司祭の言葉 10/22

年間29主日マタイ22:15-21

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 主イエスは、仰せです。しかし、「皇帝のもの」、「神のもの」とは何なのでしょうか。

教会は、今日のこの福音を聞いて捧げる本日のミサの「奉納祈願」で、次のように祈ります。「万物の造り主である神よ、あなたからいただいたパンとブドウ酒を供えて祈ります。神のものをすべて神にお返しになったひとり子イエスの奉献に、きょうもわたしたちが固く結ばれますように。」

「神であるあなたからいただいたパンとブドウ酒」。もちろん、神は、最初から「パンとブドウ酒」をくださるわけではありません。「パンとブドウ酒」は、神からの「大地の恵み」である麦とぶどうを元にしてのわたしたちの「労働の実り」です。それにもかかわらず、その「パンとブドウ酒」を、あえて「神からいただいたもの」、すなわち、本来「わたしたちのもの」ではなく、「神のもの」と、神に感謝し、祈るのです。

「主は与え、主は取りたもう。主のみ名は、ほむべきかな。」災害ですべてを失ったヨブの言葉です。ウクライナ戦争や新型コロナ感染症を含めここ数年の相次ぐ災禍で、ヨブのようにわたしたちも、大きな犠牲を払って学んだことがあると思います。それは、「麦とぶどう」の「大地の恵み」は、確かに神からいただいたものですが、それだけではありません。「大地の恵み」から「パンとブドウ酒」を生産するわたしたちの命、「大地の恵み」よって生かされているわたしたちの自身もまた、実は、神からいただいた恵み以外の何ものでもなかったという厳粛な事実では無いでしょうか。

主イエスが、「パンとブドウ酒」という形で、ご自身のいのちをわたしたちにくださったことの大切さを思います。「パンとブドウ酒」は、わたしたちが地上で命を繋ぐために不可欠な日ごとの糧であるとともに、それによって支えられるわたしたちの地上の命そのものの象徴です。そして、その一切が、神からいただいた恵みです。

しかし、「パンとブドウ酒」によって、わたしたちに、神がお与えくださる恵みは、実は、さらに大いなるものではないでしょうか。なぜなら、「パンとブドウ酒」は、天の父なる神と地に住むわたしたちを、地上の命を超えて、永遠に「固く結び合」わせてくださるために、神がわたしたちにお与えくださる恵み、でもあるからです。

わたしたちは、神からいただいた「パンとブドウ酒」を、感謝を以って神に奉献することを通して、「神のものをすべて神にお返しになったひとり子イエスの奉献にわたしたちが固く結ばれ」る事が許されるのです。なぜなら、そのように、わたしたちの主が、弟子たちとの「過ぎ越しの食事」、すなわち「最後の晩餐」においてわたしたちにお定めくださったからです。わたしたちにとって、ミサこそ、それです。

「パンとブドウ酒」は、神からの大いなる恵み。わたしたちの地上の命を支えるのみならず、主イエスに結び合わされるミサにおいてわたしたちの命を天に繋ぐから。

従って、「パンとぶどう酒」は、わたしたちがそれを自分だけのものと主張し、その結果、わたしたちの間に争いや悲劇を生み出すために、神から与えられるものではありません。そうであれば、地上の皇帝すなわち為政者の役割は明白です。わたしたちを、神のみ前に神の民として整えること以外にはありません。第一に、わたしたちに日ごとの糧としての「パンとブドウ酒」を保証することによって。さらに、その「パンとブドウ酒」を神に捧げることによって、わたしたちが主イエスの奉献に結ばれることができるように、神へのミサへとわたしたちを整えることによって。

今日のミサの「集会祈願」のように、「世界を治める唯一の神、すべての人を救いに導いてくださる方」である主イエスから、皇帝つまり為政者に託されている奉仕、つまり「皇帝のもの」とは、ひとえにわたしたち主の民のために来られた主への奉仕であるはずです。そうであれば、わたしたちにとって「皇帝のものは皇帝に返す」とは、皇帝つまり地上の為政者が、「神のものをすべて神にお返しになる」主に正しく奉仕できるように、彼らために罪の赦しを求め、彼らのために祈ることでしょう。

「パンとブドウ酒」は、わたしたちの日ごとの糧として神からいただいた命であるとともに、実はそれ以上に、それらを捧げて主イエスの奉献に固く結ばれるために、すなわち、主と結ばれて永遠のいのちに与るためにこそ、神からいただいたものです。このことの重要性は、戦争や相次ぐ災害で多くの命を天に送ったわたしたち、とくにカトリックのわたしたちには、身に沁みて感じられることではないでしょうか。

今、わたしたちとわたしたちの愛する日本の望みはどこにあるのでしょうか。それは、神からの恵みである「パンとブドウ酒」を神に捧げ、主イエスご自身神への奉献に固く結ばれることではないでしょうか。主に固く結ばれる事以外に、わたしたちの永遠のいのちへの希望はどこにもないからです。主が永遠のいのちだからです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 10/15

年間28主日 マタイ22:1-14

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「天の国(神の国)は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。」

今日の福音は、主イエスの「神の国のたとえ」の内、とくに「婚宴のたとえ」と呼ばれるものです。「婚宴」と言えば、主の「カナの婚宴の奇跡」を思い起こします。ヨハネによる福音(2:1-11)は、主が宣教の始めに、母マリアさまの願いに応えて、最初の奇跡をガリラヤのカナという小さな村の婚宴の場で行われたと伝えます。

それにしても、今日の「婚宴のたとえ」を含め、主イエスは「婚宴」の主題を、「神の国のたとえ」の中でよくお用いになっておられます。

「神の国のたとえ」は、主イエスにおいて「神の国」が来ているという事実を端的に指し示します。とくに「婚宴のたとえ」は、「神の国」には、主によって、主とともに祝う「神の国の食卓」が整えられてあることを、わたしたちに想い起こさせます。

ただし、「神の国が来ている」ということを、わたしたちのいのちの真実として認め、わたしたちの身の事実として受け入れるか否かは、主イエスを「神の国の主」キリストと信じるか否かに掛かっています。すなわち、わたしたちの信仰の問題です。

主イエスを「神の国の主」キリストと信じるわたしたちは、「神の国」は、わたしたちののもとに確実に来ているのみならず、そこには、「神の祝宴の食卓」が、間違いなく整えられてあることを知っています。主は今日のたとえの中で仰せでした。

「招いておいた人々にこう言いなさい。『食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意が出来ています。さあ、婚宴においでください。』」

しかし、主イエスを「神の国の主」キリストとまだ認められない人にとっては、主における「神の国」の到来も認められず、したがって、彼らは「神の国の祝宴」への招きに応えることもないでしょう。主は、同じく今日の「たとえ」の中で、「王が家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとはしなかった」彼らは主の招きを「無視した」のみならず、人々を「婚宴に招くために遣わした王の家来たちを、捕まえて乱暴し、殺してしまった」とさえ、語っておられました。

ここで見逃してはならないことは、主イエスの今日の「婚宴のたとえ」が、主が最後にエルサレムにお入りになられた後に語られた「神の国のたとえ」であるということです。事実、父なる神が、「神の国の祝宴」に人々を招くために遣わされた御子キリストは、ほどなく、神が「祝宴」に招こうとされたのに、その招きを「無視した」人々によって、「捕えられて乱暴され、殺されてしまい」ます。しかも十字架の上で。

主イエスは、エルサレムでこの日から数日以内にご自身に起こることの一切を予めご存じの上で、今日の「たとえ」をお語りになっておられることは明らかです。

それにしても、「神の国の主」キリストご自身が、「神の国の食卓」で、わたしたちのために整えてくださった「食事の用意」とは、いったい何だったのでしょうか。

それは、主イエスご自身の御からだと御血に他なりません。わたしたちのために十字架で裂かれた、主ご自身のいのちそのものです。

そうであれば、「神の国の食卓」を、わたしたちのために整えてくださることがおできになる方は、十字架の主イエス・キリスト以外にはおられません。そして今日、主は、すでにエルサレムにお入りになっておられます。十字架におつきになられるために。そこで、わたしたちのために、ご自身のからだを裂き、血を流されるために。

古来キリスト教会は、教会の教父たちの信仰と教えにしたがい、ミサを「婚宴」にたとえられる「神の国の祝宴」と信じ、ミサに与ることを至上の喜びとして来ました。わたしたちも、代々の教会とともに、今、ミサで「神の国の食卓」を祝っています。「神の国の主」キリストご自身が、わたしたちのために、十字架でご自身のからだを裂き、ご自身の血を流して整えてくださった「主の過越の食卓」を。

主イエスの福音に聞くわたしたちは、福音に働く聖霊によって、「神の国の主」キリスト以外に、「神の国」をわたしたちに来たらせてくださる方は、他に決して無いことを知らされています。さらに、主とともにミサを祝うわたしたちは、「神の国」を来たらせてくださる方は、十字架においてわたしたちに「神の国の食卓」を備えてくださるただ一人の方でもあることをも、はっきりと知らされています。

主イエスにおいて、「神の国」は、わたしたちのもとに来ています。わたしたちは、今、主が十字架で整えてくださった「神の国の食卓」に与ります。それがミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 10/8

年間第27主日 マタイ21:33-43

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。 

これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」

主イエスが、今日のたとえの最後に引用されたことばは、詩編の第118編の言葉です。この詩編は、ユダヤの「過越の祭」の食卓で詠われた、いわゆるハレル詩編歌と呼ばれた一群の詩編の中でも、とくに「過越祭」の最後に詠われた詩編です。

福音書は、主イエスと弟子たちが過越の食事、いわゆる「最後の晩餐」の結びに詩編を歌ってオリーブ山へ退かれたと伝えています。そうであれば、詩編118編のこの言葉の響きの中で、主は弟子たちとゲッセマネの園に向かわれたと言うことになります。そして皮肉なことに、この同じ詩編の、実は衝撃的な言葉の響きの中で、弟子たちはその夜、主を捨てて逃げ去ったわけでもあります。

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。 

これは、主のなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」

「最後の晩餐」に続く、主イエスの十字架の死と復活の出来事、さらにはそこで露わにされた弟子たちとすべての人間の罪の現実を、この詩編の言葉ほどに鮮やかに言い表していた言葉は、他に無かったと言うべきかもしれません。

主(神)がなさったことはわたしたち人間の目には「不思議」に見えると訳されています。これは、聖書の元の言葉ではむしろ、「驚嘆する、つまり驚き畏れる」と言う言葉です。畏るべきこと、驚嘆すべきこと、あり得ない事、が起こったと言うことです。

「家を建てる者の捨てた石。」それは大工、実際は石工(いしく)の役に立たぬとの判断で「捨てられた石」です。実は直訳すれば「粉々に砕かれ捨てられた石」。神は、この粉々に砕かれたその石を「隅の親石」、誰にも二度と砕き得ない「盤石の岩」とされた。これは不思議と言う以上に驚嘆し、畏るべき神のみ業すなわち奇跡です。

そして、神の新たに建てられる神の家、神の教会は、この盤石の岩の上にのみ建てられます。神は、わたしたち人の目に良く見える石の中から立派な石を選ばれたのではありません。わたしたちが砕き捨てた石を、永遠の岩、盤石な教会の礎とされたのです。それが、主イエス。十字架において砕かれ、しかし復活されたキリストです。

ところで、その石を粉々に砕き捨てたのは「家を建てる者」であったと言われています。事もあろうに、神の遣わされたただ一人の石工、つまり神の「家を建てる者」である主イエスを前に、彼になり代わって「家を建てる者」を名乗る者は一体何者なのか。神の前に、恥も畏れも知らぬ、倒錯した人間の姿がここに極まっています。

しかし、これは決して他人事ではありません。神の遣わされた唯一の「家を建てる者」である主イエスのみ前で、事もあろうに「家を建てる者」を名乗り、主なる石を粉々に砕き捨ててしまうことさえするわたしたち、そして、その罪の恐ろしさ。

しかし、わたしたちのそれほどまでの罪でさえ、全能の神のわたしたちへの慈しみと愛を妨げることはできません。神は、わたしたちが「砕き捨てた石」主イエスを、わたしたちのために「盤石の岩」にされたのです。神は、御子キリストを十字架につけるほどのわたしたち罪人を、まさにその主の十字架によって救ってくださる。

詩編118編は、先の言葉に続いて、次のように祈ります。

「今日こそ主の作られた日。・・・

主の名によって来たる者に祝福あれ。」

神の作られた今日この日に、主の名によって来たる者。それは主イエス以外にはおられません。この方こそ実に、わたしたちの罪によって粉々に砕き捨てられることを通して、わたしたちの命を盤石の岩であるご自身の上に、主の教会を建てることがおできになる方。この方のみが、わたしたちの罪の贖いゆえに十字架上で砕かれることを通してわたしたちの罪を赦し、わたしたちをご自身とともに復活させてくださる唯一の方。それは、わたしたちに対する主なる神の慈しみと愛ゆえです。

このような神、このような主イエスのみ前に、わたしたちには、最早、不思議、否、驚嘆と畏れ以外には、何も残されていません。ただ、主に感謝し、主を礼拝するのみです。詩編118編は、次の言葉によって、祈りを結んでいます。

「あなたこそわたしの神、わたしはあなたに感謝します。わたしの神よ、わたしはあなたを崇めます。主に感謝せよ、主は恵み深く、その慈しみは永遠。」

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 10/1

年間第26主日 マタイ21:28-32

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音のたとえの内に、主イエスは、「後で考え直して」と言う言葉をくり返しておられます。フランシスコ会訳聖書では、同じ言葉を「悔い改める」と訳しています。しかし、「悔い改める」とはどうすることなのでしょうか。

日本語の「悔い改める」との訳語からは、「後悔する」とか「反省する」とかいうような消極的な響きを感じます。しかし、福音の記されたギリシャ語では、「悔い改める」と訳される語(meta-noeouとともに、今日の福音のmeta-merouも)は、「(主と)思いを合わせる」ないし「(主と)心を一つにする」という、極めて積極的な意味になります。

「主イエスと思いを合わせ、心を一つにして生きる」。主が、今日、わたしたちに願っておられるのは、まさにこのことではないでしょうか。実はそれこそが、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて」福音を信じなさい」とのおことばに始められた福音宣教の最初から、主がわたしたちに願ってこられたことであったはずです。

ただし問題は、わたしたちが「主イエスと思い合わせ、主と心を一つにして生きる」などということが果たして可能なのかということです。そのようなことが、わたしたちの心掛けや思い次第でできるのでしょうか。第一、神ならぬわたしたちが「神なる主の御心や主の思い」を正しく理解しているといえるのでしょうか。主が十字架につけられて殺されたのは律法学者たち、つまり神の心や思いを熟知していると自他ともに認めていた「神のみことば」の教師たちにではなかったでしょうか。

それでは、なぜ、わたしたちは「主イエスと思いを合わせ、主と心を一つにして生きる」ことがそれほどに難しいのでしょうか。明らかにそれは、わたしたちが罪によって神から、わたしたちの心が神の心から引き離されているからです。わたしたちが「主と思いを合わせ、主と心を一つにして生きる」ためには、それを不可能にしているわたしたちの罪こそが解決されなければならないということです。

つまり、「主イエスと思いを合わせ、主と心を一つにして生きる」ためには、もはや罪人のわたしたちが「後悔する」「反省する」というような事では済まないのです。わたしたちの考え方や心の持ち方の問題などではなく、わたしたちの罪の解決こそが問題だからです。このことは、わたしたちの信仰理解の要(かなめ)です。

ただしそうであれば、わたしたちには、為す術がないのではないでしょうか。確かにその通りです。しかし、だからこそ、天の神が主イエスとして地のわたしたちのもとに来てくださったのです。神が罪なるわたしたちを救ってくださるためには、つまりわたしたちが神の御心を知り、神と思いを合わせて生きる者とされるためには、預言者を通して天から語りかけることではもはや済まず、わたしたちの罪を解決してくださるために、神ご自身が贖い主として地に来てくださる他なかったからです。

そのためにこそ、主イエスは、天からではなく、地のわたしたちのもとに来てくださってわたしたちの罪を解決してくださるために、ご自身の肩にわたしたちの罪の贖いの十字架を負ってくださったのです。わたしたちが、「主なる神と思いを合わせ、心を一つにして生きる者とされる」ためには、わたしたちにそれを妨げているわたしたちの罪を、神がわたしたちに代わって贖ってくださる他なかったからです。

しかし、主イエスは、なぜそれほどまで、わたしたちに「悔い改める」こと、わたしたちが「主と思い合わせ、主と一つにして生きる」ことを願ってくださるのでしょうか。それは、わたしたちを「神の国」にお招きくださるためです。「神の国」とは、罪なるわたしたちの理想の国などではありません。いかに素晴らしく思われる国であっても、主イエスが在まさなければ、そこは「神の国」ではありません。「神の国」とは神なる主キリストの御国です。それは、他でもない、わたしたちが、「主と思いを合わせ、主と心を一つにして、主とともに永遠に生きることが赦される国」だからです。それゆえにこそ、わたしたちに「主と思いを合わせ、主と心を一つに生きる」ことを願われる主ご自身の肩には、わたしたちの罪を贖う十字架が負われてあるのです。

主イエスは福音宣教の初めから、十字架にご自身を犠牲としてささげてわたしたちの罪を赦し、それゆえわたしたちが主と思いを合わせ、心を一つにして生きる「神の国」にわたしたちを永遠に生かすために来てくださったのです。なぜなら、そこに、そして、そこにのみわたしたちの真の幸いと祝福が保証されてあるからです。

わたしたちが、永遠に真の幸いと祝福に生きること。それが、そしてそれのみが、主イエスのわたしたちへの唯一の願いなのです。キリスト者のわたしたちは、このような主をわたしたちの神とさせていただいているのです。

信仰とは罪人のわたしたちの確信ではなく、主イエスに罪の贖いの十字架を求めることです。しかし主はそれを厭われません。わたしたちを「神の国」に招くために。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 9/24

年間第25主日 マタイ20:1-16

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音は、主イエスの「神の国」のたとえの一つで「ブドウ園の労働者のたとえ」と呼ばれてきました。このたとえには、ブドウ園の主人と五組の労働者たちが登場します。各々の組の労働者たちは、その日に主人に雇われた時間が異なっています。夜明けに雇われた最初の組の労働者に始まり、最後の組は日没直前の午後五時頃雇われました。最初の組の労働者たちは夜明けから夕方まで、まる一日働きました。最後の組の人々は、日没前の約一時間働いただけです。しかし、ブドウ園の主人は、一日の終わりにどの組の労働者たちにも全く同じ一日分の賃金を払いました。

このたとえには、最後に雇われ日没前の一時間だけ働き、主人から同じ賃金を受け取った人々の思いは語られていません。彼らはブドウ園の主人から、彼らより先に雇われ長く働いて来た人々と全く同等の賃金をいただけるとは考えてもみなかったでしょう。ブドウ園の主人の、彼らへの思いがけない処遇に接しての彼らの驚き、感激、感謝、さらに、彼らの感動は想像に余りあります。彼らにとってそれは、それまで誰の目にも留められなかった彼らの人生、生きることに意味を見いだせないまま時だけが虚しく過ぎて行くような人生の中で初めて得た生の喜びと充足感、生きる意味を見出し、自尊心に目覚めた瞬間、さらには、始めて自分を心にかけてくれた他者に出会い得た事実に胸が熱くなった瞬間ではなかったでしょうか。

皆さんは、ご自分をどの組の労働者にご自分をなぞらえて、このたとえをお聞きになられたでしょうか?わたし自身は、主イエスのこのたとえを、最後にブドウ園に雇われた労働者に自分自身を重ね合わせて聞かせていただく他ありません。

このブドウ園を主イエスの教会とするならば、実際わたしは「最後に雇われた者」以外の何者でもないと、英国で司祭に叙階された時、強く感じました。日本の仏門に生を受けたわたしには、ローマでは厳しい迫害最中の紀元156年、当時のローマ司教(教皇)聖エレウセルスによる司教区(教会)設立に遡る英国の教会で、わたしの周囲の英国人司祭や信者方のように夜明けや日中から主のブドウ園に雇われ、既に長い間主の教会で奉仕して来た先祖の歴史も自らの過去もありません。主のブドウ園の労働者の末席に加えていただいた。それがその時のわたしの思いでした。

そのようなわたしを英国の人々が英国人司祭方と同等に寓してくれるとは予期していませんでしたが、司祭に叙階された日本人のわたしを、英国の教会の人々は英国人司祭方と同じく、彼らの司祭として大切に迎えてくれました。わたしは英国の人々に対する心からの感謝に加え、司祭叙階の秘跡の力とその恵みに養われてきた英国の教会のほぼ1900年に及ぶ伝統の確かさを知らされました。まさにキリスト教の信仰とは、秘跡に働く聖霊の力を虚心に認め、その恵みに生かされることです。

わたしは英国の大学での神父方との不思議な出会いを通して司祭職への召出しを確信し、カトリック神学、特にミサの神学を専門に学んだ後、縁あって英国国教会で司祭に叙階され、英国で長く司牧させていただきました。その後、今は亡き母の看取りを機に英国国教会と英国カトリック教会双方の司教方の尽力により、当時のベネディクト16世教皇から英国国教会司祭に対するカトリック司祭叙階の特別許可を得て帰国、2011年、当時の駐日教皇大使ボッターリ大司教のご臨席の下、カトリックの司祭として叙階され、日本の教会で司祭としての奉仕を許されました。元来、仏門に生を受けたわたしに、これは考えることもできないことでした。実際、将来キリスト教徒になり、主の教会に英国で、後に祖国日本でも司祭としてお仕えさせていただくことになるなど夢にも思ったことはありませんでした。仮にそのようなことを夢見たにせよ神がお許しくださらなければ、これは起こり得ないことです。

このようなわたしには、主イエスのたとえの最後に雇われた労働者の如く、主のブドウ園に雇って頂いたこと自体、神の憐れみと恩寵です。たとえ一時間でも、主のブドウ園・主の教会で働かせていただけること、しかも司祭として。これは奇跡です。わたしにとってこれ以上の光栄はありません。その上、主なる神は、このようなわたしにも、主のブドウ園で既に長く働いて来られた、例えば英国の教会の方々と、ミサにおいて全く同じ一つの聖霊の恵みをもって報いてくださいます。これは驚くべきことです。しかしこれこそ、わたし自身が体験した「神の国」の事実です。今日の福音を含む「神の国のたとえ」は、「神の国の主イエス」によってもたらされた「神の国」の真実と、主によって「神の国」に招き入れられたわたしたちの身に起こる驚くべき事実を明らかにしてくれます。わたしは、この驚くべき「神の国」の証人です。

わたしには、このようにしてくださった主なる神への感謝とともに、二千年の歴史を刻む主のブドウ園で、明け方や日中から、既に長く誠実に働いて来られた世界の教会の多くの方々に対して申し訳なさも感じます。しかし主イエスのお許しの下、仮に最後の一時間に過ぎずとも、与えられた時間、主のブドウ園・主の教会で主に精一杯お仕えさせて頂く。これが、主のブドウ園に最後に雇われたわたしの願いです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 9/17

年間24主日 マタイ18:21-35

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』

かつて8年間奉仕させていただいた川越教会でのある日、お聖堂で「十字架の道行き」(黒沢武之輔作)の聖画像を一枚一枚ていねいに写真に撮っている方がおられました。わたしがその方に、司祭ですと申し上げますと、その方も自己紹介をしてくださいました。その方は、キリスト教の信者ではないとのこと。ただ、教会のお聖堂の「十字架の道行き」が気に掛かり、日本でも、外国でも、可能な限り訪問先の町の教会を訪ねて「十字架の道行き」を、写真に収めてこられたとのこと。

この方は、わたしに対する自己紹介を、次の言葉で結ばれました。「神父さん、わたしはキリスト教についての知識はありませんが、日本でも外国でも、教会で「十字架の道行き」を写真に撮らせていただいているうちに、キリスト教の真実は「赦すこと」にあるのではないかと思うようになりました。神父さん、間違っているでしょうか。」

わたしは、この方の言葉に息を呑みました。「キリスト教の真実は、赦すこと」。それこそ、主イエスの真実です。わたしたちはキリスト者として、わたしたち自身が主に赦された罪人であることを理解しているつもりです。しかし、わたしたちは、時々このことを忘れ、自分自身を、そして人を裁いてしまいます。しかも大切な時に限って。「キリスト者では無いけれども」と言われたその方は、「十字架の道行き」の前で、いつも十字架の主イエスに赦されている自分自身を見つめてこられたのでしょう。

この方との会話は宗教の違いを超えて働かれる聖霊なる神のみ業をわたしに確信させてくれるに十分でした。むしろキリスト者であるにもかかわらず、罪意識も乏しく、神への感謝も懺悔の心も鈍くなっているわたし自身を恥じ、この方に働かれる同じ聖霊なる神の恵みを、再度求めさせていただきたく切に願いました。

今日の福音の主題は、「赦す」ことです。主イエスが、今日の「王と家来のたとえ」によってわたしたちに問いかけておられるのは、他者の罪を糾弾する前に、わたしたち自身が神に赦されている、と言う事実を忘れてはいないかということです。

先の方は、どこの町へ行っても、まず教会を訪ねて、「十字架の道行き」の聖画像の前に跪くと仰いました。赦されている自分を確認するためでしょうか。あるいは自分が赦されているにもかかわらず、他人を赦せない自分を懺悔するためだったのでしょうか。実は、キリスト者のこのわたしこそ、そうあるべきでした。

キリスト者のわたしたちは、教会の「十字架の道行き」の主イエスの聖画像のみ前に跪かせていただくのみならず、わたしたちが与る礼拝においては、福音とご聖体において現存される十字架の主イエスご自身にお会いさせていただくことさえ赦されています。このわたしのために、十字架で裂かれた主の御からだ、このわたしのために十字架で流された主の御血をいただくことさえ赦されているのです。

キリスト者には、先の「キリスト者では無いけれども」と言われる方以上に知らされていることがあるはずです。つまり、「主イエスの十字架の道行き」は、このわたしにとって文字通りのわが身の事実、主とわたし自身の真実であるということです。

教会のミサ曲のように、教会の「十字架の道行き」の聖画像も、宗教の違いを超えて万人を感動させる力があることは疑いようのないことです。しかし、キリストを主なる神と信じるこのわたしには、「十字架の道行き」は、芸術以上のものです。主は、「十字架の道行き」の事実そのままに、わたしのために十字架を負い、十字架上に死んでくださったからです。このわたしの罪を赦してくださるために。

そうであれば、この主イエスのみ前に、わたしたちは主のお求めになるごとく、他者を七回どころか七の七十倍まで赦すべきでしょう。なぜなら、主は、すでにこのわたしを、七回どころか七の七十倍まで赦してくださっておられるからです。

主イエスのみ業は、過去の物語ではありません。主のみ業は聖霊によって、わたしたち一人ひとりに対して常に現在の恵みの事実だからです。しかもそれは、このわたしが赦されるだけではありません。聖霊によってこのわたしに働かれる主の赦しの恵みゆえに、わたしたちも人を赦すことができるようにしていただけるのです。

主イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」主のこのおことばは、決してわたしたちに対する主の無理な要求ではありません。赦された罪人であるこのわたしをさえ用いて、他者の罪の赦しのために、聖霊によって働かれる主の恵みのみ業の約束とその事実です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 9/14

「十字架称賛」の祝日(9月14日)の黙想 (ヨハネによる福音3:13-17)

父と子と聖霊の聖名によって。 アーメン。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

過ぐる8月6日に、「主の変容」を記念しました。主イエスは、最期にエルサレムに上られるに先立ち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて高い山に登られました。その時、主のお姿が変わり、主の服も真っ白に輝きました。さらに、弟子たちは、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」との天からの声を聞いた、と福音は伝えていました。

「主の変容」が、主イエスの過越、すなわち主の十字架と復活の40日前であったとのカトリック教会の古い伝承に従い、紀元5世紀以来、8月6日の「主の変容」の祝日の40日後の9月14日に、教会は、「十字架称賛」の祝日を祝い続けて参りました。

「主の変容」が、主イエスの過越の40日前との教会の伝承は、モーセに導かれたイスラエルの民が、約束の地に入るまでの荒野の40年を思い起こさせます。「主の変容」の直後から、主は、弟子たちを伴って、エルサレムに上る最期の旅を始められます。そしてまさに40日後に、弟子たちは、エルサレムで、主の「過越の食卓」(最後の晩餐)に与り、約束の地、すなわち「神の国」に迎え入れられます。

ただしそれは、「主の変容」の前後三度、主イエスが弟子たちに告げられたように、主の十字架と復活を通してのみ招き入れられる「神の国」。しかも、その「過越の食卓」(最後の晩餐)で、主が弟子たちに与えられる「永遠のいのちの糧」が、「キリストのからだ」であることが、主によって弟子たちにはっきりと示されることになります。

冒頭の主イエスのみことばは、主と二コデモとの長い対話の一部です。ニコデモは、ファリサイ派の一人であったと言われています。しかし彼は、主が父なる神から遣わされた方であることを確信するに至ったのだと思います。その結果、ある夜、彼は主の許を独り訪ねて来たと、ヨハネによる福音は伝えていました。

この二コデモに、主イエスはご自身の真実を、次のようにはっきりとお語りになりました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」これは、聖書のみことばの中でも、最も愛され親しまれて来たみことばの一つではないでしょうか。ただし、神がその独り子イエス・キリストを、わたしたち罪人にお与えくださる。それがいかなることであるのか。じつは、このみことばの直前に、主は次のように仰せでした。

「天から下って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:13,14)

「信じる者が皆、永遠の命を得るため」には、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない」と、主イエスは仰せです。

モーセに導かれた神の民は、荒野の40年の旅の途上くり返し罪を犯します。ある時、主なる神はモーセに、罪なる民のために罪の贖いのしるしとして青銅の蛇を作り、十字架のように棒の上にそれを架け、高く上げることをお命じになりました。民はその青銅の蛇を仰いで癒された、と旧約の「民数記」(21章)に伝えられています。

その旧約の犧牲のしるしのように、「人の子も上げられなければならない」と、主イエスは仰せです。ただし、この度の主によるご自身の奉献は、もはや罪の贖いの「しるし」ではありません。私たち罪人の「罪の贖いそのもの」として、主はご自身を、十字架の上に高く「上げて」くださるのです。

主イエスの十字架の奉献によってのみ、「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得る」ことを赦されます。さらに十字架を通して高く天に上げられた主は、わたしたちに「聖霊」を注いでくださるために復活してくださいます。それは、聖霊によってわたしたちを「新たに神の国に生まれさせてくださる」(ヨハネ3:3、5-7)ためです。

二コデモにお会いくださった同じ十字架とご復活の主イエスは、わたしたちにも必ずお会いくださいます。二コデモ同様、わたしたちが「一人も滅びないで」、必ず聖霊によって「新たに生まれ、神の国を見る」(ヨハネ3:3)者としてくださるためです。

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

司祭の言葉 9/10

年間第23主日 マタイ18:15-20

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 

この主イエスのおことばに、そのおことばの確かさに、どれほど多くの人々が励まされてきたことでしょうか。とくに、キリスト者が少数で、ともに祈りを合わせる人が限られている日本のわたしたちには、主のこのおことばの温かさが身に沁みます。

ただ、二人または三人のわたしたちは、なぜ主イエスのみ名によって集まるのでしょうか。主は仰せです「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」たった二人でも構わない。人数は問われていません。たとえ二人あるいは三人だけであっても、わたしたちが主のみ名によって心一つにするところには、主が、必ずわたしたちとともにいてくださる。とくにミサこそ、その時です。そのために、主はわたしたちをミサに集めてくださるのではないでしょうか。

事実、ミサでわたしたちが気づくのは、わたしたちが主イエスのみ名によって集まる時、そこに主がわたしたちとともにいてくださると言うよりも、むしろ先に主の方が、わたしたちをご自身の祈りに招いてくださっておられるということです。実際、主の招きによって始められるミサは、主イエスの祈りに、つまり主の御心にわたしたちが心を合わさせていただけるようにと、主がわたしたちをお招きくださっておられるということではないでしょうか

福音は、主イエスが宣教の多忙なご生涯にもかかわらず、否、それ故にこそ、つねに主はご自身の静かな祈りの内に帰って行かれたことを伝えます。ミサで、二人または三人のわたしたちは、この主の静かな祈りの中に招き入れられます。それが、主のみ名によって祈る、と言うことではないでしょうか。その際、主のみ名によって祈るとは、わたしたちにとって主と心を合わさせていただくことに他なりません。

わたしたちの祈りはどのように始まるのでしょうか。それは、わたしたちのために祈ってくださる主イエスを仰がせていただくことから。わたしたちの祈りは、まず主のみ前に主を仰ぎ、主を礼拝させていただくことから始まるのではないでしょうか。

一人ひとりが主イエスを仰ぎ、主を礼拝する時、一人ひとりの心は主と結ばれて一つとされます。それゆえに、主の許に集められたわたしたちの心もまた主によって互いに結びあわされて主のみ心と一つとされます。それが、主の祈りの内にわたしたちが招かれるということではないでしょうか。実は、主の福音宣教の初めのおことば「悔い改めて福音を信じなさい」の「悔い改める」とは、元のギリシャ語では「(主と)心を一つにする」ないし「(主と)思いを合わせる」という意味です。主は最初から、わたしたちの心が主と一つに合わせられることを願っておられたのです。

しかしわたしたちは、残念ながら祈りにおいてさえ罪を犯し得る者です。わたしたちの祈りが自分本位で、他者を裁く罪を恐れます。わたしたちは自分の知恵や力では、祈りにおいてさえ罪から自由ではありません。しかし、主イエスの祈りに加えられる時は違います。聖霊によって働かれる主は、わたしたちを罪から自由にしてくださるからです。主の祈りとは、わたしたちの罪を赦す聖霊の働きそのものです。主は、今日次のように仰せでした。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

ヨハネによる福音は、同じことをご復活の主イエス・キリストの次のおことばとして伝えています。「イエスは弟子たちに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」(ヨハネ20:22,23)

主イエスのみ名によって祈る。それは主の祈りに招き入れられて、主と、また主と一つにされた人々と心を合わせることです。ヨハネによれば、それは、ご復活の主からわたしたちが共に聖霊を受けさせていただくことだったのです。その時、祈りとは聖霊によってわたしたちの内に愛を成就してくださる神のみ業です。神のこの愛のみ業のうちに、罪なるわたしたちにもかからず、聖霊によって罪赦され、その上さらに聖別されて、主と、そして隣人と心を合わせることが許されます。それがわたしたちの祈りです。その時、神は、わたしたちを罪から自由にしてくださるのみならず、罪人であるわたしたちを用いて他者の罪を赦すことさえお出来になるのです。

主イエスのみ名において、二人または三人のわたしたちが主の祈りの内に招きいれられ、心を合わせて祈る時、わたしたちが体験させていただくこと。それは、主イエスの祈りにおいて働かれる聖霊なる神。わたしたち自身の罪、さらにわたしたちがともに生きる人々の罪を赦してくださる愛の神・主キリストの大いなるみ業です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 9/3

年間第22主日 マタイ16:21-27

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

主イエスは、「わたしについて来たい者は」と、仰います。わたし自身にとって、主について行く、主にお従いさせていただく、そのこと以外に人生の目的はありません。皆さんもそうではないでしょうか。そのわたしに、そして、皆さんに、主イエスは、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と、仰せです。

しかし、「自分を捨てる」とは、どうすることなのでしょうか。この自分を一体どこに、どのように捨てよと、主イエスは仰せなのでしょうか。わたしは、それは、「主イエスの内」に、わたし自身を捨てさせていただくのだと思います。言い換えれば、主に、このわたしの一切を委ね切る、と言うことです。主に信頼し、自分の負っている重荷も含めた自分自身の一切を、主に委ね切らせていただく、ということです。

実は、主イエスの今日の福音のおことばは、今日になって唐突に語られたものではありません。今日の福音の少し前に、主は次のように仰っておられました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

軛や重荷、人生のあらゆる苦しみ、すなわちわたしたちの十字架。その中には、自らの罪とその結果もあるでしょうが、人生には病気や事故・災害のように全く理不尽に襲い掛かる苦しみもあります。多くの場合、それはわたしたちが自分で負うしかないと諦めます。しかしそれを主イエスは、わたしたちに「あなたの十字架」とは仰らず、わたしの軛わたしの荷」つまり主ご自身の負われる十字架と仰せです。

神なる主イエスご自身に、本来負われるべき苦しみ、軛や重荷、すなわち十字架などあろうはずはありません。しかし、わたしたちが自分で負うしかないと諦める軛、あるいは重荷を、主はわたしの軛わたしの荷と言い、そのわたしの軛わたしの荷を、「わたし」と一緒に負って欲しいと、わたしたちに仰ってくださるのです。

今日の福音で、主イエスはこのおことばを踏まえて、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と仰せです。本来わたしたちがひとり負うべき十字架、しかし負いきれない十字架を、主はわたしの軛わたしの荷と言い、そのわたしの軛わたしの荷を、主ご自身と共に負って欲しいと、わたしたちに仰ってくださいます。

わたしたちにとって、「自分を捨てる」とは、この主イエスに、神なる主のみこころとみ腕の中に、自分を捨て切る、自分を委ね切ると言うことではないでしょうか。その時、主は、そのわたしたちを、わたしたちの軛、苦しみ、重荷ごと、ご自身の十字架として、わたしたちと共に、わたしたちのために負い抜いてくださいます。

その時わたしたちが一人で負うしかないと諦めていた十字架を、主イエスがすでにご自身の両肩に負ってくださっておられることを、わたしたちはこの身、この両肩に知らされ、わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われる主のおことばの真実に、心から感謝させていただくのではないでしょうか。

わたしたちは自らの十字架を負うことなくして真実の人生は無いことを知っています。自らの生死の問題や苦しみや罪を直視せず、自らの十字架を認めず、自らの十字架を負うことを避ける人生は、偽りの人生以外の何ものでもありません。

とは言え、わたしたちは、自分の十字架を自分だけでは負い切れません。自分の十字架を、自分自身で負い切る力が無いのです。だからわたしたちは人生を、否、自らを偽るのです。自分自身の十字架が、自分にとって重すぎるからです。自分の十字架によって、自分が押しつぶされてしまうのです。そこに人生の解決はありません。

主イエスは、そのわたしたちの十字架を、わたしの軛わたしの荷と言われ、それを、ご自身と一緒に負って欲しいと、わたしたちに仰ってくださるのです。主はわたしたちを、わたしたち自身の十字架を主と共に負わせていただく人生へと招いてくださるのです。その時、わたしたちは、嘘偽りの無い人生を生きることができます。そこにこそ、わたしたちの真実の人生があります。もし、主と共に十字架を負わせていただくことがなければ、わたしたちの真実のいのちは、どこにもありません。

主イエスは、わたしたちにわたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と、仰せくださいます。主と共に十字架を負って歩ませていただく時、わたしたち自らの十字架を負う歩みが、主と共に生き、主の恵みを数える人生へと変えられます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 8/27

年間第21主日 マタイ16:13-20

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

ある時、主イエスは弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と、問いかけられました。弟子たちが「「洗礼者ヨハネ」だと言う者も、旧約の預言者、例えば「エリヤ」だと言う者もいます」と答える中で、主は弟子たちに、「それでは、あなたは、わたしを誰というか」と、尋ねられました。

他人が、主イエスのことをどのように言っているかというのではありません。「あなたにとって、わたしは誰か」と、主は、弟子たちに、そして皆さん一人ひとりに直接問いかけておられます。皆さんは、主にどのようにお答えするのでしょうか。

ペテロは、主イエスのこの問いに対して、誰よりも先に、そしてはっきりと、「あなたはメシア(ギリシャ語でキリスト、生ける神の子です」と答えました。それはペトロには、「わたしにとって、主イエスこそ、生ける神の子キリストです」ということです。

そしてこの時を境に、ペトロはそれ以前の彼とは最早同じではあり得ませんでした。主イエスをキリストと告白することは、ペトロにとって告白した主に自分自身を捧げることだったからです。そのペトロに、主は次のように告げられました。

「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペテロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

事実、これ以後のペテロは、とくに主イエスの十字架の死とご復活の後、この主のおことば通りのいのちを生き、さらには殉教の死を遂げて行きました。皆さん自身が、そのことの証人です。なぜなら、皆さん自身が、主イエスに、ペトロすなわち「岩」と名付けられた使徒の上に建てられた、主の教会の一部なのですから。

皆さんにとっても、主イエスに、「このわたしにとって、あなたこそキリストです」と告白することは、ペトロのように、皆さん自身をそのまま主お捧げすることでしょう。同時に、ペトロのように、それと引き換えに、皆さん自身も、主からその告白にふさわしい新しい人生を与えられることでもあるはずです。

ペトロのように、それは皆さんの思いや想像を遥かに超えた全く新しい人生であるに違いありません。ペトロにしても、ガリラヤの貧しい一漁師でした。その彼が主イエスにお会いするまで、主の「神の国」建設のために主の教会の「岩であり礎」として用いられることになるなどと、ただの一度でも考えたことがあったでしょうか。

福音の語る出来事は、たんに主イエス個人に起こった事件ではありません。ちょうどペトロのように、主を「神の子キリスト」と信じ、告白した皆さん一人ひとりを確実に包み込んで、皆さん自身の現実であり未来となる出来事だからです。

主イエスの物語は、したがって皆さん自身の物語でもあるのです。福音は、主および皆さんにとっての一つの「神の国」の事実と真実を語ります。そして、主と弟子たち、さらには主と皆さんの間に起こった出来事の前と後において、皆さん自身も世界も、決して同じではありません。それが福音の語る「神の国」です。

「神の国」とは、神なる主イエスご自身が支配しておられる国です。しかし、それは、どこか遠くにある国、というようなものでは決してありません。そうではなく、「それでは、あなたは、わたしのことを誰と言うか」と、皆さん一人ひとりに問われる主によって、「神の国」は、すでに皆さんのところに来ています。

そして、皆さんが主イエスに「あなたこそ、このわたしにとって神の子キリスト」と告白させていただくことによって、皆さんは「神の国」に入らせていただき、そこに生きるのです。そのために皆さんはこのミサに集っておられます。

今ここで、このミサで、主イエスご自身が皆さん一人ひとりに、「あなたにとって、わたしは誰か」と問い掛けてくださいます。否、問い掛けてくださるだけではありません。「あなたこそ、わたしにとって、神の子キリストです」と告白して生きる皆さんを、主はご自身の御からだと御血を与えて養い、「神の国」に生かされる信仰の喜びと永遠のいのちで満たしてくださいます。

これは、物語ではありません。皆さんに、今、現に、このミサで起こる「神の国」の出来事です。皆さん一人ひとりに「神の国」が始まる。今、ここに。なぜなら、「神の国の主」イエスご自身が、ここに、おられるからです。それがミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。