司祭の言葉 11/28

待降節第1主日C年 (ルカ21章25-28,34-36節)

 今日から待降節に入りました。
 待降節はラテン語では「アドヴェントゥス」で「到来」を意味しますが、この到来には二つの意味があります。

 一つにはまず、神の子の第一の来臨、クリスマスを待ち望む期間です。
 ・・・楽しい思いをする、喜びを手に入れる、そのためには待つことが必要です。
 並んで待つのがどうも苦手。だからおいしいものも口にすることが少ない。
 スイーツ、ラーメン、デパートの人気の食堂
 子どもの頃はクリスマスが待ち遠しくて仕方が無かった。その時を迎えるために、リースを作ったり、ツリーを飾ったり、馬小屋を作ったりいろいろ準備をしてその時を待ちました。
 きれいな靴下も用意して・・・
 大人になった今はどのようにその時を準備すればよいのでしょうか。

 待降節のもう一つの意味は、神の子の到来の追憶を通して、終末、世の終わりにおけるキリストの第二の来臨を待ち望み、そのことに心を向ける期間でもあります。
 黙想会はこの第二の来臨を準備します 

 今日のテーマは目覚めていなさい・・ということです。
教会で仕事をしていたらチャイムが鳴る。出てみると本を手にした女性。
世界中で読まれている本の紹介に来ましたといいます。すぐ判りました。「めざめよ」という本を持っています。 ものみの塔の小冊子、エホバの証人です。

その主張は  ●イエスキリストはエホバ神が最初に作られた被造物
       ●父より低いので神ではない・・・というものです。
 でも会員の活動は驚くべきものがあります。 教会までにも来るのですから。

 今日の終末的福音を耳にして、多くの方々はまた、東日本大震災とその後に起こった福島原発の事故を思い起こしたことでしょう。
 そして、行政のあるいは電力会社の言い訳として、想定外という言葉がたびたび使われました。東日本にあのように大きな地震が来ると言うこともみな考えませんでしたし、あのように大きな津波が来ると言うことも考えませんでした。防災地図の津波想定の範囲を超えて大津波が押し寄せました。皆、ここまでは来ないと考えていましたし、防波堤を越える津波も想定していませんでした。原子力発電所の電源が全て失われると言うことも想定外でした。
 また今回のパンデミックにあたって、すでに2年が経過しているのに、日本製のワクチンはまだ出来上がっていません。基礎研究に十分な予算がつけられていなかったせいだとも聞きます。また、増え続ける医療費削減のため、保健所の数も平成元年の848から昨年は469と半減させたため、感染者特定作業の処理能力の限界を超え、政策の見直しを迫られています。

 いずれも想定外でしょう。 でも、今日の福音は想定外という言い訳をしてはいけないと、いつも備えているように戒めます。

 「太陽と月と星に徴(しるし)が現れる」というような天体の異変は、イザヤ13章10節、エゼキエル32章7節、ヨエル2章10節などにも見られます。
 これは、人間の罪に対する神の裁きの到来を表す表現です。

 現代のわたしたちが思い描く世界の終わりは、世界全面核戦争であったり、地球環境の悪化による人類の滅亡であったりして、破滅そのものであり、そこには何の救いも感じられないかもしれません。

 しかし、聖書の終わりについてのメッセージは同時に救いの完成のメッセージでもあります。なぜなら、その時が神との出会いの時でもあるからです。

 28節に「解放の時が近いからだ」とあります。解放とは、ギリシア語では、「アポリュトローシス」 「身代金を払って奴隷を解放する」という意味です。わたしたちは何の奴隷となっているのでしょうか。何に縛られているのでしょうか。 
 この世界の混乱に対する不安。この世界の悪の現実、戦争や犯罪や暴力という現実、
 さらには、「放縦(ほうじゅう)や深酒(ふかざけ)や生活の煩(わずら)い」(34節)それらが私たちを縛り、心を鈍くし、周りの事柄に無関心にしているとも言えます。

「いつも目を覚して祈りなさい」の「目を覚ましている」ということはどういうことでしょうか。マルコ、マタイ、ルカの各福音書ではそれぞれにニュアンスが違うようです。

 マルコ13章では、偽預言者に警戒するように、目に見えるものではなく、決して滅びることのないイエスの言葉に信頼を置くように、という勧告ですし、

 マタイ24-25章では、最終的に「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)というイエスの宣言につながっていきますので、「目を覚ましている」ということは、現実の生活の中で目の前の苦しんでいる人を大切にして生きることといえます。

そして今日のルカ福音書では、目を覚ましていることを祈ることと結びつけますので「目を覚ましていること=祈ること」と言っても良さそうです。
 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くなる」というのはおそらく誰の中にもあることでしょう。 しかし、その時なって想定外という言葉を口にすることのないように、心しておくべき大切なことがらに心を向けさせるのが「祈り」なのです。

司祭の言葉 11/21

王であるキリスト Jo18章33節~37 B年

 今日の朗読個所は、大祭司たちがイエスを尋問した後、ローマ総督ピラトにイエス様を処刑させるため総督官邸に送り、これを受けてピラトがイエス様を取り調べるくだりです。

 ピラトは、いつもは地中海に面した港町カイザリアに住んでいますが、過ぎ越祭のように大勢の群衆がエルサレムに押し寄せる時期には、不測の事態に対処するために、エルサレムのヘロデの宮殿か、あるいはアントニア要塞に官邸を置いていました。
 彼はローマ人ですからユダヤ人の政治的な動向には細心の注意を払っていましたが、信仰上のもめ事には全く関心を持っていませんでした。そこで大祭司たちは政治上の問題として訴え出たのです。自分を「王だ」と言っている謀反人だと。

 王と言っているとすれば大問題です。王の任命権はローマにありましたから。
 ピラトは、「お前がユダヤ人の王なのか」と切り出します。「お前が」と、強調されています。目の前の人物は予想とは違った、みすぼらしい無力な人物であり、とても「王」とは云えない姿に驚き、軽蔑の心をにじませながら「お前のような者が王だというのか」と口に出したのです。

 ピラトはこれまで、多くのユダヤ人の問題を尊大な軽蔑の念を抱いて処理してきました。

 しかし、イエス様をそのようには処理しませんでした。物語を読んでゆくと、ピラトは自分の理解できない状況の中で、とまどい、あがいているのがわかります。

イエス様はあからさまに、「私の国はこの世には属していない」と言うことによって、自分は王である、しかしそれは、地上のものではないと定義を下します。
 エルサレムの空気は、常に爆発の危険をはらんでいました。過ぎ越祭りの時期は民族意識が高まって、ものすごい、一触即発のダイナマイト状態となりました。ローマ政府はそのことを良く知っていました。そこでいつもこの時期は、臨時の軍隊をエルサレムに送り込んでいました。
 もしイエスが暴動を起こそうと思ったら、志願兵を募ったなら簡単に成功したと思われます。ピラトは、どんな時も3000人以上の軍隊を持ちませんでした。その一部は本部のカイザリアに、一部はサマリアに置かれましたから、エルサレムで実際の任務に当たっていたのは数百人でした。

 イエス様はここで、自分が王であることを明らかにしながら、同時に、自分の王国が軍事力でなく、人間の心の中の王国であることを明らかにしています。

 ここでイエス様は自分が何故世に来たかを述べます。神についての真理、人間そのものについての真理、人生についての真理を教えるために来たと。

 これこそ、まさに、わたしたちがキリストを受け入れるか拒絶するかのどちらかを決めなければならない大きな理由です。

 真理について中途半端な道は許されませんから
 人はそれを受け入れるか、拒絶するかのいずれかになります。
 そして、キリストがその真理なのです。

 私は王と言う言葉が好きではありません。この世の王は、力によって弱いものを従属させる、そのような王ですから。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず・・」という有名な言葉があります。福沢諭吉の「学問ノススメ」冒頭の言葉です。王と臣民・・・ここに貧富の差や人種差別、貴賤と言った差別の原点があるとみるからです。

 聖書における王の起源は、神こそは王であるというものです。このお方はすべての人を神の国へと招き入れます。人々がこの世の王を求めた時、神こそが王でありこの世の王は必要ないとさとしましたが、人々は人間の王が欲しいと聞き入れませんでした。(サムエル記上8章)

 わたしたちはキリストを王としていただいています。
 今日はそのことを忘れないための日です。
 わたしたちは、・・・武力によってではなく、人々の心を愛によって征服する務めをもつキリストの、愛の兵士です。

 「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」
(1コリント9ノ16)
 と言ったパウロにならい、わたしたちもまた、一人一人の心の中にこの福音を述べ伝えたい、との思いを新たにしたいと思います。

司祭の言葉 11/14

年間33主日

 教会の典礼暦年は終わりに近づいてきました。朗読は週末について考えるように求めています。今日の箇所はエルサレムに入城し壮麗な神殿に感嘆している弟子たちに対して、エルサレム滅亡を語ったお話です。

 このような苦難の後とは、・・聖書と典礼の解説に述べられていますが、今日の朗読箇所の前13の5から23には、戦争や迫害、天変地異や偽メシアの出現など、終わりの日に起こる苦難のことが語られています。
 その後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる・・
とありますが、この表現は当時の人々が用いていた終末的表現で、イエス様もそれをそのまま用いて、人々の目を終末に向けようとしています。
 主なる神は言われる、「その日には、わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くし、
アモスの預言8の9

 地は彼らの前におののき、天はふるい、日も月も暗くなり、星はその光を失う。
ヨエルの預言2の10

 わたしはあなたを滅ぼす時、空をおおい、星を暗くし、雲で日をおおい、月に光を放たせない。                         エゼキエルの預言32の7

 そしてその時とは、再臨の時であることが示されます。
「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」

 イエス様はイチジクの木を譬えにして、キリストの再臨の確かさについて語っています。イチジクは冬になると葉を落とし、夏の近づきとともに葉を茂らせます。そして人々は、それを見て季節の変化を感じ取ります。

 戸口に近づいていると言う表現は、終末はすぐそこにきている事を示します。それは、
天地が滅びても私の言葉は決して滅びない・・・というほど確かな事なのです。

しかし、確かで近いその日は、父の他は誰も知り得ません。
子も知らないというものをわたしたちが詮索するのはむだなことであると示されます。
必要なことは、いつも目覚めていることです。

 終末は救いの時なのですから、不安のうちに待つのではなく、熱心に待ち望みながら ・・ (御国が来ますように)今日の一日を目覚めて生きる事が必要なのです。
 わたしたちは、先のこともわからないのにずーと先のことまで考えていますが、人は無意識のうちにも、永遠に生きると言うことを自覚しているとも言えます。

 施設におりますと3年ほどに一度、県の監査がはいります。その時には、入居者の記録を丹念に読んで行きます。ですから、毎日の記録はきちんとつける必要があります。そして一人一人のケアサービス計画が立てられているか、半年に一度は、その見直しがなされているか、一人一人の大目標、小目標の設定、支援計画の見直しがなされているかなどをチェックして行きます。ですから毎年いつ監査が来ても大丈夫なように備えています。

人類滅亡などと、そんな大それた事を考えなくても、私にとってのこの世の終わりは必ず来ます。まずは、自分の死によって・・。 私たちの死亡率は100%ですから。

 私たちの大目標とは何でしょうか → 必ず、神の国にはいることです。
その為の小目標は設定されているのでしょうか。 いろいろあると思いますが、その一つは・・・常に神を大切にし、神に感謝することです。
 忙しい、たのしい、あるいは、つらい一日が終わり床につく前に、
 悔いも色々あるけど、今日も一日有り難うございました・・とつぶやけば感謝の祈りとなります。まずは日々感謝することです。

 さらに必要な小目標は、イエスが愛したように隣人を愛するように努めることです。イエス様が命をかけて贖った隣人を大切にすることです。どんなに許せない相手でもイエス様が許したのですから・・・。

 神の助けによって、頑張りましょう。

司祭の言葉 11/7

年間第32主日B年

 エルサレム神殿は縦300メートル横500メートルの城壁があり、その中に建てられた石作りの四角い建物です。異邦人の庭。婦人の庭があり、神殿に入れるのは男子だけ、さらに司祭だけが入れる生贄の祭壇と香をたく場所、その奥に大祭司だけが入れる至聖所があり契約の箱が置かれていました。

 「賽銭箱」というのは、日本の神社の前にあるような四角い木箱ではなく、ラッパ形の容器で、神殿の「婦人の庭」に十三個が置かれていたと伝えられています。各々特別な目的のためで、供えの穀物のため、油のためなど、神殿の費用のためでした。
 具体的にどんなかたちであったのかは分かりませんが、恐らく口が大きく開いていて、お金を賽銭箱に入れた時には音が大きく拡大されて響いていたのではないかと考えられます。
 ついで、やもめについても、理解しておく必要があります。女性の働く職場と言うものがなかったこの時代、独り身になった女性が生きてゆくのは大変でした。旧約聖書のルツ記にも、落ち穂を拾わせてもらって生活するやもめの姿が描かれています。

 ある日のエレサレム神殿です。お金持ちの夫人たちはジャランジャランと銀貨をたくさん入れていました。当時は高額貨幣も硬貨でしたから、重さに比例して音も派手だったかも知れません。やもめが入れたこの時、賽銭箱に響いた音は、正直、ささやかな音だったのではないかと思います。レプタは薄いものと言う意味でした。

当時のパレスチナにはイスラエル固有の貨幣であるシケルの他に、ギリシャ貨幣やローマ貨幣が入り乱れて流通していましたから、ローマ貨幣に馴染んでいる読者のためにこのような説明が必要になったのでしょう。レプトン銅貨は労働者の一日の賃金1デナリオンの128分の一とありますから、Ⅰデナリオンを1万円とすると、今でいえば、やもめが入れたのは160円ほどになります。

 しかし、その音を聞いたイエス様はその光景を見のがしませんでした。おそらく、とりわけ質素な身なりをしていたのだと思います。イエス様の目がいつも貧しい人々に向いていた証拠です。

 レプトン二枚はささやかな金額ですが、やもめにとっては、その日の食べ物を買うための最後の二枚、すなわち生活費の全部だったとイエス様は見抜いています。

その日暮らしのやもめでした。しかも、一枚を自分のためにとっておくこともできたのに、二枚とも投げ入れたところに、このやもめの心が表れています。

 ここでこイエス様が問題にするのは、贈り物の額ではなく、贈り物に伴う犠牲の大きさです。神様が喜ばれるのは私たちの犠牲の大きさなのです。
 そしてさらに目を止めるべきなのは彼女の信仰です。生活費のすべてをと言うことは、自分のすべてを神の手にゆだねたということになります。

 今日のイエス様の言葉を自分に向けた言葉として聞いて、神への応えとして、何か一つ決意をいたしましょう。