司祭の言葉 3/10

四旬節第4主日 ヨハネ3:14-21 

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音は、主イエスと二コデモとの長い対話の後半の部分です。二コデモは、当時のユダヤ教律法学者集団ファリサイ派の一人であったと言われています。しかし、彼は、他の律法学者とは違いました。彼は、主が、父なる神の御許から遣わされた方であること、主において聖霊なる神が活きて働いておられる事実を、もはや疑い得ない事実として確信するに至りました。その結果、止むに已まれぬ思いからでしょう、ある夜、主イエスのもとを独り訪ねて来たと、福音は伝えています。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。」

福音書の中でも、よく知られた、また多くの人々に愛されて来た主イエスのこのおことばは、実は、主が、二コデモとの会話の結びに仰せになられたおことばです。

ところで、主イエスと二コデモの対話で、注意したいことがあります。主は彼に、「人は、新たに生まれなければならない」との、同じおことばを繰り返しておられることです。ただし、それが聖霊によってであることは、「新たに生まれる」ということを、主ご自身が、「霊から生まれる」と言い換えておられることから明らかです。

「人は、聖霊によって新たに生まれなければならない。」なぜでしょうか。それは、「神の国に入る」ためであると、主イエスは明言しておられます。「神の国に入る。」すなわち、「神の国の主」キリストとともに、永遠のいのちに生まれるためです。

二コデモの属していたファリサイ派の人々は、律法学者、つまり神の律法の教師と言われるほどに、聖書に精通していたと自他ともに認めていました。その上で、彼らは、聖書に伝えられる神のことばを法律のように解釈・適用して、他人を裁くことについては習熟していた人々でした。

しかし彼らが理解していないこと、むしろ彼らが未だ体験していないことがありました。それは、神のみことばにおいて神ご自身、聖霊が働かれると言う事実です。

神のみことばにおいて、聖霊なる神ご自身が働かれる。むしろ、神のみことばは、たんに神の教えではなく、実に聖霊において働かれる神ご自身である、と言う真理です。それこそが、人なられた神のみことば主イエス・キリストに他なりません。

二コデモも、かつては律法学者として、聖書の神のことばは、律法ないし法律として人に与えられ、彼ら律法学者たちによって解釈され、人々の生活を正し、罪を裁くために適用されるべきものと考えていました。しかし、本当にそうなのでしょうか。

今や二コデモは、神のみことばである主イエスのみ前に、以前の彼の理解とはまったく別の真実をはっきりと知らされたのです。それは、聖霊において働く神のみことばとは、「主イエス・キリスト」として、世に与えられた神ご自身であられるという真実です。彼はその晩、この神のみことば・主イエスご自身に、お会いしたのです。

これが、福音の伝える二コデモと「神の国の主」キリストとの出会いです。そしてそれは、二コデモにとって、主イエスによって「神の国に入」らせていただくという体験です。そして、それこそ彼にとって、主の仰せになられた「聖霊によって新たに生まれる」と言う、彼自身もはや疑い得ない体験・身の事実であったはずです。

聖霊によって二コデモをまったく新しく「上から」産んでくださった神のみことば・主イエス。ただ、その方は、いかなる方なのか。主ご自身が、彼に仰せでした。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

神が罪なるわたしたちを罪に従って裁くのではなく、罪を赦して救ってくださるために、御子キリストはわたしたちの罪を一身に負い、十字架上でわたしたちに代って裁きを受けてくださいました。しかも主イエスは、わたしたちの罪の贖いとして十字架に「上げられた」ばかりではありません。主は、わたしたちにご自身の活けるいのち「聖霊」をくださるために復活してくださいました。聖霊によってわたしたちを「新たに神の国に生まれ」させてくださるために。

二コデモにお会いくださった同じ主イエスが、礼拝でわたしたちにお会いくださいます。それは、二コデモ同様、わたしたちも「神の国に入り、聖霊によって新たに生まれ、主イエスとともなる永遠のいのちに生きる者としてくださる」ためです。

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

司祭の言葉 3/3

四旬節第3主日 ヨハネ2:13-25  

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「イエスの言われる神殿とは、ご自分のからだのことだったのである。」

わたしたちは、主なる神への感謝と賛美とともに、過ぎた一週間のすべて、疲れた身体、乾いた魂をも携えて、主の神殿であるカトリック教会のミサに集まります。ミサで、わたしたちの神なる主イエス・キリストにお会いできるからです。

ご復活の主イエス・キリストは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ28:20)と仰ってくださいました。わたしたちには主のこのお約束だけが頼りです。主だけが、困難の多い日々の生活を生きるわたしたちの唯一の望みだからです。

そのようなわたしたちの思いを、主イエスは誰よりも良くご存知です。そして、主ご自身、わたしたちとの出会いを心から願ってくださっておられると信じます。その主にお会いさせていただくために、わたしたちは教会に集います。とくに教会のミサに。みことばとご聖体の内に、主イエスご自身がわたしたちとともにおられるからです。しかし、旧約の時代、人々はエルサレムの神殿に主なる神を訪いました。

今日の福音は、そのエルサレム神殿でのことです。主イエスの「宮清め」と呼ばれてきた出来事です。これは、ヨハネによる福音によれば、主の宣教のご生涯の比較的早い時期のこととして伝えられています。が、この事件の背景には、当時のエルサレム神殿の非常に深刻な問題がありました。

神を呻き求める人々、神に依り頼む他に生きる術も望みもない多くの人々が、神に見(まみ)えることを一途に願って訪れるエルサレム神殿。しかしその神殿が人の罪によって汚され、もはや神を礼拝するに相応しい場では無くなっていました。

神殿が罪に汚され、救いを求める人々から神との出会いの「場」が奪われることによって、多くの人々が救いを得られないままに空しく命を終えて行かざるを得ない。このことに、主イエスは強く心を痛め、激しく憤っておられるのです。

同時に、そしてだからこそ、この時主イエスは、わたしたちの救いのために父なる神から託された神の御子としてのご自身の使命を、わたしたちに明確にされます。

それは、人の手によるエルサレム神殿に替えて、主イエスご自身を霊と真理による新しい神殿として神と人とにお捧げになられる。そのようにして、神と人との聖(きよ)い出会いの「場」を、ご自身において再びかつ永遠に保証してくださることです。

加えて、御子である主イエスご自身を、その神殿で捧げられるべき罪人の贖いの犠牲として父なる神にお捧げくださることです。罪に汚された地上のエルサレム神殿の現状を前に、それ以外にわたしたちの救い、神と人との和解が回復される道はないからです。事実、福音はこのことを、後に主の十字架と復活として語ります。

ただしその前に、福音は、当時エルサレムの神殿から疎外されていた多くの人々と主イエスとの出会いを伝えます。例えば、サマリアの女性。酷暑の中の水汲みのように報われることのない、いつ終わるともしれない虚しい日々。誰にも目を留められず、また誰にも心を開く事も出来ず、やり場もなく癒される術もない肉体の疲れと魂の渇き。彼女は、心底から魂を癒してくれる命の水を求めて、真の神を求めます。エルサレム神殿は彼女には縁遠い。しかし、神にお会いしたい。神による他に救いはないからです。彼女は自ら担うに重すぎる彼女自身を神に託したいのです。

わたしたちは、このサマリアの女性の魂の渇きが、痛いほどわかります。なぜなら、彼女はわたしたち自身だからです。(ヨハネ4:1-26)

この女性に、主イエスは実にご自身の方からお会いくださいました。この女性のために、主ご自身が神殿、さらに神ご自身となってくださるために。さらに、神なる主ご自身がこの女性の捧げるべき神への贖いの犠牲となってくださるために。しかしこの女性の主との出会い物語は、実はわたしたち自身の物語ではないでしょうか。

もう、他のどこをも、他の誰をも尋ね廻らなくてよいのです。乾き切った魂の癒しを求めて井戸から井戸へと尋ねることは、もう終わりです。なぜなら、今ここに神なる主イエスがおられる。わたしたちのためにご自身のからだを神殿とし、さらに贖罪の犠牲としてくださる主ご自身がおられるからです。みことばとご聖体の内に。

「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧。あなたをおいてだれのところに行きましょう。」(ヨハネ6:68,69)

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 2/25

四旬節第2主日 マルコ9:2-10

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

福音にお聞きしながら、主イエスの宣教の歩みに伴わせていただいています。それは、最後にはエルサレムに向かう旅です。その旅も、ちょうど道半ばです。

ところで、互いに親しさを増してゆく中で、つい相手の価値に気づかなくなってしまうことがないとは限りません。主イエスの弟子たちも、主と親しく生活をともにさせていただく中で、それが当然になり、時に主に対する勝手な思い込みや自分本位の期待や願いに、本来の主の姿を見失うようなことがあったかもしれません。

そのような弟子たちに父なる神は、主イエスが彼らとともに最後にエルサレムに登られる先立ち、主の弟子ペトロたちを、主ご自身とともに高い山に登らせ、そこで、主イエスが、実はいかなる方であるのかを、はっきりとお示しくださいました。

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

主イエスは、たんに優れた人生の教師、あるいはユダヤの民の偉大なる指導者などではありません。「父なる神の愛する子」である、ということです。

実は、さらにその時、ペトロたちの前に、旧約の預言者を代表するエリアが、同じく旧約の出エジプトの指導者モーセとともに現れて、主イエスご自身と語り合っているのを、ペトロたちは見ていた、とも福音は伝えていました。

主イエスは、モーセとエリアとともに、何を語り合っておられたのでしょうか。

今日のマルコによる福音は、そのことを具体的には伝えていません。しかし感謝すべきことにルカによる福音は、それは「主イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」であったと、はっきりと伝えてくれています(ルカ9:31)。

「主イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」。

これを聞いて、わたしたちは直ちにエルサレムでの主イエスの「最後」つまりご受難と十字架の死を思います。確かに、主はエルサレムで十字架の死を遂げられます。しかし、ここで「最後」ではなく、特に「最期」(「最期」の「期」は、「一期一会」の「期」)と訳されている言葉は、聖書の元の言葉では「過越」(エクソドス)と言う言葉です。

つまり、主イエスが、モーセとエリアとともに語りあっておられたのは、主の「過越」について、であったということです。

「主イエスの過越」、それは、エルサレム郊外のゴルゴタの丘での主ご自身の十字架上での犠牲奉献の死を含みます。しかし、それで終わりません。「主の過越」、それは、主が、エルサレムでのご受難と十字架の死を経て、ご復活の栄光へと「過ぎ越し」て行かれた、「主の聖なる過越の三日間」の出来事全体です。

「主の過越の三日間の全体を以て、主イエスはわたしたちの救いを成就してくださるのです。ただしその時、それはいったいいかなることなのでしょうか。

第一に、主イエスのご受難と十字架の犠牲奉献の死による、わたしたちの罪の贖いです。主はわたしたちの罪とその報いの一切を、ご自身の十字架として、わたしたちのために負い抜いてくださいます。それしか、わたしたちが罪を赦される道はないからです。しかし、主のわたしたちへの愛は、罪の赦しの十字架上の死によっても終わりません。

主イエスは、ご受難と十字架の死の後、わたしたちのために復活してくださいます。わたしたちにご自身のいのちの息吹である聖霊をくださるためです。それによって、汚れた霊、つまり罪によって神から離れていたわたしたちを聖霊によって聖(きよ)め、神への聖(きよ)い捧げものとして、再び神のみ許に返してくださるためです。

わたしたちは、主イエスの十字架によって罪赦され、さらにご復活の主から賜る聖霊によって聖い捧げものとされ、そのようにして主ご自身とともにわたしたちも神に献げられて、神のみ許に帰らせていただくのです。ここに救いが成就します。

「主イエスの過越」、それは、主の十字架と復活を通して神がご自身のいのちを注ぎ尽くして成就してくださる、わたしたちへの神の愛のみ業の全体です。

「主イエスの過越」の成就は、主ご自身の過越に加えて、主の愛によるわたしたち自身の死から命へ、罪のこの世から聖なる神の国への過越の成就でもあるのです。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。

司祭の言葉 2/18

四旬節第1主日 マルコ1:12-15

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の水曜日、「灰の水曜日」から四旬節に入りました。当日のミサで、皆さんの頭ないし額に灰を授けさせていただきました。聖書では、灰を頭に被ることは、神のみ前での懺悔と回心を表します。この心で、四旬節の期間を過したいと願います。

四旬節の40と言う数字は、主イエスが、荒れ野で「40日間、サタンから誘惑を受けられた」ことに因みます。「悪魔」とも訳されるへブル語“サタン”は、「(神からわたしたちを)引き離す者」ないし「(わたしたちを神に)背かせる者」を意味します。

ところで、今日のマルコによる福音は不思議なことを伝えていました。がイエスを荒れ野に送り出した」、というのです。“霊”とは「神の霊」つまり「聖霊」です。つまり、主イエスを荒野の試練に導き出したのは、「サタン」ではなく、「神の霊」であったというのです。

つまり「神の霊」とは、主イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時、天の父なる神から与えられたのことです。「(イエスは)水の中から上がるとすぐ、天が裂けてが鳩のように御自分の上に降って来るのを、ご覧になった」と今日の福音の直前にマルコが伝えている通りです。そのつまり「父なる神の霊」・「聖霊」が、御子キリストを荒れ野の試練に導き出したというのです。

なぜなのでしょうか。しかし、そうであれば、荒野で主イエスの受けられた試練は神のみ旨によるものであり、それを通して父なる神が主において成し遂げてくださる、わたしたちの救いのための大切なご計画があるということに違いありません。

ところで、今日の福音が語る主イエスの受けられた「サタンからの誘惑」は、実は、わたしたち自身が繰り返し「サタン」から受けている「誘惑」なのではないでしょうか。わたしたちは、大切な命や知恵や力を含めて、神と人とに仕えて生きるために過分な恵みを神から受けています。しかし、サタンはわたしたちに神から受けた大きな恵みを当然のように思わせ、むしろ不満をさえ抱かせ、さらに神から与えられた知恵や力の恵みを用いて「神を試し、神に背き、神から離れる」ようにと誘います。

日本語にも「受けた恩に仇(あだ)で報いる」ということわざがあります。もちろん、そのように振舞う者は人ではありません。同様に、神から受けた恵みによって神に背くのであれば、もはや人とは言えません。従って「サタンからの誘惑」とは、もしそれに屈すれば人が人でなくなってしまうような「罪への誘惑」ではないでしょうか。

そのような、実際わたしたちが受けている「サタンからの誘惑」の一切を、実は、主イエスが、わたしたちに先んじて、かつわたしたちに代って味わい尽くしてくださった。その上で、「サタンの誘惑」の一切に、主がわたしたちのために、前もって勝利を収めてくださった。これが、今日の福音が伝える、「神の霊」・「聖霊」に導かれての主イエスの荒れ野の40日の試練だったのではないでしょうか。

ところで主イエスは、荒野の40日の試練の直後から、神の国の福音の宣教をお始めになります。その中で、主は、「汚れた霊」に取り憑かれた多くの人々から「汚れた霊を追い出」して行かれます。「汚れた霊」・「悪霊」つまり「サタン」を追い出すことができるのは、「聖い霊」すなわち「聖霊」だけです。

そうであれば、主イエスの福音宣教とは、主がご自身の内に働かれる「神の霊」・「聖霊」によって、わたしたちから「汚れた霊」・「悪霊」つまり「サタン」を追い出し、わたしたちを、神から離れず、神と堅く結びつけてくださる救いのみ業です。

このように、主イエスは、荒野での試練において、「聖い霊」・「聖霊」によってわたしたちのために「汚れた霊」・「サタン」に対して前もって勝利を収めてくださいました。「サタン」に対する「聖霊」における主イエスの勝利。それが今日の福音です。

主イエスは、荒野での40日の試練の後、「汚れた霊」・「サタン」に取り憑かれたわたしたち一人ひとりから「聖霊」によって「汚れた霊を追い出し」、罪深いわたしたちのために、「汚れた霊」・「サタン」に対して、常に、そして永遠に勝利を収め続けてくださいます。それが、わたしたちに対する主イエスの福音宣教です。

ただし、主イエスの「聖霊」による「汚れた霊」に対する最後の勝利は、主ご自身の尊い自己犠牲である十字架とご復活、つまり「主の過越」を通してのみ勝ち取られ、わたしたちに成就するものであることを、わたしたちは決して忘れてはなりません。

四旬節第1主日の福音、荒野での「サタン」の誘惑に対する主イエスの勝利は、わたしたちのための主の十字架における最後の勝利を、明確に指し示しています。

父と子と聖霊の聖名によって。 アーメン。

司祭の言葉 加藤神父 2023/5月〜12月


司祭の言葉 2/14

灰の水曜日 マタイ6:1-6、16-18

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

灰の水曜日をもって四旬節(レント)に入ります。灰の水曜日から、十字架の苦難と死を経てご復活の栄光に過ぎ越して行かれる、主イエスの「聖なる過越の三日間」を祝うまでの、日曜日を除く40日間を、カトリック教会は、紀元2世紀以来、慎みと懺悔の時として守り続けて来ました。

教会の古い伝統に従い、灰の水曜日のごミサの中で、司祭は、昨年の「枝の主日」(「受難の主日」)に祝福を受けた棕櫚の枝を焼いて作った灰で、回心の証として皆さんの額に十字架のしるしを致します(ないし、皆さんの頭頂に灰を授けます)。

棕櫚の枝は、「枝の主日」に人々がイエスさまを救い主キリストと歓呼の叫びを以てエルサレムにお迎えした時に、彼らが手にしていたものです。主は、その同じ人々によって、その週の内に十字架につけられました。わたしたちは、その棕櫚の枝から作った灰を受けて、主のみ前に心の定まらない、むしろ簡単に心変わりさえするわたしたちの罪の現実を強く心に留め、深く身に刻ませていただきます。

加えて、この灰を身に受けて始まる灰の水曜日からの40日の間、主イエスが宣教のご生涯の初めに体験された荒れ野の40日の試練を、さらに遡って、出エジプト後の神の民の荒野の40年を、同じく心に留めるのみならず、身に刻みます。

主イエスは荒れ野での40日間の汚れた霊・サタンからの試みに対し、聖霊によって勝利を収められました。イスラエルの民も荒野の40年の試練の時を、神の霊(聖霊)の助けによって耐え、主なる神の約束された地に導き入れられました。そのようにわたしたちもレント(四旬節)の間、聖霊の導きと御助けを切に祈ります。

灰の水曜日に読まれるマタイによる福音は、主イエスの「山上の説教」の一節です。この「山上の説教」の中心は、「全福音の要約」とさえいわれ、わたしたちがごミサの度に祈る「主の祈り」です。その「主の祈り」の直前と直後に語られる施し、祈り、そして断食についての主の勧めが、今日、灰の水曜日の福音の内容です。

福音は、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」との、主イエスのおことばに始まり、その後、主は、施し、祈り、そして断食についての各々の勧めを、「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」との同じおことばを三度くり返して、締め括っておられます。

主イエスがこのような勧めをなさるのも、わたしたちを主ご自身の祈りである「主の祈り」に招いてくださるためです。「主の祈り」。わたしたちが、主ご自身の祈りに加えられて、主のみ前に祈りの生活を整えさせていただく、その道が、当時のいい方で、施し、祈り、断食として、主によって勧められているのだと思います。

主イエスの祈りに加えられて、主と共に神のみ前に祈らせていただく。あるいは、主と共に神のみ前に、祈りを中心としての生活を整えさせていただく。四旬節を歩むわたしたちの願いは、実はこのことに尽きている、と言ってよいと思います。

ただしこのことは、わたしたちの祈りを導いてくださる唯一の方、つまり「隠れたことを見ておられるわたしたちの父」なる神の霊である聖霊の導きと御助けなしには、わたしたちには叶わないことではないでしょうか。

主イエスと共に祈りを奉げつつ、神のみ前に生きる。それは神の眼差しの内に生きることです。四旬節を歩むわたしたちの歩みが、「隠れたことを見ておられ、かつ報いてくださる」父なる神の眼差しの内に、常に守られ、導かれますようにと願います。

四旬節。それは、ご受難と十字架を通してご復活の栄光に過ぎ越された主イエスの、聖週間の「過越の秘義」に深く参入させていただくための大切な準備の時です。

この四旬節を、主イエスと共に祈る。主ご自身の祈りに加えられて生きる。「主の祈り」に導かれて、主と共に歩みを進める。聖霊の御助けによって、四旬節をそのように祈りと生活を整える時とさせていただけるようにと、わたしたちは切に願います。

来たる「主イエス・キリストの聖なる過越の三日間」への、皆さん自身の四旬節の備え、あるいは四旬節の間の皆さんの「施し、祈り、断食」は、何でしょうか。

実は、主日毎の、さらには日々のごミサこそ、まさにそれではないでしょうか。ごミサこそ、四旬節をご自身の過越によって成就される主イエスから、主ご自身の祈りにお招きいただける、まさにその恵みの時だからです。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。

司祭の言葉 2/11

年間第6主日 マルコ1:40-45

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

重い皮膚病を患った人を、主イエスは癒されました。これが今日の福音です。

この人は、主イエスに、「み心ならば、わたしを清(聖)くすることがおできになります」と願いました。主はこの人を憐れみ、すぐに手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清(聖)くなれ」と仰せになりました。するとたちまち重い皮膚病が癒され、その人は清(聖)くなった、と福音は伝えています。

福音にお聞きしながら主イエスの歩みを辿らせていただく中で、ここ数週間、今日のマルコによる福音のように、病む人々や汚れた霊に憑かれた人々を癒された主の「癒しのみことばとみ業」について、続けてお聞きして参りました。

今日の福音の、重い皮膚病を病んでいた人も、主イエスは彼を清(聖)くすることがおできになると信じ、自らを主のみ手に委ねました。彼のこの信仰に応えて、主はこの人を清(聖)くしてくださいました。

福音が、主イエスが病む人を「清(聖)くした」と語る時、主がその人の病気を癒されたということだけを、わたしたちに伝えているのでしょうか。あるいは、主に癒された人も、彼の病気が癒されることだけを主に願っていたのでしょうか。

その前に、この時、主イエスご自身が願われたのは、たんに、病む人の病気が癒されることだけだったのでしょうか。

聞き逃してはならないことがあります。主イエスはこの人の病気を癒されると、この人に「神殿の祭司のもとに行って、体を見せ、あなたが清(聖)められたことを人々に証しするために、モーセが命じたものを捧げなさい」と命じておられました。なぜなのでしょうか。病気が癒されれば、それで良かったのではないでしょうか。

主イエスに病気を癒されたこの人は、それを祭司に確認してもらうことによって、当時病気の身体のままでは立ち入ることが許されなかった神殿に詣でることが再び許されるようになるのです。それは、彼が、再び神の民の一人として公に認められ、神の民との交わり、神との交わりに、再び回復されるということです。

実は、再び神と、そして神の民との交わりへと回復されることこそ、この人が身体の病気の癒しに勝って、生涯を通して願い続けてきたことではなかったでしょうか。

主イエスが、この病む人に真に願われたことも、彼の病気が癒されることによって彼が再び神の民に迎え入れられ、神の民の中で主なる神を礼拝して生き、彼が神の民の一員として生活することができるようになることではなかったでしょうか。

それにしても、神の民に回復されること、また神の民の一員として真の礼拝者として生きるとは信仰者にとっていかなることなのでしょうか。それは、わたしたちが「清(聖)くされ」、神への汚れの無い捧げものとして神に捧げられることです。わたしたちが真実に神のものとされること、主なる神へのわたしたち自身の奉献です。

(参考:マラキ3:1-4、「主の奉献」の祝日、第1朗読)

汚れた霊に冒されたわたしたちは、そのままで神のもの、神に属するものというわけにはゆきません。聖霊によってわたしたちを神への捧げものに相応しく清(聖)くしていただかなければなりません。しかし、それがおできになるのは主イエスお一人。主だけが、わたしたちに聖霊を与えることがおできになる唯一の方だからです。

皆さんすでにお気付きのように、病む人への主イエスによる癒しを伝える今日の福音で、病む人は主によってたんに「病気が治ること」ではなく、主によって「清(聖)くされること」を願い、主もこの人に「病気が治るように」と言うのではなく、「清(聖)くなれ」と仰せになっておられました。

主イエスは汚れた霊に冒されたわたしたちを癒されるだけではありません。主はご自身の聖霊によって、罪に汚れ、罪ゆえに神から離れていたわたしたちを、再び聖くしてくださる。汚れた霊に冒されたわたしたちを、聖霊によって聖め、神への傷の無い捧げものとして、再び神に近づくことができる者としてくださる。わたしたちを、「神のもの」とさえしてくださる。そのようにして、わたしたちを天の父なる神のみ許に再び返してくださる。それが聖霊による主イエス・キリストの癒しのみ業です。

わたしたち自身の奉献が、聖霊によって主イエスの奉献と一つにされる。わたしたち全てが聖霊によって聖められ、再び神への捧げものとして神のみ許に返される。主はそのためにこそわたしたちを「清(聖)く」してくださいます。主の癒しの奇跡の物語は、わたしたち一人ひとりのためにこそ語られた物語です。そして今、このミサでその癒し主イエス・キリストが皆さんご自身の前にお立ちになっておられます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 2/4

年間第5主日 マルコ1:29-39

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

マルコによる福音にお聞きしつつ、主イエスの宣教の歩みをともに辿らせていただいています。今主日の福音も先週に続いて、主が汚れた霊に取りつかれた人々から、「みことばと聖霊によって」悪霊を追い出されたことを伝えています。

ところで先の二月二日、「主の奉献」の祝日に、わたしたちは、ご降誕から四十日の後、幼子イエスが、マリアさまとヨセフさまによってエルサレムの神殿で、父なる神に捧げられたことを記念し、祝いました。

古い教会の暦では「主の奉献」の祝日を以て降誕節の終わりとしていました。英国の家庭では、現在もこの祝日後にクリスマス・ツリーや飾りつけを片づけ、また市役所のトラックがクリスマス・ツリーのもみの木を家々に回収に来ます。

「主の奉献」の祝日の福音は、幼子イエスの奉献のために神殿を訪ねたマリアさまたちが老シメオンに出会ったこと、またこのシメオンは、「正しい人で信仰があつく」「聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」(ルカ2:25,26)ことを伝えていました。

目に見えぬ聖霊なる神の導きと約束に一切を委ねて、生涯を祈りの内に誠実に忍耐と従順をもって救い主キリストを待ち望んだシメオン。その彼の目に、神は約束通り神ご自身を見せてくださった。それが主イエスです。

「わたしはこの目であなたの救いを見た。」(ルカ2:30) シメオンが許されて、マリアさまの御手から幼子イエスを自らの腕に抱き、神を賛美した時の言葉です。ところで、その日、この幼子イエスが父なる神に奉献されたのは、「初子の奉献」を定めた「主の律法に従って」(ルカ2:22-24)であった、と福音は伝えていました。

「主の律法」。実は、主なる神は、ご自身の民を奴隷の家エジプトから導き出される当にその前夜に、「初めて生まれる男子はみな、主に聖別された者である」と、「初子の奉献」をお命じになりました。主なる神が引き続いて成就される、神とご自身の民の過越、すなわち「主が力強い御手をもって神の民をエジプトの地から導き出された」ことが、永遠に記念されるためにです(出エジプト13:1,2)。

しかしなぜ、主なる神は、わたしたち神の民に、「初子の奉献」をもって「神と神の民の過越」の記念をさせようとなさるのでしょうか。

それは、神と神の民の過越を可能とした奇跡の背後には、ご自身のいのち以上に尊い初子の奉献という犠牲によってしか記念され得ない神ご自身の犠牲があった事を、わたしたちに記憶させるためではないでしょうか。後の、神の初子にして独り子イエスの十字架上の奉献が、既にここに明確に示唆されているように思います。

そうであれば、初子の奉献である幼子イエスの奉献によって、神がわたしたちに成就してくださることは明らかです。主イエスにおけるわたしたちの出エジプト、つまりわたしたち一人ひとりが主のご受難と十字架の死を通してご復活の栄光に、すなわち神のみ国に、主イエスによって、主とともに導き入れられることです。

神の救い、主イエス・キリスト。神が真にわたしたちにお望みになられる救い。それは実は、わたしたち一人ひとりが、主のご受難と死を通して復活の栄光に過ぎ越して行かれた、主ご自身の奉献に固く結びあわされることです。

もう一度、今日の福音を見てみましょう。主イエスが、「みことばと聖霊」によって、弟子のシモン・ペトロのしゅうとめを始めとして大勢の病む人々を癒され、汚れた霊に取りつかれた多くの人々から悪霊を追い出されたことを伝えていました。

主イエスによる救いのみ業。「みことばと聖霊」によって主が成就してくださる神の恵みは、わたしたちの病の癒しや汚れた霊からの解放に留まりません。なぜなら、主イエスは、聖霊によって、神のみことばとその恵みの一切を、わたしたちの内に成就してくださることがおできになるからです。

神のみことばが聖霊によってわたしたちに成就する。それこそ神が真にわたしたちに望んでおられる救い。それは病の癒しや悪霊からの解放に留まらず、わたしたちを聖霊によって主イエスの奉献、つまり主の十字架の死とご復活の栄光に結び合わせてくださること聖霊による主なる神キリストとわたしたちの過越の成就です。

御子イエス・キリストによって、父なる神がわたしたちにお与えくださる救い。それは聖霊によってわたしたちの内に実を結ぶ神のみことばの一切。それは、わたしたちの地上の願いや祈りさえ遥かに超えて、神の国の恵みと豊かさに溢れています。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 1/28

年間第4主日 マルコ1:21-28

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「イエスは、律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになられた。」

マルコによる福音が伝える、ある安息日のユダヤの会堂での主イエスのご様子です。しかし、主の「権威」とは、いかなることなのでしょうか。

主イエスは、説教に続き、会堂にいた一人の人から汚れた霊を追い出されました。その時、主のみことばとそのみ業に感歎した人々は叫びます。「権威ある新しい教えだ。主が汚れた霊に命じるとその言うことを聴く。」

汚れた霊を追い出すことは、聖霊にのみよることです。人々が気付いたのは、主イエスの権威は聖霊の働きとひとつであることです。今日の福音がわたしたちに教えるのは、この事実です。主は、神のみことばを教えるだけの律法学者とは違います。主ご自身が、神のみことばであり、そのみことばなる主の内に聖霊が働いておられる。人々は、ここに主イエスの権威をはっきりと認めたのです。

事実、福音書の言う「権威」とは、元の言葉では、神である主イエスの「存在そのものからの力」、さらに主なる神の「存在そのものから裂き与えられる力」を意味します。元の言葉からも、主の権威とは、主ご自身のいのちである聖霊の力以外の何ものでもありません。同時に、すでにここに後の主の十字架が示唆されています。

それでは、主イエスが聖霊の力によって追放した汚れた霊とは何ものなのか。それは、罪とその働きに違いありません。罪は、わたしたちが主なる神に向かって心を開くことを妨げ、主を受け入れることを拒み、わたしたちを主に背かせます。しかし、わたしたちはこの罪に対して全く無防備です。また無力です。会堂にいた汚れた霊に取りつかれた男のように、わたしたちも容易に罪の誘惑に陥り、その力に屈してしまいます。そしてその時、丁度汚れた霊に取りつかれたこの男のように、仮にわたしたちが頭では主イエスを「神の聖者」と分かったとしても、その主を受け入れ、主に自分の一切を委ねてしまうことを、わたしたちの罪が拒みます。

律法学者たちは、罪を激しく糾弾し、罪を犯さない生活をわたしたちに厳しく求めました。そのこと自体は、間違ってはいないでしょう。主なる神も、わたしたちが神と人との前に、罪を犯さずに生きることをお望みになるに違いないからです。

聖書の汚れた霊に取りつかれたと言われる人も、わたしたち同様、最初から罪に汚れた生活を望んでいたはずはありません。しかし、彼は罪に対して無力でした。また、律法を守り、自分で罪に打ち勝って生きていくだけの力が彼にはありませんでした。ただし、これはわたしたちにとっても決して他人ごとではないと思います。

洗礼者ヨハネも、自他共に罪にたいして厳しく生きました。しかし、彼は律法学者とは違い、罪深いわたしたちに、律法を守れ、守らない者は裁かれると迫るのではなく、「見よ、神の子羊」と、主イエスを示しました。神のみことばなる主イエス。十字架に罪を贖ってくださる唯一の方。その方において聖霊が働かれるただ一人の方。

律法学者たちは、人々に自らの力で律法を守り、罪に打ち勝って生きるように勧めました。しかし、洗礼者ヨハネは、人は、律法すなわち神のみことばを聞くだけではなく、みことばと共に聖霊を受けることがなければ、救われようが無いことをよく知っていました。同時に、ヨハネは、主イエスだけが、わたしたちに聖霊を与えることができる唯一の方、真の権威をお持ちの方であることをもよく知っていました。

真の「権威」を持つ方とは、わたしたちに神のみことばと共に聖霊をくださる方、神のいのちそのものをくださることがおできになる方です。神のみことばを告げるのみならず、聖霊によって、わたしたちの内にご自身のみことばを成就させることがおできになる方。ただし、それはご自身のいのち、ご自身そのものを十字架上で引き裂いてわたしたちにお与えくださることによってです。それが真の「権威」です。

「見よ、神の子羊。」洗礼者ヨハネは、人々に律法の順守ではなく、主イエスを指し示しました。人々に対して、と言うだけではありません。ヨハネ自身、神なる主イエスを畏れ、主を信じ、主に自らを託し、自らを主に捧げ切り、その命の尽きる時まで、謙遜の限りを尽くし、主を礼拝する者として生き抜きました。

律法の順守には、罪人のわたしたちには実際上不可能な知恵と力が求められるでしょう。しかし、わたしたちが、主イエスからみことばと共に聖霊をいただくために、主がお求めになるのはただ一つのことです。それは、聖母マリアの信仰と聖母の生き方です。すなわち、「おことば通り、この身になりますように。」

わたしたち自身をみことばと聖霊とを共に受ける器として主なる神にお捧げする。その時主イエスはその器をご自身のいのちによって豊かに満たしてくださいます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 1/21

年間第3主日 マルコ1:14-20

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

主イエスご自身の最初の福音の宣言です。主はこの宣言を、洗礼者ヨハネが「捕らえられた後」、時を措かずになさっておられます。ヨハネは主ご自身が宣教に立たれたことを聞きおよんだ後、喜んで殉教の死を遂げていきました(マルコ6:14以下)。

洗礼者ヨハネは、「主イエス・キリストの道を整える者」として神から遣わされたことを自覚していました。その使命はただ一つ。人々の身も心も、福音そのものである主に向けさせることでした。彼は生涯を通して、人々の中でひとえに主を指さし、主を告げ示しました。「見よ、神の子羊」。ヨハネのこの信仰告白は、現在もわたしたちカトリック信者にとって、聖体(聖餐)拝領前の信仰告白とされています。

ヨハネは人々に主イエスを告げ示す時、神について教えを垂れる律法学者のように振舞ったことは一度もありません。彼は、主を礼拝する者として生き抜きました。それは彼の殉教の時まで変わりませんでした。最期の時を前に、彼は語っています。「わたしは喜びで満たされている。キリストは栄え、私は衰える。」(ヨハネ3:29,30)

主イエスの福音の宣教、福音そのものとしての主の公生涯は、主の道を整える者として神から遣わされた洗礼者ヨハネ、主に自らの生涯のみならず、彼の弟子たちさえも捧げ切ったヨハネの一生を、主ご自身が心からの感謝を以て、その一切を掛け替えのない宝としてお受入れくださることによって始められました。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

ここには、わたしたちに神のことばを告げるだけの主イエスはいません。主に命を捧げた洗礼者ヨハネの信仰に応えて、ご自分を十字架に至るまで神と人とに捧げ切って行かれた主ご自身がおられます。福音そのものとしての主イエス、わたしたちのための犠牲そのもの、奉献そのものとしての主。福音の宣教の最初から、すでにわたしたちのための十字架をはっきりと見つめておられる主がおられます。

同時に、ご復活をも確実に見据えておられる主イエスがお立ちになっておられます。主イエスのご復活は、倒れているわたしたちを大切に抱き起こし、わたしたちにご自身のいのちの息・神の息・聖霊をお与えくださるためです。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」 主イエスは、預言者のように神のことばを告げるだけではありません。神の子として、みことばと共に聖霊をわたしたちにお与えくださいます。そして、この聖霊こそ、主のおことばを、わたしたちの内に成就してくださる神の力です。

わたしたちに「時が満ちる」ということ。わたしたちに「神の国が近づいた」と言うこと。わたしたちが「悔い改めて福音を信じる」ということ。これら一切の主イエスのおことばは、わたしたちへの主のご命令や戒めではなく、わたしたちに聖霊によって結ばれる実として、主によって今やわたしたちにその成就が約束されています。

しかし、主イエスがわたしたちに聖霊をくださるために、主ご自身には何が求められるのでしょうか。聖霊は、ご復活の主によって、そしてご復活の主によってのみ、わたしたちに与えられます。しかし主のご復活は、わたしたちの罪のあがないとしての主の十字架上の犠牲の死を前提としていることを忘れてはなりません。

わたしたちの罪の一切をご自身に負われて、主イエスは十字架におつきになります。この主が、この十字架の主だけが復活し、わたしたちに聖霊をくださることがおできになるのです。主の十字架による罪の赦しは、ご復活の主がくださる聖霊により、わたしたちが新しい人として生まれることによってこそ成就します。

福音が、主イエスの最初の宣教のおことばに続いて、主の十二弟子たちの召し出しを語るのは意義深いことです。主の十二弟子たちこそ、主の十字架の死による罪の赦しとご復活の主からの聖霊の授与により、主によって新しい人とされて生きた最初の人たち、主の十字架と復活の証人です。彼らは、文字通り、主によって、主の聖霊によって、主ご自身の命である主の十字架とご復活を、彼らの自身の命として生かされた最初の人々です。わたしたちは、その彼らに続く者たちです。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

主イエスの福音は、空しく宙に木霊(こだま)する真理ではありません。聖霊によって皆さん一人ひとりを召し出しご自分の弟子とし、皆さんに成就する神のいのちです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。