司祭の言葉 9/29

「ミカエルーあなたにとって、唯一のまことの神は誰ですか」

聖ミカエルの祝日929日)の黙想(ヨハネ1・4751

9月29日は大天使聖ミカエル・聖ガブリエル・聖ラファエルの祝日です。かつては、聖ミカエルの祝日とされていました。聖ミカエルの祝日には、わたしには個人的な思い出があります。わたしが長く司祭として奉仕した英国では、学校の一年は、正式には9月29日・聖ミカエルの祝日のミサをもって始められるからです。9月29日から降誕祭・クリスマスまでの学年の最初の学期は、英国では「聖ミカエルの祝日のミサに始まる学期」を意味する “Michael-mas Term”と呼ばれます。

ミカエル。この大天使の名は、元来のヘブライ語では「ミッカーエール」といいますが、まことに不思議な名前です。通常名前を示す名詞ではなく、“疑問文”だからです。日本語に訳せば、「あなたの神は誰ですか」「あなたが、生涯お仕えさせていただくべき唯一まことの神は誰ですか」と言う意味の疑問文が「名前」なのです。

大天使ミカエルは、まさにその存在そのものがわたしたちに対する神の問いかけなのです。つまり、神から聖ミカエルが遣わされる時、わたしたちは「あなたの神は誰ですか」という神の問いの前に立たしめられるのです。

聖ミカエルの祝日に読まれる福音は、ヨハネによる福音1:47-51です。主イエス・キリストは、ご自身を訪ねたフィリポとナタナエルに次のように仰せでした。

「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(ヨハネ1:51)

「神の天使たち」の首位は、「大天使長ミカエル」(ダニエル12:1)です。そうであれば、わたしたちが、「人の子、すなわち主イエス・キリストの上に、大天使ミカエルが昇り降りするのを見る」時、わたしたちは、主のみ前に、聖ミカエルによって「あなたにとって唯一のまことの神は誰ですか」との問いかけの前に立たしめられるのです。

英国の学校は、大天使聖ミカエルの祝日のミサを以て新しい学年を始めると申しました。オクスフォードのような約1200年前に聖ベネディクト修道会の司祭養成の修道院大学として設立された古い大学の神学生にとって、主イエスのみ前に、「あなたにとって、唯一のまことの神は誰か」という問いかけの前に立つことこそ、修道、すなわち祈りと学びと修練の第一の目的です。それは、神学生である以前に、人が人として生きるために必ず問われざるを得ない「問い」であるはずです。

したがって、これは、英国の学生のみならず、日本のわたしたちにとっても全く同様、むしろ、現代の日本のわたしたちにとってこそ、必ず問われなければならない最も大切な「問い」なのではないでしょうか。わたしたちも、わたしたち自身にとって、わたしたちが生涯お仕えさせていただくべき「唯一のまことの神」がはっきりしなければ、唯一のまことの神ならぬもの、たとえばお金や一時的な権威・権力のような神ならぬものに仕えて、人生を空しく終わってしまうことになりかねないからです。

ところで、極めて象徴的に思われますが、聖ミカエルの祝日に始まる英国の最初の学期は、主イエス・キリストの誕生・クリスマスに終わります。

クリスマスは不思議です。それは、「本来わたしたちが生涯お仕えさせていただくべき唯一のまことの神が、わたしたちに生涯をかけて仕えてくださるために、イエスという名前をもつ人として、小さな村の貧しいおとめマリアさまを母としてお生まれになった」ことを祝います。主イエス・キリストは、十字架の上で、わたしたちにご自身のいのちそのものである、ご自身の御からだと御血を惜しみなく与えてくださることによって、わたしたちへの犠牲と奉仕の生涯を全うされます。

「あなたにとって、生涯お仕えさせていただく神は誰ですか」との大切な問い、人が人として生きるための最も大切なこの「問い」は、わたしたちに、降誕祭・クリスマス、すなわち「ご自身のいのちを捧げてわたしたちに仕えてくださった唯一のまことの神、主イエス・キリストの誕生」をまっ直ぐに指し示しています。

聖ミカエルから大切な「問い」を問われているみなさんお一人おひとりが、みなさんのお心の内に、主イエス・キリストをこそ、「生涯かけてお仕えさせていただく唯一にしてまことの神」として、心からの喜びと感謝をもってお迎えくださいますように。

大天使聖ミカエルの祝日。わたしたちは、聖ミカエルの名の意味するごとく、主のみ前に、「あなたにとって、唯一のまことの神は誰ですか」との問いかけの前に立っています。この問いに、主イエスこそ唯一のまことの神とわたしたちに告白させてくださるのは聖霊のみです。そのために聖霊を求めるわたしたちの切なる祈りを、わたしたちの守護者大天使聖ミカエルは必ずお取り次ぎくださいます

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 9/29

年間26主日 マルコ9:38-43,45,47-48

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音で、主イエスは既にエルサレムに向かう旅の途上におられます。弟子たちを伴ってエルサレムに向かう、これが最期の旅であることを、主はご存知です。また、その旅の果てに、主を待ちうけていることが何であるかも、主は良くご存知です。この大切な旅の途上で、主は弟子たちに、三度くり返して、エルサレムでのご自分の十字架の死と復活を予告されます。すなわち、

「人の子(すなわち、主イエス)は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」

主イエスご自身の中で、明らかに緊張が高まって行かれるのと対照的に、くり返される主のご受難の予告を聞かされながらも、心がそれについて行かない弟子たちがいます。実際、先週の福音で、主のエルサレムでのご受難の予告を、二度目に聞かされた直後に、弟子たちは、彼ら十二人の内で「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」と、言われていました。にわかに信じがたいことです。

それにもかかわらず、旅の途上、主イエスは、忍耐強く弟子たちに教え、彼らと言葉を交わし、さらに、主を訪ねて来る多くの人々に出会って行かれます。今日のマルコによる福音も、そのような主の旅の途上の一こまです。十二弟子の一人ヨハネが、主に報告します。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」

一見、何気ないヨハネの報告の言葉に聞こえます。しかし、これは、主イエスのみ前に、極めて傲慢な言葉ではないでしょうか。ヨハネは、主の僕というよりも、まるで主の恵みの管理者を自認し、人々に対してそのように振舞っているようにさえ聞こえます。このヨハネに、主は、次のように仰せです。

「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

ヨハネは、またわたしたちも、あくまで、主イエスの憐れみによって、主のご保護の許に、主の僕であることを赦されているに過ぎないことを謙遜に自覚すべきです。

ヨハネが、彼の漁の仲間であったペトロ、ヤコブとともに、ガリラヤ湖の湖畔で、主イエスから召し出しを受けた時のことを、彼とともに思い出したいのです。ルカによる福音によれば、この時、主は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を、漁師としての日常の生活から、「湖の奇跡」をもって、主に在って、神に仕えて生きるまったく新しい命へと招いてくださいました。それは、彼らの思いを遥かに越えた光栄であったと思います。(ルカ5:1-11)

しかし、ここで即座に、彼らは実に深刻な問題に直面せざるを得ませんでした。それは彼らの罪です。罪人には、神に見(まみ)えることは赦されません。ペトロは主イエスに招かれた時、ヤコブとヨハネとともに、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と、主に申し上げる他ありませんでした。ペトロは、主を畏れました。もちろん、ヤコブも、そしてヨハネも、同様であったはずです。罪なる彼らは、主のみ前に、ひとえに主を畏れたのです。それ以外になかったのです。

しかし、彼らが、心から自分の罪を認め、懺悔し、主イエスを畏れたからこそ、主は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を、主の最初の弟子とされたのです。主は、ペトロ、そしてヤコブとヨハネに言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」その時、ペトロは、ヤコブとヨハネとともに、この主に、「すべてを捨てて従った」と、ルカによる福音は、伝えていました。

今日の福音で、主イエスから召し出しを受けた時のヨハネは、一体どこに行ってしまったのでしょうか。自らの罪ゆえに主を畏れ、主の赦しの許にのみ、すべてを捨てて主に従ったヨハネでした。その彼がいつの間に、人々に対して、主の恵みの管理者になったとでもいうのでしょうか。ただし、これはヨハネだけの問題でしょうか。カトリックのわたしたちも、隣人に対していかに振舞っているでしょうか。

主イエスとともに、最期にエルサレムに上る旅。ヨハネだけではありません。わたしたちも、主とともに、その旅の途上にあります。主に従うこの旅は、誰にとっても、主のみ前に、主を畏れ、謙遜と従順の内に、主の赦しの許に、すべてを捨てて主に従うことを学ばせていただく旅、ではないでしょうか。

この旅は、主イエスにとっては、十字架を見つめての旅です。「すべてを捨てて主に従う」わたしたちのために、主はご自身を、ご自身のいのちさえ、十字架に捨ててくださる旅です。わたしたちは、このことを決して忘れてはならないと思います。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 9/22

年間25主日 マルコ9:30-37

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

9月14日に、「十字架称賛」の祝日を祝いました。教会には、主イエスの「山上の変容」から40日目に主がエルサレムで十字架にお就きになられたとの伝承があります。後に、「主の十字架」が9月半ばのユダヤ歴新年に会わせて記念されるようになると、40日遡った8月6日に、主の「山上の変容」が記念されるようになりました。

「主の変容」。 主イエスは、エルサレムに上られるに先立ち、弟子たちの内、ペトロ、ヤコブとヨハネを連れて、高い山に登られました。その時、主のお姿が変わり、着ておられた服も真っ白に輝きました。この「変容の主」を目の当たりにして、弟子たちは、さらに、「これはわたしの愛する子。これに聞け」との「天からの声」を聞いたと、マルコによる福音は伝えています(9:2-13)。

主キリストは、ペトロたちに、ご自分が天の父なる神の御子であられることを、ご自身の変容を以てお示しになられました。また、「天からの声」、すなわち、父なる神ご自身も、御子の真実を、はっきりとペトロたちにお語りになられました。

 

教会が、この主イエスの「山上の変容」と主の「十字架」を緊密に結びつけて記念するのは、主の「山上の変容」が、真っ直ぐに主イエスの「十字架」を指し示すものであるとの、教会の信仰ゆえです。

実はこのことは、主イエスご自身が、明らかにされていたことでもありました。主の「山上の変容」の前後に、主ご自身、エルサレムで起こるご自身の十字架とご復活について、三度くり返して、弟子たちに予告されておられました。今日の福音は、主の「山上の変容」の後に、二度目にくり返された、主の十字架と復活の予告のおことばです。主は、弟子たちに仰せになりました。

「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」

わたしたちすべてを創造し、支配される天の父なる神。その御子キリストが、十字架におつきになられる。ここに驚くべき、神の救いの秘義が明らかにされました。

すべての被造物の裁き主であられる天の父なる神。その父なる神の御子キリスト御自ら、わたしたちのために、罪の裁きの十字架にお就きになられる。実に驚くべきことです。しかし、今日の福音は、驚くべきことを、もう一つ語っています。主の「山上の変容」後、二度目にくり返された主ご自身の十字架と復活の予告を聞かされた、まさにその直後に、弟子たちは、彼らの内「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」(9:34)というのです。にわかに信じがたいほどのことです。

確かに、神の御子が十字架につけられて殺される。そして三日の後に復活される。主イエスご自身のこの予告は、弟子たちの知恵や常識、さらには、彼らの主への人間的期待からも、およそかけ離れたものであったに違いありません。主の十字架と復活の予告を聞かされた時、「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」と、福音は正直に伝えています。

弟子たちには、山上で変容された神の御子の栄光に輝く御姿とその御子キリストの凄惨な十字架上の死とが、どうしても結びつかなかったのでしょう。主イエスの「山上の変容」の栄光に接してなお、あるいはむしろそれゆえに、弟子たちの主への期待は、その後に続く主の十字架の予告を受け入れ難くしたのかも知れません。

確かに、主イエスの十字架と復活の予告のおことばは、人の知恵を以って理解できることではないと思います。それはわたしたち自身の罪の懺悔を通してのみ、畏れと感謝を以て頷かせていただき得ることです。主は、弟子たちに仰せになります。

「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい』。」(9:35)

「主の変容」が、主イエスの十字架の40日前との教会の伝承は、モーセに導かれたイスラエルの民が約束の地に入るまでの、荒野の40年を思い起こさせます。事実、「主の変容」の後、主は弟子たちとともにエルサレムに上る旅を始められます。そして40日後に弟子たちは、「主との最後の晩餐」、そしてそれに続く「主の十字架」によって、主によって約束の地である「神の国」に招き入れられます。

ただし、それは、罪なる弟子たちにとっては、ひとえに、主イエスの十字架と復活を通してのみ招き入れられる「神の国」です。その時、そこで、弟子たちは「神の国の食卓」に備えられ、彼らに与えられる「永遠のいのちの糧」が、実は「主ご自身のからだ」であることが、主ご自身によって明らかにされます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 9/15

年間24主日 マルコ8:27-35

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「それでは、あなたはわたしを何者だというのか。」

主イエスは、このようにペトロに問いかけられました。ペトロだけでは無いはずです。わたしたちすべてが、主から同じ問いを問われているのではないでしょうか。主からこの問いが問われないところに、わたしたちの真の命はないからです。

かつて、主の郷里ナザレの人々も主イエスから同じ問いを問われました。しかし彼らにとって、主は自分たちの理解の内にあるべき人であったのでしょう。「この人は大工ではないか。マリアの子、またヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか」と、イエズスさまを主キリストと認めることができませんでした。

ただし、主イエスに対する故郷の人々の無理解は、彼らが幼い時から主を知っているから、やむを得なかったとは言えません。洗礼者ヨハネを思い出してください。彼は主の従兄でした。しかし彼は、主が「神の子」であり、「聖霊によって洗礼を授けることがおできになる方」、つまり「わたしたちに聖霊を注ぐことがおできになる方」であることを認めて、「主の道を備える者」として、つねに主を仰ぎ見、謙遜の限りを尽くして、殉教の死にいたるまで主に仕えました。

主イエスの弟子ペトロも、主から同じ問いかけを受けました。彼は、その当時、彼を取り巻く多くの人々の中に、主のことを、洗礼者ヨハネの生まれ変わりだという者、エリヤだという者、あるいは預言者の一人だという者たちを含めて、主について様々な事をいう人々がいることを知っていました。

しかし、ペトロは主イエスの問いかけに、「洗礼者ヨハネだという者もあれば、あるいはエリヤないし預言者の一人だという者もいます」と、他人ごとのように答えることはできませんでした。ペトロは、主のこの問いかけに、「あなたは生ける神の子・メシア(キリスト)です」と、彼自身の信仰の告白をもって応えました。

むしろこの時、ペトロは、「あなたは神の子・キリストです」と、主イエスに告白する他無かったのだと思います。告白とは殉教という意味でもあり、自分の言葉に自分の命を賭けることです。ペトロは、主に彼のすべてを、彼の命を、託していたからです。

このペトロに、主イエスは、ご自身のいのちをお与えになりました。

今日のマルコによる福音によれば、ペトロのこのキリスト告白に応えて、主イエスは、「人の子(すなわち、主イエス・キリスト)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と、ペトロたちに「はっきりとお話し」になられました。

主イエスは、この時、十字架上でのご自身のご奉献、すなわちわたしたちすべての罪の赦しのために、主ご自身が味わわれるご受難と十字架の死を、さらにわたしたちに聖霊をお与えくださるための主のご復活をはっきりとお約束くださいました。

さらに、マタイによる福音によれば、主イエスは、「あなたは生ける神の子・メシア(キリスト)です」とのペトロの告白に応えて、「ペトロ、あなたは幸いである。あなたにこのことを示したのは人間の知恵ではなく、天におられるわたしの父である」と告げられた上で、「岩」であるペトロの上にご自身の教会をお建てになることに加えて、彼に授ける「天国の鍵」の権能について、次のように約束されました。

「わたしも言っておく。あなたはペトロ、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ18:18,19)

「それでは、あなたはわたしを何者だというのか。」

ヨハネによる福音によれば、この同じ主イエスの問いに耐えられず、それでもなお心をあらためて神に聞こうとせず、自分の知恵を頼りに主から離れて行った多くの人々がいました。その時、彼らの後に残されたペトロたち十二人の弟子たちに、主は、「あなた方もわたしを離れて行きたいか」と、お尋ねになりました。

その時の、ペトロの主イエスへの命がけの告白を、わたしたちも命をかけて、今、このミサで、ご聖体拝領前に告白します。

「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧。あなたをおいてだれのところに行きましょう。」(ヨハネ6:68,69)

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 9/14

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

「十字架称賛」の祝日(9月14日)の黙想 

(ヨハネによる福音3:13-17)

過ぐる8月6日に、「主の変容」を記念しました。主イエスは、最期にエルサレムに上られるに先立ち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて高い山に登られました。その時、主のお姿が変わり、主の服も真っ白に輝きました。さらに、弟子たちは、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。これに聞け」との天からの声を聞いた、と福音は伝えていました。

「主の変容」が、主イエスの過越、すなわち主の十字架と復活の40日前であったとのカトリック教会の古い伝承に従い、紀元5世紀以来、8月6日の「主の変容」の祝日の40日後の9月14日に、教会は、「十字架称賛」の祝日を祝い続けて参りました。

「主の変容」が、主イエスの過越の40日前との教会の伝承は、モーセに導かれたイスラエルの民が、約束の地に入るまでの荒野の40年を思い起こさせます。「主の変容」の直後から、主は、弟子たちを伴って、エルサレムに上る最期の旅を始められます。そしてまさに40日後に、弟子たちは、エルサレムで、主の「過越の食卓」(最後の晩餐)に与り、約束の地、すなわち「神の国」に迎え入れられます。

ただしそれは、「主の変容」の前後三度、主イエスが弟子たちに告げられたように、主の十字架と復活を通してのみ招き入れられる「神の国」。しかも、その「過越の食卓」(最後の晩餐)で、主が弟子たちに与えられる「永遠のいのちの糧」が、「キリストのからだ」であることが、主によって弟子たちにはっきりと示されることになります。

冒頭の主イエスのみことばは、主と二コデモとの長い対話の一部です。ニコデモは、ファリサイ派の一人であったと言われています。しかし彼は、主が父なる神から遣わされた方であることを確信するに至ったのだと思います。その結果、ある夜、彼は主の許を独り訪ねて来たと、ヨハネによる福音は伝えていました。

この二コデモに、主イエスはご自身の真実を、次のようにはっきりとお語りになりました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」これは、聖書のみことばの中でも、最も愛され親しまれて来たみことばの一つではないでしょうか。ただし、神がその御独り子イエス・キリストを、わたしたち罪人にお与えくださる。それがいかなることであるのか。じつは、このみことばの直前に、主イエスは次のように仰せでした。

「天から下って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:13,14)

「信じる者が皆、永遠の命を得るため」には、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない」と、主イエスは仰せです。

モーセに導かれた神の民は、荒野の40年の旅の途上くり返し罪を犯します。ある時、主なる神はモーセに、罪なる民のために罪の贖いのしるしとして青銅の蛇を作り、十字架のように棒の上にそれを架け、高く上げることをお命じになりました。民はその青銅の蛇を仰いで癒された、と旧約の「民数記」(21章)に伝えられています。

その旧約の犧牲のしるしのように、「人の子も上げられなければならない」と、主イエスは仰せです。ただし、この度の主によるご自身の奉献は、もはや罪の贖いの「しるし」ではありません。私たち罪人の「罪の贖いそのもの」として、主はご自身を、十字架の上に高く「上げて」くださるのです。

主イエスの十字架の奉献によってのみ、「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得る」ことを赦されます。さらに十字架を通して高く天に上げられた主は、わたしたちに「聖霊」を注いでくださるために復活してくださいます。それは、聖霊によってわたしたちを「新たに神の国に生まれさせてくださる」(ヨハネ3:3、5-7)ためです。

二コデモにお会いくださった同じ十字架とご復活の主イエスは、わたしたちにも必ずお会いくださいます。二コデモ同様、わたしたちが「一人も滅びないで」、必ず聖霊によって「新たに生まれ、神の国を見る」(ヨハネ3:3)者としてくださるためです。

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

司祭の言葉 9/8

年間第23主日 マルコ7:31-37

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

マルコによる福音は、主イエスが、洗礼者ヨハネの殉教の死を契機に、「神の国(の食卓)」のしるしとしての「パンの出来事」をお始めになり、それを繰り返されたことを伝えます。とくに今日の福音は、主の二度目の「パンの出来事」の直前のことです。

そうであれば、今日の福音の伝える、主イエスによる、耳の聞こえない人、口の利けない人の癒しとは、主が彼らを「神の国」へ、さらに「神の国の食卓」へと招かれることの目に見えるしるしとなる出来事ではなかったでしょうか。しかし、「神の国」すなわち「イエス・キリストが主である神の国」とは、いかなる「国」なのでしょうか。

今日の福音は、「神の国」とは、「聖霊」の働かれる「国」であるという事実を、目に見える形で、わたしたちに語ってくれているように思います。「聖霊」とは、もちろん「主イエス・キリストのであり、直訳すれば「主の(いのちの)のことです。

実際、ヨハネによる福音は、ご復活の主イエスが、弟子たちにご自身を現わしてくださった時、「彼らに息を吹きかけて、『聖霊を受けなさい』と言われた」と、伝えています(ヨハネ20:22)。

今日のマルコによる福音も、主イエスは、「耳が聞こえず、口の利けない」人に、「天を仰いで、深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるようになった」と、伝えていました。

ここで、主イエスは、この人に、「開け」とのことばを以て「息を吹きかけられる」前に、「天を仰がれた」と言われています。このことに注目したいと思います。

主イエスは「天を仰がれ」、この人に向かって「主ご自身の息を吹きかけ」て、「エッファタ」すなわち「開け」と言われた。それは第一には、「この人の耳と口が開く」ようにということであり、事実、この人は主のおことば通り「耳と口」が開かれます。

しかし、主イエスの「開け(エッファタ)」とは、彼の「耳と口」が開かれるのに先んじて、「天が開く」ようにということではなかったでしょうか。

「天が開く」「天」とは「神の国」。そして、それは「聖霊の宝庫」です。その「天が開く」。しかし、それは、誰に、でしょうか。もちろん、それは、今、主イエスのみ前に立つ、かつては「耳が聞こえず、口の利けなかった」この人に、です。彼が「神の国(の食卓)」に招かれるとは、彼に対して「天が開く」ことだったのです。

そして、「聖霊の宝庫」である「天が開かれる」時、そこから「聖霊」が注がれます。主イエスが、洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼をお受けになられた時、「天が開けて、聖霊が鳩のように、御自分に降って来た」と、マルコは伝えています(1:10)。

今日の「耳が聞こえず、口の利けない」人の物語は、たんに主イエスの癒しの物語ではありません。「神の国(の食卓)」のしるしとなる出来事のただ中に語られた今日の福音の出来事は、主によって、この人に「天・神の国」が開かれ、この人は聖霊を受けたという事実を語っています。これこそ、「神のみのおできになる業」です。

加えて、大切なことがあります。ヨハネによる福音で、ご復活の主イエス・キリストが、弟子たちにご自身の「息」を吹きかけ、「聖霊を受けよ」と言われた時、「聖霊」を受けた弟子たちは、主から「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが許せば、その罪は許される」と言われていました(20:23)。ヨハネは、「罪の赦し」に深く関わって、主による「聖霊の注ぎ」を語っていたのです。

主イエスから、「聖霊」を受ける。それは、主によって罪を赦していただくことです。それが、わたしたちに「天」、すなわち「神の国」が「開かれる」ということです。

さらに、「聖霊」を受ける時、わたしたちは、「キリストの罪の赦しの使者」とさえされます。主イエスによって罪赦されたわたしたちは、罪に苦しむ多くの人々のために、主が「天を開いてくださる」、その事の証人とさえさせていただけるのです。

そのためにこそ、主イエスはわたしたちの耳と口とを開いてくださいます。開かれた耳で、神のみことばを聞き、開かれた口で、神を賛美させていただくために。「天すなわち神の国が開かれ、聖霊を受ける」その時、わたしたちは罪赦され、耳と口とを開かれて神を礼拝し、さらに主の罪の赦しを伝える使者とされるのです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 9/1

年間22主日 マルコ7:1-8,14-15,21-23 

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

七月、八月と、マルコおよびヨハネによる福音から、主イエスの「五つのパン」の出来事と、さらにその出来事を巡っての主と人々との対話からお聞きしてきました。

ところで、去る8月29日は、洗礼者ヨハネの殉教の記念日でしたが、マルコによる福音によれば、ヨハネの殉教の死は、実は主イエスの「パン」の出来事の直前に起こったこととして、語られています。これには、意味があるはずです。

主イエスは、洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼をお受けになられて後、ヨハネの殉教に至るまで、「悔い改めよ。神の国は近づいた」とのみことばを以て、福音の宣教を続けて来られました。しかし、ヨハネの殉教の死を転機として、主は、以後くり返される「パン」の出来事を通して、極めて大胆にも、人々を「神の国」に、むしろ「神の国の食卓」に招き入れることをお始めになられるのです。

実は、殉教の死に至るまで生涯を主イエスに捧げた洗礼者ヨハネに対する主の深い思い、むしろ彼への主の感謝こそが、この事実を説明するのでは無いでしょうか。

同時に、「パン」の出来事の後、主イエスは弟子たちに、ご自分の十字架の死と復活について語り始められるとともに、ガリラヤの北辺にまでおよんだ宣教の旅から踵を返して、エルサレムへと向かう最後の旅におつきになられました。マルコによる福音の伝えるこれらの事実を、わたしたちは見逃してはならないと思います。

今日の福音は、当時の宗教的指導者であったファリサイ派の人々および律法学者と主イエスとの、一見「ユダヤの慣習」を巡っての問答が物語られているようです。しかし、「パン」の出来事およびそれを巡っての主と人々との対話を通して、主イエスが神なる主、すなわち「神の国の主」キリストであることが明らかにされた今、『福音書』の関心は、勢い、人々の主に対する信仰に集約されます。

ファリサイ派の人々や律法学者たちが、先祖からの「ユダヤの慣習」に固執するのは、それが「神の国」に入るための条件であると信じたからです。ただし、ここに彼らの深刻な問題があからさまになります。「神の国」を願い求める、その彼らに、「神の国の主」である主イエス・キリストへの信仰が、真剣な問題になっていません。

「神の国」に入らせていただく。それは、いかに彼らが真面目に良い業を行うとしても、彼らを含めた罪人である人間が神に要求し得ることではありません。それは、「神の国の主」イエス・キリストによってのみ、赦され、可能とされるべきことです。そうであれば、それは、へりくだって「神の国の主キリスト」に信頼し、主に依り頼む他ないことです。その「神の国の主キリスト」は、今、彼らの前に立っておられるのです。

マルコによる福音によれば、律法学者やファリサイ派の人々は明らかに、主イエスの「パン」の出来事およびその後の人々との対話を見聞きしていたはずです。それにもかかわらず、彼らは主に向かって、まるで説教でもしているかのような極めて不遜な態度です。「釈迦に説法」という諺がありますが、彼らは、「神の国の主」イエス・キリストの前での彼らの振舞いの異常さに、気付いていないのでしょうか。

そのような彼らを、主イエスは、「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている」と、厳しく指摘しておられます。しかしこれは他人ごとではありません。「神の国」を願い求めるわたしたちも、主の前に、ファリサイ派や律法学者のように、自分たちを神より先にし、神に説教するようなことをしてはいないでしょうか。

ファリサイ派の人々や律法学者たちは、民の宗教的指導者として神のことばを託された人々であったはずです。その彼らの本来なすべきことは、マタイによる福音の中で主イエスが彼らに対して厳しく仰せになられたような、「背負いきれない重荷をまとめ人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」ということではあり得ないはずです。その逆であるはずです。

神のみことばを託される。それは、神の民の救いのために、神のご意志をその身に負い、神のみこころを自らの心とすることであるはずです。今や、律法学者やファリサイ派ではなく、神は御子イエス・キリストを世に遣わされ、御子に神のみことばを託されました。むしろ御子は、神の救いのみことばそのものとなられたのです。

神が、御子キリストによって神のみことばそのものとなられた。それは、御子にとっては、わたしたちの「背負いきれない重荷すなわち罪をまとめて」「ご自身の肩に背負って」わたしたちを救ってくださることでした。実にそれは、神のみことばご自身である主イエスにとって、わたしたちの十字架を、わたしたちのために、わたしたちに代って、ご自身の死に至るまで負い抜いてくださることでした。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 8/25

年間21主日 ヨハネ6:60-69

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。」

わたしたちのミサのご聖体拝領前の信仰告白の一つは、今日の福音の、ペトロのキリスト告白のこの言葉からとられたものです。

七月から今月の主日にわたって、ヨハネによる福音の伝える「五つのパン」の物語、およびその後の、人々と主イエスとの対話からお聞きしてきました。今日はその結びであり、主の対話の相手は、人々から主の十二弟子に移っています。

主イエスは、「パン」において、人々にお与えになられるものが、実は「キリストのからだ」すなわち主ご自身であることを、すでに人々にくり返しお語りになって来られました。たとえば、主は、「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と、仰せになっておられました。

しかし、今日の福音の始めに、主イエスのこれらのおことばを聞いて、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」といって、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」と、伝えられていました。

このように、多くの人々が主イエスから離れて行く中で、主の許に留まった十二人の弟子たちに、主は、「あなたがたも離れて行きたいか」と問われました。この主の問いかけに対し、十二弟子を代表して、シモン・ペトロが応えて告白したのが、冒頭のペトロのキリスト告白です。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

十二弟子を代表してのペトロによるこのキリスト告白こそ、彼ら十二弟子と、主イエスを離れて行った多くの人々とを、決定的に分かつものとなりました。

主イエスを離れていった多くの人々も、聖書が彼らを「弟子たちの多くの者」と呼ぶように、その時点まで、主の弟子を自認し、主に彼らなりの期待や希望や願いを託して主に従っていた人々であったはずです。

あるいは、彼らの人間的な期待は、主イエスが、わずかのパンで、男だけでも五千人の人々の食卓を満たされた「五つのパン」の出来事によって、いやましに増し加えられたのかも知れません。彼らは、その奇跡の翌日も、ふたたび主を訪ねて来たと、ヨハネによる福音は先に伝えていました。

しかし、「五つのパン」の出来事の後、主イエスが、彼らに語られた真実は、彼らの期待、あるいは常識から、余りにかけ離れていたのでしょう。主は、「パン」において、彼らに裂いて与えられるものが、「キリストのからだ」・主ご自身であることを、彼らにくり返し語られるばかりでした。

しかも、主イエスはこのことについて、もはや一切説明なさいません。主が、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われる時、それは比喩でも言葉の彩(あや)でもなく、事実以外の何ものでもないからです。

後に、十二弟子との最後の晩餐において主イエスがお語りになられるミサの制定のおことばも、この事実以外ではありません。福音に基づく「奉献文」は、は、次のように記します。「主イエスはすすんで受難に向かう前に、パンを取り、感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました。『皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡される、わたしのからだ、である』」。

今、主イエスのこのおことばの前に、わたしたち一人ひとりが問われています。わたしたちも、十二弟子とともに主を信じ、主のおことば通りの真実を受け入れるのか、あるいは、群衆とともに主を離れていきたいのか、を。

ただし、主イエスのおことばに従って、わたしたちが、「キリストのからだ」をいただき、その内に働かれる聖霊によって、「キリストの似姿」、否、「キリストのからだ」に変えられて行く以外に、わたしたちの救いはどこにもないことは明らかです。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 8/18

年間20主日 ヨハネ6:51-58

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」

「五つのパンと二匹の魚」の奇跡の翌日、人々はふたたび主イエスを訪ねて来ました。今日の福音は、先の主日の福音に続く主と彼らとの対話の後半です。

主イエスが「パン」において人々にお与えになるのは、じつは「キリストのからだ」、すなわちご自身のいのちであることは、すでに先の主日の福音で明らかにされていました。その主のおことばを、今日の福音はくり返すことから始めます。

「わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

しかし、主イエスのおことばを、人々はすぐに理解できたわけではありません。彼らは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と互いに激しく議論し始めた、とヨハネによる福音は、正直に伝えていました。

これに対して、主イエスは、もはや、説明を一切なさいません。「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と、主が言われる時、それは、比喩でも言葉の彩(あや)でもなく、文字通りの事実だからです。

主イエスは、「パン」において、事実、「主ご自身の肉」、すなわち「キリストのからだ」をお与えくださる。カトリック教会が、わたしたちの信仰の核心、すなわち「ご聖体の秘跡」・ミサの核心として信じてきたことは、主のこの事実以外の何ものでもありません。カトリック教会は、主のおことばに忠実に、ミサのたびに、主からいただく「パン」において、ご聖体・「キリストのからだ」を拝領し続けて来ました。

ご聖体の秘跡は、主イエスを信じる信仰における事実です。それゆえ、カトリック教会は、ご聖体を、主に信仰を告白し、洗礼を受けた人々にのみ、授けているのです。そしてその時、主を信じてご聖体を受ける者たちすべてにとって、今日の福音で、主が語られた一切のことは、真実です。主は仰せになられます。

「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」

ここに、主イエスは、ご聖体を受けるわたしたちに与えられる恵みの一切を語り尽くしておられます。その恵みの一切とは、主ご自身のいのち、即ち「聖霊」です。主は、「人の子の肉と血」、即ちご聖体を受けたわたしたちは、「永遠の命」を与えられ、「終わりの日に復活」に与ると、明確に約束してくださっています。この二つともに、「聖霊」の、そして「聖霊」のみの結ぶ実であり、決してそれ以外ではあり得ません。

ご聖体をいただくわたしたちは、「聖霊」をいただくのです。「聖霊」はわたしたちの内に働いて、「永遠の命」「終りの日の復活」を、「聖霊」の結ぶ恵みの果実として、わたしたち自身に、わたしたちの身の事実として、必ず成就してくださいます。

ご聖体をいただくわたしたちは、まさに生ける主イエス・キリストご自身であられる「聖霊」をいただきます。主はさらに続けて、

「わたしの肉を食べ、血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」

ご聖体を受けるわたしたちは、「御父と御子の交わり」の内に招き入れられると、主イエスは仰せです。「御父と御子の交わり(communio)こそ、「聖霊」の本体であり、「聖霊のお働き」そのものです。それは、「二ケヤ・コンスタンチノープル」信条に、「聖霊は父と子(の交わり)より出で」と、明確に告白されているとおりです。

「聖霊」により、「御父と御子の交わり(communio)に招き入れられることは、「神の国の祝宴」、「父・子・聖霊の三位一体なる神の食卓(の交わり)(communio)」に迎え入れられることでもあります。ミサは、地上におけるその天の食卓の先取りです。

「これは天から降って来たパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 8/15

「天の食卓に迎え入れられて」聖母マリアさまの被昇天の祭日の黙想 

(2024年8月15日、ルカ1:39-56) 

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」

聖母マリアさまのこのおことばは、「聖母被昇天」の祭日の「集会祈願」のように、後に「からだも魂もともに天の栄光に上げられた」「神の母」聖マリアさまの喜びを、聖霊により御子キリストを宿されたその時から、すでに先取りしているようです。

実は御子キリストは、ご自身の十字架と、十字架に続くご復活とご昇天を前にして聖母マリアさまと弟子たちに次のように約束しておられました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ12:32) 紀元五世紀に遡る「聖母被昇天」の祭日。それは、御子キリストが、ご自身のこのお約束をご自身の「母」マリアさま、だれよりも愛しかつ誰にも優って感謝してやまない聖母さまに、わたしたちすべてに先んじて最初に成就されたことの記念です。

ところで、聖母さまが御子キリストによって「上げられた」「天の栄光」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、「父・子・聖霊」の「三位一体の神」の「聖なるいのちの交わり(communio)のこと。しかもそれは、教会の伝統では、ロシアのリュブリョフの有名なイコンのように、「三位一体の神」なる「父と子と聖霊」の「天の食卓(の交わり)」として描かれて来ました。そうであれば、聖母さまが「天の栄光に上げられた」とは、聖母さまが「天」における「父・子・聖霊の三位一体の神」の「聖なる交わりの食卓(communio)」に、大切に、かつ感謝をもって迎え入れられたということです。

聖母さまが、三位一体の神の天の食卓に迎え入れられる。これは、「神の母」としての誠実なご奉仕を地上で終えられた後、上げられた天において聖母さまのご労苦に報いるにまことにふさわしいことでしょう。聖母さまは、「天の父なる神」の祝福とご意志を、「おことば通り、この身に成りますように」と受け入れ、「聖霊なる神」に満たされて神の御独り子を身籠り、「御子なる神キリスト」を産み育てられた方。

聖母マリアさまは、「神の母」、文字通り「神に御からだをお与えくださった方」(聖アタナシウス)です。「神の母」マリアさま無しに、わたしたちは、神なる主イエスのご聖体をいただくことはできません。つまり、ミサが成り立ちません。カトリックの信仰は、心の内に神を信じるという以上に、主イエスご自身が制定してくださったミサ(最後の晩餐・過越の祭儀)において「神との霊的・神的な交わり(Divine/Holy Communion)」に入らせていただくこと」です。しかし、聖母さま無しに、わたしたちはご聖体の主イエスにおける神との御交わりに入らせていただくことはできません。

聖母さまは、聖霊によって父なる神の御ひとり子を宿された時から、天の「三位一体の神の交わり」に迎えられる日まで、「神の母」として、天の神の祝福に包まれ、聖霊に導かれ、御子キリストのおことばとみ業を「すべて心に納めて」行かれました。

      (ルカ2:51)

主イエス・キリストが「受肉された神」ご自身であることを、ご聖体の秘跡(ミサ聖祭)の体験を通して「わが身に知る」カトリック教会は、主の「受肉の秘義」に「母」とされることによってお仕えされた聖母マリアさまを、「偉大な人イエスの母」としてではなく、「受肉された御子なる神」の「母」、すなわち「神の母」「神に御からだをお与えくださった方」と、確信と感謝と喜びをもってお呼びさせていただいて参りました。しかし、このことはミサを離れては、決して自明のことではありません。

事実、約300年間の迫害の時を、カタコンベでミサを死守した教会でしたが、4世紀初頭コンスタンチヌス大帝により教会が公認され、保護されるようになると、ミサを離れた観念的な議論で教会を混乱させる人々が現れました。彼らは、聖母さまによる受肉の秘義を認めず、従って主イエスを受肉された神と認めず、聖母さまも「偉大なる人イエスの母」に過ぎず「神の母」ではないと主張しました。ミサのご聖体において「受肉された神キリスト」を畏れと感謝をもって拝領する体験を欠き、主を観念的にしか理解できない人々には、これはやむをえないことかもしれません。

また、御子キリストが、ご自身の母・マリアさまを、父の許に上られる十字架の上から、わたしたちにも「母」としてお与えくださった恵みを忘れるわけには行きせん。「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:26,27)

それは、わたしたちが「神の母」聖マリアさまに抱かれて、「三位一体の神」の祝福の内に新たに生まれることを、御子なる主イエスが切に願われてのことに違いありません。「神の母」聖マリアさまは、わたしたちの母として、わたしたちを「三位一体の神の交わり」の内に、すなわち「永遠のいのちの交わり(commmunio)」の内に産んでくださいます。それは、聖母さまのように、わたしたちも「神の国の祝宴」、「父・子・聖霊の三位一体の神の食卓(の交わり)」に迎え入れられることでもあります。

「神の母」聖マリアさまを「わたしたちの母」とも呼ばせていただけるわたしたちカトリックの幸い。「神の母」聖マリアさま、わたしたち罪人のために、今も、死を迎える時も、お祈りください。  アーメン。