弟子たちとの対話を伝えていました。まず、ヤコブとヨハネが、一つのことを主に願い出ました。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」

ここでヤコブとヨハネは、主イエスが旅の終わりエルサレムで、「王」に挙げられる事を期待し、その際、彼らを左・右の大臣に、つまり主の十二弟子たちの中でも、彼らが特別の地位に指名されることを、主に願い出ています。

二人のこのような願いに、わたしたちは戸惑いを覚えざるを得ません。彼らは、主イエスとともにエルサレムに向かう旅の途上、他の弟子たちとともに、旅の果てエルサレムでの主の「十字架と復活」の予告を、実に、既に三度、主ご自身から直接聞かされて来たはずです。しかも、マルコによる福音は、今日の出来事を、主の三度目の「十字架と復活」の予告の直後のこととして伝えているのです。

この二人に主イエスは、「あなたがたは自分が何を願っているか、分かっていない」とお応えになり、続けて、「このわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」と、お尋ねになられました。それでも主のお心を理解できない彼らは、即座に「できます」と主にお応えした、と福音は伝えています。

しかも、これを聞いていた他の弟子たちが、「ヤコブとヨハネのことで腹を立てた」とも福音は伝えます。主イエスとともにエルサレムに向かう他の弟子たちの主への期待も、実際のところヤコブやヨハネと異なるところがなかったということでしょうか。主の溜息が洩れ聞こえて来るような、主と弟子たちとのやり取りです。

確かに、主イエスはエルサレムで「王」として即位されます。しかし、「主のみ国」は、地上の力と富を求め、隣人から彼らの命を含めたすべてを奪い尽くすことによって建てられる罪の世に属す「この世の王国」ではありません。主が「王」として即位されるのは、そのような罪にしか生きられないわたしたちを罪から贖ってくださるために、主がご自身を十字架の犠牲とされることによって打ち建てられる「神の国」

エルサレムで、主イエスは十字架につけられ、三日目に復活される。ヤコブとヨハネを含む弟子たちすべてのために、本来彼らの負うべき罪の十字架を、主が代って担い、十字架によって罪赦された彼らに、復活して新しいいのちを与える聖霊を注いでくださる。主はそのようにして、彼らすべての魂の「王」となってくださる。

主イエスが彼らのために祈り、願い、彼らのために、旅の果てにご自分を十字架に引き渡そうとなさる。その主のおこころを、主ご自身によって三度もくり返された「十字架と復活」の予告によってさえも、弟子たちはまったく理解していません。

このような弟子たちに、「イエスは一同を呼び寄せて」仰せになられました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」

主イエスはエルサレムで「王」に即位される。しかし、最早、弟子たちに誤解は許されません。エルサレムへの旅は、彼らの願いや期待が成就するための旅ではないからです。彼らを伴ってのエルサレムへの旅は、彼らに対する主の祈りと願いが成就する旅だからです。十二弟子だけではありません。わたしたちにとっても、主イエスの祈りと願いの成就するところにのみ、わたしたちの救いがあるからです。

主イエスのわたしたちへの祈りと願いの成就するところ、主が「真の王」に即位される所、わたしたちのために「神の国」が打ち建てられる所。それは、十字架以外にはないのです。福音は、今日のエピソードを主の次のおことばによって結びます。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

今月10月は「宣教の月」。教皇フランシスコは、「宣教とは、人々に愛を届けることです」と教えてくださいました。先のベネディクト16世教皇も、「主から信仰(すなわち主イエス・キリスト)という人生における最も大切な賜物与えられたわたしたちは、その賜物を自分だけの許に留めておくことはできません」とお教えになっておられました。お二人は同じことを仰っておられると思います。愛とは、キリストだからです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 10/13

年間28主日 マルコ10:17-30

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「イエスが旅に出ようとされると」と、福音は語り始めます。この「旅」はエルサレムに向かう旅であり、その旅の終わりに主イエスを待ちうけていること、すなわち十字架と復活について、主はすでに二度弟子たちにお語りになって来られました。

マルコによる福音は、主イエスと多くの財産を持つ人との出会いを、三度目に主が十字架と復活の予告をされる、その直前に起こったこととして伝えています。これには意味があるはずです。この人が主の許に走り寄り、ひざまずいて主に尋ねました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

「永遠の命」を願い求める。この人だけに限りません。わたしたちも、それを真剣に求めています。ただし、「永遠の命」とは、何でしょうか。「永遠」とは、「死に勝利する」と言うことです。使徒パウロがローマの信徒への手紙に語るように「死に勝利する」のは、「愛」だけです。そして、「愛」は「神」です。「神こそ愛」だからです。それは、使徒ヨハネが彼の手紙に語る通りです。しかも、神の愛には「かたち」がある。ヨハネはそのことを、主イエス・キリストの具体的・人格的な事実として語っています。

「神は愛です。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

(1ヨハネ4:8a-10)

「永遠の命」を求める。それは、「死に勝利する神の愛」を求めることです。それは、使徒ヨハネが示すように、「神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとしてお遣わしになられた御子」を求めることです。なぜなら、「ここに、すなわち、神の遣わされた御子に、神の愛がある」からです。むしろ、「神の愛」が、「十字架上でわたしたちを贖ってくださる御子キリスト」となってくださっておられるのです。

「永遠の命」を求める。それは、「神の愛である御子キリスト」を求めることです。実は、「永遠の命」その方である主イエスご自身が、「永遠の命」を求める、富める人の前に、今、立っておられるのです。そうであれば、この人が、主のみ前になすべきことはただ一つです。それは、ガリラヤ湖畔で主に呼ばれたペトロが、「すべてを捨てて、主に従った」ように、すべてを捨てて、主にお従いすることです。

「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と問うこの人に、主イエスは、「神のおきて」すなわちモーセの十誡を示されました。それは「神のことば」です。ところで先週の福音では、主に敵対した律法学者やファリサイ派の人々は、「神のことば」を、「かつての昔に、神が語られたこと」と理解していました。今日の福音のこの人も同じです。彼は、主に、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えました。

しかし、「神のことば」とは、「神の愛のことば」であり、「ことばとなられた神の愛」「永遠の命イエス・キリスト」です。この人は、彼が求めた「永遠の命」主イエスの前に、今、立っているのです。この主に一切を託して従いさえすればよいのです。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人に施しなさい。・・それから、わたしに従いなさい」との主のおことば通りにするだけです。

しかし、「その人は、(主イエスの)このことばに気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」と、今日のマルコによる福音は、主と、このたくさんの財産を持つ人との出会いの物語を結んでいます。

ただこの時、本当に「気を落とし、悲し」まれたのは、実は主イエスの方であられたのではないでしょうか。この人は、「永遠の命」を求めて主を訪ねました。そして、「永遠の命」、すなわち「死に打ち勝つ神の愛であるキリスト」にお会いしたのです。しかし、その時、彼はあれほどに求めていた「永遠の命」キリストに代えて、死とともに失われる彼の「たくさんの財産」を選び取ったのです。皆さんはどうでしょうか。

「子たちよ、神の国に入る、つまり「永遠の命」を得るのは、なんと難しいことか」と、主イエスは言われました。しかし主は続けて、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と、仰せになられました。

「永遠の命」に代えて、「地上の朽ちる財産」を選んでしまいかねない愚かなわたしたちに、主イエスご自身は、ご自身のいのちに代えてわたしたちを選んでくださる。それが、主のエルサレムに向かわれる旅です。わたしたちのために十字架におつきになられるために。「人間にできることではないが、神にはできる。神には何でもおできになる。」この愛の神に、この十字架の主イエスにのみ、救いがあります。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。

司祭の言葉 10/6

年間27主日 マルコ10:2-16.

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

マルコによる福音書にお聞きしながら、主イエスのエルサレムへ向かわれる旅を、主とともに辿らせていただいています。主は、エルサレムへのこの旅が、主の地上での最期の旅であることを弟子たちが理解することを願って、「山上の変容」の前後から、弟子たちに三度も繰り返し次のようにお語りになって来られました。

「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」

主イエスにとって、エルサレムに向けての一歩一歩は、高まる緊張感との闘いであったに違いありません。しかし、主は、その途上においても、主を訪ねる多くの人々に、主に敵対するファリサイ派や律法学者たちをも含めて、ていねいに出会って行かれます。今日の福音も、その一こまです。

主イエスが、「ユダヤの地方とヨルダン川の向こう側」、つまりガリラヤ湖を水源として南に下るヨルダン川の東岸に広がる、当時デカポリスと呼ばれた地方を訪ねられた時のことです。主は、その地でも人々に「神の国」を宣べ伝えておられました。その主を、ファリサイ派の人々が訪い、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と唐突に尋ねた、と福音は伝えています。

ファリサイ派や律法学者たちが主イエスに向けた、離縁に関する律法を巡ってのこの問いに明らかなように、当時、「律法」、つまり「神のことば」の教師を自認していた彼らにとって、「罪」とは、たんに律法の違反の問題でした。したがってその解決、つまり「罪の贖いと赦し」という、本来、神との根本的本質的な関係の問題も、彼らには、それは律法の適用、あるいは律法の解釈の問題に過ぎませんでした。

「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と主張する彼らにとって、離婚という深刻な問題、およびその解決さえも、それは単に律法の解釈、かつその手続きの問題に過ぎません。彼らには、それが、神のみ前に誓約を交わし、一つとされた男女の関係の破たん、さらには、赦しと同時に癒しが求められるべき神と彼らとの関係の破れ、したがって神との和解の問題、として考えられていません。

律法学者には、神のみことばの教師と自認しながら、神が見えていないのです。

律法学者たちには、「律法」、すなわち「神のことば」に聞くとは、「昔、神が語られたことば」を規範として、それを解釈し、今に適用するということなのでしょう。しかし、本当にそうなのでしょうか。「神のことば」に聞くとは、今、現に、みことばを語られる神ご自身のみ前に立つこと、ではないでしょうか。「神のみことば」とは、事実「みことばなる神」、すなわち主イエスご自身にほかならないからです。

結婚の誓約に生きる一組の男女のいのちの危機、彼らが神の祝福を失いかねない事態を巡ってさえ、律法の解釈とその手続きのみを問題にしている律法学者たち。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった、それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と、主イエスは彼らに、そして「神のみことば」を聞くわたしたちすべてに、神ご自身のみ前に立っているという厳粛な事実を、はっきりと思い起こさせてくださいました。

「罪」を律法の解釈、その解決を律法の手続きの問題とする律法学者とは異なり、主イエスにとって「罪」とは、「神のみことば」、つまり「みことばである神ご自身」のみ前に明らかとされた、神のみこころに背くわたしたちの悲しい現実の姿です。

そうであれば、「みことばなる神」のみ前に、わたしたちが「罪の贖いと赦し」を真剣に求める時、「律法」、つまり「神のみことば」の解釈や、解釈された律法の適用をもって、自分の罪を自分で取り繕うことなどできはしません。「罪を贖い、罪を赦す」ことがおできになる唯一の方、神なる主イエスを求める他ないのです。

その主イエスのみ前に、今、ファリサイ派の人々は立っているのです。彼らが自らの罪を認め、その赦しを求めるならば、それがおできになる唯一の方、主が、現に彼らの前にいらっしゃるのです。しかしあろうことか、彼らは主イエスを、彼らの解釈した律法に基づいて「罪」と定め、後に、その「罪」の裁きとして主を十字架につけてしまうことになるのです。

その彼らのために、神に背く彼らを裁くことがおできになる唯一の主イエスは、本来彼らの受けるべき裁きをご自分に受け、十字架の上に彼らの罪の一切を贖ってくださいます。「罪」とは、律法の解釈の問題ではなく、神に背くわたしたち自身の問題であり、「罪の贖いと赦し」は、律法の手続きによってではなく、主が、ご自身でわたしたちの罪を負い切ってくださる他には、成就し得ないからです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 10/2

「あなたたちの天使たちは、天でいつも神のみ顔を仰いでいる」

「守護の天使の祝日」の黙想(10月2日)(マタイ18:1-5,10)

「言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父のみ顔を仰いでいるのである。」

主イエスのこのおことばは、「これらの小さな者の一人でも軽んじないように気をつけなさい」との、直前に語られた主のご忠告のおことばに続けて語られています。しかし、主の言われる「小さな者たち」とは、誰のことなのでしょうか。

それは、この地上で、神の他に頼る何ものの持たない人々のことではないでしょうか。そのような人々を、主イエスは、ことの他大切にしてくださいます。その理由は、二つあると思います。一つは、神の他に頼る何ものも持たない人々こそ、神の救いを切に祈り求めているからであり、主はそのような彼らのためにこそ来てくださったからです。加えて、冒頭の主のおことばのように、「彼らの天使たちが、天でいつもわたし(御子キリスト)の天の父のみ顔を仰いでいる」、からです。

「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父のみ前を仰いでいる」とは、彼らの天使たちが、小さな者たち・神の他頼るべき何ものもない人々のために、彼らの祈りを神に取り次ぎ、また彼らに代って常に神を賛美している、ということでしょう。

しかし、主イエスの仰る「小さな者たち」とは、実は、わたしたち自身のことではないでしょうか。そのことに気付くなら、冒頭のみことばは、主がわたしたちの「守護の天使」について、明確にお示しになっておられるおことばに他なりません。

わたしたちの守護の天使が、「天でいつもわたしの天の父のみ顔を仰いで」くださっておられるというのであれば、わたしたちのいのちは、決して地上だけのものではなく、守護の天使を通して、すでに天に結ばれているのです。わたしたちと天の父なる神の間を、取り次ぎの祈りと賛美を以て堅く結びつけてくださっておられる存在こそ、「守護の天使」です。

この「主護の天使」については、わたしたちのミサの「ローマ典文」(「第一奉献文」)の中に、次のような美しいことばで、教会の信仰が言い表されています。

「全能の神よ、つつしんでお願いいたします。

あなたの栄光に輝く祭壇に、このささげものをみ使いに運ばせ、

いま、祭壇で御子の神聖なからだと血とともに結ばれるわたしたちが、

天の祝福と恵みに満たされますように。」

パンとぶどう酒の聖別の祈りに続くこの美しい祈りは、ミサにおける主イエス・キリストご自身の自己奉献に、ミサに与るわたしたちも自らの奉献をもって加わらせていただくことを神に願い求める、ローマ教会に伝承されてきた古い祈りです。

ここでわたしたちは、自らをみ使い・「守護の天使」に委ねています。わたしたちの取り次ぎのために、天の父なる神のみ前にいつも神のみ顔を仰いでくださっておられる守護の天使に、ミサにおいて、天上の父の祭壇から、地上のわたしたちの祭壇にまで降り来たっていただき、わたしたちの捧げもの、つまりわたしたち自身を、天の父なる神の祭壇にまで運び上げていただくことを、祈り願っています。

神への捧げものは聖(きよ)くなければなりません。「守護の天使」は、わたしたちを聖(きよ)め、聖い捧げものとして神に受け入れていただくことができるようにしてくださるはずです。したがって、守護の天使は「聖霊」である、とも言われます。

確かに、「ローマ典文」(「第一奉献文」)の、守護の天使に、わたしたちの捧げものを、天の祭壇に運び上げていただくことを願う祈りは、「第三奉献文」では、「聖霊によってわたしたちがあなたに捧げられた永遠の供え物となり、・・・」と、明らかに、「聖霊」を求める祈りになっています。

そうであれば、守護の天使は、わたしたちを守ってくださるばかりではなく、わたしたちを聖(きよ)くしてくださる方でもあるに違いありません。わたしたちの捧げものの聖さを守ってくださるばかりでなく、わたしたちの捧げもの、つまりわたしたち自身をも聖くして天の神の祭壇に届けてくださいます。守護の天使は、そのようにして、神のみ前に、わたしたちに対する天使としての使命を全うしてくださいます。

そうであれば、守護の天使とは主イエスの聖霊が、主の愛の息吹が姿をとられた方であると言うべきではないでしょうか。また実はその時、守護の天使のお姿の内に、聖霊の注ぎを受けて、主の似姿に変えられて天に招かれる「キリストと共に神の内に隠された」(コロサイ3:3)わたしたち自身の姿もあるのではないでしょうか。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 9/29

「ミカエルーあなたにとって、唯一のまことの神は誰ですか」

聖ミカエルの祝日929日)の黙想(ヨハネ1・4751

9月29日は大天使聖ミカエル・聖ガブリエル・聖ラファエルの祝日です。かつては、聖ミカエルの祝日とされていました。聖ミカエルの祝日には、わたしには個人的な思い出があります。わたしが長く司祭として奉仕した英国では、学校の一年は、正式には9月29日・聖ミカエルの祝日のミサをもって始められるからです。9月29日から降誕祭・クリスマスまでの学年の最初の学期は、英国では「聖ミカエルの祝日のミサに始まる学期」を意味する “Michael-mas Term”と呼ばれます。

ミカエル。この大天使の名は、元来のヘブライ語では「ミッカーエール」といいますが、まことに不思議な名前です。通常名前を示す名詞ではなく、“疑問文”だからです。日本語に訳せば、「あなたの神は誰ですか」「あなたが、生涯お仕えさせていただくべき唯一まことの神は誰ですか」と言う意味の疑問文が「名前」なのです。

大天使ミカエルは、まさにその存在そのものがわたしたちに対する神の問いかけなのです。つまり、神から聖ミカエルが遣わされる時、わたしたちは「あなたの神は誰ですか」という神の問いの前に立たしめられるのです。

聖ミカエルの祝日に読まれる福音は、ヨハネによる福音1:47-51です。主イエス・キリストは、ご自身を訪ねたフィリポとナタナエルに次のように仰せでした。

「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(ヨハネ1:51)

「神の天使たち」の首位は、「大天使長ミカエル」(ダニエル12:1)です。そうであれば、わたしたちが、「人の子、すなわち主イエス・キリストの上に、大天使ミカエルが昇り降りするのを見る」時、わたしたちは、主のみ前に、聖ミカエルによって「あなたにとって唯一のまことの神は誰ですか」との問いかけの前に立たしめられるのです。

英国の学校は、大天使聖ミカエルの祝日のミサを以て新しい学年を始めると申しました。オクスフォードのような約1200年前に聖ベネディクト修道会の司祭養成の修道院大学として設立された古い大学の神学生にとって、主イエスのみ前に、「あなたにとって、唯一のまことの神は誰か」という問いかけの前に立つことこそ、修道、すなわち祈りと学びと修練の第一の目的です。それは、神学生である以前に、人が人として生きるために必ず問われざるを得ない「問い」であるはずです。

したがって、これは、英国の学生のみならず、日本のわたしたちにとっても全く同様、むしろ、現代の日本のわたしたちにとってこそ、必ず問われなければならない最も大切な「問い」なのではないでしょうか。わたしたちも、わたしたち自身にとって、わたしたちが生涯お仕えさせていただくべき「唯一のまことの神」がはっきりしなければ、唯一のまことの神ならぬもの、たとえばお金や一時的な権威・権力のような神ならぬものに仕えて、人生を空しく終わってしまうことになりかねないからです。

ところで、極めて象徴的に思われますが、聖ミカエルの祝日に始まる英国の最初の学期は、主イエス・キリストの誕生・クリスマスに終わります。

クリスマスは不思議です。それは、「本来わたしたちが生涯お仕えさせていただくべき唯一のまことの神が、わたしたちに生涯をかけて仕えてくださるために、イエスという名前をもつ人として、小さな村の貧しいおとめマリアさまを母としてお生まれになった」ことを祝います。主イエス・キリストは、十字架の上で、わたしたちにご自身のいのちそのものである、ご自身の御からだと御血を惜しみなく与えてくださることによって、わたしたちへの犠牲と奉仕の生涯を全うされます。

「あなたにとって、生涯お仕えさせていただく神は誰ですか」との大切な問い、人が人として生きるための最も大切なこの「問い」は、わたしたちに、降誕祭・クリスマス、すなわち「ご自身のいのちを捧げてわたしたちに仕えてくださった唯一のまことの神、主イエス・キリストの誕生」をまっ直ぐに指し示しています。

聖ミカエルから大切な「問い」を問われているみなさんお一人おひとりが、みなさんのお心の内に、主イエス・キリストをこそ、「生涯かけてお仕えさせていただく唯一にしてまことの神」として、心からの喜びと感謝をもってお迎えくださいますように。

大天使聖ミカエルの祝日。わたしたちは、聖ミカエルの名の意味するごとく、主のみ前に、「あなたにとって、唯一のまことの神は誰ですか」との問いかけの前に立っています。この問いに、主イエスこそ唯一のまことの神とわたしたちに告白させてくださるのは聖霊のみです。そのために聖霊を求めるわたしたちの切なる祈りを、わたしたちの守護者大天使聖ミカエルは必ずお取り次ぎくださいます

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 9/29

年間26主日 マルコ9:38-43,45,47-48

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音で、主イエスは既にエルサレムに向かう旅の途上におられます。弟子たちを伴ってエルサレムに向かう、これが最期の旅であることを、主はご存知です。また、その旅の果てに、主を待ちうけていることが何であるかも、主は良くご存知です。この大切な旅の途上で、主は弟子たちに、三度くり返して、エルサレムでのご自分の十字架の死と復活を予告されます。すなわち、

「人の子(すなわち、主イエス)は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」

主イエスご自身の中で、明らかに緊張が高まって行かれるのと対照的に、くり返される主のご受難の予告を聞かされながらも、心がそれについて行かない弟子たちがいます。実際、先週の福音で、主のエルサレムでのご受難の予告を、二度目に聞かされた直後に、弟子たちは、彼ら十二人の内で「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」と、言われていました。にわかに信じがたいことです。

それにもかかわらず、旅の途上、主イエスは、忍耐強く弟子たちに教え、彼らと言葉を交わし、さらに、主を訪ねて来る多くの人々に出会って行かれます。今日のマルコによる福音も、そのような主の旅の途上の一こまです。十二弟子の一人ヨハネが、主に報告します。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」

一見、何気ないヨハネの報告の言葉に聞こえます。しかし、これは、主イエスのみ前に、極めて傲慢な言葉ではないでしょうか。ヨハネは、主の僕というよりも、まるで主の恵みの管理者を自認し、人々に対してそのように振舞っているようにさえ聞こえます。このヨハネに、主は、次のように仰せです。

「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

ヨハネは、またわたしたちも、あくまで、主イエスの憐れみによって、主のご保護の許に、主の僕であることを赦されているに過ぎないことを謙遜に自覚すべきです。

ヨハネが、彼の漁の仲間であったペトロ、ヤコブとともに、ガリラヤ湖の湖畔で、主イエスから召し出しを受けた時のことを、彼とともに思い出したいのです。ルカによる福音によれば、この時、主は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を、漁師としての日常の生活から、「湖の奇跡」をもって、主に在って、神に仕えて生きるまったく新しい命へと招いてくださいました。それは、彼らの思いを遥かに越えた光栄であったと思います。(ルカ5:1-11)

しかし、ここで即座に、彼らは実に深刻な問題に直面せざるを得ませんでした。それは彼らの罪です。罪人には、神に見(まみ)えることは赦されません。ペトロは主イエスに招かれた時、ヤコブとヨハネとともに、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と、主に申し上げる他ありませんでした。ペトロは、主を畏れました。もちろん、ヤコブも、そしてヨハネも、同様であったはずです。罪なる彼らは、主のみ前に、ひとえに主を畏れたのです。それ以外になかったのです。

しかし、彼らが、心から自分の罪を認め、懺悔し、主イエスを畏れたからこそ、主は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を、主の最初の弟子とされたのです。主は、ペトロ、そしてヤコブとヨハネに言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」その時、ペトロは、ヤコブとヨハネとともに、この主に、「すべてを捨てて従った」と、ルカによる福音は、伝えていました。

今日の福音で、主イエスから召し出しを受けた時のヨハネは、一体どこに行ってしまったのでしょうか。自らの罪ゆえに主を畏れ、主の赦しの許にのみ、すべてを捨てて主に従ったヨハネでした。その彼がいつの間に、人々に対して、主の恵みの管理者になったとでもいうのでしょうか。ただし、これはヨハネだけの問題でしょうか。カトリックのわたしたちも、隣人に対していかに振舞っているでしょうか。

主イエスとともに、最期にエルサレムに上る旅。ヨハネだけではありません。わたしたちも、主とともに、その旅の途上にあります。主に従うこの旅は、誰にとっても、主のみ前に、主を畏れ、謙遜と従順の内に、主の赦しの許に、すべてを捨てて主に従うことを学ばせていただく旅、ではないでしょうか。

この旅は、主イエスにとっては、十字架を見つめての旅です。「すべてを捨てて主に従う」わたしたちのために、主はご自身を、ご自身のいのちさえ、十字架に捨ててくださる旅です。わたしたちは、このことを決して忘れてはならないと思います。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 9/22

年間25主日 マルコ9:30-37

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

9月14日に、「十字架称賛」の祝日を祝いました。教会には、主イエスの「山上の変容」から40日目に主がエルサレムで十字架にお就きになられたとの伝承があります。後に、「主の十字架」が9月半ばのユダヤ歴新年に会わせて記念されるようになると、40日遡った8月6日に、主の「山上の変容」が記念されるようになりました。

「主の変容」。 主イエスは、エルサレムに上られるに先立ち、弟子たちの内、ペトロ、ヤコブとヨハネを連れて、高い山に登られました。その時、主のお姿が変わり、着ておられた服も真っ白に輝きました。この「変容の主」を目の当たりにして、弟子たちは、さらに、「これはわたしの愛する子。これに聞け」との「天からの声」を聞いたと、マルコによる福音は伝えています(9:2-13)。

主キリストは、ペトロたちに、ご自分が天の父なる神の御子であられることを、ご自身の変容を以てお示しになられました。また、「天からの声」、すなわち、父なる神ご自身も、御子の真実を、はっきりとペトロたちにお語りになられました。

 

教会が、この主イエスの「山上の変容」と主の「十字架」を緊密に結びつけて記念するのは、主の「山上の変容」が、真っ直ぐに主イエスの「十字架」を指し示すものであるとの、教会の信仰ゆえです。

実はこのことは、主イエスご自身が、明らかにされていたことでもありました。主の「山上の変容」の前後に、主ご自身、エルサレムで起こるご自身の十字架とご復活について、三度くり返して、弟子たちに予告されておられました。今日の福音は、主の「山上の変容」の後に、二度目にくり返された、主の十字架と復活の予告のおことばです。主は、弟子たちに仰せになりました。

「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」

わたしたちすべてを創造し、支配される天の父なる神。その御子キリストが、十字架におつきになられる。ここに驚くべき、神の救いの秘義が明らかにされました。

すべての被造物の裁き主であられる天の父なる神。その父なる神の御子キリスト御自ら、わたしたちのために、罪の裁きの十字架にお就きになられる。実に驚くべきことです。しかし、今日の福音は、驚くべきことを、もう一つ語っています。主の「山上の変容」後、二度目にくり返された主ご自身の十字架と復活の予告を聞かされた、まさにその直後に、弟子たちは、彼らの内「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」(9:34)というのです。にわかに信じがたいほどのことです。

確かに、神の御子が十字架につけられて殺される。そして三日の後に復活される。主イエスご自身のこの予告は、弟子たちの知恵や常識、さらには、彼らの主への人間的期待からも、およそかけ離れたものであったに違いありません。主の十字架と復活の予告を聞かされた時、「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」と、福音は正直に伝えています。

弟子たちには、山上で変容された神の御子の栄光に輝く御姿とその御子キリストの凄惨な十字架上の死とが、どうしても結びつかなかったのでしょう。主イエスの「山上の変容」の栄光に接してなお、あるいはむしろそれゆえに、弟子たちの主への期待は、その後に続く主の十字架の予告を受け入れ難くしたのかも知れません。

確かに、主イエスの十字架と復活の予告のおことばは、人の知恵を以って理解できることではないと思います。それはわたしたち自身の罪の懺悔を通してのみ、畏れと感謝を以て頷かせていただき得ることです。主は、弟子たちに仰せになります。

「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい』。」(9:35)

「主の変容」が、主イエスの十字架の40日前との教会の伝承は、モーセに導かれたイスラエルの民が約束の地に入るまでの、荒野の40年を思い起こさせます。事実、「主の変容」の後、主は弟子たちとともにエルサレムに上る旅を始められます。そして40日後に弟子たちは、「主との最後の晩餐」、そしてそれに続く「主の十字架」によって、主によって約束の地である「神の国」に招き入れられます。

ただし、それは、罪なる弟子たちにとっては、ひとえに、主イエスの十字架と復活を通してのみ招き入れられる「神の国」です。その時、そこで、弟子たちは「神の国の食卓」に備えられ、彼らに与えられる「永遠のいのちの糧」が、実は「主ご自身のからだ」であることが、主ご自身によって明らかにされます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。