司祭の言葉 2/9

年間第5主日 ルカ5:1-11

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

主イエスは、このおことばをもって、ペトロをご自身の弟子とされました。

主イエスの福音宣教。わたしたちにとって、それはいかなる出来事なのでしょうか。主から、神の国についてお聞かせいただいたというような他人ごとではないはずです。主の福音宣教とは、主によってわたしたち一人ひとりが召し出しを受け、主とともに生き、さらに主に仕えて生きる者、すなわち主ご自身の弟子とされたという、わたしたち一人ひとりの現在の身の事実となっている出来事ではないでしょうか。

マルコによる福音は、主イエスの福音宣教とは、具体的に「十二使徒」たちの召し出しであり、それは「彼らを自分のそばに置くため」(3:14)であったと伝えています。

実はその後、主イエスは、ペトロたち十二弟子に加え、さらに72人を召し出され、彼らすべてを、「聖霊」によって養い、主ご自身を中心とした交わり、すなわち主のからだなる「主の教会」へと育てて行かれます。その主の教会が、やがて主の福音宣教を担うものとして用いられて行きます。マルコは、続けます。「また、(主は、彼らを)派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(3:14)

ところで、主イエスの福音宣教の始めに、主の最初の弟子とされたシモン・ペトロの召し出しを伝えていた今日のルカによる福音は、冒頭の、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」との主のおことばに応えて、ペトロは、彼の漁の仲間であったヤコブとヨハネとともに、「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」と、伝えていました。

ただし、主イエスがペトロにお会いになられたのは、この時が初めてではありませんでした。今日の福音の直前に、同じルカによる福音は、ペトロの召し出しに先立ち、すでに主はペトロの家を訪ねておられたことを伝えていたのです。それは、ペトロの姑(しゅうとめ)が高熱で生死の境をさまよっていた時のことでした。「会堂を立ち去り、シモンの家にお入りにな」られた主が、ペトロの姑の「枕元に立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。」

その時のペトロ自身の様子を、福音は特に伝えていません。しかし、この時ペトロは主イエスの傍らで、主がペトロの姑になさったことの一切を、主に対する驚きと畏れと身震いするような感動をもって見守っていたに違いありません。

同時に、福音が、主イエスによるペトロの姑の癒しに続けて語っていたように、ペトロは、主こそ常に「悪霊」に怯えて暮らしているような彼らの生活から「悪霊を追い出す」権威をお持ちになる唯一の方、すなわち主こそ父なる神が「聖霊」において働かれる方であられることをはっきりと認めたに違いありません。

加えて、その時の彼の姑の姿も、ペトロの目に焼き付いて離れなかったと思います。彼女は、主イエスによって癒された後、「すぐに起きあがって一同をもてなした。」主のご訪問を受けた者が、病と死から解き放たれるや、「主に仕えて」生き始めた。彼自身の家で、主に出会ったペトロはこの時、主の招きに応えて生きる、彼自身の新しいいのちの予感に胸が熱くなったのではないでしょうか。

今日の福音は、すでにペトロの家に彼の姑を訪れた主イエスが、ふたたび、しかし今度は、明らかにペトロ自身を訪ねてくださった時のことを伝えていました。ゲネサレト湖畔に集まった群衆に説教されるに際し、主は、ペトロに親しみを込めて、「シモンの持ち船に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みにな」られ、「話し終わった時、シモンに『沖に漕ぎ出し漁をしなさい』と言われた。」

彼の姑の癒しの後、主イエスに仕えて生きることこそ彼の心からの願いであることが、すでにペトロには明確であったはずです。そして今、主はその彼を、「湖の奇跡」をもって、主の弟子として生きる新しい命へと召し出されたのです。しかし、ここに深刻な問題が自覚されます。それは彼の罪です。ペトロは、主に召し出された時、「イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』」と、哀願せざるを得ませんでした。心から主に仕えて生きたいと願うペトロ。しかしそれに全くふさわしくない自分ゆえに、彼は主を心から畏れたのです。しかしだからこそ、主は、彼を弟子とされたのだと思います。

主イエスは、ペトロに言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」ペトロは、この主に「すべてを捨てて従った」。ペトロの召し出し。これこそ、ペトロにとっての主の福音宣教です。そして、それはわたしたち一人ひとりにとってもまったく同様ではないでしょうか。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 2/2

「わたしはこの目で、あなたの救いを見た」
「主の奉献」の祭日の黙想 
ルカ2:22-40

「わたしはこの目で、あなたの救いを見た。」
エルサレムの神殿で、聖母マリアさまからゆるされて「幼子キリストを腕に抱き、神をたたえて言った」、老シメオンの言葉です。

ご降誕から40日後、幼子キリストは、マリアさまとヨセフさまによってエルサレムの神殿で、父なる神に捧げられました。彼らはそこで、老シメオンに会いました。シメオンは、「正しい人で信仰があつく、イスラエルが救われるのを待ち望んで」いました。また、「聖霊が彼の上にあり、主が遣わすメシア(キリスト)に会うまではけっして死なないとの聖霊のお告げを受けていた」と、ルカによる福音は伝えています。


目に見えない神の約束と聖霊の導きに一切を委ねて、従順に、かつ忍耐強く、生涯、救い主キリストを待ち望んできた老シメオン。 彼の目が閉じられる前に、約束通り、神は彼の目に神ご自身を見させてくださいました。それが、幼子キリストです。

「主よ、今こそ、あなたはおことばどおり、このしもべを安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目で、あなたの救いを見たからです。」

   
福音記者聖ヨハネが、後に彼の手紙に書き留めたように(1ヨハネ1:1,2)、シメオンにとって幼子キリストは、まさに「耳で聞き、目で見、よく見て、手で触れる」 ことさえゆるされた「いのちのことば」。彼にとって主イエスこそ、神ご自身から与えられた疑いようのない救いの事実。シメオンの神への賛美は続きます。

「この救いこそ、あなたが万民の前に備えられたもの、異邦人を照らすための光、あなたの民イスラエルの栄光です。」

神の救い、主イエス・キリスト。御子キリストこそ、父なる神が万民のために、すなわちわたしたち一人ひとりのために「備えてくださった救い」です。驚くべき事に、わたしたちがわたしたち自身を父なる神にお捧げさせていただく前に、父なる神が、御子キリストにおいて、ご自身をわたしたちにお与えくださいました。それが、ご降誕の幼子イエス・キリストです。


この同じ幼子キリストが、ご降誕から40日後のこの日、エルサレムの神殿で、この度は、マリアさまとヨセフさまの手で、「主の律法に従って」父なる神に奉献された、と福音は伝えていました。しかし、それはなぜでしょうか。

「主の律法」。主なる神は、ご自身の民イスラエルを奴隷の家エジプトから導き出される、その前夜に、「初めて生まれる男子はみな、主のために聖別される(捧げられる)」と、「初子の奉献」をお命じになりました。それによって、神が引き続いて成就される神と神の民の過越(すぎこし)、すなわち「主が力強い御手をもって神の民をエジプトの地から導き出された」ことが、神の民によって永遠に記念されるためです。

それにしてもなぜ、「神と神の民の過越」が「初子の奉献」(出エジプト13:1,2)によって永遠に記念されることを、神はわたしたちにお求めになられるのでしょうか。

それは、神と神の民の過越の奇跡の背後には、ご自身のいのちそのものであられる、初子にして御独り子なる主イエスをわたしたちにお捧げくださるという、わたしたちのための父なる神ご自身の誠に尊い犠牲奉献がある事を、わたしたちに忘れさせないためではないでしょうか。後の、神の御子キリストご自身の十字架上の犠牲奉献が、すでにここに明確に指し示されているように思われてなりません。

そうであれば、父なる神の「初子キリストの奉献」の記念を通して、主なる神がミサにおいてわたしたちに成就してくださることも明らかです。それは、主イエスにおけるわたしたち一人ひとりの出エジプト、すなわち「主とわたしたちの過越」です。

わたしたちは、神から受けた主イエスを、神にお捧げします。ご降誕日に父なる神からいただいた父なる神の「初子にして独り子なるキリスト」を、わたしたちの感謝(ユーカリスト)として、父なる神にお捧げさせていただきます。それがごミサです。

「主イエスのご奉献」の恵み。それは、父なる神により、わたしたち一人ひとりが、御子キリストの奉献、すなわち、ご受難と死を通してご復活の栄光に過ぎ越して行かれた主イエスご自身の過越に固く結びあわされることです。この恵みの奇跡を、わたしたちはごミサの度に、マリアさまとヨセフさまとともに記念し、祝います。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 1/26

年間第3主日 ルカ1:1-4、4:14-21

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」

これが、主イエスの福音宣教のおことばです。これこそ、主の宣教のアルファでありオメガ、主の福音宣教の一切であると言うべきでしょう。

これは、かつて預言者イザヤを通して父なる神が語られたみことばを御子キリストご自身が朗読された後、ナザレの会堂にいたすべての人の目が主に注がれる中で、主イエスが宣言された福音宣教のおことばでした。

先に、ルカによる福音は、主イエスが、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられた時、聖霊のご聖櫃である「天が開け、聖霊が鳩のようにイエスの上に降って来た」と伝えていました。御子キリストは、この時、「天の父なる神」から「神ご自身のいのちである聖霊」を託され、そのみ力に満たされた、と言うことです。

事実、福音は、その後四十日の荒野での試練を経て、主イエスがガリラヤに帰られた時、「イエスは『霊』の力に満ちてガリラヤに帰られた」と伝えています。その後、聖霊に満たされた主は何をなさったのか。今日の福音の伝える通り、主は、「聖霊」に満たされて、「福音宣教」をお始めになられました。 すなわち、

「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にした時、実現した。」

主イエスの福音宣教とは、旧約の預言者のように、神のみことばをわたしたちに語り伝えるだけではありません。主の福音宣教は、「主イエス・キリストにおける父なる神のいのちである聖霊のみ業」であり、したがって「父・子・聖霊の三位一体の神のみ業」です。それは、御子キリストを通して、父なる神が聖霊において働かれ、一切を新たにする「神の新しい創造のみ業」です。

しかし、それは、誰に対して、そしていかにして、果たされるのでしょうか。それは、父なる神が神の民の歴史を通して預言者によってお語りになってこられたおことばの一切を、御子キリストにおいて、わたしたち一人ひとりに実現してくださることによって、です。

ところで、その日ナザレの会堂で、御子キリスト自らお読みになられた、かつて預言者イザヤを通して語られた父なる神のみことばは、次の通りでした。

「主の霊がわたしの上におられる。 

貧しい人に福音を告げ知らせるために、

主がわたしに油を注がれたからである。 

主がわたしを遣わされたのは、

捕らわれている人に解放を、

目の見えない人に視力の回復を告げ、

圧迫されている人を自由にし、

主の恵みの年を告げるためである。」

事実、この後、福音は、「天の父なる神に油を注がれた」御子キリストが、「神なる主の霊」・「聖霊」に満たされて、「貧しい人に福音を告げ知らせ、捕らわれている人を解放し、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げ」て行かれたことを、語り伝え続けて行きます。

ただし、ここで、「貧しい人、捕らわれの人、盲目の人、圧迫されている人」とは、一体だれのことなのでしょうか。実は、彼らこそ、わたしたち一人ひとりのことではないでしょうか。

主イエスの福音宣教。それは、天地の創造主・全能の父なる神が、御子キリストにおいて、聖霊により被造物の一切を新たにされる大いなる創造のみ業です。ただしそれは、主に出会うことをゆるされたわたしたち一人ひとりを、「キリストの似姿」に新たに造り変えてくださることによって成就されて行く神のみ業です。

それは、「貧しく、捕らわれており、目が見えず、圧迫されている」わたしたちに対して、空しく将来の夢や希望を語ることではありません。そうではなく、主イエスは、主に出会うわたしたち一人ひとりの「今」を、変えてくださるのです。否、「今」を変えてくださるばかりではなく、全く新しい「今」を、わたしたち一人ひとりに造り出してくださる。それが主の福音の宣教です。

「福音」には、今、わたしたち一人ひとりを新たにする神の創造のみ力があります。わたしたちの創造主なる神なる主イエスご自身が、「福音」その方だからです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 1/19

主の洗礼 (ルカ3:15-16,21-22)

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

カトリック教会は、「主の公現」の祭日に続く主日を、「主の洗礼」の祝日として祝います。主イエス・キリストは、ご自身そのものである「福音」の宣教に先立ち、ヨルダン川で人々に洗礼を授けていた洗礼者ヨハネから、人々とともに洗礼をお受けになられました。しかし、「聖そのもの」であられる主が、なぜなのでしょうか。

実際、マタイによる福音は、主イエスが洗礼者ヨハネのもとに来て、人々とともに洗礼を受けることを望まれた時、「ヨハネは、それを思いとどまらせようとして、『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』」と、主に申し上げたと伝えています。このヨハネに、「イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』」(マタイ3:13-15)

主イエスは、人々とともに洗礼を受けられるのは、「正しいこと」であると仰っておられます。それが父なる神のみ旨であり、御子が人々とともに洗礼をお受けになることによって、神がわたしたちをお救いくださるということです。事実、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」、父なる神は、次の「三つのこと」をなさったと、ルカによる福音は伝えています。まず、「天が開け」、次に、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」続いて、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」

第一に、主イエスが、人々とともに洗礼を受けられたことによって、人々に「天が開かれた」。これは驚くべきことです。罪なる者に、「天」は閉ざされていたからです。詩編は、「死」を恐れる人々の呻きを伝えます。ただし人々が恐れたのは、「死」そのものではなく、罪人のままの「死」によって、彼らに「永遠に天が閉ざされて」しまい、したがって、彼らが神にお会いさせていただく機会を永遠に失うことです。

詩編第6編にこうあります。「主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく、わたしを救ってください。死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入れば、だれもあなたに感謝をささげません。」(詩6:5,6)

しかし今や、神ご自身が、主イエスにおいて人々とともに洗礼を受けてくださったことにより、罪なるわたしたちに「天が開かれた」のです。ただ一度、かつ永遠に。

父なる神の在す天は「聖霊のご聖櫃」です。「天」が開かれたのは、「聖霊が降る」ことでもあります。事実その時、天から「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」「父なる神のいのち」である「聖霊」が、今や目に見える姿で「御子キリストの上に降った」。このように、天の父なる神は、イザヤの預言どおり、神ご自身のいのちである「聖霊を主の上に置かれた(主に聖霊を託した)のです。(イザヤ42:1)

さらに、福音の伝える、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」との神のみことばは、これも預言者イザヤを通して語られていた次の神のみことばと同じです。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが喜び、喜び迎える者を。」そして、イザヤの預言は、あらかじめ御子キリストの洗礼の時を指し示していたかのように、次のように結ばれていました。彼の上にわたしの霊は置かれる(御子キリストに父なる神の霊・聖霊を託した)。」(イザヤ42:1)

「父なる神がご自身の霊を御子キリストの上に置かれる」目に見えない「天の父なる神」の霊・「聖霊」が、わたしたちとともに洗礼をお受けくださった「御子」に降った。聖霊が、主イエスから、また主を通して、わたしたちに与えられるためです。洗礼者ヨハネはそれを証ししていました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、その方(キリスト)は、聖霊と火で洗礼をお授けになる。このように、主はご自身の洗礼を以て、わたしたちに洗礼の秘跡を制定してくださいました。

主イエスの「福音」宣教は、預言者のように神のことばをわたしたちに伝えるだけではありません。主の「福音」宣教は、その始めから、わたしたちに対する「御子キリストにおける父なる神のいのちである聖霊の業」、すなわち、天地の創造主・全能の父なる神が、御子キリストに「聖霊を置」かれることによって、わたしたちのために始められた「父・子・聖霊の神のみ業」、すなわち「三位一体の神のみ業」です。実にそれは、福音そのものであられる御子を通して、父なる神の力が聖霊において働き、わたしたちに新しいいのちをお与えくださる「神の新しい創造のみ業」です。

ヨハネからの洗礼の後、主イエスは「福音」の宣教に立たれました。見えない「父なる神」が、「御子キリスト」において見える姿で働かれる。御子によって、目に見えない「神のいのち・聖霊」が、「父なる神」のみことばの実りを目に見える形でわたしたちに結んで行きます。それが、わたしたちへの主イエスの「福音」宣教です。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 1/12

主の洗礼 (ルカ3:15-16,21-22)

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

カトリック教会は、「主の公現」の祭日に続く主日を、「主の洗礼」の祝日として祝います。主イエス・キリストは、ご自身そのものである「福音」の宣教に先立ち、ヨルダン川で人々に洗礼を授けていた洗礼者ヨハネから、人々とともに洗礼をお受けになられました。しかし、「聖そのもの」であられる主が、なぜなのでしょうか。

実際、マタイによる福音は、主イエスが洗礼者ヨハネのもとに来て、人々とともに洗礼を受けることを望まれた時、「ヨハネは、それを思いとどまらせようとして、『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』」と、主に申し上げたと伝えています。このヨハネに、「イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』」(マタイ3:13-15)

主イエスは、人々とともに洗礼を受けられるのは、「正しいこと」であると仰っておられます。それが父なる神のみ旨であり、御子が人々とともに洗礼をお受けになることによって、神がわたしたちをお救いくださるということです。事実、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」、父なる神は、次の「三つのこと」をなさったと、ルカによる福音は伝えています。まず、「天が開け」、次に、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」続いて、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」

第一に、主イエスが、人々とともに洗礼を受けられたことによって、人々に「天が開かれた」。これは驚くべきことです。罪なる者に、「天」は閉ざされていたからです。詩編は、「死」を恐れる人々の呻きを伝えます。ただし人々が恐れたのは、「死」そのものではなく、罪人のままの「死」によって、彼らに「永遠に天が閉ざされて」しまい、したがって、彼らが神にお会いさせていただく機会を永遠に失うことです。

詩編第6編にこうあります。「主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく、わたしを救ってください。死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入れば、だれもあなたに感謝をささげません。」(詩6:5,6)

しかし今や、神ご自身が、主イエスにおいて人々とともに洗礼を受けてくださったことにより、罪なるわたしたちに「天が開かれた」のです。ただ一度、かつ永遠に。

父なる神の在す天は「聖霊のご聖櫃」です。「天」が開かれたのは、「聖霊が降る」ことでもあります。事実その時、天から「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」「父なる神のいのち」である「聖霊」が、今や目に見える姿で「御子キリストの上に降った」。このように、天の父なる神は、イザヤの預言どおり、神ご自身のいのちである「聖霊を主の上に置かれた(主に聖霊を託した)のです。(イザヤ42:1)

さらに、福音の伝える、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」との神のみことばは、これも預言者イザヤを通して語られていた次の神のみことばと同じです。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが喜び、喜び迎える者を。」そして、イザヤの預言は、あらかじめ御子キリストの洗礼の時を指し示していたかのように、次のように結ばれていました。彼の上にわたしの霊は置かれる(御子キリストに父なる神の霊・聖霊を託した)。」(イザヤ42:1)

「父なる神がご自身の霊を御子キリストの上に置かれる」目に見えない「天の父なる神」の霊・「聖霊」が、わたしたちとともに洗礼をお受けくださった「御子」に降った。聖霊が、主イエスから、また主を通して、わたしたちに与えられるためです。洗礼者ヨハネはそれを証ししていました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、その方(キリスト)は、聖霊と火で洗礼をお授けになる。このように、主はご自身の洗礼を以て、わたしたちに洗礼の秘跡を制定してくださいました。

主イエスの「福音」宣教は、預言者のように神のことばをわたしたちに伝えるだけではありません。主の「福音」宣教は、その始めから、わたしたちに対する「御子キリストにおける父なる神のいのちである聖霊の業」、すなわち、天地の創造主・全能の父なる神が、御子キリストに「聖霊を置」かれることによって、わたしたちのために始められた「父・子・聖霊の神のみ業」、すなわち「三位一体の神のみ業」です。実にそれは、福音そのものであられる御子を通して、父なる神の力が聖霊において働き、わたしたちに新しいいのちをお与えくださる「神の新しい創造のみ業」です。

ヨハネからの洗礼の後、主イエスは「福音」の宣教に立たれました。見えない「父なる神」が、「御子キリスト」において見える姿で働かれる。御子によって、目に見えない「神のいのち・聖霊」が、「父なる神」のみことばの実りを目に見える形でわたしたちに結んで行きます。それが、わたしたちへの主イエスの「福音」宣教です。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 1/5

主の公現 マタイ2:1-12

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

東方から来た占星術の学者たちは、マリアさまとともにおられた幼子イエス・キリストを礼拝した後、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と福音は伝えます。

教会は古くから、クリスマス夜半の礼拝から主の公現の祭日までを、クリスマス(降誕節)の12日間としてお祝いして来ました。クリスマス夜半の礼拝以前のアドベントの期間は、復活祭前の四旬節の期間のように、静かで落ち着いた時が流れていました。その後、クリスマス夜半の礼拝で幼子イエスをお迎えして始められた喜びに満ちたクリスマスの祝いの期間は、主の公現日(本来は1月6日)まで続けられます。

降誕節の12日間の祝いの締めくくりである主の公現日、わたしたちは救いの喜びがユダヤを超えて、東方からの占星術の学者たちに象徴されるユダヤの民以外の諸国の民・全世界の民のものとされたことを、感謝の内に記念します。

ところで、「東方の占星術の学者」と言う言葉を聞く度に、わたしは昔の自分を思い起こさざるを得ません。わたしは、仏門に生を受けた者ですが、仏教、とくにわたしの学んだ真言密教には、古来占星術が伝えられています。聖書に登場する「東方の占星術の学者」の「占星術」の実際は分かりません。しかしそれが「占星術」と言われる以上、普通の人間には隠されているとされる神の秘密ないし奥義を、人間の知恵を極めて探ろうとする試みの一つであったに違いありません。

そのように、聖書の東方の占星術の学者たちも、おそらく先祖代々、人間の知恵の教えを頼りに生き続けて来たのでしょう。主イエスと出会わせていただく時までは、彼らにはそれしか真理に至る方法には思い至らなかった、と思います。

しかし、彼らが母マリアさまのみ腕に抱かれた幼子イエス・キリストを、彼ら自身の目で見、おそらくは、その主イエスを、マリアさまのみ手から彼ら自身の腕に抱き上げさせていただいた時、彼らは、占星術のような人間の観念的な知恵に頼ることの無力さ、その空しさ、無意味さに深く気付かされたのではないでしょうか。同時に、「神の秘義そのものであられるこの幼子イエス・キリスト、まことの神ご自身」の前に、彼らの知恵も含めて、彼らが頼りにしてきた一切のものが無価値であることを、骨身に沁みて思い知らされたに違いないと思います。

彼らの占星術も、所詮「人間が神(のよう)になろうとする試み」に他なりません。その空しさ、それに対する彼らの無力さは、かつてわたし自身が身に沁みて感じたように、彼ら自身が体験上いちばん良く知っていたはずです。その彼らが主の公現日に、幼子イエスに見たのは、実に「神が人となられた」との真実でした。

占星術の学者たちは、神に近づくための特別な力と秘密の知恵を得るために、その代償として彼らに多大な犠牲を強いる存在を彼らの「神」と信じて礼拝してきたと思います。しかし、この幼子イエスにおいて「人となられた神」は、彼らに何らの犠牲も求めはしません。まったくその逆です。神ご自身が主イエス・キリストにおいて、犠牲としてご自身を彼らに与えておられるのです。十字架に至るまで。

彼らはこの時初めて「真実の神」を知り、したがって、真実の神に「真実の礼拝」を捧げたはずです。驚くべきことに、神ご自身の犠牲奉献が、まず先にあったのです。神がご自身をわたしたちにお与えくださって、すでに礼拝の中心になってくださっておられるのです。それが幼子イエス・キリストです。それをはっきりと知らされた時、東方の占星術の学者たちは、彼らの持てるものすべてを捧げて、否、彼ら自身を神に捧げて、主なる神キリストを礼拝したはずです。幼子イエスにおいて、彼らにご自身をお与えになっておられる、まことにして唯一の神を。

今日のマタイによる福音は、彼らは、幼子イエスにお会いした後、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と、伝えます。彼らは、最早、「占星術の学者」と呼ばれ続けるわけには行きません。また、そのように生き続けるわけにも行きません。主イエス・キリストにお会いした彼らは、かつての彼らと同じではあり得ません。彼らは、すでに「キリストのもの(キリスト者)」とされたからです。

主イエス・キリストにお会いした後には、最早、誰も「もと来た道」を再び辿って帰るわけには行かないのです。否、そのような道を再び辿らなくても良くなったのです。「神が人となられた」主イエスの前に、「人が神になろうとする」ような、永遠に報われようの無い、虚ろな苦行のような偽善的な人生から、彼らはここに初めてまったく自由にされました。かつてのわたし自身が、そうであったように。

主イエスのご降誕を祝ったわたしたちも主によって「神が人となられた」新しい世界にすでに招き入れられています。東方の学者と共にわたしたちも神ご自身を祝福として受け、神を恵みとして生きる「別の道・新しい道」を歩き始めてよいのです

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 2025/1/1

「抱(いだ)いたキリストによって抱(いだ)かれる」
―新しい年をマリアさまとともにー

神の母聖マリアさまの祭日(202511日)の黙想(ルカ21621


クリスマスの夜、天使のお告げを受けた羊飼いたちは急いで行って、マリアさまとヨセフさま、そして飼い葉桶に寝かされた乳飲み子キリストを探し当てました。彼らは、その光景を彼ら自身の目で確かめ、主イエスを礼拝した後、幼子について、彼らが天使から告げられたことを人々に知らせました。しかし、聞いた者は皆、羊飼いたちの話に戸惑い、不思議に思いました。そのような中で、

「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」


と、ルカによる福音は伝えます。福音は、この時と同じマリアさまのご様子を、後に主イエスが12歳になられた時の過越祭に、マリアさまが主とともにエルサレムの神殿に詣でた際のエピソードの結びにも伝えています。

羊飼いたちが天のみ使いに告げられた事のみならず、主イエスの出来事は、人の目には不思議に見えます。確かに、神のなさることは、旧約の預言者イザヤの語るように、「人の思いや考えを超えて」います。イザヤは告げます、「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道は、あなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55:8,9)

預言者を通して、このようにあらかじめ語られていた神のみことばにもかかわらず、後に、人々は主イエスについて正しく理解できないままに自分たちの判断で主を裁き、結果として主を十字架につけてしまいます。

マリアさまは違います。主イエスのおことばとそのみ業を、それらの不思議のままに一切を「すべて心に納めて、思い巡らしていた」と、福音は伝えます。

母として主イエスを身ごもり、産み、養い育て、つねに主のお側に生活しながらも、主は不思議であり、マリアさまの思いや考えをさえ超えておられたことでしょう。しかし、マリアさまは主イエスについて、ご自分の思いや考えで判断するようなことは決してなさいませんでした。すべてをそのお心に大切に納めて、神ご自身がマリアさまにその一切を明かされる時まで、静かに待っておられました。「思い巡らしておられた」とは、そういうことだと思います。

なぜなら、マリアさまは主イエスを素直に、素朴に信じておられたからです。子をそのように信じる。これは、母の子に対する愛であり、あるいは母にしかできないことかもしれません。母を天に送ったわたしは、このことを強く思います。

実は、1月1日は母の誕生日です。母は生きていれば、今日92歳になります。わたしは、母の臨終の病床で、母にカトリックの洗礼を授けましたが、1月1日神の母聖マリアさまの大祭日に生まれた母に、母の霊名は迷わずマリアといたしました。

母の願いや期待どおりに生きてきたとは、到底言えないわたしでした。それでも、母はいつもわたしを信じ、支え励まし続けてくれました。主イエスと聖母マリアさまを、わたしとわたし自身の母に当てはめて考えることは、もちろん出来ません。しかし、マリアさまが主イエスの母であるがゆえにおできになられたこと。それは、いかなるときにも素直に、素朴に御子キリストを疑うことなく愛し、信じ抜かれた、と言うことではなかったでしょうか。ご自身をそのまま主に委ねて行かれるとともに、まったく私心なく、一筋に御子キリストを信じ、支え抜かれた。それが、神の母聖マリアさまであられたと、今のわたしには思われてなりません。

新年の初めに、このように聖母マリアさまをなつかしく想い起こさせていただくのは、まことに相応しいことです。神が年の初めにわたしたちにお求めになられておられることは、聖母マリアさまのような主イエスへの聖い愛と信仰と信頼ではないでしょうか。

教会は、マリアさまのことを、感謝を込めて「神の母」と呼ばせていただいて来ました。神の母であられるマリアさまを、ご聖体の神なる主イエスをお納めする「ご聖櫃(せいひつ)」ともお呼びして来ました。聖母マリアさまは、ちょうど「ご聖櫃」のように、ご聖体の主イエスをご自身の内に、いつも大切に抱(いだ)き、納めておられます。

「抱(いだ)いたキリストによって抱(いだ)かれる」という美しい信仰の言葉があります。聖母マリアさまは、御子キリストをご自身の内にいつも大切に抱(いだ)き納めつつ、実は、主の愛の内に、むしろマリアさまこそ大切に抱(いだ)かれておられることを、マリアさまは至福の内にご存知であられたに違いありません。

わたしたちは、神の母聖マリアさまとともに新しい年を迎えます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 12/29

聖家族 ルカ2:41-52

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」

教会は、降誕日直後の主日を「聖家族」の祭日として祝います。クリスマスは、決して主イエス個人の出来事ではありません。神が、あらかじめマリアさまとヨセフさまを聖霊の恵みによって整え、主イエスをお迎えする家庭を備えた上で、主を聖母さまから誕生させておられます。その後、主はナザレの「聖家族」の内に成長し、マリアさまとヨセフさまと喜びと労苦をともにして行かれます。

今日の福音は、12歳の主イエスがマリアさまとヨセフさまとともに過越祭にエルサレムに上った時のことを伝えていました。冒頭の引用は、そのルカによる福音の結びです。「母はこれらのことを」以下の文章は、とくにマリアさまが、主の成長を温かく見守っておられるご様子を語り尽くして余りあると思います。

福音は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後の主イエスの宣教のご生涯に比べて、それ以前のナザレでの主のマリアさまとヨセフさまとの生活について多くを語りません。その意味で、先に引用した、主が「ナザレで両親に仕えてお暮しになった」との福音のことばは貴重です。むしろ、この短い文章が、ナザレの「聖家族」での約30年の主イエスの生活のすべてを語っているというべきかもしれません。

これは一見何気ない文章のようです。しかし、これは驚くべきことではないでしょうか。主イエスは「聖霊」による神の独り子だからです。神の神殿があったエルサレムから遠く離れたガリラヤ地方の、しかも小さなナザレの村で、貧しい大工のヨセフさまを父とし、また母マリアさまとともに、30歳になられるまで、ヨセフさまのもとで大工仕事に精を出し、母を助け、そのようにして、ご両親に仕えてお暮しになられた。神の御子が!それが主イエス・キリストです。

主イエスご自身は、もちろん、ご自分が誰であられるかを知っておられました。そのことは、今日の福音の主のエルサレム神殿でのエピソードが伝える通りです。ヨセフさまとマリアさまは、12歳になられた主イエスを伴って、例年のように他の村人たちとともにエルサレム神殿で過越祭を祝いました。しかし、エルサレムからの帰り道、一行の中に主のお姿が見当たりません。

慌てたマリアさまとヨセフさまは、主イエスを捜しながらエルサレムまで引き返し、神殿に留まっている主を見つけます。主を見つけた安堵の余り、主のこのような行動に、つい愚痴をこぼしたご両親に対して、主は次のようにお答えになりました。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

しかし、ルカによる福音は、主イエスのこのおことばに当惑したマリアさまとヨセフさまを主ご自身がいたわるように、「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった」と語り続けた上で、次のマリアさまのご様子をも大切に伝えていました。「母は、これらのことをすべて心に納めていた。」

このマリアさまの眼差しの中で、またヨセフさまのご保護のもとで、「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」と、今日の福音は結んでいます。

第2バチカン公会議を開始された教皇ヨハネ23世のご帰天後、公会議を成功裏に全うされたのはパウロ6世教皇です。この教皇さまは、ナザレの「聖家族」「福音の学び舎」「福音の学校」と呼ばれました。ナザレの「聖家族」の貧しくとも、祈りと愛に満たされた日常から、生きた「福音」を学ばせていただくように、と。

そこには、「福音」そのものであられる神の御子・主なるキリストが、清貧の内に、ヨセフさまとマリアさまに謙遜の限りを尽くし、従順に、また貞潔に生きておられます。また、今日の福音のエルサレム神殿でのエピソードのように、主イエスに対して理解がおよばないことがあっても、「母は、これらのことをすべて心に納めていた」。

ここには、主のみことばとみ業の「すべてを心に納め」て、人の知恵に頼らず謙遜と忍耐をもって、神ご自身からの語りかけを待っている主の母がいます。

「聖霊」において働かれる創造主キリスト、すなわち「福音」には、世界を造り変えることができる大いなる力があります。「聖霊」は、「福音なる主イエス・キリスト」を迎えた家庭の日常の生活の中に働き、わたしたちの家庭を「ナザレの聖家族」へと造り変えることがおできになります。そこには、主とともに「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」キリストの似姿へと造り変えられて行くわたしたちがいます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 12/25 日中ミサ

主の降誕(日中)ヨハネ1:1-18

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「ことばは人となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」

クリスマス、おめでとうございます。皆さんに神の御祝福がありますように。

世界各地での戦争の終息が見通せない中でのアドベントの期間、わたしたちは使徒ペトロの言葉を頼りに、主イエスとそのみ国を「神が約束されたゆえに待ち望み」ました(ペトロ2,3:13)。この世にあって確実なものは「神の約束」だけです。そしてクリスマス。主イエスを、母マリアさまを通して、心からの感謝と喜びの内にお迎えします。

わたしが長く奉仕させていただいた英国の教会では、クリスマスの深夜のミサで、司式司祭が幼子キリストの小さな御像を両の掌(たなごころ)に抱いて入堂します。そして、祭壇の前か祭壇脇に置かれた小さな馬小屋の前に跪き、その中の飼い葉桶の稟(わら)の上に、そっと幼子キリストの御像を安置してからミサを始めます。

英国での毎年のクリスマス深夜ミサの度に、司祭であるわたしは、生まれて間もない赤ちゃんをわたし自身この手に抱いた時のことを思い出しました。同時に、かつて幼子キリストをエルサレムの神殿で、その老いた腕に抱きしめた老シメオンのことも。その時、彼が感激のあまり歌わずにはおれなかった歌をルカは伝えています。

「主よ、今こそあなたは、おことばどおり、このしもべを安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの光栄です。」

(ルカ2:29-32)

「ことばは人となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」

主イエスは、わたしたち人間の思いや力を超えた、だからこそ確実な「神の約束ゆえに」、母マリアさまを通してわたしたちのもとに来てくださった神ご自身です。

クリスマスの礼拝で、マリアさまから老シメオンのようにわたしたちもご聖体の内に同じ幼子キリストを両の掌に受け取らせていただき、大切に抱かせていただきます。老シメオンとともに、ご聖体の幼子キリストの内に神の約束の一切を、神の恵みのご計画のすべての成就を、わたしたちへの祝福として受け取らせていただきます。

クリスマスのミサで、わたしたちも母マリアさまとともに、マリアさまのように、幼子キリストを小さなご聖体の内に抱かせていただき、見つめさせていただきたいのです。幼子キリストをご自身の胸に抱かれたクリスマスのマリアさまの神への畏れ、驚き、喜びと感動、そして安堵の涙、その聖母さまの心の動き、さらに感謝と祈りの一切を、わたしたちも、今、ここで、マリアさまとともにさせていただきたいのです。

人が神に代わろうとしてきたわたしたち人類の長く空しく倒錯した過去は、ここに終わりました。そのために、本当に多くの人が自らを偽り、自分を失い、さらには多くの人を惑わし、傷つけ、犠牲にしてきた過去は、今、ここに確実に終わりました。

「神が人となられた」今、わたしたちが母マリアさまとともに幼子キリストに見つめているのはこの事実です。かつてのように見知らぬ神とその救いを虚ろに求めて彷徨(さまよ)い続けた時は終わりました。今から後は、クリスマスに神が主イエスにおいて成就された受肉の恵みの事実に立って生きて行けるのです。老シメオンの歌うように、マリアさまとともに、わたしたちも「神の栄光をこの目で見た」からです。

「ことばは人となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

「主イエスにおいて人となられた神の栄光」。それは老シメオンの言葉のように、「神が万民のために整えられた救い、異邦人を照らす光、神の民イスラエルの光栄。」主イエスは人を救い、活かし、人に光栄を与える神のいのち神の栄光とは主イエスにおいてわたしたちに与えられる神の恵み。実は、それは主なる神ご自身です

神はご自身をお与えくださるために人となられた。主イエスとは、そのようにわたしたちにご自身をお与えくださる神ご自身の栄光のお姿です。老シメオンがマリアさまとともに、幼子キリストの内に見つめた神の栄光とは、実は神の自己奉献の事実。それは、わたしたちがミサの度に、ご聖体の内に見つめ味わう神の真実です。

クリスマスから後、主イエスにおいて神の栄光は、さらに輝きを増し加えて行きます。クリスマスの幼子キリストは、栄えて行かれます。十字架、さらにご復活に至るまで。

クリスマスの出来事は、決してクリスマスだけで終わりません。それは、毎日のミサ毎に、ご聖体においてわたしたちに体験され続ける神の恵みの出来事です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 12/25 夜半ミサ

主の降誕(夜半)ルカ2:1-14

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ルカによる福音は、主イエスのご降誕を、その当の夜半に最初にお祝いすることを許されたのは、マリアさまとヨセフさまの他には、貧しい羊飼いたちであったと伝えています。彼らは、マリアさまたちが滞在しておられたユダヤのベツレヘムの地方で、その夜、「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番を」していました。

灼熱の日中とは異なり、夜半には気温が零下にも降ることのあるベツレヘム郊外の荒野。おそらく小さな焚火だけを暖を取る手立てとして、野外で肩を寄せ合うようにして夜通し太陽の昇る朝を待ちわびていたに違いない貧しい羊飼いたち。神は、とくにその彼らを、世界で最初のクリスマス夜半の祝いに招かれました。ルカによる福音は、その時の様子を次のように伝えています。「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常におそれた。」

羊飼いたちは恐れました。何を、でしょうか。彼らは神を恐れました。なぜ、でしょうか。町の城壁の外で羊の群れの番をして生活を営む他無い貧しい羊飼いたち。彼らは律法学者が求めるユダヤの律法を守れる境遇にはありませんでした。律法を守ることも、律法に従って神を礼拝する事もできない羊飼いたちを、町の人々は、神の恵みにふさわしくない者たちとして蔑んでいました。羊飼いたち自身も、罪人の彼らにはアドベントは無縁だと思っていたと思います。クリスマスの夜までは。

しかし、神がわたしたちのもとに来られる(アドベント)との決断は、人ではなく神ご自身によることです。使徒ペトロは、わたしたちは神が来られるのを、人の期待や計らいにではなく、「神の約束に従って待ち望んでいる」(2ペトロ3:13)と教えています。

神のみ使いガブリエルは、マリアさまに遣わされた時、驚き恐れるマリアさまに「おめでとう(ギリシャ語kaire、恵まれた方。主があなたと共におられる」と告げました。

み使いが告げたのは、マリアさまが気付かない内に、すでに、神が彼女とともにおられる(インマヌエル)と言う事実です。アドベントとは、この事実への気付きの時です。

実は、クリスマスの遥か以前から、主イエスをわたしたちのためにお遣わしくださるための神ご自身のご準備が、み使いガブリエルに象徴される旧約の預言者の長い時代を貫いて続けられていたのです。その上で、地上のアドベント(神が来られる)は、母マリアさまが聖霊によって神の御子キリストを宿されることによって、歴史の事実、さらに、後にご聖体を受けるわたしたちの身の事実となりました。

真のアドベント来たり給う神をお迎えすることとは、神への恐れと感謝の内にマリアさまと共に、マリアさまのように、わたしたちもこの身に神の御子を宿させていただくことではないでしょうか。ただしそれは、偏に神の恵みにのみよることです。

アドベントとは、ユダヤの律法学者たちのように、律法を上手に解釈し神との一定の距離を保ちながら、自分の心を自分で操作するようなことではありません。わたしたちにとってアドベントとは、マリアさまのようにこの身をそのまま神に明け渡してしまうことです。神の御子をこの身に宿させていただくとは、そういうことではないでしょうか。律法を読むこともできず、律法を解釈して神と自分の間に距離を置く術も持たない羊飼いたちは、ただ神の恵みによってアドベントへと導かれました。

その羊飼いたちは天使のことばを聞いて、神を「非常に恐れ」ました。彼らは、主なる神が来られたならば、主のみ前に自らを弁護する術もなく、主に自分たちを明け渡してしまう他ないことを良く知っていました。同時に彼らは、自分たちが神のものとされることに堪え得ない罪人であることをも、誰よりも良く知っていました。

だからこそ、み使いは、羊飼いたちに告げます。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。神が求めておられるのは、マリアさまのように、また彼ら貧しい羊飼いたちのように、真に神を恐れる者たち、神のみを恐れる者たちだからです。「神を恐れる」者にこそ、神はご自身の御子を宿させてくださるのです。さらに、彼らに宿された神の御子によって、彼ら自身を福音の使者、すなわち「民全体に与えられる大きな喜び」の使者とさえしてくださるのです。

畢竟、それは神の天使たちに加わって神を賛美することです。羊飼いたちの見上げる天には、すでにみ使いたちによる神の勝利と歓喜の歌声が響いています。

「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」

クリスマスのこの夜、マリアさまとヨセフさま、また、羊飼いたちのように真に神を恐れるみなさんに主イエスが来てくださいます。「恐れるな」とのおことばを携えて。

クリスマス、おめでとうございます。神の御祝福が皆さんの上にありますように。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。