司祭の言葉 10/13

年間28主日 マルコ10:17-30

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「イエスが旅に出ようとされると」と、福音は語り始めます。この「旅」はエルサレムに向かう旅であり、その旅の終わりに主イエスを待ちうけていること、すなわち十字架と復活について、主はすでに二度弟子たちにお語りになって来られました。

マルコによる福音は、主イエスと多くの財産を持つ人との出会いを、三度目に主が十字架と復活の予告をされる、その直前に起こったこととして伝えています。これには意味があるはずです。この人が主の許に走り寄り、ひざまずいて主に尋ねました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

「永遠の命」を願い求める。この人だけに限りません。わたしたちも、それを真剣に求めています。ただし、「永遠の命」とは、何でしょうか。「永遠」とは、「死に勝利する」と言うことです。使徒パウロがローマの信徒への手紙に語るように「死に勝利する」のは、「愛」だけです。そして、「愛」は「神」です。「神こそ愛」だからです。それは、使徒ヨハネが彼の手紙に語る通りです。しかも、神の愛には「かたち」がある。ヨハネはそのことを、主イエス・キリストの具体的・人格的な事実として語っています。

「神は愛です。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

(1ヨハネ4:8a-10)

「永遠の命」を求める。それは、「死に勝利する神の愛」を求めることです。それは、使徒ヨハネが示すように、「神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとしてお遣わしになられた御子」を求めることです。なぜなら、「ここに、すなわち、神の遣わされた御子に、神の愛がある」からです。むしろ、「神の愛」が、「十字架上でわたしたちを贖ってくださる御子キリスト」となってくださっておられるのです。

「永遠の命」を求める。それは、「神の愛である御子キリスト」を求めることです。実は、「永遠の命」その方である主イエスご自身が、「永遠の命」を求める、富める人の前に、今、立っておられるのです。そうであれば、この人が、主のみ前になすべきことはただ一つです。それは、ガリラヤ湖畔で主に呼ばれたペトロが、「すべてを捨てて、主に従った」ように、すべてを捨てて、主にお従いすることです。

「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と問うこの人に、主イエスは、「神のおきて」すなわちモーセの十誡を示されました。それは「神のことば」です。ところで先週の福音では、主に敵対した律法学者やファリサイ派の人々は、「神のことば」を、「かつての昔に、神が語られたこと」と理解していました。今日の福音のこの人も同じです。彼は、主に、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えました。

しかし、「神のことば」とは、「神の愛のことば」であり、「ことばとなられた神の愛」「永遠の命イエス・キリスト」です。この人は、彼が求めた「永遠の命」主イエスの前に、今、立っているのです。この主に一切を託して従いさえすればよいのです。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人に施しなさい。・・それから、わたしに従いなさい」との主のおことば通りにするだけです。

しかし、「その人は、(主イエスの)このことばに気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」と、今日のマルコによる福音は、主と、このたくさんの財産を持つ人との出会いの物語を結んでいます。

ただこの時、本当に「気を落とし、悲し」まれたのは、実は主イエスの方であられたのではないでしょうか。この人は、「永遠の命」を求めて主を訪ねました。そして、「永遠の命」、すなわち「死に打ち勝つ神の愛であるキリスト」にお会いしたのです。しかし、その時、彼はあれほどに求めていた「永遠の命」キリストに代えて、死とともに失われる彼の「たくさんの財産」を選び取ったのです。皆さんはどうでしょうか。

「子たちよ、神の国に入る、つまり「永遠の命」を得るのは、なんと難しいことか」と、主イエスは言われました。しかし主は続けて、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と、仰せになられました。

「永遠の命」に代えて、「地上の朽ちる財産」を選んでしまいかねない愚かなわたしたちに、主イエスご自身は、ご自身のいのちに代えてわたしたちを選んでくださる。それが、主のエルサレムに向かわれる旅です。わたしたちのために十字架におつきになられるために。「人間にできることではないが、神にはできる。神には何でもおできになる。」この愛の神に、この十字架の主イエスにのみ、救いがあります。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。

司祭の言葉 10/6

年間27主日 マルコ10:2-16.

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

マルコによる福音書にお聞きしながら、主イエスのエルサレムへ向かわれる旅を、主とともに辿らせていただいています。主は、エルサレムへのこの旅が、主の地上での最期の旅であることを弟子たちが理解することを願って、「山上の変容」の前後から、弟子たちに三度も繰り返し次のようにお語りになって来られました。

「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」

主イエスにとって、エルサレムに向けての一歩一歩は、高まる緊張感との闘いであったに違いありません。しかし、主は、その途上においても、主を訪ねる多くの人々に、主に敵対するファリサイ派や律法学者たちをも含めて、ていねいに出会って行かれます。今日の福音も、その一こまです。

主イエスが、「ユダヤの地方とヨルダン川の向こう側」、つまりガリラヤ湖を水源として南に下るヨルダン川の東岸に広がる、当時デカポリスと呼ばれた地方を訪ねられた時のことです。主は、その地でも人々に「神の国」を宣べ伝えておられました。その主を、ファリサイ派の人々が訪い、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と唐突に尋ねた、と福音は伝えています。

ファリサイ派や律法学者たちが主イエスに向けた、離縁に関する律法を巡ってのこの問いに明らかなように、当時、「律法」、つまり「神のことば」の教師を自認していた彼らにとって、「罪」とは、たんに律法の違反の問題でした。したがってその解決、つまり「罪の贖いと赦し」という、本来、神との根本的本質的な関係の問題も、彼らには、それは律法の適用、あるいは律法の解釈の問題に過ぎませんでした。

「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と主張する彼らにとって、離婚という深刻な問題、およびその解決さえも、それは単に律法の解釈、かつその手続きの問題に過ぎません。彼らには、それが、神のみ前に誓約を交わし、一つとされた男女の関係の破たん、さらには、赦しと同時に癒しが求められるべき神と彼らとの関係の破れ、したがって神との和解の問題、として考えられていません。

律法学者には、神のみことばの教師と自認しながら、神が見えていないのです。

律法学者たちには、「律法」、すなわち「神のことば」に聞くとは、「昔、神が語られたことば」を規範として、それを解釈し、今に適用するということなのでしょう。しかし、本当にそうなのでしょうか。「神のことば」に聞くとは、今、現に、みことばを語られる神ご自身のみ前に立つこと、ではないでしょうか。「神のみことば」とは、事実「みことばなる神」、すなわち主イエスご自身にほかならないからです。

結婚の誓約に生きる一組の男女のいのちの危機、彼らが神の祝福を失いかねない事態を巡ってさえ、律法の解釈とその手続きのみを問題にしている律法学者たち。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった、それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と、主イエスは彼らに、そして「神のみことば」を聞くわたしたちすべてに、神ご自身のみ前に立っているという厳粛な事実を、はっきりと思い起こさせてくださいました。

「罪」を律法の解釈、その解決を律法の手続きの問題とする律法学者とは異なり、主イエスにとって「罪」とは、「神のみことば」、つまり「みことばである神ご自身」のみ前に明らかとされた、神のみこころに背くわたしたちの悲しい現実の姿です。

そうであれば、「みことばなる神」のみ前に、わたしたちが「罪の贖いと赦し」を真剣に求める時、「律法」、つまり「神のみことば」の解釈や、解釈された律法の適用をもって、自分の罪を自分で取り繕うことなどできはしません。「罪を贖い、罪を赦す」ことがおできになる唯一の方、神なる主イエスを求める他ないのです。

その主イエスのみ前に、今、ファリサイ派の人々は立っているのです。彼らが自らの罪を認め、その赦しを求めるならば、それがおできになる唯一の方、主が、現に彼らの前にいらっしゃるのです。しかしあろうことか、彼らは主イエスを、彼らの解釈した律法に基づいて「罪」と定め、後に、その「罪」の裁きとして主を十字架につけてしまうことになるのです。

その彼らのために、神に背く彼らを裁くことがおできになる唯一の主イエスは、本来彼らの受けるべき裁きをご自分に受け、十字架の上に彼らの罪の一切を贖ってくださいます。「罪」とは、律法の解釈の問題ではなく、神に背くわたしたち自身の問題であり、「罪の贖いと赦し」は、律法の手続きによってではなく、主が、ご自身でわたしたちの罪を負い切ってくださる他には、成就し得ないからです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 10/2

「あなたたちの天使たちは、天でいつも神のみ顔を仰いでいる」

「守護の天使の祝日」の黙想(10月2日)(マタイ18:1-5,10)

「言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父のみ顔を仰いでいるのである。」

主イエスのこのおことばは、「これらの小さな者の一人でも軽んじないように気をつけなさい」との、直前に語られた主のご忠告のおことばに続けて語られています。しかし、主の言われる「小さな者たち」とは、誰のことなのでしょうか。

それは、この地上で、神の他に頼る何ものの持たない人々のことではないでしょうか。そのような人々を、主イエスは、ことの他大切にしてくださいます。その理由は、二つあると思います。一つは、神の他に頼る何ものも持たない人々こそ、神の救いを切に祈り求めているからであり、主はそのような彼らのためにこそ来てくださったからです。加えて、冒頭の主のおことばのように、「彼らの天使たちが、天でいつもわたし(御子キリスト)の天の父のみ顔を仰いでいる」、からです。

「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父のみ前を仰いでいる」とは、彼らの天使たちが、小さな者たち・神の他頼るべき何ものもない人々のために、彼らの祈りを神に取り次ぎ、また彼らに代って常に神を賛美している、ということでしょう。

しかし、主イエスの仰る「小さな者たち」とは、実は、わたしたち自身のことではないでしょうか。そのことに気付くなら、冒頭のみことばは、主がわたしたちの「守護の天使」について、明確にお示しになっておられるおことばに他なりません。

わたしたちの守護の天使が、「天でいつもわたしの天の父のみ顔を仰いで」くださっておられるというのであれば、わたしたちのいのちは、決して地上だけのものではなく、守護の天使を通して、すでに天に結ばれているのです。わたしたちと天の父なる神の間を、取り次ぎの祈りと賛美を以て堅く結びつけてくださっておられる存在こそ、「守護の天使」です。

この「主護の天使」については、わたしたちのミサの「ローマ典文」(「第一奉献文」)の中に、次のような美しいことばで、教会の信仰が言い表されています。

「全能の神よ、つつしんでお願いいたします。

あなたの栄光に輝く祭壇に、このささげものをみ使いに運ばせ、

いま、祭壇で御子の神聖なからだと血とともに結ばれるわたしたちが、

天の祝福と恵みに満たされますように。」

パンとぶどう酒の聖別の祈りに続くこの美しい祈りは、ミサにおける主イエス・キリストご自身の自己奉献に、ミサに与るわたしたちも自らの奉献をもって加わらせていただくことを神に願い求める、ローマ教会に伝承されてきた古い祈りです。

ここでわたしたちは、自らをみ使い・「守護の天使」に委ねています。わたしたちの取り次ぎのために、天の父なる神のみ前にいつも神のみ顔を仰いでくださっておられる守護の天使に、ミサにおいて、天上の父の祭壇から、地上のわたしたちの祭壇にまで降り来たっていただき、わたしたちの捧げもの、つまりわたしたち自身を、天の父なる神の祭壇にまで運び上げていただくことを、祈り願っています。

神への捧げものは聖(きよ)くなければなりません。「守護の天使」は、わたしたちを聖(きよ)め、聖い捧げものとして神に受け入れていただくことができるようにしてくださるはずです。したがって、守護の天使は「聖霊」である、とも言われます。

確かに、「ローマ典文」(「第一奉献文」)の、守護の天使に、わたしたちの捧げものを、天の祭壇に運び上げていただくことを願う祈りは、「第三奉献文」では、「聖霊によってわたしたちがあなたに捧げられた永遠の供え物となり、・・・」と、明らかに、「聖霊」を求める祈りになっています。

そうであれば、守護の天使は、わたしたちを守ってくださるばかりではなく、わたしたちを聖(きよ)くしてくださる方でもあるに違いありません。わたしたちの捧げものの聖さを守ってくださるばかりでなく、わたしたちの捧げもの、つまりわたしたち自身をも聖くして天の神の祭壇に届けてくださいます。守護の天使は、そのようにして、神のみ前に、わたしたちに対する天使としての使命を全うしてくださいます。

そうであれば、守護の天使とは主イエスの聖霊が、主の愛の息吹が姿をとられた方であると言うべきではないでしょうか。また実はその時、守護の天使のお姿の内に、聖霊の注ぎを受けて、主の似姿に変えられて天に招かれる「キリストと共に神の内に隠された」(コロサイ3:3)わたしたち自身の姿もあるのではないでしょうか。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 9/29

「ミカエルーあなたにとって、唯一のまことの神は誰ですか」

聖ミカエルの祝日929日)の黙想(ヨハネ1・4751

9月29日は大天使聖ミカエル・聖ガブリエル・聖ラファエルの祝日です。かつては、聖ミカエルの祝日とされていました。聖ミカエルの祝日には、わたしには個人的な思い出があります。わたしが長く司祭として奉仕した英国では、学校の一年は、正式には9月29日・聖ミカエルの祝日のミサをもって始められるからです。9月29日から降誕祭・クリスマスまでの学年の最初の学期は、英国では「聖ミカエルの祝日のミサに始まる学期」を意味する “Michael-mas Term”と呼ばれます。

ミカエル。この大天使の名は、元来のヘブライ語では「ミッカーエール」といいますが、まことに不思議な名前です。通常名前を示す名詞ではなく、“疑問文”だからです。日本語に訳せば、「あなたの神は誰ですか」「あなたが、生涯お仕えさせていただくべき唯一まことの神は誰ですか」と言う意味の疑問文が「名前」なのです。

大天使ミカエルは、まさにその存在そのものがわたしたちに対する神の問いかけなのです。つまり、神から聖ミカエルが遣わされる時、わたしたちは「あなたの神は誰ですか」という神の問いの前に立たしめられるのです。

聖ミカエルの祝日に読まれる福音は、ヨハネによる福音1:47-51です。主イエス・キリストは、ご自身を訪ねたフィリポとナタナエルに次のように仰せでした。

「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(ヨハネ1:51)

「神の天使たち」の首位は、「大天使長ミカエル」(ダニエル12:1)です。そうであれば、わたしたちが、「人の子、すなわち主イエス・キリストの上に、大天使ミカエルが昇り降りするのを見る」時、わたしたちは、主のみ前に、聖ミカエルによって「あなたにとって唯一のまことの神は誰ですか」との問いかけの前に立たしめられるのです。

英国の学校は、大天使聖ミカエルの祝日のミサを以て新しい学年を始めると申しました。オクスフォードのような約1200年前に聖ベネディクト修道会の司祭養成の修道院大学として設立された古い大学の神学生にとって、主イエスのみ前に、「あなたにとって、唯一のまことの神は誰か」という問いかけの前に立つことこそ、修道、すなわち祈りと学びと修練の第一の目的です。それは、神学生である以前に、人が人として生きるために必ず問われざるを得ない「問い」であるはずです。

したがって、これは、英国の学生のみならず、日本のわたしたちにとっても全く同様、むしろ、現代の日本のわたしたちにとってこそ、必ず問われなければならない最も大切な「問い」なのではないでしょうか。わたしたちも、わたしたち自身にとって、わたしたちが生涯お仕えさせていただくべき「唯一のまことの神」がはっきりしなければ、唯一のまことの神ならぬもの、たとえばお金や一時的な権威・権力のような神ならぬものに仕えて、人生を空しく終わってしまうことになりかねないからです。

ところで、極めて象徴的に思われますが、聖ミカエルの祝日に始まる英国の最初の学期は、主イエス・キリストの誕生・クリスマスに終わります。

クリスマスは不思議です。それは、「本来わたしたちが生涯お仕えさせていただくべき唯一のまことの神が、わたしたちに生涯をかけて仕えてくださるために、イエスという名前をもつ人として、小さな村の貧しいおとめマリアさまを母としてお生まれになった」ことを祝います。主イエス・キリストは、十字架の上で、わたしたちにご自身のいのちそのものである、ご自身の御からだと御血を惜しみなく与えてくださることによって、わたしたちへの犠牲と奉仕の生涯を全うされます。

「あなたにとって、生涯お仕えさせていただく神は誰ですか」との大切な問い、人が人として生きるための最も大切なこの「問い」は、わたしたちに、降誕祭・クリスマス、すなわち「ご自身のいのちを捧げてわたしたちに仕えてくださった唯一のまことの神、主イエス・キリストの誕生」をまっ直ぐに指し示しています。

聖ミカエルから大切な「問い」を問われているみなさんお一人おひとりが、みなさんのお心の内に、主イエス・キリストをこそ、「生涯かけてお仕えさせていただく唯一にしてまことの神」として、心からの喜びと感謝をもってお迎えくださいますように。

大天使聖ミカエルの祝日。わたしたちは、聖ミカエルの名の意味するごとく、主のみ前に、「あなたにとって、唯一のまことの神は誰ですか」との問いかけの前に立っています。この問いに、主イエスこそ唯一のまことの神とわたしたちに告白させてくださるのは聖霊のみです。そのために聖霊を求めるわたしたちの切なる祈りを、わたしたちの守護者大天使聖ミカエルは必ずお取り次ぎくださいます

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 9/29

年間26主日 マルコ9:38-43,45,47-48

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音で、主イエスは既にエルサレムに向かう旅の途上におられます。弟子たちを伴ってエルサレムに向かう、これが最期の旅であることを、主はご存知です。また、その旅の果てに、主を待ちうけていることが何であるかも、主は良くご存知です。この大切な旅の途上で、主は弟子たちに、三度くり返して、エルサレムでのご自分の十字架の死と復活を予告されます。すなわち、

「人の子(すなわち、主イエス)は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」

主イエスご自身の中で、明らかに緊張が高まって行かれるのと対照的に、くり返される主のご受難の予告を聞かされながらも、心がそれについて行かない弟子たちがいます。実際、先週の福音で、主のエルサレムでのご受難の予告を、二度目に聞かされた直後に、弟子たちは、彼ら十二人の内で「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」と、言われていました。にわかに信じがたいことです。

それにもかかわらず、旅の途上、主イエスは、忍耐強く弟子たちに教え、彼らと言葉を交わし、さらに、主を訪ねて来る多くの人々に出会って行かれます。今日のマルコによる福音も、そのような主の旅の途上の一こまです。十二弟子の一人ヨハネが、主に報告します。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」

一見、何気ないヨハネの報告の言葉に聞こえます。しかし、これは、主イエスのみ前に、極めて傲慢な言葉ではないでしょうか。ヨハネは、主の僕というよりも、まるで主の恵みの管理者を自認し、人々に対してそのように振舞っているようにさえ聞こえます。このヨハネに、主は、次のように仰せです。

「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

ヨハネは、またわたしたちも、あくまで、主イエスの憐れみによって、主のご保護の許に、主の僕であることを赦されているに過ぎないことを謙遜に自覚すべきです。

ヨハネが、彼の漁の仲間であったペトロ、ヤコブとともに、ガリラヤ湖の湖畔で、主イエスから召し出しを受けた時のことを、彼とともに思い出したいのです。ルカによる福音によれば、この時、主は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を、漁師としての日常の生活から、「湖の奇跡」をもって、主に在って、神に仕えて生きるまったく新しい命へと招いてくださいました。それは、彼らの思いを遥かに越えた光栄であったと思います。(ルカ5:1-11)

しかし、ここで即座に、彼らは実に深刻な問題に直面せざるを得ませんでした。それは彼らの罪です。罪人には、神に見(まみ)えることは赦されません。ペトロは主イエスに招かれた時、ヤコブとヨハネとともに、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と、主に申し上げる他ありませんでした。ペトロは、主を畏れました。もちろん、ヤコブも、そしてヨハネも、同様であったはずです。罪なる彼らは、主のみ前に、ひとえに主を畏れたのです。それ以外になかったのです。

しかし、彼らが、心から自分の罪を認め、懺悔し、主イエスを畏れたからこそ、主は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を、主の最初の弟子とされたのです。主は、ペトロ、そしてヤコブとヨハネに言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」その時、ペトロは、ヤコブとヨハネとともに、この主に、「すべてを捨てて従った」と、ルカによる福音は、伝えていました。

今日の福音で、主イエスから召し出しを受けた時のヨハネは、一体どこに行ってしまったのでしょうか。自らの罪ゆえに主を畏れ、主の赦しの許にのみ、すべてを捨てて主に従ったヨハネでした。その彼がいつの間に、人々に対して、主の恵みの管理者になったとでもいうのでしょうか。ただし、これはヨハネだけの問題でしょうか。カトリックのわたしたちも、隣人に対していかに振舞っているでしょうか。

主イエスとともに、最期にエルサレムに上る旅。ヨハネだけではありません。わたしたちも、主とともに、その旅の途上にあります。主に従うこの旅は、誰にとっても、主のみ前に、主を畏れ、謙遜と従順の内に、主の赦しの許に、すべてを捨てて主に従うことを学ばせていただく旅、ではないでしょうか。

この旅は、主イエスにとっては、十字架を見つめての旅です。「すべてを捨てて主に従う」わたしたちのために、主はご自身を、ご自身のいのちさえ、十字架に捨ててくださる旅です。わたしたちは、このことを決して忘れてはならないと思います。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 9/22

年間25主日 マルコ9:30-37

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

9月14日に、「十字架称賛」の祝日を祝いました。教会には、主イエスの「山上の変容」から40日目に主がエルサレムで十字架にお就きになられたとの伝承があります。後に、「主の十字架」が9月半ばのユダヤ歴新年に会わせて記念されるようになると、40日遡った8月6日に、主の「山上の変容」が記念されるようになりました。

「主の変容」。 主イエスは、エルサレムに上られるに先立ち、弟子たちの内、ペトロ、ヤコブとヨハネを連れて、高い山に登られました。その時、主のお姿が変わり、着ておられた服も真っ白に輝きました。この「変容の主」を目の当たりにして、弟子たちは、さらに、「これはわたしの愛する子。これに聞け」との「天からの声」を聞いたと、マルコによる福音は伝えています(9:2-13)。

主キリストは、ペトロたちに、ご自分が天の父なる神の御子であられることを、ご自身の変容を以てお示しになられました。また、「天からの声」、すなわち、父なる神ご自身も、御子の真実を、はっきりとペトロたちにお語りになられました。

 

教会が、この主イエスの「山上の変容」と主の「十字架」を緊密に結びつけて記念するのは、主の「山上の変容」が、真っ直ぐに主イエスの「十字架」を指し示すものであるとの、教会の信仰ゆえです。

実はこのことは、主イエスご自身が、明らかにされていたことでもありました。主の「山上の変容」の前後に、主ご自身、エルサレムで起こるご自身の十字架とご復活について、三度くり返して、弟子たちに予告されておられました。今日の福音は、主の「山上の変容」の後に、二度目にくり返された、主の十字架と復活の予告のおことばです。主は、弟子たちに仰せになりました。

「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」

わたしたちすべてを創造し、支配される天の父なる神。その御子キリストが、十字架におつきになられる。ここに驚くべき、神の救いの秘義が明らかにされました。

すべての被造物の裁き主であられる天の父なる神。その父なる神の御子キリスト御自ら、わたしたちのために、罪の裁きの十字架にお就きになられる。実に驚くべきことです。しかし、今日の福音は、驚くべきことを、もう一つ語っています。主の「山上の変容」後、二度目にくり返された主ご自身の十字架と復活の予告を聞かされた、まさにその直後に、弟子たちは、彼らの内「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」(9:34)というのです。にわかに信じがたいほどのことです。

確かに、神の御子が十字架につけられて殺される。そして三日の後に復活される。主イエスご自身のこの予告は、弟子たちの知恵や常識、さらには、彼らの主への人間的期待からも、およそかけ離れたものであったに違いありません。主の十字架と復活の予告を聞かされた時、「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」と、福音は正直に伝えています。

弟子たちには、山上で変容された神の御子の栄光に輝く御姿とその御子キリストの凄惨な十字架上の死とが、どうしても結びつかなかったのでしょう。主イエスの「山上の変容」の栄光に接してなお、あるいはむしろそれゆえに、弟子たちの主への期待は、その後に続く主の十字架の予告を受け入れ難くしたのかも知れません。

確かに、主イエスの十字架と復活の予告のおことばは、人の知恵を以って理解できることではないと思います。それはわたしたち自身の罪の懺悔を通してのみ、畏れと感謝を以て頷かせていただき得ることです。主は、弟子たちに仰せになります。

「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい』。」(9:35)

「主の変容」が、主イエスの十字架の40日前との教会の伝承は、モーセに導かれたイスラエルの民が約束の地に入るまでの、荒野の40年を思い起こさせます。事実、「主の変容」の後、主は弟子たちとともにエルサレムに上る旅を始められます。そして40日後に弟子たちは、「主との最後の晩餐」、そしてそれに続く「主の十字架」によって、主によって約束の地である「神の国」に招き入れられます。

ただし、それは、罪なる弟子たちにとっては、ひとえに、主イエスの十字架と復活を通してのみ招き入れられる「神の国」です。その時、そこで、弟子たちは「神の国の食卓」に備えられ、彼らに与えられる「永遠のいのちの糧」が、実は「主ご自身のからだ」であることが、主ご自身によって明らかにされます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 9/15

年間24主日 マルコ8:27-35

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「それでは、あなたはわたしを何者だというのか。」

主イエスは、このようにペトロに問いかけられました。ペトロだけでは無いはずです。わたしたちすべてが、主から同じ問いを問われているのではないでしょうか。主からこの問いが問われないところに、わたしたちの真の命はないからです。

かつて、主の郷里ナザレの人々も主イエスから同じ問いを問われました。しかし彼らにとって、主は自分たちの理解の内にあるべき人であったのでしょう。「この人は大工ではないか。マリアの子、またヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか」と、イエズスさまを主キリストと認めることができませんでした。

ただし、主イエスに対する故郷の人々の無理解は、彼らが幼い時から主を知っているから、やむを得なかったとは言えません。洗礼者ヨハネを思い出してください。彼は主の従兄でした。しかし彼は、主が「神の子」であり、「聖霊によって洗礼を授けることがおできになる方」、つまり「わたしたちに聖霊を注ぐことがおできになる方」であることを認めて、「主の道を備える者」として、つねに主を仰ぎ見、謙遜の限りを尽くして、殉教の死にいたるまで主に仕えました。

主イエスの弟子ペトロも、主から同じ問いかけを受けました。彼は、その当時、彼を取り巻く多くの人々の中に、主のことを、洗礼者ヨハネの生まれ変わりだという者、エリヤだという者、あるいは預言者の一人だという者たちを含めて、主について様々な事をいう人々がいることを知っていました。

しかし、ペトロは主イエスの問いかけに、「洗礼者ヨハネだという者もあれば、あるいはエリヤないし預言者の一人だという者もいます」と、他人ごとのように答えることはできませんでした。ペトロは、主のこの問いかけに、「あなたは生ける神の子・メシア(キリスト)です」と、彼自身の信仰の告白をもって応えました。

むしろこの時、ペトロは、「あなたは神の子・キリストです」と、主イエスに告白する他無かったのだと思います。告白とは殉教という意味でもあり、自分の言葉に自分の命を賭けることです。ペトロは、主に彼のすべてを、彼の命を、託していたからです。

このペトロに、主イエスは、ご自身のいのちをお与えになりました。

今日のマルコによる福音によれば、ペトロのこのキリスト告白に応えて、主イエスは、「人の子(すなわち、主イエス・キリスト)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と、ペトロたちに「はっきりとお話し」になられました。

主イエスは、この時、十字架上でのご自身のご奉献、すなわちわたしたちすべての罪の赦しのために、主ご自身が味わわれるご受難と十字架の死を、さらにわたしたちに聖霊をお与えくださるための主のご復活をはっきりとお約束くださいました。

さらに、マタイによる福音によれば、主イエスは、「あなたは生ける神の子・メシア(キリスト)です」とのペトロの告白に応えて、「ペトロ、あなたは幸いである。あなたにこのことを示したのは人間の知恵ではなく、天におられるわたしの父である」と告げられた上で、「岩」であるペトロの上にご自身の教会をお建てになることに加えて、彼に授ける「天国の鍵」の権能について、次のように約束されました。

「わたしも言っておく。あなたはペトロ、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ18:18,19)

「それでは、あなたはわたしを何者だというのか。」

ヨハネによる福音によれば、この同じ主イエスの問いに耐えられず、それでもなお心をあらためて神に聞こうとせず、自分の知恵を頼りに主から離れて行った多くの人々がいました。その時、彼らの後に残されたペトロたち十二人の弟子たちに、主は、「あなた方もわたしを離れて行きたいか」と、お尋ねになりました。

その時の、ペトロの主イエスへの命がけの告白を、わたしたちも命をかけて、今、このミサで、ご聖体拝領前に告白します。

「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧。あなたをおいてだれのところに行きましょう。」(ヨハネ6:68,69)

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 9/14

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

「十字架称賛」の祝日(9月14日)の黙想 

(ヨハネによる福音3:13-17)

過ぐる8月6日に、「主の変容」を記念しました。主イエスは、最期にエルサレムに上られるに先立ち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて高い山に登られました。その時、主のお姿が変わり、主の服も真っ白に輝きました。さらに、弟子たちは、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」との天からの声を聞いた、と福音は伝えていました。

「主の変容」が、主イエスの過越、すなわち主の十字架と復活の40日前であったとのカトリック教会の古い伝承に従い、紀元5世紀以来、8月6日の「主の変容」の祝日の40日後の9月14日に、教会は、「十字架称賛」の祝日を祝い続けて参りました。

「主の変容」が、主イエスの過越の40日前との教会の伝承は、モーセに導かれたイスラエルの民が、約束の地に入るまでの荒野の40年を思い起こさせます。「主の変容」の直後から、主は、弟子たちを伴って、エルサレムに上る最期の旅を始められます。そしてまさに40日後に、弟子たちは、エルサレムで、主の「過越の食卓」(最後の晩餐)に与り、約束の地、すなわち「神の国」に迎え入れられます。

ただしそれは、「主の変容」の前後三度、主イエスが弟子たちに告げられたように、主の十字架と復活を通してのみ招き入れられる「神の国」。しかも、その「過越の食卓」(最後の晩餐)で、主が弟子たちに与えられる「永遠のいのちの糧」が、「キリストのからだ」であることが、主によって弟子たちにはっきりと示されることになります。

冒頭の主イエスのみことばは、主と二コデモとの長い対話の一部です。ニコデモは、ファリサイ派の一人であったと言われています。しかし彼は、主が父なる神から遣わされた方であることを確信するに至ったのだと思います。その結果、ある夜、彼は主の許を独り訪ねて来たと、ヨハネによる福音は伝えていました。

この二コデモに、主イエスはご自身の真実を、次のようにはっきりとお語りになりました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」これは、聖書のみことばの中でも、最も愛され親しまれて来たみことばの一つではないでしょうか。ただし、神がその御独り子イエス・キリストを、わたしたち罪人にお与えくださる。それがいかなることであるのか。じつは、このみことばの直前に、主イエスは次のように仰せでした。

「天から下って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:13,14)

「信じる者が皆、永遠の命を得るため」には、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない」と、主イエスは仰せです。

モーセに導かれた神の民は、荒野の40年の旅の途上くり返し罪を犯します。ある時、主なる神はモーセに、罪なる民のために罪の贖いのしるしとして青銅の蛇を作り、十字架のように棒の上にそれを架け、高く上げることをお命じになりました。民はその青銅の蛇を仰いで癒された、と旧約の「民数記」(21章)に伝えられています。

その旧約の犧牲のしるしのように、「人の子も上げられなければならない」と、主イエスは仰せです。ただし、この度の主によるご自身の奉献は、もはや罪の贖いの「しるし」ではありません。私たち罪人の「罪の贖いそのもの」として、主はご自身を、十字架の上に高く「上げて」くださるのです。

主イエスの十字架の奉献によってのみ、「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得る」ことを赦されます。さらに十字架を通して高く天に上げられた主は、わたしたちに「聖霊」を注いでくださるために復活してくださいます。それは、聖霊によってわたしたちを「新たに神の国に生まれさせてくださる」(ヨハネ3:3、5-7)ためです。

二コデモにお会いくださった同じ十字架とご復活の主イエスは、わたしたちにも必ずお会いくださいます。二コデモ同様、わたしたちが「一人も滅びないで」、必ず聖霊によって「新たに生まれ、神の国を見る」(ヨハネ3:3)者としてくださるためです。

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

司祭の言葉 9/8

年間第23主日 マルコ7:31-37

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

マルコによる福音は、主イエスが、洗礼者ヨハネの殉教の死を契機に、「神の国(の食卓)」のしるしとしての「パンの出来事」をお始めになり、それを繰り返されたことを伝えます。とくに今日の福音は、主の二度目の「パンの出来事」の直前のことです。

そうであれば、今日の福音の伝える、主イエスによる、耳の聞こえない人、口の利けない人の癒しとは、主が彼らを「神の国」へ、さらに「神の国の食卓」へと招かれることの目に見えるしるしとなる出来事ではなかったでしょうか。しかし、「神の国」すなわち「イエス・キリストが主である神の国」とは、いかなる「国」なのでしょうか。

今日の福音は、「神の国」とは、「聖霊」の働かれる「国」であるという事実を、目に見える形で、わたしたちに語ってくれているように思います。「聖霊」とは、もちろん「主イエス・キリストのであり、直訳すれば「主の(いのちの)のことです。

実際、ヨハネによる福音は、ご復活の主イエスが、弟子たちにご自身を現わしてくださった時、「彼らに息を吹きかけて、『聖霊を受けなさい』と言われた」と、伝えています(ヨハネ20:22)。

今日のマルコによる福音も、主イエスは、「耳が聞こえず、口の利けない」人に、「天を仰いで、深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるようになった」と、伝えていました。

ここで、主イエスは、この人に、「開け」とのことばを以て「息を吹きかけられる」前に、「天を仰がれた」と言われています。このことに注目したいと思います。

主イエスは「天を仰がれ」、この人に向かって「主ご自身の息を吹きかけ」て、「エッファタ」すなわち「開け」と言われた。それは第一には、「この人の耳と口が開く」ようにということであり、事実、この人は主のおことば通り「耳と口」が開かれます。

しかし、主イエスの「開け(エッファタ)」とは、彼の「耳と口」が開かれるのに先んじて、「天が開く」ようにということではなかったでしょうか。

「天が開く」「天」とは「神の国」。そして、それは「聖霊の宝庫」です。その「天が開く」。しかし、それは、誰に、でしょうか。もちろん、それは、今、主イエスのみ前に立つ、かつては「耳が聞こえず、口の利けなかった」この人に、です。彼が「神の国(の食卓)」に招かれるとは、彼に対して「天が開く」ことだったのです。

そして、「聖霊の宝庫」である「天が開かれる」時、そこから「聖霊」が注がれます。主イエスが、洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼をお受けになられた時、「天が開けて、聖霊が鳩のように、御自分に降って来た」と、マルコは伝えています(1:10)。

今日の「耳が聞こえず、口の利けない」人の物語は、たんに主イエスの癒しの物語ではありません。「神の国(の食卓)」のしるしとなる出来事のただ中に語られた今日の福音の出来事は、主によって、この人に「天・神の国」が開かれ、この人は聖霊を受けたという事実を語っています。これこそ、「神のみのおできになる業」です。

加えて、大切なことがあります。ヨハネによる福音で、ご復活の主イエス・キリストが、弟子たちにご自身の「息」を吹きかけ、「聖霊を受けよ」と言われた時、「聖霊」を受けた弟子たちは、主から「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが許せば、その罪は許される」と言われていました(20:23)。ヨハネは、「罪の赦し」に深く関わって、主による「聖霊の注ぎ」を語っていたのです。

主イエスから、「聖霊」を受ける。それは、主によって罪を赦していただくことです。それが、わたしたちに「天」、すなわち「神の国」が「開かれる」ということです。

さらに、「聖霊」を受ける時、わたしたちは、「キリストの罪の赦しの使者」とさえされます。主イエスによって罪赦されたわたしたちは、罪に苦しむ多くの人々のために、主が「天を開いてくださる」、その事の証人とさえさせていただけるのです。

そのためにこそ、主イエスはわたしたちの耳と口とを開いてくださいます。開かれた耳で、神のみことばを聞き、開かれた口で、神を賛美させていただくために。「天すなわち神の国が開かれ、聖霊を受ける」その時、わたしたちは罪赦され、耳と口とを開かれて神を礼拝し、さらに主の罪の赦しを伝える使者とされるのです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 9/1

年間22主日 マルコ7:1-8,14-15,21-23 

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

七月、八月と、マルコおよびヨハネによる福音から、主イエスの「五つのパン」の出来事と、さらにその出来事を巡っての主と人々との対話からお聞きしてきました。

ところで、去る8月29日は、洗礼者ヨハネの殉教の記念日でしたが、マルコによる福音によれば、ヨハネの殉教の死は、実は主イエスの「パン」の出来事の直前に起こったこととして、語られています。これには、意味があるはずです。

主イエスは、洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼をお受けになられて後、ヨハネの殉教に至るまで、「悔い改めよ。神の国は近づいた」とのみことばを以て、福音の宣教を続けて来られました。しかし、ヨハネの殉教の死を転機として、主は、以後くり返される「パン」の出来事を通して、極めて大胆にも、人々を「神の国」に、むしろ「神の国の食卓」に招き入れることをお始めになられるのです。

実は、殉教の死に至るまで生涯を主イエスに捧げた洗礼者ヨハネに対する主の深い思い、むしろ彼への主の感謝こそが、この事実を説明するのでは無いでしょうか。

同時に、「パン」の出来事の後、主イエスは弟子たちに、ご自分の十字架の死と復活について語り始められるとともに、ガリラヤの北辺にまでおよんだ宣教の旅から踵を返して、エルサレムへと向かう最後の旅におつきになられました。マルコによる福音の伝えるこれらの事実を、わたしたちは見逃してはならないと思います。

今日の福音は、当時の宗教的指導者であったファリサイ派の人々および律法学者と主イエスとの、一見「ユダヤの慣習」を巡っての問答が物語られているようです。しかし、「パン」の出来事およびそれを巡っての主と人々との対話を通して、主イエスが神なる主、すなわち「神の国の主」キリストであることが明らかにされた今、『福音書』の関心は、勢い、人々の主に対する信仰に集約されます。

ファリサイ派の人々や律法学者たちが、先祖からの「ユダヤの慣習」に固執するのは、それが「神の国」に入るための条件であると信じたからです。ただし、ここに彼らの深刻な問題があからさまになります。「神の国」を願い求める、その彼らに、「神の国の主」である主イエス・キリストへの信仰が、真剣な問題になっていません。

「神の国」に入らせていただく。それは、いかに彼らが真面目に良い業を行うとしても、彼らを含めた罪人である人間が神に要求し得ることではありません。それは、「神の国の主」イエス・キリストによってのみ、赦され、可能とされるべきことです。そうであれば、それは、へりくだって「神の国の主キリスト」に信頼し、主に依り頼む他ないことです。その「神の国の主キリスト」は、今、彼らの前に立っておられるのです。

マルコによる福音によれば、律法学者やファリサイ派の人々は明らかに、主イエスの「パン」の出来事およびその後の人々との対話を見聞きしていたはずです。それにもかかわらず、彼らは主に向かって、まるで説教でもしているかのような極めて不遜な態度です。「釈迦に説法」という諺がありますが、彼らは、「神の国の主」イエス・キリストの前での彼らの振舞いの異常さに、気付いていないのでしょうか。

そのような彼らを、主イエスは、「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている」と、厳しく指摘しておられます。しかしこれは他人ごとではありません。「神の国」を願い求めるわたしたちも、主の前に、ファリサイ派や律法学者のように、自分たちを神より先にし、神に説教するようなことをしてはいないでしょうか。

ファリサイ派の人々や律法学者たちは、民の宗教的指導者として神のことばを託された人々であったはずです。その彼らの本来なすべきことは、マタイによる福音の中で主イエスが彼らに対して厳しく仰せになられたような、「背負いきれない重荷をまとめ人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」ということではあり得ないはずです。その逆であるはずです。

神のみことばを託される。それは、神の民の救いのために、神のご意志をその身に負い、神のみこころを自らの心とすることであるはずです。今や、律法学者やファリサイ派ではなく、神は御子イエス・キリストを世に遣わされ、御子に神のみことばを託されました。むしろ御子は、神の救いのみことばそのものとなられたのです。

神が、御子キリストによって神のみことばそのものとなられた。それは、御子にとっては、わたしたちの「背負いきれない重荷すなわち罪をまとめて」「ご自身の肩に背負って」わたしたちを救ってくださることでした。実にそれは、神のみことばご自身である主イエスにとって、わたしたちの十字架を、わたしたちのために、わたしたちに代って、ご自身の死に至るまで負い抜いてくださることでした。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。