司祭の言葉 10/29

年間30主日 マタイ22:34-40

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これがいちばん重要な、第一の掟である。 第二もこれに似ている。『隣人をあなた自身のように愛しなさい。』 すべての律法と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

これは、「律法の中でどの掟がいちばん重要ですか」との律法の専門家の問いにお答えになられた、主イエスのおことばです。

神の律法とは、神の民の出エジプトの後、神がご自身の民、ひいてはわたしたちすべてに、モーセを通してお語りくださった神のことばの全体です。主イエスは、その神の律法の全体が、「神を愛し、隣人を愛しなさい」との二つの掟に基づいている(あるいは、集約される)と仰せになりました。そうであれば、この二つの掟とは、主なる神のわたしたちへの最も切なる「願い」であり、わたしたちへの「祈り」です。

「祈り」は、わたしたちの信仰生活の要です。大切なことがあります。神なる主イエスが明らかにしてくださったように、わたしたちに先んじて神が祈ってくださっておられると言うことです。むしろ、神はわたしたちを祈りにおいて創造してくださったと言うべきかもしれません。神は祈りの中でわたしたちを子として産んでくださった。そしてご自身の祈りをもって、神はわたしたちを養ってくださっておられます。

ちょうど幼子が母の言葉を聞きながら育ち、母の言葉を真似て言葉を身につけて行くように、わたしたちも神なる主イエスの祈りの内に命を与えられ、神の祈りによって養われ、神の祈りを聞き、神のことばを真似て祈りを身につけて行くのではないか。わたしたちの祈りは、神のわたしたちへの祈りへの応答ではないでしょうか。

あらためて、主イエスと弟子たちのことを思います。主の弟子たちは、主イエスの祈りによって主とともなる生活へと招かれ、つねに主の祈りの内に養われ続ける中で、「主よ、わたしたちに祈りを教えてください」と、主にお願いしました。「主の祈り」は、このようにして弟子たちに、そしてわたしたちに与えられたものです。

祈りとは、わたしたちが自分の知恵や力で始められるものではありません。主イエスに始められ、主からわたしたちに与えられるものです。祈りとは、聖霊において働かれる主からのわたしたちへの賜物であり、聖霊がわたしたちの内に結ぶ実です。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」「隣人をあなた自身のように愛しなさい。」これは、主イエスのわたしたちへの祈りであり、切なる願いです。しかしわたしたちは、時に、主のこの祈りをわたしの祈りとして祈り得ない自分、主の願いに生きることを拒むような自分の罪の現実の前に、自分で自身におののくのではないでしょうか。

しかし、使徒パウロは教えています。「(聖)霊もわたしたちの弱さを助けてくださいます。わたしたちはどのように祈るべきかを知りませんが、霊ご自身が、言葉に表せない呻きを通して、わたしたちのために執りなしてくださる。」 この聖霊なる神こそ、わたしたちに「イエスは主である」と信じ、告白させてくださった方です。聖霊こそ、祈りの内に働き、わたしたちの捧げる「パンとブドウ酒」を主イエスご自身の御からだと御血、すなわち主のいのちとしてわたしたちにお与えくださる方です。

主イエスは、わたしたちに祈りをお与えくださるだけではありません。わたしたちに祈りとともに聖霊をお与えくださり、その聖霊によってわたしたちの内に働いて、主の祈りをわたしたちの内に成就させてくださいます。主は聖霊によって、わたしたちが主の祈りをわたしたちの祈りとして祈り、主の願いをわたしたちの願いとして生きることができるようにしてくださいます。これが、わたしたちの主イエスです。

「主よ、祈ることを教えてください」と、わたしたちも主イエスに願います。その願いに応えて、主がわたしたちにくださるのは、主ご自身の祈りと同時に、主ご自身のいのちである聖霊です。それは、主イエスご自身をくださると言うことです。聖霊こそ、主の霊であり主の息、つまり主イエスご自身のいのちだからです。

今、わたしたちもごミサで、主イエスの十二弟子たちのように、「主よ、わたしたちに祈りを教えてください」と、主に願います。主は、十二弟子たちにご自身の「祈り」をくださったように、わたしたちにも必ずご自身の「祈り」をくださいます。それは、主にとっては、わたしたちにご自身のいのちをくださることです。聖霊によって。

主イエスのわたしたちへの愛は、わたしたちの主への思いを遥かに超えています。主はいつもわたしたちに先んじて、わたしたちのために祈ってくださるからです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 10/22

年間29主日マタイ22:15-21

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 主イエスは、仰せです。しかし、「皇帝のもの」、「神のもの」とは何なのでしょうか。

教会は、今日のこの福音を聞いて捧げる本日のミサの「奉納祈願」で、次のように祈ります。「万物の造り主である神よ、あなたからいただいたパンとブドウ酒を供えて祈ります。神のものをすべて神にお返しになったひとり子イエスの奉献に、きょうもわたしたちが固く結ばれますように。」

「神であるあなたからいただいたパンとブドウ酒」。もちろん、神は、最初から「パンとブドウ酒」をくださるわけではありません。「パンとブドウ酒」は、神からの「大地の恵み」である麦とぶどうを元にしてのわたしたちの「労働の実り」です。それにもかかわらず、その「パンとブドウ酒」を、あえて「神からいただいたもの」、すなわち、本来「わたしたちのもの」ではなく、「神のもの」と、神に感謝し、祈るのです。

「主は与え、主は取りたもう。主のみ名は、ほむべきかな。」災害ですべてを失ったヨブの言葉です。ウクライナ戦争や新型コロナ感染症を含めここ数年の相次ぐ災禍で、ヨブのようにわたしたちも、大きな犠牲を払って学んだことがあると思います。それは、「麦とぶどう」の「大地の恵み」は、確かに神からいただいたものですが、それだけではありません。「大地の恵み」から「パンとブドウ酒」を生産するわたしたちの命、「大地の恵み」よって生かされているわたしたちの自身もまた、実は、神からいただいた恵み以外の何ものでもなかったという厳粛な事実では無いでしょうか。

主イエスが、「パンとブドウ酒」という形で、ご自身のいのちをわたしたちにくださったことの大切さを思います。「パンとブドウ酒」は、わたしたちが地上で命を繋ぐために不可欠な日ごとの糧であるとともに、それによって支えられるわたしたちの地上の命そのものの象徴です。そして、その一切が、神からいただいた恵みです。

しかし、「パンとブドウ酒」によって、わたしたちに、神がお与えくださる恵みは、実は、さらに大いなるものではないでしょうか。なぜなら、「パンとブドウ酒」は、天の父なる神と地に住むわたしたちを、地上の命を超えて、永遠に「固く結び合」わせてくださるために、神がわたしたちにお与えくださる恵み、でもあるからです。

わたしたちは、神からいただいた「パンとブドウ酒」を、感謝を以って神に奉献することを通して、「神のものをすべて神にお返しになったひとり子イエスの奉献にわたしたちが固く結ばれ」る事が許されるのです。なぜなら、そのように、わたしたちの主が、弟子たちとの「過ぎ越しの食事」、すなわち「最後の晩餐」においてわたしたちにお定めくださったからです。わたしたちにとって、ミサこそ、それです。

「パンとブドウ酒」は、神からの大いなる恵み。わたしたちの地上の命を支えるのみならず、主イエスに結び合わされるミサにおいてわたしたちの命を天に繋ぐから。

従って、「パンとぶどう酒」は、わたしたちがそれを自分だけのものと主張し、その結果、わたしたちの間に争いや悲劇を生み出すために、神から与えられるものではありません。そうであれば、地上の皇帝すなわち為政者の役割は明白です。わたしたちを、神のみ前に神の民として整えること以外にはありません。第一に、わたしたちに日ごとの糧としての「パンとブドウ酒」を保証することによって。さらに、その「パンとブドウ酒」を神に捧げることによって、わたしたちが主イエスの奉献に結ばれることができるように、神へのミサへとわたしたちを整えることによって。

今日のミサの「集会祈願」のように、「世界を治める唯一の神、すべての人を救いに導いてくださる方」である主イエスから、皇帝つまり為政者に託されている奉仕、つまり「皇帝のもの」とは、ひとえにわたしたち主の民のために来られた主への奉仕であるはずです。そうであれば、わたしたちにとって「皇帝のものは皇帝に返す」とは、皇帝つまり地上の為政者が、「神のものをすべて神にお返しになる」主に正しく奉仕できるように、彼らために罪の赦しを求め、彼らのために祈ることでしょう。

「パンとブドウ酒」は、わたしたちの日ごとの糧として神からいただいた命であるとともに、実はそれ以上に、それらを捧げて主イエスの奉献に固く結ばれるために、すなわち、主と結ばれて永遠のいのちに与るためにこそ、神からいただいたものです。このことの重要性は、戦争や相次ぐ災害で多くの命を天に送ったわたしたち、とくにカトリックのわたしたちには、身に沁みて感じられることではないでしょうか。

今、わたしたちとわたしたちの愛する日本の望みはどこにあるのでしょうか。それは、神からの恵みである「パンとブドウ酒」を神に捧げ、主イエスご自身神への奉献に固く結ばれることではないでしょうか。主に固く結ばれる事以外に、わたしたちの永遠のいのちへの希望はどこにもないからです。主が永遠のいのちだからです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 10/15

年間28主日 マタイ22:1-14

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「天の国(神の国)は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。」

今日の福音は、主イエスの「神の国のたとえ」の内、とくに「婚宴のたとえ」と呼ばれるものです。「婚宴」と言えば、主の「カナの婚宴の奇跡」を思い起こします。ヨハネによる福音(2:1-11)は、主が宣教の始めに、母マリアさまの願いに応えて、最初の奇跡をガリラヤのカナという小さな村の婚宴の場で行われたと伝えます。

それにしても、今日の「婚宴のたとえ」を含め、主イエスは「婚宴」の主題を、「神の国のたとえ」の中でよくお用いになっておられます。

「神の国のたとえ」は、主イエスにおいて「神の国」が来ているという事実を端的に指し示します。とくに「婚宴のたとえ」は、「神の国」には、主によって、主とともに祝う「神の国の食卓」が整えられてあることを、わたしたちに想い起こさせます。

ただし、「神の国が来ている」ということを、わたしたちのいのちの真実として認め、わたしたちの身の事実として受け入れるか否かは、主イエスを「神の国の主」キリストと信じるか否かに掛かっています。すなわち、わたしたちの信仰の問題です。

主イエスを「神の国の主」キリストと信じるわたしたちは、「神の国」は、わたしたちののもとに確実に来ているのみならず、そこには、「神の祝宴の食卓」が、間違いなく整えられてあることを知っています。主は今日のたとえの中で仰せでした。

「招いておいた人々にこう言いなさい。『食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意が出来ています。さあ、婚宴においでください。』」

しかし、主イエスを「神の国の主」キリストとまだ認められない人にとっては、主における「神の国」の到来も認められず、したがって、彼らは「神の国の祝宴」への招きに応えることもないでしょう。主は、同じく今日の「たとえ」の中で、「王が家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとはしなかった」彼らは主の招きを「無視した」のみならず、人々を「婚宴に招くために遣わした王の家来たちを、捕まえて乱暴し、殺してしまった」とさえ、語っておられました。

ここで見逃してはならないことは、主イエスの今日の「婚宴のたとえ」が、主が最後にエルサレムにお入りになられた後に語られた「神の国のたとえ」であるということです。事実、父なる神が、「神の国の祝宴」に人々を招くために遣わされた御子キリストは、ほどなく、神が「祝宴」に招こうとされたのに、その招きを「無視した」人々によって、「捕えられて乱暴され、殺されてしまい」ます。しかも十字架の上で。

主イエスは、エルサレムでこの日から数日以内にご自身に起こることの一切を予めご存じの上で、今日の「たとえ」をお語りになっておられることは明らかです。

それにしても、「神の国の主」キリストご自身が、「神の国の食卓」で、わたしたちのために整えてくださった「食事の用意」とは、いったい何だったのでしょうか。

それは、主イエスご自身の御からだと御血に他なりません。わたしたちのために十字架で裂かれた、主ご自身のいのちそのものです。

そうであれば、「神の国の食卓」を、わたしたちのために整えてくださることがおできになる方は、十字架の主イエス・キリスト以外にはおられません。そして今日、主は、すでにエルサレムにお入りになっておられます。十字架におつきになられるために。そこで、わたしたちのために、ご自身のからだを裂き、血を流されるために。

古来キリスト教会は、教会の教父たちの信仰と教えにしたがい、ミサを「婚宴」にたとえられる「神の国の祝宴」と信じ、ミサに与ることを至上の喜びとして来ました。わたしたちも、代々の教会とともに、今、ミサで「神の国の食卓」を祝っています。「神の国の主」キリストご自身が、わたしたちのために、十字架でご自身のからだを裂き、ご自身の血を流して整えてくださった「主の過越の食卓」を。

主イエスの福音に聞くわたしたちは、福音に働く聖霊によって、「神の国の主」キリスト以外に、「神の国」をわたしたちに来たらせてくださる方は、他に決して無いことを知らされています。さらに、主とともにミサを祝うわたしたちは、「神の国」を来たらせてくださる方は、十字架においてわたしたちに「神の国の食卓」を備えてくださるただ一人の方でもあることをも、はっきりと知らされています。

主イエスにおいて、「神の国」は、わたしたちのもとに来ています。わたしたちは、今、主が十字架で整えてくださった「神の国の食卓」に与ります。それがミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 10/8

年間第27主日 マタイ21:33-43

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。 

これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」

主イエスが、今日のたとえの最後に引用されたことばは、詩編の第118編の言葉です。この詩編は、ユダヤの「過越の祭」の食卓で詠われた、いわゆるハレル詩編歌と呼ばれた一群の詩編の中でも、とくに「過越祭」の最後に詠われた詩編です。

福音書は、主イエスと弟子たちが過越の食事、いわゆる「最後の晩餐」の結びに詩編を歌ってオリーブ山へ退かれたと伝えています。そうであれば、詩編118編のこの言葉の響きの中で、主は弟子たちとゲッセマネの園に向かわれたと言うことになります。そして皮肉なことに、この同じ詩編の、実は衝撃的な言葉の響きの中で、弟子たちはその夜、主を捨てて逃げ去ったわけでもあります。

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。 

これは、主のなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」

「最後の晩餐」に続く、主イエスの十字架の死と復活の出来事、さらにはそこで露わにされた弟子たちとすべての人間の罪の現実を、この詩編の言葉ほどに鮮やかに言い表していた言葉は、他に無かったと言うべきかもしれません。

主(神)がなさったことはわたしたち人間の目には「不思議」に見えると訳されています。これは、聖書の元の言葉ではむしろ、「驚嘆する、つまり驚き畏れる」と言う言葉です。畏るべきこと、驚嘆すべきこと、あり得ない事、が起こったと言うことです。

「家を建てる者の捨てた石。」それは大工、実際は石工(いしく)の役に立たぬとの判断で「捨てられた石」です。実は直訳すれば「粉々に砕かれ捨てられた石」。神は、この粉々に砕かれたその石を「隅の親石」、誰にも二度と砕き得ない「盤石の岩」とされた。これは不思議と言う以上に驚嘆し、畏るべき神のみ業すなわち奇跡です。

そして、神の新たに建てられる神の家、神の教会は、この盤石の岩の上にのみ建てられます。神は、わたしたち人の目に良く見える石の中から立派な石を選ばれたのではありません。わたしたちが砕き捨てた石を、永遠の岩、盤石な教会の礎とされたのです。それが、主イエス。十字架において砕かれ、しかし復活されたキリストです。

ところで、その石を粉々に砕き捨てたのは「家を建てる者」であったと言われています。事もあろうに、神の遣わされたただ一人の石工、つまり神の「家を建てる者」である主イエスを前に、彼になり代わって「家を建てる者」を名乗る者は一体何者なのか。神の前に、恥も畏れも知らぬ、倒錯した人間の姿がここに極まっています。

しかし、これは決して他人事ではありません。神の遣わされた唯一の「家を建てる者」である主イエスのみ前で、事もあろうに「家を建てる者」を名乗り、主なる石を粉々に砕き捨ててしまうことさえするわたしたち、そして、その罪の恐ろしさ。

しかし、わたしたちのそれほどまでの罪でさえ、全能の神のわたしたちへの慈しみと愛を妨げることはできません。神は、わたしたちが「砕き捨てた石」主イエスを、わたしたちのために「盤石の岩」にされたのです。神は、御子キリストを十字架につけるほどのわたしたち罪人を、まさにその主の十字架によって救ってくださる。

詩編118編は、先の言葉に続いて、次のように祈ります。

「今日こそ主の作られた日。・・・

主の名によって来たる者に祝福あれ。」

神の作られた今日この日に、主の名によって来たる者。それは主イエス以外にはおられません。この方こそ実に、わたしたちの罪によって粉々に砕き捨てられることを通して、わたしたちの命を盤石の岩であるご自身の上に、主の教会を建てることがおできになる方。この方のみが、わたしたちの罪の贖いゆえに十字架上で砕かれることを通してわたしたちの罪を赦し、わたしたちをご自身とともに復活させてくださる唯一の方。それは、わたしたちに対する主なる神の慈しみと愛ゆえです。

このような神、このような主イエスのみ前に、わたしたちには、最早、不思議、否、驚嘆と畏れ以外には、何も残されていません。ただ、主に感謝し、主を礼拝するのみです。詩編118編は、次の言葉によって、祈りを結んでいます。

「あなたこそわたしの神、わたしはあなたに感謝します。わたしの神よ、わたしはあなたを崇めます。主に感謝せよ、主は恵み深く、その慈しみは永遠。」

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。