司祭の言葉 6/25

年間第12主日 マタイ10:26-33

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である」(マタイ10:24,25)。

主イエスは、十二使徒たちを宣教に派遣されるに際し、不安を覚える弟子たちに、このようにお語りになっておられました。これは、自分に何の知恵も力もないわたしたちにとって、励ましと慰めに満ちた主のおことばです。

これに続けて語られた主イエスのおことばが、今日の福音です。主は仰せです。

「人々を恐れてはならない。・・・体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

これは宣教に遣わされる弟子たちやわたしたちが、傲慢であってよいということではありません。ご復活のキリストの使徒パウロも、神と人とに「謙遜と柔和の限りを尽くして」(エペソ4:2)お仕えするようにと、わたしたちを諭しています。

主イエスからのこのおことばをお聞かせいただく時、主が福音の宣教に遣わされる弟子たちに、「汚れた霊に対する権能をお授けになった」(マタイ10:1)と、先にマタイによる福音が伝えていたことを、わたしたちは、改めて思い起こします。

十二使徒が主イエスから受けた「汚れた霊に対する権能」とは何か。もちろんそれは、「聖い霊つまり聖霊の権能」。「聖霊」とは、ヨハネによる福音が伝える通り、ご復活のキリストの「息」。「息」は「いのち」つまりご復活の主ご自身のことです。

「(ご復活のキリスト・)イエスは重ねて言われた。『あなた方に平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(ヨハネ20:21,22)。

ここで、ご復活のキリストは、宣教に遣わされる弟子たちに、主ご自身を与えておられるのです。そうであれば、福音宣教とは、十二使徒たちを通して、聖霊によって主イエスご自身がみことばを語り、み業をなさるということに他なりません。

事実、マルコによる福音は、ご復活のキリストによって宣教に遣わされた弟子たちの様子を次のように伝えています。「(ご復活のキリスト・)イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは、出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」(マルコ16:20)。

言うまでもなく、十字架以前に弟子たちと寝食を共にしてくださった主イエスと、ご復活のキリストは、同じ方です。そうであれば、今日の福音で使徒たちがご復活のキリストから託された宣教の言葉も、十字架の前からの主ご自身の福音宣教のおことばと同じであったはずです。すなわち、「天の国は近づいた」(マタイ10:7)。

同時に、ご復活のキリストが使徒たちに託された宣教の働きも、十字架に至るまで主ご自身がなさったのと全く同じく、「病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払」(マタイ10:8)うということであるはずです。

福音宣教の働きが、このように勝れて主イエスのみことばと主のお働きにわたしたちがお仕えすることであることから、教会は、ご復活のキリストから託された福音宣教の働きを、決して自分たちの宣教と称したことはなく、必ず「神の宣教」・「主ご自身の宣教」と呼んで、常に、栄光を主に帰させていただいて参りました。

そうであれば、使徒たちにとって福音宣教とは、各々主イエスから派遣された地で、みことばとご聖体において聖霊によって現存される主ご自身にお仕えさせていただくこと以外の何ものでもありません。それは、主ご自身の宣教の証人とされることです。「誇るならば、主を誇れ」(1コリント1:31)と使徒パウロが語る通りです。

それはまた、使徒たちにとって、遣わされたどこの場所においても、ただ主イエスのみを畏れて生きることです。「人々を恐れてはならない」、さらに「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と、主が仰せになっておられる通りです。

宣教とは、聖霊によって現存される主イエスにお仕えすること。それは、聖霊なる主の世に対する勝利の証人とされるのみならず、わたし自身の罪に勝利を収め、罪から解放してくださった救い主キリストの証人とされることです。人を恐れず、主のみを畏れて生きる。それが、わたしたちに主から託された主の宣教・福音宣教です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 6/18

説教:年間第11主日(A年・2023年6月18日)マタイ9:36-10:8

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスは、十二使徒たちをわたしたちに派遣してくださいます。それが、今日の福音です。しかし、なぜでしょうか?

マタイによる福音は、今日の福音の直前に、十二使徒の派遣に先だって、主イエスが、ご自身ですでになさっておられた大切なことを伝えてくれていました。すなわち、「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ9:35)。 

その際、主イエスは、残らず回られたすべての町や村で、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9:36)。 わたしたちのこの現実に対して、主は、十二使徒たちを派遣されます。

主イエスは十二使徒たちを、決してご自身が見ず知らずの土地の、見たことも聞いたこともないわたしたちに対して派遣されるのではないのです。主が使徒たちを派遣されるのは、すでに主ご自身が「残らず回られた町や村」であり、そこで主ご自身が「深く憐れまれた」わたしたちのためなのです。

そうであれば、主イエスが十二使徒を派遣される目的は極めて明快です。主は、「飼い主のいない羊のように弱り果て打ちひしがれている」わたしたちの魂の牧者として、わたしたちの霊性の回復と司牧のために、使徒たちを派遣されるのです。

だからこそ、今日のマタイによる福音は、主イエスが、十二使徒のわたしたちへの派遣に際し、「汚れた霊に対する権能を授け」られたと伝えます。汚れた霊に打ち勝つ権能とは、聖い霊の権威と力、すなわち「聖霊の権能」に他なりません。

主イエスは十二使徒の派遣に際して、彼らに聖霊を託された、すなわち主ご自身を、主の活けるいのちを託されたのです。主は、わたしたちの傷ついた魂の配慮と、わたしたちの魂・霊性の回復とその司牧に、ご自身のいのちをかけておられます

十二使徒の後継者は、司教方です。わたしども司祭は、この司教の代理者として、主イエスから各小教区に派遣されています。したがって、小教区担当司祭は、Vicarすなわち(司教の)代理者」と呼ばれます。また、司祭は、主から託された「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」人々の魂の司牧というべき任務から、Curateすなわち(魂を)癒す者」・「(魂の)牧者」とも呼ばれます。

わたしたちの「魂の司牧」。それは、主イエスご自身の霊・聖霊にのみよることであり、叙階の秘跡を通して、司祭に特別に主から託された奉仕です。そしてそれは何よりも聖霊のみ業である秘跡において、とりわけ聖体の秘跡ミサにおいてなされることです。ミサこそ、主ご自身がわたしたち司祭を用いて、皆さんひとり一人に聖体において聖霊をお与えくださる、まさにその時だからです。

主イエスご自身の霊・聖霊こそ、真のCurateすなわち「癒し主」ご自身です。聖霊は、わたしたちの魂を癒してくださる、すなわち真の意味での魂の配慮をしてくださるのみならず、わたしたちを主の似姿へと霊的に成長させてくださいます。

故岡田大司教さまは、さいたま教区管理者時代の司牧書簡の中で、教区のすべての司牧者および信者の霊性の回復霊的成長こそ、教区第一の課題とご指摘になっておられました。霊性の成熟は、聖霊の働きの実りとして受ける以外に道はありません。したがって、「聖霊来てくださいVeni Sancte Spiritusと聖霊を求めてひたすら祈り、聖霊の恵みとご保護の内にミサにより深く与ることこそが、この課題の解決であることをわたしたちは今日の福音から確認させていただきたいのです。

あらためて、ご復活のキリストと十二使徒の頭ペトロとの対話を想い起こします。主は、三度ペトロに問われました。「わたしを愛しているか。」「主よ、わたしはあなたを愛しています」と、ペトロが三度主にお応えするたびに、主は彼にくり返し、ただ一つのことをお命じになられました。「わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:15-19)

なぜなら、主イエスは、ご自身ですでにわたしたちすべてを訪ねて、わたしたちが「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」ことを熟知しておられるからです。主はこれほどまでに主の羊であるわたしたちの傷ついた魂のことを、その回復を、さらに魂すなわち霊性の成熟を心にかけてくださっておられます。

だからこそ主イエスは、十二使徒たちの後継者である司教方、小教区におけるその代理者である司祭を派遣し、皆さんを主の聖霊の秘跡・ミサに招いておられます。この切ないまでの主のわたしたちへの思いの内に、今、ミサに与っています。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 6/11

説教:キリストの聖体(年間第10週)ヨハネ6:51-58

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音は、主イエスの「五つのパンと二匹の魚」の奇跡。教会は、主の「パンの奇跡」を、後に十字架の前晩、主が12使徒と「最後の晩餐」で祝われ制定された「聖体の秘跡」(ミサ)先取り(しるし)として大切にお聞きして参りました。

主イエスが、十字架の死の直前の「最後の晩餐」で、「聖体の秘跡」(ミサ)を制定された時のことを想う度に、一つの言葉が脳裏をよぎります。「一期一会」。これは千利休以来の日本の茶道の心を語ることばとして大切にされて来ました。利休自身の言葉では、「一期に一度の会」あるいは「一期一席」ともされます。一椀のお茶をともにいただく出会いは永遠であり、その出会いの内に人は永遠に生きる。このお茶に命の一切を懸ける。このお茶をいただいた後、死んでも悔いはない。

事実、利休は、愛弟子との最後のお茶の直後に、秀吉から賜った死を遂げました。利休の死を看取った彼の妻も、彼の最愛の弟子であった大名・福者高山右近も共にキリシタン。利休はその最期の時、「最後の晩餐」に続いて死を遂げられた主イエスのことを想ったのではないでしょうか。「利休のお茶の背景にカトリックのミサが考えられる」と、裏千家の前家元が英語版のお茶の本に書いていました。事実、一つの椀から回し飲みをするのは、利休の濃茶とカトリックのミサ以外にはありません。

「一期一会」。弟子たちとの「最後」の晩餐。そのことは、十字架を前に、主イエスには明確に自覚されていたはずです。後に、それは弟子たちにも、「最後の晩餐」に続く主の十字架の死と主のご復活を経て、明確にされました。「一期一会」。「わたしの記念として、これを行え」と、主が、わたしたちに残された「聖体の秘跡」(ミサ)。これこそ「一期一会」の秘跡。人と人との出会いの秘義を教える利休のお茶をはるかに越えて、神と人との出会いの永遠の秘義に目を開かせ、さらにその永遠の秘義をわたしたちの身の事実とさせてくれるものこそ、ミサです。

「一期一会」。利休が、お茶としてわたしたちに残していったのは、彼自身です。彼との出会い。さらに彼個人と出会いを越えて、人と人との出会いそのものの秘義です。「一期一会」。「最後の晩餐」、すなわちミサで、主イエスが、わたしたちに残されたのも、主ご自身。主イエスにおける父なる神との「一期一会」の出会いです。神と人との出会い。そしてそれは、余りにもリアルです。ミサは、伝えます。「主イエスはすすんで受難に向かう前に、パンを取り、感謝をささげ、裂いて、弟子に与えて仰せになりました。『皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである。』食事の後に同じように杯を取り、感謝をささげ、弟子に与えて仰せになりました。『皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。これをわたしの記念として行いなさい。』 信仰の神秘(秘跡)。」

ミサの中で司祭を用いて主イエスが、みことばと行為によって聖別されたご聖体において、聖霊によりご復活の主ご自身が現存されます。歴代の信者・殉教者たちが、聖体の内に現存されるご復活の主に彼らの生涯を託し、最後には彼らの命を捧げ、唯一人たりとも裏切られたことの無い、これがわたしたちの信仰です。

聖体における主イエスとの「一期一会」の出会いの内にご復活の主のいのちを受けた聖アウグスティヌスは語ります。「キリストのご聖体を拝領する時、わたしたちは、主をわたしたちの体に変えるのではなく、ご聖体を受けたわたしたちが、主によって主のからだに変えられますその時わたしたちの罪なる体が、キリストの栄光のからだへと変えられます。皆さんは、ご聖体によって、ただキリスト者(キリストに属すもの)とされるのではありません。皆さんはキリストのからだとされるのです。」

わたしたちの内にまで来て、「わたしたちの罪なる体を、キリストの栄光のからだに変える」ことがおできになるのは、「聖霊」なる神お一人です。聖アウグスティヌスは、ミサで、わたしたちがご聖体としてお受けするのは、実は「聖霊」に他ならない、と明確に教えてくれているのです。「福音とご聖体において、活けるご復活の主キリストにお会いさせていただく」と先のベネディクト16世教皇はミサの秘義を教えてくださいました。わたしたちはすでに、聖アウグスティヌスから、ご聖体においていただくのは、「聖霊」に他ならないと教えられていました。この「聖霊」こそ、目に見えないけれども活けるご復活の主ご自身に他なりません。

今、ミサで、ご復活のキリストが、ご聖体においてご自身をわたしたちにお与えくださる。ご聖体の内に働かれる「聖霊」は、わたしたちの内に来て、罪なる体から主のからだへと変えてくださる。わたしたちは主のからだに変えられて神の国に「過ぎ越」させていただく。これこそ確実に神の国に帰らせていただく道です。ミサで祝うのは、ご聖体のキリストにおける神と人との「一期一会」の出会いの秘義、ご聖体の主とわたしたちとの「過越の神秘」です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 6/4

説教:三位一体の主日(年間第9週)ヨハネ3:16-18

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「聖霊降臨の主日」に続けて祝う今日「三位一体の主日」の集会祈願で、「唯一の神を礼拝するわたしたちが、三位の栄光を称えることができますように」、と祈りました。「唯一の神」を、父と子と聖霊の三位のみ名を以てお呼びさせていただく。実はこれは、ご復活のキリストご自身が、すでになさっておられたことなのです。主は仰せでした。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:18b-20)

主イエスは最後の晩餐の説教で、ご自身が去られた後、天の父なる神は、わたしたちに「聖霊」をお遣しくださり、その「聖霊」によって、主がわたしたちにお約束くださった救いのみ業を完成してくださると、仰せになっておられました。実は、これに先立って、主は、父なる神が「聖霊」によってわたしたちに完成してくださる救いのみ業は、「父なる神」「御子キリスト」との間には、すでに、かつ永遠に成就されている事実であるとして、次のように仰せになっておられました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。」(ヨハネ3:16)

この永遠の事実に目を開かせてくださるのも「聖霊」です。主イエスは仰せでした。「真理の霊(聖霊)が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(ヨハネ16:13)「真理」とは、神のわたしたちに対する救いのみ業の一切のこと。ただ、それはどのようなことなのか。神は、それをどのようにして完成されるのでしょうか。

「聖霊降臨」の主日に、わたしたちは、「御独り子と共に神の国を継ぐ人々の上に、あなたは今日、聖霊を注ぎ、過越の神秘を完成してくださいました」と祈りました。したがって神のわたしたちに対する救いのみ業の一切とは、わたしたちに完成されるべき「過越の神秘」です。すなわち、ご復活のキリストがわたしたちにご自身のいのちである聖霊を与えて、本来罪によって死すべきわたしたちを、ご自身のご復活のいのち、永遠のいのちへと過ぎ越させてくださることです。

「唯一の神」を信じるわたしたちですが、ユダヤ教やイスラムの人々のように、たんに「天にいます神」とではなく、主イエスご自身にしたがって、神を「父なる神・御子なる神・聖霊なる神」「三位一体の神のみ名」でお呼びします。わたしたちの救いわたしたちにおける「過越の神秘」の完成のために、唯一の神が三位の神のみ名で働かれるからです。罪深いわたしたちが、罪人ゆえの死ではなく、神の永遠のいのちに新たに生まれさせていただくためには、唯一の神が、わたしたちに「父なる神」、「御子なる神」、「聖霊なる神」として、救いの秩序において働き、わたしたち一人ひとりの内に神の救いのみ業・「過越の神秘」を完成してくださる他ないからです。

すなわち、「天の父なる神」は、天地の創造主としての権能・権威とみ力の座である天を離れることがないままに、自らを「御子キリスト」として地のわたしたちのもとにまで来て、わたしたちの罪の贖いためにご自身を十字架につけてくださいました。さらにわたしたちのために復活され、ご昇天の後には、わたしたちにご自身の霊である聖霊をお遣わしになり、その聖霊はわたしたちの内にまで来て、わたしたち一人ひとりをキリストの似姿に変えつつ、わたしたちすべてを罪の地上から聖なる神の国へと過ぎ越させてくださる。これ以外に、わたしたちが、神のみ国に帰らせていただく確かで確実な道はありません。神はこのようにして、わたしたち一人ひとりに主の救いのみ業の一切、すなわち「過越の神秘」を完成してくださいます。

そしてそれは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」福音が証し、わたしたちに「聖霊」によって成就される神の自己犠牲の愛ゆえです。天の神から与えられる律法の順守によって、地のわたしたちが救いか滅びかに定められるというのではありません。わたしたちには、律法を順守して自らの力で天の父の許に帰って行くような知恵や力はありません。そのようなわたしたちに、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」に、主イエスが成就してくださった救いの綿密な手続きを一つ一つ指折り数えるように、唯一の主なる神を、父・子・聖霊と三つのみ名を順に懺悔と感謝の心を込めてていねいにお呼びさせていただく。神が複雑な方だというのではありません。わたしたちの側が、わたしたちの罪が、わたしたちを救ってくださる神の救いの手続きを複雑にしていたのです。

「三位一体の信仰」は単なる教理ではなく、わたしたちの懺悔と感謝による賛美と信仰の告白です。罪なるわたしたちに「過越の神秘」を完成してくださる神の綿密な救いのみ業を丁寧に思い起こさせていただく時、わたしたちは神のみ名を、単に「天にいます唯一の神」とではなく、「父なる神」「子なる神」「聖霊なる神」と指折り数えるように、心からの懺悔と感謝をもってお呼びさせていただく他ないのです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。