司祭の言葉 4/27

復活節第2主日 (神のいつくしみの主日) ヨハネ20:19-31

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしの主、わたしの神よ。」

主イエスの十二使徒の一人トマスが、ご復活の主日から八日目の当に今日、彼を訪れてくださったご復活の主イエス・キリストご自身に、深い懺悔、そして畏れと感謝をもって告白した、彼の信仰のことばです。彼のこの信仰のことばは、今に至るまで、すべての時代、全世界のキリスト者の信仰告白のことばであり続けています。

聖トマスは、「わが主よ、わが神よ」との彼の信仰のことばとともに、二千年の教会の歴史を通して記憶されてきました。しかし、トマスは最初から信仰者の模範というべき人であったという訳ではなかったようです。最初はむしろ逆であったともいえます。トマスは、弟子たちの間で、「ディディモ」と呼ばれていました。これには「双子」に加えて、「疑い深い」と言う意味もあるのです。それには、理由があります。

わたしたちは、先の主日を、主イエス・キリストのご復活の主日としてお祝いいたしました。主は十字架におつきになられる前に、弟子たちに三度、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活する」と仰せになっておられました。このおことば通り、主は十字架に死に、そして三日目に復活されました。

その復活の主日の後、昨日までの一週間、わたしたちは毎日の礼拝で、ご復活の主イエスが、最初にマグダラのマリアに、続けて十字架のもとにまで主に従い続けた婦人たちに、さらにペトロたち主の弟子たち一人ひとりにお会いくださった次第を、喜びと感動、そして畏れをもって、福音からていねいにお聞きし続けて参りました。

ただし、ご復活の主イエス・キリストは、今日までトマスにだけはお会いなっておられませんでした。なぜでしょうか。今日の福音が伝えているように、ご復活の日の夕方、主が他の弟子たちをお訪ねになられた時、トマスは、そして彼一人だけが、彼らと一緒にいなかったからです。トマスは、主イエスのご復活を疑っていたからです。

ペトロがトマスに、「わたしたちは、週の始めの日に、確かに主に、ご復活の主にお目に掛かった」と熱く語った時も、トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」とさえ応えていました。

さて、ご復活の日から丁度一週間後の今日、ペトロ始め主イエスの弟子たちは再び集まりました。トマスも今日は一緒でした。ご復活の主日と同様に、主は八日目の今日再び、弟子たちを訪ねてくださいました。ご復活の主イエスは、今日はとくにトマスにお会いくださるために来てくださいました。主はトマスに仰せになりました。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

ご復活の主イエス・キリストのこのおことばに応えて、トマスの心の底から絞り出されるようにして語りだされた言葉こそ「わたしの主、わたしの神よ」でした。疑い深いトマスでした。主のご復活の約束を、さらにその事実をも疑っていました。しかし、トマスは、最早これ以上疑い続ける訳にはゆきませんご復活の主イエスご自身が、今、弟子たちのただ中に、そしてトマス自身の目の前に立っておられるからです。

その時、トマスは主イエスのみ前に悔い崩折れる他無かったと思います。今日まで疑いの内に自らを閉ざしていたトマス、主の十字架の下に蹲り続けていたトマスを、主は大切に抱きしめ、抱き起こしてくださいました。十字架の釘跡の残る主の両の御腕で。槍で刺し貫かれた傷跡の残る主のみ胸の内に。それが、主のご復活です。

「ディディモ」と呼ばれたトマスのように、主イエスを「疑う」こと、神の遣わされた主を信じ切ることができないことを、聖書では罪と言います。この罪の帰結は死以外にはありません。神を疑い続ける限り、人は真実に生きることはできないからです。神を疑う者は、結局は自分自身も疑い、誰をも信じることはできず、したがって、誰とも信頼しあい、愛しあい、望みをもって生きることはできないからです。すなわち、神を疑う者は、神と人とに対して死んだ者である他ないのです。

しかし疑うトマスを、主イエスはそのままにしてはおかれません。ご復活の主イエス・キリストは、彼を、神と人との前に決して死んだままにしてはおかれません。トマスだけではありません。実は、二度もご復活の主のご訪問を受けながら、なお主のご復活を疑ったペトロ始め主の弟子たちを、ご復活の主イエスは忍耐強く、「三度」訪ねてくださいました。わたしたちすべてが、最早二度と、主のご復活を疑い得なくされるまで、十字架のもとに蹲っていたわたしたちすべてが、主に抱き起こされ、主とともに主のご復活のいのちに歩み始める者とされるまで、主は忍耐強くわたしたちを訪ね続けてくださいます。それが今日の福音です。

「わたしの主、わたしの神よ」。 ご復活の主が、皆さんとともに。 アーメン。

司祭の言葉 4/20

復活の主日・日中のミサ ヨハネ20:1-9

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエス・キリストのご復活の日の朝早く、マグダラのマリアは、主のおからだが納められた墓を訪ねました。しかし、その墓の内に、主を見つけることは出来ませんでした。ヨハネによる福音は、そのように伝えています。

主イエスにもう一度お会いしたい。主への切ないほどのマグダラのマリアのこの一途な思い。しかし、訪ねた主の墓が空であった時のマリアの驚きと落胆。それは、皆さんもよくお分かりになると思います。

しかし、「その時」と、ヨハネによる福音は、続けて、マグダラのマリアとご復活の主イエスご自身との驚くべき出会いを伝えます。

マリアが「空の墓の外に立って泣いていた」「その時」、彼女は、「マリア」と彼女の名を呼ぶ声を聞いたのです。忘れもしないその声に、マリアは即座に、彼女の言葉で主イエスに、「ラボニ」と、お応えしました。「わたしの先生」と言う意味です。

「わたしの先生」。この短い言葉にマリアの逸る心を感じます。ふたたび見(まみ)えることができたご復活の主イエス・キリスト。主に縋りつきたい。しかしこの時、主はマリアに、「わたしに縋りつくのはよしなさい」と仰せになりました。なぜでしょうか。

マグダラのマリアだけでは無いと思います。実は、気付かないままにわたしたち一人ひとりも、「わたしの」思いの中に、「わたしの」小さな愛の中に、「わたしの」願いの中に、主イエスを求め続けて来たのではなかったでしょうか。

しかしご復活の主イエスは、逆にわたしたちが、「主の」内に、「主の」深い願いの内に、「主の」大きな愛の内にわたしたち自身を見つけることを求めておられます。

主イエスは、エルサレムに最後に入城された直後、神殿での説教で人々に、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12:32)と、仰せになっておられました。

このみことばで主イエスは、ご自身の十字架に続くご復活が、聖霊による主ご自身の新しいいのちの始めであるとともに、主の十字架によって主に結び合わされたわたしたち自身の復活のいのちの始めでもあることを、語り示しておられます。そしてそのことを、復活の主イエス・キリストの使徒パウロは次のように語っています。

「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。・・・あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」(コロサイ3:1-4)

ご復活の主イエス・キリストが、マグダラのマリアに、「わたしに縋りつくのはよしなさい」と仰せになられた時、主は、続けて次のように念を押しておられました。「わたしは、まだ父のもとへ上っていないのだから。」(ヨハネ20:17)

ご復活の主イエスは、決してご自分だけが「天の父のもとに上っていないのだから」と仰っておられるのではないと思います。ご復活の主のいのちとともに、マリアの命も、まだ天の父のもとに高く上げられていないのだから、ということです。

しかし、ご復活の主イエスが天の父のもとに高く上られる時、必ずやマリアの命も主とともに、主によって天に高く抱き上げられ、主のご復活のいのちと一つとされます。ただしそれは、マリアが、ご復活の主に「縋りつく」ことによってではありません。ご復活の主キリストが、マリアを「抱き起こし、抱き上げる」ことによってです。

実は、主イエスがマリアと話された『聖書』の言葉では、「復活する」とは、死んだ者、倒れた者が、一人で立ち上がると言う意味の自動詞ではありません。(倒れた者、死んだ者を)抱き起こし、抱き上げる」という意味の他動詞です。主は復活された。それは、倒れ死んでいた主イエスが生き返ったと言うだけではありません。むしろ、倒れ死んでいたのはマリアの方です。そのマリアを、あるいは倒れているわたしたち一人ひとりを、主が抱き起こし、抱き上げてくださる。それが主の「復活」です。

わたしたちのために十字架につかれた主イエス・キリストは、主の十字架のもとに、なお蹲(うずくま)ってしまうわたしたちのために復活してくださるのです。主のみ前に倒れているわたしたちを、死に打ち勝った主の力強い御腕で抱き起こし、さらに高く抱き上げてくださるために。十字架の傷跡のある主の御腕で。

ご復活の主イエス・キリストが、皆さんとともに。  アーメン。

司祭の言葉 4/20

復活の聖なる徹夜祭 ルカ24:1-12

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスのご復活の日の朝早く、マグダラのマリアと数人の婦人たちは、十字架の後に主のおからだが納められた墓に、香料を携えて訪ねました。彼女たちが墓に着いた時、神は「輝く衣を着た二人の人」を通して、彼女たちに声をかけてくださいました。マグダラのマリアたちが、「恐れて地に顔を伏せる」と、「二人の人」は、彼女たちに次のように告げました。

「なぜ、生きている方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」

ルカによる福音は続けて、「二人の人」のこのことばを聞いたマグダラのマリアたちについて、次の二つのことを伝えています。「その時、婦人たちはイエスのことばを思い出した。」さらに、彼女たちは、「墓から帰って、十一人(の使徒たち)とほかの人皆に、一部始終を知らせた。」後に、彼女たちが「使徒たちへの使徒」と呼ばれるようになるのも、理由の無いことではありません。

さて同じ時の出来事を伝えるマタイによる福音は、マグダラのマリアたちに、主なる神は「主の天使」を通して、「恐れることはない」と告げられたと伝えています。

(マタイ28:1-10)

「恐れることはない」。マグダラのマリアたちは、この時、何を「恐れた」のか。主イエスが納められたはずの墓が空だったことでしょうか。主を失った後の彼女たちの生の不安でしょうか。ルカが伝えるように、「恐れて地に顔を伏せた」マリアたちは、彼女たちに、今、お会いくださっておられる神を「恐れた」のです。そのマリアたちに、それゆえ、神はおことばをおかけくださったのです。「恐れることはない」

しかし、このわたしは、どうなのか。「恐れて地に顔を伏せ」、神に「恐れることはない」と言っていただかなければならないほどに、神を「恐れて」いるでしょうか。果たしてそのように神を、そして神のみを、恐れて生きてきたといえるでしょうか。

第二次大戦中、スイスのある司牧者が、クリスマスの説教をいたしました。その題は『恐れることはない』。この題は、主イエスの誕生を予告する天使ガブリエルが、主の母とされるマリアさまに告げた「マリア、恐れることはない」ということばから取られました。これはドイツのナチの軍靴の響きの中で、恐怖と不安に心が動転している人々に向けて語られた説教でした。彼は、この説教を次の言葉で結んでいます。

「もし、わたしたちが真に神を、神のみを恐れるならば、わたしたちは神以外の一切のものに対する恐れから自由になる。しかし、もし神を、神のみを恐れることがないならば、わたしたちは、真の神以外の一切のものを恐れて生きるほかはない。」

もし、神から「恐れることはない」とのみことばを聞かせていただくことがなければ、「神を恐れる」と言うこと自体に、思いも及ばなかったようなわたしでした。その結果、「神を恐れる」という、人として最も大切なことを忘れたままに、神を信じるとは言いつつ、現実には、取りとめのない不安と神以外のあらゆるものに対する恐れの中で、生涯を空しく過すことになってしまったかもしれませんでした。

愛してやまなかった主イエス。頼りにし切っていた主の十字架の死。主のご復活の朝早く、神から「恐れることはない」とのみことばを聞かせていただくその時までは、あるいはマグダラのマリアたちの心を占めていたのも、神への恐れというよりも、彼女たちのこれからの生の不安と、さらには主を失った彼女たちを取り巻くすべてのものに対する恐れであったかも知れません。

しかし、今、神への恐れの内に、神以外の一切のものへの恐れから解き放たれたマリアたち。マタイによる福音は、「神を恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」彼女たちの「行く手に、ご復活の主イエスご自身が立っておられた」と伝えます。その時、「イエスの前に、恐れひれ伏した」マリアたちに、主は言われました、「恐れることはない」

神のみを「恐れる」者から、神は、神以外の一切のものへの恐れを取り除いてくださいます。そして、この神こそ、主イエスにおいて、すでにわたしたちに親しくお会いくださっておられた方。十字架に至るまで、わたしたちを愛し抜いてくださった方です。この方が、今、わたしたちの前に立っておられる。それが、主の復活です。

「マリア、恐れることはない。」マグダラのマリアだけではありません。これは皆さんお一人おひとりへのご復活のキリストからの愛と慰めと励ましのおことばです。

「恐れることはない。」 ご復活の主が、皆さんとともに。 

司祭の言葉 4/18

聖金曜日・主の受難 ヨハネ18:1-19:42

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

昨晩のミサで、わたしたちは主イエスと十二弟子たちとの「過越の食卓」「最後の晩餐」を記念いたしました。続く今日、わたしたちは、十字架におつきになられた主のもとに集まり、「信仰の神秘」を記念します。しかしなぜ、「信仰は、神秘すなわち秘跡」なのか。信仰とはわたしたちの心の問題ではないのでしょうか。

ところで、「最後の晩餐」の時のことです。主イエスはペトロに、「わたしの行く所に、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる」と仰せになりました。ペテロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためには命を捨てます」と、主にお応えしました。その時のペトロの気持ちに偽りはなかったと思います。しかし、このペテロに主は、「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と、冷淡とも言えるおことばを返しておられました。

わたしたちは神を信じるという時、何を思うでしょうか。聖書において、「神を信じる」とは、極めて重い言葉です。それは、神に自分自身を委ね切ってしまうこと、さらには、神に自分自身を一切明け渡してしまうこと、捧げつくしてしまうことです。すなわち、「信仰」とは、わたしたち自身を神に「奉献」することです。つまり、聖書において「神を信じる」とは、近代人が考えるように、神の存在を知的に承認するというようなわたしたちの心の問題などではなくわたしたちの身を神に捧げること、です。

ペテロは主イエスに、「主よ、あなたのために命を捨てます」と申し上げました。それが、「主よ、あなたを信じます」ということなのです。事実、ペテロは後に主のために命を捨てます。ペテロの主への「信仰」は、彼の心の内の確信ではなく、彼の殉教によって成就します。ただし、それは主のご復活の後、聖霊の導きによってです。

しかし、「主の受難日」の今日、わたしたちが目撃するペテロの姿はどうでしょうか。今日に限って言えば、ペテロは、自分を主イエスに委ね切って、主とともに十字架につくことはできませんでした。そのように主を信じきることはできませんでした。しかし、そこには命はありません。主を離れて、命はないからです。主イエスが、主とともに十字架につけられた一人の人に「神の国」を約束されたように、主とともに十字架につけば、じつに、そこに永遠のいのちがある、神の国があるのです。

しかし、受難日の今日、わたしたちが目撃した事実とは、驚くべき事に、ペテロではなく、じつに主イエスの方が、ペテロのためにご自身のいのちを捨てられた、そのように主がペテロを信じた、という事実ではなかったでしょうか。

主イエスを信じきれず、主に自分の命を差し出し切れない今日のペテロ。そのペトロに対して、主の方がペテロにご自身のいのちを捧げ切ってくださった。そのようにして、主の方が、ペテロを「信じ切って」くださったのです。信仰とは、奉献であると申しました。実に、わたしたちが自らを主に捧げきれない中で、先に主イエスの方がわたしたちにご自身を捧げきってくださったのです。わたしたちが主を信じる前に、主がわたしたちを信じてくださったのです。それが、主の十字架です。

「主の受難日」の今日、これが、福音が伝える主イエスとペトロの間に起こった事実です。「信仰の神秘」。福音において明らかにされた「信仰」とは、「神秘つまり秘跡」・神の自己奉献のみわざとして神がわたしたちに成就してくださった神の事実です。今日、主の十字架のもとで記念するのは、この驚くべき神の恵みの事実です。

「信仰の神秘」。「神秘すなわち秘跡」。それは、わたしたちの思いを超えた神のみ業です。それは、理屈ではありません。今日のペトロのように、主イエスを信じ切れずに疑い、従って主のために命を差し出しきれないわたしたち。主のために死に切れないわたしたち。そのわたしたちのために、主の方が十字架の上でご自身の御血の最後の一滴に至るまで注ぎ尽くしてくださった。そのようにしてまで主はご自身を捧げつくしてくださった。十字架の死に至るまで。それが、信仰の神秘です。驚くべきことです。しかし、これは神が、事実なさってくださったことです。また、ご聖体の秘跡として、ミサの度ごとに神がわたしたちになさってくださる事実です。

「信仰の神秘」「秘跡である信仰」とは、わたしたちが頭で神の存在を確信すると言うような事でも、心の内に主の十字架を偲ぶというようなことでもありません。信仰とは、わたしたちの力を越えた主イエスの事実です。信仰とは、救い主キリストが十字架において、わたしたちにご自身を捧げてくださった恵みの事実です。

この主イエスに、わたしたちは感謝を以ってわたしたち自身を捧げさせていただく。これ以外に、主にお応えする道はありません。それがわたしたちの「信仰」、神へのわたしたち自身の「奉献」です。主イエスの方がわたしたちに先立ち、わたしたちにご自身を、ご自身の御からだと御血を、捧げ尽くしてくださったからです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 4/17

主の晩餐の夕べのミサ ヨハネ13:1-15

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

聖木曜日。主の晩餐の夕べのミサを祝う度に、かつて、わたしが英国で、ユダヤ人の友人の家庭の春の「過越の祭」の食卓に招かれた時のことを思い出します。

ユダヤの人々は、古い仕来りのままにユダヤ暦ニサンの月の14日の過越の晩、家族ごとに食卓に集います。家長のブドウの盃による祝福によって過越の祭儀は開始され、詩編の朗詠に続き、今日お聞きしたのと同じ出エジプトの物語が朗読されます。続いて、家長はパンを取り、感謝の祈りを捧げた後、パンを裂き、一同に配ります。その後、食事の終わりに、再度、家長からのブドウの杯による祝福を以て、過越の祭の食卓は閉じられます。ルカによる福音が正確に伝えている通りの順序です。

ユダヤ人の友の家庭で過越の祭の食卓に加えていただき、福音書の伝える主イエスと十二人の弟子たちの過越の祭の食卓、「最後の晩餐」の様子を心に思い浮かべていた時、ふと、わたしたちが囲んでいる家庭の過越の食卓の、いちばん大切と思われる席が空席であることに気付きました。ユダヤ人の友によれば、それは、待ち望んでいるメシア・キリストのために、大切に空けてある席だとのことでした。

それを聞いて、ああ、ここには主イエス・キリストがいらっしゃらないのだなと、それまでの感動に代えて、突然一切が虚ろにさえ感じられた事を覚えています。

しかし、今、わたしたちが祝っているこのミサは、違います。わたしたちの過越の食卓の主は、メシア・キリストご自身です。ただし、それは決して自明のことではないのです。これは、ユダヤの人々にとっては、今なお待ち望んでいる出来事なのです。

主イエスご自身が、ご自身の過越の食卓にわたしたちをお招きくださった。この驚くべき出来事を、ヨハネによる福音は、食事の前に主ご自身が弟子たちの足を一人ひとり洗ってさえくださったというさらに驚嘆すべき事実をもって語り始めます。

ミサ、すなわち主の過越の祭りの食卓は、そのようにして始められたのです。

それだけではありません。主イエスの過越の食卓で、わたしたちのために裂かれるパンとわたしたちのために注がれるブドウ酒。それは、主イエスご自身です。じつに主ご自身の御からだと御血です。マルコによる福音は、次のように伝えます。

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしのからだである。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」

これが、主イエスと弟子たちの過越の食事。これが、主とわたしたちのミサです。

ユダヤの人々のみならず、わたしたちも悩みや苦労の多い人生で、救い主キリストをひたすら待ち望んできた日々があったのではないでしょうか。救い主のために食卓を整えて待っていても、いつもその席が空席のままのような、長く虚ろな時間に疲れてしまったことが、かつての皆さんにもあったのではないでしょうか。

しかし今日は違います。このミサは、主イエスご自身がわたしたちのために整えてくださった食卓。ルカの福音によれば、「イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過ぎ越しの食事をしたいと、わたしは切に願っていた』。」 

食事の前に、一人ひとりの足をご自身で洗ってくださるほどに、救い主キリストご自身が切に願ってくださっておられた、主ご自身とわたしたちとの過越の祝い

長い間、わたしたちは自分の願いの中に救い主を求めて来ました。しかし今、このミサでは、主イエスご自身の切なる願いの中にわたしたちが招かれています。

主イエスのわたしたちへの切なる願い。それは、ご自身のすべてを、ご自身の御からだ、ご自身の御血の最後の一滴に至るまで、わたしたちにくださること。それは、わたしたちを神の国の食卓に招き、ご自身のいのちに生かしてくださるためです。

救い主キリストを待ち望んできたわたしたちの願いに先立ち、わたしたちをご自身の愛の内に、ご自身のみ国に招き入れたいとの主イエスの切なる願いが、すでにわたしたちに向けられていたのです。そして今、わたしたちはこのミサで主ご自身の限りなく深い願いの中に、強く、優しく、また確実に抱きしめられてよいのです。

救い主キリストのわたしたちへの切なる願いに抱かれて、今、わたしたちは、このミサ、メシア・キリストご自身の食卓で、「神の国への過越」を祝っています。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 4/13

受難の主日(枝の主日)ルカ23:1-49

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

灰の水曜日から受難の主日までの間、福音にお聞きしながら四旬節を歩んで参りました。それは、ちょうど、主イエスに伴い、主とともに、福音に語られた多くの人々との出会いを重ねた旅のようでもありました。

主イエスの出会われた一人ひとりの辿ってきた人生は異なっていました。その中には、主に出会い、主を信じ、主に自分たちを委ねていった多くの人々がいました。しかし、主のみことばを聞き、主のみ業に与りながらも、なお主を疑い、主を神の子キリストとして受け入れることができなかった人々もいました。

あるいは、今日のルカによる福音23章の語るエルサレムの群衆のように、一度は主を救い主キリストと歓喜の声を以って迎えたにもかかわらず、その同じ週の内に、その同じ主イエスを、十字架につけよ、と叫び出した人々もいました。

これらの人々の内、いったい誰がこのわたしなのでしょうか。じつのところ、その一人ひとりすべてがわたしである、ないしわたしであった、というべきかもしれません。

ご復活の主イエスの使徒パウロは、「聖霊によらなければ、だれもイエスは主であると信じることはできない」(一コリント12:3)と告白しています。その通りだと思います。わたしたちが、主を信じさせていただいているというのであれば、それはひとえに、聖霊なる神の恵みであり、聖霊の御導きに他ならないと思います。

たとえば、わたしは、仏門に生まれ、若い時に仏教の修行をさせていただいた者です。キリスト教とは縁もゆかりもなく生まれ育ったわたしが、手探りのような歩みの末、今、現に主イエスを神なる主キリストと信じさせていただいているということは、これは神の聖霊による導きによるとしか言いようのないことです。

実際、主イエスを疑わず信じさせていただくことは、わたしたちにはとても重い事です。聖書においては、主なる神を疑うことを罪といいます。神なる主キリストを疑うのは、主を心底から信じることができないからです。言い換えれば、主なる神キリストに自分を委ね切ることができないと言うことです。アダムとエヴァのごとく、いつでも逃げられるように神と自分との間に距離を置く。それが、罪です。

主イエスの時代のファリサイ派の人々が、そうでした。彼らは、旧約の時代を通して約束されていた救い主キリストを、熱心に待ち望んでいた人々です。しかし、彼らは主にお会いした時に、彼を神の子キリストと受け入れることができませんでした。主を信じ、自分たちを主に委ねることができませんでした。主を疑ったからです。それを、罪というのです。主は、それを本当に悲しまれたに違いありません。

そのようなわたしたちのただ中で、わたしたちのために黙々と十字架を負って歩まれる主イエス。四旬節の間中、主とともに、福音の語るたくさんの人々に出会い続けてきた中で、わたしたちは、じつはわたしたち自身に、同時に主ご自身に、出会わせていただいて来たのではないでしょうか。主を信じ切れず、主を疑うわたし。主に自分自身を委ね切れないわたし。そのようなわたしのために、わたしの罪、わたしの惨めさを一身にご自身の十字架として背負い抜いてくださる主イエス・キリスト。

主イエスを信じきれず、したがって主に捧げる何物も用意できなかったわたしでした。しかし、主は、そのわたしのために、十字架の死に至るまで、ご自身の一切を、ご自身の御からだとその御血の最後の一滴に至るまで与え尽くしてくださいました。十字架の主こそ、わたしの疑いの罪を破り、信仰をお与えくださった唯一の神です。

信仰の神秘。それは、主イエスご自身が、罪なるわたしに信仰をお与えくださった、主ご自身がわたしの「信仰」となってくださったということです。神を信じきれず、神を疑うわたしが、神を信じさせていただくには、それしかなかったのです。主の十字架。ここに初めて、かつ最終的に、わたしたちの神への疑いが破られ、神を信じ、わたしたち自身を神に委ね切る、神に自己を捧げて生きる新しい命が、わたしたちの身の事実とされた。「信仰の神秘」。「神秘」すなわち「秘跡」とは、神のみ業です。

ミサでいただくのは、わたしたちの「信仰の神秘・秘跡」である主イエス・キリスト、十字架においてご自身を父なる神とわたしたちに捧げかつ与え尽くしてくださった主の御からだと主の御血。「聖霊なる神」活ける主によらなければ、誰も「信仰」をいただくことはできないとパウロは教えていました。聖霊は、十字架の死を経て甦られた主ご自身のいのち、わたしたちを信仰に活かすご復活の主のいのちの息吹。

十字架とご復活の主イエス・キリストは、疑いの罪からわたしたちを解放し、自らを主に委ね切って主の内に真実に安らぐことをゆるす「信仰」を、聖霊の結ぶ実としてお与えくださいます。ご聖体において。「信仰の神秘・秘跡」。それが、ミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 4/6

四旬節第5主日 ヨハネ8:1-11

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」神殿で教えておられた主イエスの前に、律法学者によって姦通の罪を指弾されて連れて来られた一人の女性に語られた、主のおことばです。

ヨハネによる福音はこの時の様子を、じつに印象深く伝えていました。律法の教師であった律法学者やファリサイ派の人々は、その時、この女性を主イエスの前に引き出し、「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と、主に詰め寄りました。

彼らの言葉が悪意に満ちたものであったことは、福音が続けて「イエスを試して訴える口実を得るために、こう言ったのである」と伝える通りです。執拗にくり返される彼らの詰問に、主イエスは次のようにお答えになりました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい。」

主イエスのこのおことばに、最前まで勢い込んでいた律法学者たちも、「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」その時、主はこの女性に言われました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」この主の問いかけにその女性が、「主よ、誰も」と答えたとき、主がこの女性にお語りになられたのが、冒頭に引用した主のおことばでした。

ここで注意しておきたいことがあります。ヨハネによる福音はこの出来事を、第7章から第10章前半にかけて伝えられる、当時のユダヤ人の「仮庵祭」を背景に物語っていることです。ユダヤの「仮庵祭」とは、神の民イスラエルの出エジプトを記念し祝う「過越祭」(「種入れぬパンの祭」)、さらに、その50日後にモーセがシナイ山で律法を受けたことを記念する「五旬祭」(「七週の祭」)と並んで、当時のユダヤ人のエルサレム神殿への三大巡礼祭の一つとされていました。

とくにユダヤ暦の一年の最後、秋の穀物・油・ぶどう等の収穫後に七日間祝われる「仮庵祭」は、「収穫感謝祭」(出エジプト記23:16)とも呼ばれ、一年で最も盛大な祭りであったとも言われています。ただし「仮庵祭」は、信仰においては、神の民の出エジプト後の荒野の旅の間、「神が民を仮庵(幕屋)に住まわせた」(レビ記23:42-43)こと、またこの間、神ご自身も「仮庵(臨在の幕屋)」に住まわれた(出33:7-11)ことを、感謝して想起するための祭儀でした。

したがって、「仮庵祭」の祭儀の中心は主なる神の記念です。荒野の旅の間、民の「唯一の牧者」として、ご自身も「幕屋」にあって民の旅に伴われ、昼には水も無く、夜には光とて無い荒野で、民のためにご自身が「活ける水」となり、「まことの光」となってくださった神の記念と感謝が祭りの中心です。この同じ仮庵祭を背景に、主イエスが人々にご自身を、「活ける水」・「まことの光」として、さらに、「良い羊飼い(牧者)」としてお示しくださるのも、理由のあることです。

それにしても、民の荒野の旅が40年の長きにわたったのはなぜでしょうか。聖書によればそれは、神の民によってくり返された、「良き牧者」なる神への忘恩と不従順、すなわち民の罪の結果とされています。神は、そのような民であるにもかかわらず、最後までこの民をお見捨てになることなく、言葉に尽くせない忍耐と大きすぎる犠牲をも顧みず、民を「約束の地」に導き入れてくださいました。この神に対する懺悔と感謝こそ、「仮庵祭」の祭儀の中心であるはずです。

そのような、エルサレム神殿の「仮庵」の祭りの最中、自らの罪と不従順の懺悔も、そのような罪人である彼らを赦してくださった神への感謝をもことごとく忘れ果てた上、事もあろうにその祭りのただ中で、罪を犯したと言われる一人のまったく無力な女性を主イエスの前に引き出し、主に罪の裁きを厳しく求めるという律法学者の行為の異様さ、彼らの異常な身勝手さが際立っています。

主イエスは、そのような彼らの前で、「かがみ込まれた」と福音は伝えています。その時主は、律法学者たちの前で、屈み込まざるを得ないほどに、彼らのことを深く悲しまれたのです。主から罪の赦しと憐れみを受けるべきであるのは、「罪を犯した女性」以上に、「仮庵祭」と言う神への懺悔と感謝の特別な時にさえ、主のみ前に自らを義とし、人を罪に定めて平然としている律法学者たちこそ、だからです。しかも、彼らはそのことに気付いていません。

主イエスは罪の女性のため以上に、むしろ彼らのためにこそ十字架を負われるのではないでしょうか。次の主日、主は終にエルサレムにお入りになられます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 3/30

四旬節第4主日 ルカ15:1-3,11-32

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」今日の福音の主イエスの「放蕩息子のたとえ」の中で、放蕩の後、行き場を失い父のもとに帰って来た息子を迎えた「父」のことばです。

「放蕩息子のたとえ」を含めて、主イエスは、ご自身の「神の国の福音」の宣教を、多くの「神の国のたとえ」を用いてなさっておられます。同時に、主は、それと並行して、これも繰り返して、ご自身の「十字架と復活」を予告されておられます。「神の国」とくに「その完成」と主の「十字架と復活」は、切り離すことができないからです。

さて今日の福音のたとえで、「放蕩息子」が父の許に帰って来た時、父は、まだ遠く離れていたにもかかわらず息子を見つけ、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と喜び、息子のために祝宴を開いたと言うのです。

「放蕩息子」には兄がいます。明らかに兄として暗示されているユダヤの民から見て、元来異邦人であったわたしたちは、主イエスの今日のたとえを、弟である「放蕩息子」に当てはめて聞く他無いと思います。ただここで、聞き逃してはならないことがあります。今日のたとえで、主は、元来異邦人であったわたしたちも、兄であるユダヤの民と「同じ父の子」である、とはっきり仰っておられることです。このことは、わたしたちには非常に重要であると思います。

元来異邦人のわたしたちが、その尊さをわきまえないままに、自分のためにだけ今日まで浪費し続けていた「財産」も、その一切は兄と「同じ父」からいただいていたものだからです。その事実を、わたしたちは今日の主イエスのたとえを通してはっきりと知らされました。その「父」から受けた御恩ばかりか、わたしたちのまことの「父」を忘れ果てての「放蕩」の後に、それにもかかわらず、「父」はわたしたちを喜んで「父の家」に再び迎え入れてくださったというのです。

それだけではありません。そのような「父」に対する兄の激しい抗議にもかかわらず、父はわたしたちを再び受け入れてくださったばかりか、「父」はわたしたちのために大きな犠牲をさえ払ってまでして祝宴を整え、わたしたちを「父の食卓」にまねいてくださいました。主イエスは、父は「犠牲を屠って」わたしたち「放蕩息子」のために祝宴を整えてくださっておられたと語っておられました。

「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、・・・それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」との、「父」の大きな喜びは、放蕩と忘恩の限りを尽くしながらも、そのようなわたしたちを、なお、ご自身の「子」としてくださる「父」の、大き過ぎる犠牲と引き換えでもありました。

今日の「放蕩息子のたとえ」は、「神の国のたとえ」の一つであると、先に申しました。「神の国のたとえ」とは、わたしたちのただ中で、「神の国の主」キリストが、すでにお始めになっておられる「神の国」の事実と、その事実の力と真実へと、わたしたちの目を開かせるために、主イエスが語られたものです。

今日の福音が指し示す「神の国」の真実。それは、「死んでいたわたしたちが生き返り、いなくなっていたわたしたちが見つけられた」という、「父」なる神の「大いなる喜び」のために、父なる神は、いかに大きな犠牲、たとえそれが御子キリストを十字架に付けると言うほどの犠牲であっても、わたしたちのためにこれを厭わず行ってくださる、と言うこと以外の何ものでもありません。

ユダヤの民から見たら「放蕩息子」以外の何者でもない異邦人のわたしたち。まことの神である「父」を忘れ、忘恩の限りを尽くして来たような長く深い罪の歴史がわたしたちにはあります。そのようなわたしたちを「父」は喜んで父の家に迎え入れ、わたしたちのために「犠牲を屠って」食卓を整え「神の国の祝宴」へと招き入れてくださいました。これこそ、「神の国の主」キリストによって、父なる神がわたしたちの内に始められている恵みの事実です。それがミサです。

ただしそのわたしたちのための「神の国の祝宴」・ミサの食卓(祭壇)のために、「父」なる神が犠牲として屠られたのが御子キリストであられたことを、わたしたちは忘れてはなりません。「神の国のたとえ」は、すでに主イエスによってわたしたちのただ中に始められている恵みの事実を語ります。その「神の国」の完成は、ひとえに御子キリストの犠牲の十字架とご復活にかけられています

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 3/23

四旬節第3主日 ルカ13:1-9

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の主日は、福音の語る「主イエスの山上の変容」の出来事から、出エジプトの指導者モーセと預言者エリヤが、主ご自身と、「主がエルサレムで遂げようとしておられる最期について話し合っておられたことをお聞きしました。ただし、最期と訳されていた言葉は、元来は、主の「過越」を意味する言葉でした。

したがって、この時主イエスは、モーセとエリヤとともに、「主の過越」、すなわち主がご受難と十字架の死を経てご復活の栄光へと「過ぎ越し」て行かれる、主のエルサレムでの出来事の全体を、予め話し合っておられたと言うことです。

実は、この山上での出来事の直前、さらに直後にも、主イエスは、弟子たちに、「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活することになっている」と、エルサレムでの「ご自身の過越」の予告をなさっておられました。

そしてその度に、主イエスは弟子たちに、「目を覚ましていなさい」と警告されておられました。その上で、今日の福音で、「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と、主は二度も重ねてわたしたちに悔い改めをお求めになっておられました。

確かに「悔い改め」は、わたしたちの信仰の死活問題です。しかし、それはいかなることなのでしょうか。目を閉じ、俯(うつむ)いて自問自答し、自らを責めることでしょうか。そうではありません。ユダヤの言葉で「悔い改める」とは、「わたしたちの顔を神に対して向けなおす」、「神に向けて目を開く」ことです。

大切なことがあります。ルカによる福音は、主イエスの「山上の変容」後、弟子たちを伴って最後にエルサレムに上られる途上、主は弟子たちに「祈るときには、こう祈りなさい」と、「主の祈り」をお授けくださった、と伝えていることです。改めて、「主の祈り」とは、いかなる祈りなのでしょうか。

「主の祈り」が、ミサの中で何時祈られるのかを思い出してください。それは、「奉献文」の奉唱後、すなわち「聖変化」の直後、主イエスが、わたしたちのただ中にご聖体のお姿で、ご自身の御現存をお現わしくださった直後です。

したがって、「主の祈り」とは、主イエスご自身が、わたしたちのただ中に在って、「わたしがここにいる。もう心配しなくていい。もう俯かなくていい。わたしに顔を向けてごらん。閉じた目を開いて、わたしを見つめてごらん。わたしと一緒に祈ろう」と、わたしたちをお招きくださっておられる祈りです。

確かに、「悔い改めなければ、滅びる」とは、その通りです。俯いて神から顔を背け、神に目と心を閉ざしてしまっては、救われません。しかし、わたしたちは、むしろ最も大切な時にこそ力を失ってしまうのではないでしょうか。その時、わたしたちは俯いて目を閉じてしまいます。主イエスはそのことをよくご存知です。わたしたちの人生の悩み、苦しみをご存知だからです。主に向かって顔を上げることができずに俯き、神と人生に目を閉じてしまう、わたしたちの弱さを。

「主イエスの時」・「主がエルサレムで遂げようとしておられる最期」・「主の過越」が近づく中で、主はくり返し、「悔い改める」、「目を開く」ことをわたしたちにお求めになっておられました。しかし、これは決して唐突なことではありません。主は福音の宣教の当初から、次のように仰せになっておられました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

「悔い改めて福音を信じること」「目を覚ましていること」それは、主イエスに「時が満ちる」中で、「主ご自身がエルサレムで遂げようとしておられる最期である「主の過越」、つまり主の十字架とご復活を、わたしたちがしっかりと見届けさせていただくためです。それのみがわたしたちの救いだからです。

福音の後半の「実のならないいちじくの木のたとえ」で、主イエスがご自身を「園丁」に喩えてお語りになっておられるように、「園の主人」・唯一の裁き主であられる父なる神のみ前に、ご自身を犠牲としてまで執り成してくださる主。

「悔い改め」「目を覚ましていること」。それは、時に重すぎる人生の苦しみの中で神に目と心を閉ざしてしまうわたしたちにとって、自分の力だけでできることではありません。主イエスはそれを良くご存知です。それ故「わたしと一緒に祈ろう」と、主はわたしたちを「主ご自身の祈り」へと切に招いてくださいます。

「時は満ち神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」わたしたちを「主の祈り」へと招く主イエスは、エルサレムでの「過越」へと旅を進められます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 3/9

四旬節第1主日 ルカ4:1-13

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の水曜日、「灰の水曜日」から四旬節に入りました。四旬節の40日と言う数字は、主イエスが、荒れ野で「四十日間、汚れた霊・サタンから誘惑を受けられた」ことに因むものです。

主イエスの荒れ野での40日に先立ち、先にルカによる福音は、「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」と、伝えていました。ここで「聖霊」とは、言うまでもなく、主が洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられた際に、天から注がれた「父なる神の霊」です。

今日のルカによる福音は、さらに続けて、「そして、荒れ野の中を「霊」によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」、と伝えていました。これは、新共同訳聖書の訳です。ただしこの訳では、主を荒野に導いたのは、父なる神の霊・聖霊ではなく、汚れた霊・悪魔であるかのような印象を受けます。これは、無自覚の内に善悪二元論的思考に慣らされて来たわたしたちには、分かりやすい話のようにも聞こえますが、しかし、そもそも、汚れた霊・悪魔に、神の御子キリストに何事かを強いるような力と権威があるのでしょうか。

実は、同じ個所を、カトリック・フランシスコ会訳聖書は、「イエズスは、聖霊に満ちてヨルダン川から帰り」とした後、続けて、聖霊によって荒野に導かれ、四十日の間悪魔の試みにあわれた」、と明快に、かつ事柄を正確に訳しています。主イエスが洗礼に際して父なる神から受けた「聖霊」と、その直後に、主を荒野の試練に導き出されたのは、明らかに同じ「聖霊」すなわち「父なる神の霊」であった、ということです。

そうであれば、御子キリストを荒野に導かれ、汚れた霊・悪魔に対して、主イエスを荒野で誘惑し、主を試みることをお許しになられたのは、神の霊、すなわち父なる神ご自身と言うことになります。これは一体どういうことなのでしょうか。福音は、わたしたちに何を伝えようとしているのでしょうか。

加えて、それが父なる神のみ旨であったとするならば、主イエスを荒野に導かれ、そこで悪魔に主を試みることを許してまで、むしろそのことを通してのみ成就されるべき、わたしたち罪人のための父なる神の救いと言うことが、必ずやあるはずです。それは、一体、いかなることなのでしょうか。

「汚れた霊」「悪魔・サタン」とは、「わたしたちを神から引き離そうとするもの」、さらには「わたしたちが神とともにあることを、妨げようとする力」のことです。今日の福音で、主イエスが荒野でお受けになられた「悪魔からの試練」は、実はわたしたち自身も人生で繰り返し受ける「誘惑」ではないでしょうか。しかも、もしその「誘惑」に負けて、その結果、私たちが「神から離れて」しまうならば、わたしたちの人生を空しくしてしまうようなものではないでしょうか。

ここで、「聖い霊」、すなわち「聖霊」とその働きについて確認しておきたいのです。主イエスは、荒れ野での40日の後、聖霊において成就される福音(みことば)の宣教をお始めになりますが、福音書は、そのご様子を、主は「汚れた霊」に取り憑かれた多くの人々から、「汚れた霊を追い出された」と、くり返しわたしたちに語ります。主において働かれる「聖霊」・「聖い霊」とは、まさにわたしたちから「汚れた霊・サタン」を駆逐・勝利してくださる神の力です。

「天の父なる神の霊」「聖霊」に導かれての主イエスの荒れ野の40日の試練とは、「汚れた霊サタンの誘惑」の一切を、主がわたしたちに先んじて受け、わたしたちに代って味わい尽くしてくださるためであり、その上で、主がわたしたちのために、わたしたちに先行して、本来わたしたちの受けるべき一切の誘惑に、あらかじめ「聖霊」において勝利を収め取っておいてくださるためだったのです。

「聖霊」によって荒野に導かれた主イエスは、この時、「聖霊」・父なる神の聖い霊によって、わたしたちのために「汚れた霊」「悪魔」に予め打ち勝ってくださったのです。「悪魔」に対する主の勝利。これこそ、「悪霊の誘惑」の前に無力なわたしたちにとっての救いそのもの、わたしたちすべてにとっての力強い福音そのものです。主の、わたしたちのための悪魔からの誘惑に対する勝利なしには、わたしたちの人生が無に帰してしまうからです。

ただし、「聖い霊」・「聖霊」による「汚れた霊」・サタンに対する完全なる勝利は、主イエスご自身の尊い自己犠牲である主の十字架とご復活、すなわち「主の過越」を通してのみ、最終的かつ完全に勝ち取られるものであることを、四旬節の始めから、わたしたちは深く心に留めておきたいと思います。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。