司祭の言葉 11/14

年間33主日

 教会の典礼暦年は終わりに近づいてきました。朗読は週末について考えるように求めています。今日の箇所はエルサレムに入城し壮麗な神殿に感嘆している弟子たちに対して、エルサレム滅亡を語ったお話です。

 このような苦難の後とは、・・聖書と典礼の解説に述べられていますが、今日の朗読箇所の前13の5から23には、戦争や迫害、天変地異や偽メシアの出現など、終わりの日に起こる苦難のことが語られています。
 その後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる・・
とありますが、この表現は当時の人々が用いていた終末的表現で、イエス様もそれをそのまま用いて、人々の目を終末に向けようとしています。
 主なる神は言われる、「その日には、わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くし、
アモスの預言8の9

 地は彼らの前におののき、天はふるい、日も月も暗くなり、星はその光を失う。
ヨエルの預言2の10

 わたしはあなたを滅ぼす時、空をおおい、星を暗くし、雲で日をおおい、月に光を放たせない。                         エゼキエルの預言32の7

 そしてその時とは、再臨の時であることが示されます。
「そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」

 イエス様はイチジクの木を譬えにして、キリストの再臨の確かさについて語っています。イチジクは冬になると葉を落とし、夏の近づきとともに葉を茂らせます。そして人々は、それを見て季節の変化を感じ取ります。

 戸口に近づいていると言う表現は、終末はすぐそこにきている事を示します。それは、
天地が滅びても私の言葉は決して滅びない・・・というほど確かな事なのです。

しかし、確かで近いその日は、父の他は誰も知り得ません。
子も知らないというものをわたしたちが詮索するのはむだなことであると示されます。
必要なことは、いつも目覚めていることです。

 終末は救いの時なのですから、不安のうちに待つのではなく、熱心に待ち望みながら ・・ (御国が来ますように)今日の一日を目覚めて生きる事が必要なのです。
 わたしたちは、先のこともわからないのにずーと先のことまで考えていますが、人は無意識のうちにも、永遠に生きると言うことを自覚しているとも言えます。

 施設におりますと3年ほどに一度、県の監査がはいります。その時には、入居者の記録を丹念に読んで行きます。ですから、毎日の記録はきちんとつける必要があります。そして一人一人のケアサービス計画が立てられているか、半年に一度は、その見直しがなされているか、一人一人の大目標、小目標の設定、支援計画の見直しがなされているかなどをチェックして行きます。ですから毎年いつ監査が来ても大丈夫なように備えています。

人類滅亡などと、そんな大それた事を考えなくても、私にとってのこの世の終わりは必ず来ます。まずは、自分の死によって・・。 私たちの死亡率は100%ですから。

 私たちの大目標とは何でしょうか → 必ず、神の国にはいることです。
その為の小目標は設定されているのでしょうか。 いろいろあると思いますが、その一つは・・・常に神を大切にし、神に感謝することです。
 忙しい、たのしい、あるいは、つらい一日が終わり床につく前に、
 悔いも色々あるけど、今日も一日有り難うございました・・とつぶやけば感謝の祈りとなります。まずは日々感謝することです。

 さらに必要な小目標は、イエスが愛したように隣人を愛するように努めることです。イエス様が命をかけて贖った隣人を大切にすることです。どんなに許せない相手でもイエス様が許したのですから・・・。

 神の助けによって、頑張りましょう。

司祭の言葉 11/7

年間第32主日B年

 エルサレム神殿は縦300メートル横500メートルの城壁があり、その中に建てられた石作りの四角い建物です。異邦人の庭。婦人の庭があり、神殿に入れるのは男子だけ、さらに司祭だけが入れる生贄の祭壇と香をたく場所、その奥に大祭司だけが入れる至聖所があり契約の箱が置かれていました。

 「賽銭箱」というのは、日本の神社の前にあるような四角い木箱ではなく、ラッパ形の容器で、神殿の「婦人の庭」に十三個が置かれていたと伝えられています。各々特別な目的のためで、供えの穀物のため、油のためなど、神殿の費用のためでした。
 具体的にどんなかたちであったのかは分かりませんが、恐らく口が大きく開いていて、お金を賽銭箱に入れた時には音が大きく拡大されて響いていたのではないかと考えられます。
 ついで、やもめについても、理解しておく必要があります。女性の働く職場と言うものがなかったこの時代、独り身になった女性が生きてゆくのは大変でした。旧約聖書のルツ記にも、落ち穂を拾わせてもらって生活するやもめの姿が描かれています。

 ある日のエレサレム神殿です。お金持ちの夫人たちはジャランジャランと銀貨をたくさん入れていました。当時は高額貨幣も硬貨でしたから、重さに比例して音も派手だったかも知れません。やもめが入れたこの時、賽銭箱に響いた音は、正直、ささやかな音だったのではないかと思います。レプタは薄いものと言う意味でした。

当時のパレスチナにはイスラエル固有の貨幣であるシケルの他に、ギリシャ貨幣やローマ貨幣が入り乱れて流通していましたから、ローマ貨幣に馴染んでいる読者のためにこのような説明が必要になったのでしょう。レプトン銅貨は労働者の一日の賃金1デナリオンの128分の一とありますから、Ⅰデナリオンを1万円とすると、今でいえば、やもめが入れたのは160円ほどになります。

 しかし、その音を聞いたイエス様はその光景を見のがしませんでした。おそらく、とりわけ質素な身なりをしていたのだと思います。イエス様の目がいつも貧しい人々に向いていた証拠です。

 レプトン二枚はささやかな金額ですが、やもめにとっては、その日の食べ物を買うための最後の二枚、すなわち生活費の全部だったとイエス様は見抜いています。

その日暮らしのやもめでした。しかも、一枚を自分のためにとっておくこともできたのに、二枚とも投げ入れたところに、このやもめの心が表れています。

 ここでこイエス様が問題にするのは、贈り物の額ではなく、贈り物に伴う犠牲の大きさです。神様が喜ばれるのは私たちの犠牲の大きさなのです。
 そしてさらに目を止めるべきなのは彼女の信仰です。生活費のすべてをと言うことは、自分のすべてを神の手にゆだねたということになります。

 今日のイエス様の言葉を自分に向けた言葉として聞いて、神への応えとして、何か一つ決意をいたしましょう。

司祭の言葉 10/31

年間第31主日 (マルコ12章28b-34節)

 旧約聖書には数え切れないくらい多くの掟(戒め)がありますが、人は、余りに多くの言葉に接すると困惑して「要するに何ですか?」と訊きたくなります。
 今日の所で一人の律法学者が、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」(28節)とイエスに尋ねたのも、同じ気持ちからでしょう。この人なら、少ない言葉で単刀直入に要点を教えてくれるだろうと期待したのかも知れません。

 この問いに答えて、イエス様はまよわずに次の言葉を挙げました。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。 申命記6章4-5節の引用です。
  神を愛するとはどういうことでしょうか。ここは、本田哲郎訳では「心のそこから、自分のすべてをかけ、判断力を駆使して、力のかぎり、あなたの神、主を大切にせよ」となっています。キリシタン時代の人は「神の愛(ラテン語のカリタスcaritas)」のことを「御大切(ごたいせつ)」と訳したと言われます。「

 申命記ではこれに続いて次の言葉があります。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額(ひたい)に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(申命記6章6-9節)。・・・それほど重要な掟でした。

 それに続けて、間をおかず、イエスは第二の掟を挙げます。レビ記19章18節の言葉です。 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」。
 そして、「この二つにまさる掟はほかにない」(31節後半)と言います。
これは、マタイの並行箇所では「律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」(22章40節)となっています。

 タルムードの話です。ある異邦人が「ユダヤ教に改宗したい。ただし条件がある。片足で立っている間に律法をわかるように教えてくれ。とラビのシャンマイのもとへ行きます。するとシャンマイは、「一生かかってもまだ完全には理解できないのに」・・・と測り棒でたたきだしました。 追い出された彼は次に、ラビ・ヒレルのもとに行きます。するとヒレルはよろしいと答え、彼が片足で立つと、愛の掟を否定的な表現で「あなたのしてほしくないことは他人にしてはならない。あとは自分で実践して学びなさい」そう答えたといいます。

 ルカの平衡個所(10の27)では、私の隣人とは誰ですかという質問が続き、サマリア人の例えが語られますが、レビ記も決してユダヤ人だけを愛すればいいと教えているわけではありません。

「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである」(レビ記19章34節)。

ここで、「自分自身を愛するように」と言う言葉に疑問が投げかけられます。
 自分自身を愛せない人はどうするの・・・という問いかけです。
 理由は様々ですが、自分自身を愛せない人もいるのが現実です。

そしてイエス様はそのような疑問にこたえるかのように、新しい掟をくださいます。  「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13の34)

レビ記の隣人愛の根拠は、寄留者であったあなたたちを神が愛され、奴隷状態から解放された。だから「神があなたたちを愛されたように、あなたたちも寄留者を愛しなさい」ということでした。
 そして新約の根拠は「私があなたたちを愛したように」ということです。

ではイエス様はどのように私を愛してくださったのか
 そこは福音を読み込むことによって、第二のアダム・キリストの生き方に倣うことによって、キリストの愛に触れることができるのではないかと思います。

司祭の言葉 10/24

年間30主日

 目の見えない人の苦悩はいかばかりでしょうか。 
 朝霞の主任司祭だった犬飼い神父さんは、晩年は目が悪くなり、大きなレンズを通して典礼書を見ていましたから、ミサを捧げるにも苦労していました。
 小生も、おととしの春、見えにくくなって白内障の手術を受けました。手術室にいたのは25分ほど、それでも時間のかかった方です。日帰りで翌日には眼帯が外れました。すごいですね、母が手術をしたときには動かないように目に重しを乗せて、二泊ほどしたように思います。おかげで今は、レンズが入っていますので、視力は1.2あります。
 目の見えない自分を想像することができません。人間の情報の80%は目から入るのだそうです。とても不自由で、不安だと思います。

 今日の聖書の言葉は、ティマイの子・バルティマイのお話です。
 当時目の見えない人が生きてゆくのは本当に大変でした。障害は罪の結果だと考えられ、障害者は罪びととして差別されたからです。視力を失った彼は、道行く人に物乞いをするほかには、生活の糧を得る方法がなかったのです。

 バルティマイはどんなに目が見えなくても、誰よりも早くイエス様の足音を聞きつけました。手探りをしながらでも駆けつけようとしました。彼の目は閉じられていましたが、霊的な目ははっきりと開かれていて、目が見えないと言う障害も、イエス様に近づくための障害にはなりませんでした。また、彼の切実な叫びをだまらせようと制止するまわりの力に対しても、バルティマイは屈しませんでした。それどころか、彼はますます叫び続けたと書かれています。

 イエス様はエルサレムの途上にありました。そしてエリコの町に入ります。ここからはあと24キロほどです。
 弟子たちはイエス様を囲んで話を聞きながら道をたどっていました。
 逍遥学派という言葉があります。アリストテレスが創設した古代ギリシャの哲学者のグループで、逍遥(散歩)しながら講義を行ったからです。
 私の神学生の時も、夕食後は庭を、先生を囲み逍遥しながら、多くの話を聞きました。イエス様も歩きながら多くのことを教えたのです。
 大事な話を聞き漏らすまいとしていた弟子たちにとって、バルテマイの、イエス様を呼ぶ声は邪魔だったのでしょう。多くの人が叱りつけて黙らせようとしたとあります。

 救いに飢え乾くバルティマイの切なる願いさえ、周囲の人々は非情にもさえぎろうとしましたが、でもイエス様は、道端に座り込む者の苦しみにも目を留めるメシアです。その叫びを聞き彼を呼びなさいと命じます。

 彼は上着を投げ捨て、躍り上がってイエス様のところに来ました。この上着は、夜は彼のからだを寒さから守る唯一のものであり、昼間は投げられる硬貨を一円でも失われないよう確実に受け止めるため、ひざの上にいっぱいに広げられていたものだろうと思います。それは彼にとってなによりも大切なものでした。
 それなのに彼は、自分の持ち物も安全も手放すかのように、イエス様のもとに向かいます。メシアとの出会いは唯一の上着をも投げ捨てるほどの喜びでありました。

 私たちはどうでしょうか。イエス様のように小さき者の声に耳を止めているでしょうか。私たちも心の目が見えないのではないでしょうか。
 そしてバルティマイの信仰をご覧になり、癒しはなされました。

 ここに私たちの模範とすべきものが、示されています。 

先ず、バルティマイの本気さ。 
 漠然とイエスに合いたいと言うのではなく必死の願いでした。
次いで、イエスの召しに対する応答は即座に、熱心になされました。
 そのため大切な、でも今は邪魔な上着を脱ぎ捨てたのです。
 多くの場合私たちはやりかけたことを終えるまで待とうとしますが、バルティマイは
 イエス様が呼んだ時、弾丸のようにやってきました。
そして、ただ一度しか起こらないチャンスというものがあります。
 時々間違った生活を精算し、イエスにもっと自分を捧げたいと思うことがありますが、
 しかし、その瞬間にそれを行動に移すことをしない。
 そして機会は去り決して戻ってこないのです。
最後に、バルティマイは感謝の人でした。
 道ばたの乞食でしたが、見えるようにして貰って彼はイエスに従ったのです。

司祭の言葉 10/17

年間29主日B年

 歴史を振り返れば、有名な専制君主は古今東西を問わず、圧政によって支配してきました。そして今なお、多くの国で、権力はまさに力と暴力によって行使されています。
 現在のミャンマーも香港も民衆の願いは、力によって封じ込められてきました。アフガニスタンも武力が支配し、民衆の自由は封じ込められています。
 2019年末で紛争や迫害により故郷を追われた人の数は7950万人となり、97人に一人となっているとのことです。

今日のパンフレット(聖書と典礼)の下の説明に、三回目の受難予告に続く箇所・・・とあります。イエス様はこれまで弟子達に、ご自分の生命が犠牲として捧げられるもの、であることを三度告げました。受難の予告です。しかし三度とも、この世の権力を夢見ていた弟子達には、イエス様の言わんとするところが理解できませんでした。

 戦の前に恩賞を約束し、配下の戦意を高揚させるのは指揮官の常套手段なので、彼らは「世の常にならって、わたしたちにも恩賞を約束して下さい」と願ったと思われます。

 イエス様の答は「あなたがたは、自分が何を願っているかわかっていない。このわたしが飲む杯をのみ、このわたしがうける洗礼を受けることが出来るか」というものでした。

イエスの栄光にあずかるためなら、彼らはどのような苦しみにも耐える覚悟ができていたのでしょう。二人の弟子は39節で「できます」と答えます。

「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」とおっしゃいましたが、イエス様は報いとしての地位を彼らに約束しませんでした。そして「定められた人々にゆるされる」とおっしゃいました。「神がお決めになることだ」という意味で、それはあなたにもわたしにも関係ない、と言うのです。

(ヨハネの最期は聖書に伝えられていませんが、ヤコブは後に殉教したと伝えられています  使徒言行録12・1-2)。

 他の10人は腹を立てます。自分たちも同じようなことを考えているのに、ヤコブとヨハネに先を越されたからです。 そうでなければ腹を立てる必要はありません。

 そこでイエス様は弟子達を呼び集め、他者に愛をもって使えるという教えを再度たたき込みました。 「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来た。」

 しかし、神の国での権能は、他者が必要としていることに、謙遜に仕えることで行使されます。イエス様は夜遅くまで様々な病気を癒したり、長時間群衆に教えたり、町から町へ福音を宣教して歩いたり、人々の悩みに耳を傾けたり、と言った模範を示しました。

 イエス様は報酬を求めず、分け隔てをせず、何も要求しませんでした。イエス様は他者のために存在する人として生きました。そして弟子達の足を、自分を裏切る事となる者の足をも洗うことで、弟子達に、仕えると言うことの最高の模範を示す日がやがてやってくるのです。

 幸い教会ではこのイエス様の教えを生きようとする信者さん達の姿を多く目にします。
大学の校長であった人でも、病院の理事長であった人でも献金を勘定し、身分の隔てなく全ての人が謙虚に教会活動に奉仕しています・・・。そしてその気になれば、家庭、職場、学校、その他何処ででも、わたしたちも、仕えるキリストの姿に倣うことが出来ます。そしてそれがキリスト教信仰の奥義であるとおもいます。

司祭の言葉 10/10

年間第28主日(B年)(マルコ10.17~27)

 「神父さん、司祭たちの老後はどうなっていますか?」・・時々そのような質問が来ます。今は子供を神学校に行かせるにも、親はそのような心配をします。 
 わたしが神学校に行こうとした当時は、親はそのような心配よりも、「わが子が途中で挫折して戻ってくるのではないか」ということを心配していました。また、貧しかったにもかかわらず、お金の心配もしていなかったようです。当時は「老後の生活」なんて、発想もできなかったのでしょう。それゆえにお金への執着もなかったのではないかと思います。  

 勿論、お金がどれだけあるかによって、生活設計を立てているのが現実です。司祭にも自分の将来は信者さんに迷惑をかけないように、責任を持たなくてはいけないと言う考えがありますから、どうしてもお金の問題は避けて通れません。「お金の心配をしない・・それでいいのだ」という声と、「それじゃいけない」という声が交錯します。

 今日の福音に登場する青年は、なんと真剣なんだろう、と思います。「永遠の生命を得るためにどうしたらよいのですか」この質問に善良な青年の姿を感じます。
 この質問に対して、イエスさまは「おきてを守りなさい」といわれます。「殺すな。姦通するな。盗むな。偽証するな。欺きとるな。父母を敬え」と。十戒の初めの神に関する三つの掟を除いた項目で、人との関係性を示す掟の部分です。これで、永遠の生命に入ることができるといわれます。
 言い換えれば、神を知らない人も救われるという教えが述べられています。周りを見渡せば、親族友人の中でも、神を知る機会もなく、命を神に返す人がほとんどですから、大きな慰めです。

 青年が(マタイでは青年と言っています)その全てを守りましたと答えると、イエス様は一つだけかけていることがあると指摘し、「財産を売って貧しい人達に与えなさい」と教えてから「さあ、わたしに従いなさい」と招きます。

 イエス様は、永遠のいのちを相続するために十戒では不十分であるから、施しという新しい掟を加えたのではありません。むしろ、十戒はほどこしをもふくんでいるのですが、掟を守ることに懸命な青年の視野には隣人の姿が入らない。しかし、十戒は人が隣人と共に生きるために与えられた神の指示です。
 イエス様にとって隣人とのかかわりを欠いた十戒は無意味なのです。
パウロも、「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」そのほかどんな掟があっても「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます(ロマ13の9)と述べて、イエス様の考えを受け継いでいます。十戒を真に生きる者は、施す者になるのです。

 ただし、だからと言ってイエス様の呼びかけに応えられない自分はダメだと決めつけるべきではありません。 「慈しんで」(agapao」)という言葉には、イエス様の深い愛が感じられます。
 イエス様はすべての人に、このような強い要求をしているわけでもありません。
ルカ19章1-10節に徴税人の頭(かしら)で金持ちであったザアカイの物語があります。ザアカイはイエス様に出会い、救いを受け取ったとき、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言いました。 イエス様はザアカイのこの決意を良しとしています。

 なぜ、きょうの箇所ではすべてを捨てて、貧しい人に施す、ということが要求されているのでしょうか?

 イエス様はこの男に「あなたに欠けているものが一つある」(21節)と言います。それはこの人の生き方の問題に気づかせるためだったのではないでしょうか。
 イエス様の言葉を聞いて、彼は「悲しみながら立ち去り」ました。
 こうして、彼が「自分の財産」に全面的に頼りきっていたことが明らかになってしまうのです。 そしてこのことは、私達みなが絶えず反省すべき事だと思います。

 私もあまりに金に頼りすぎてはいないでしょうか。 あなたの心は私のうちにない・・そうイエス様はおっしゃって、嘆いているかもしれません。
 イエス様の言葉です。「あなたの宝のある所にあなたの心もある」(マタイ6の21)

司祭の言葉 10/3

 年間第27主日B年 (マルコ10章2-16節)

 ようやく今日から公開ミサ再開です。ともに聖体祭儀の出来ることを感謝したいと思います。そして引き続き主の哀れみを願ってともに祈りたいと思います。

 熟年離婚が多くなっていますね。ご主人の定年退職後、奥さんの常日頃の不満が爆発。いつも一緒にいるのは耐えられないと・・。 ご主人のほうも奥さんに対する不満があります。部屋の片付けができていない。よく料理を焦がす。遊び歩いてばかりいる。それらも離婚の原因になるのでしょうか?
 女性の社会進出は目覚ましいですね。 幼稚園で運動会の日、ご老人が倒れて、お医者さんがおいででしたらお願いしますというと、女医さんも含め3人が駆け付けました。
 数年前、東京大学医学部では女性の点数を低く抑え、差別をしていたことが明るみにでました。女性の成績がよく、女医ばかりになってしまうと言うのが理由でした。女性の社会での地位は日増しに向上していますが、まだ十分ではありません。国民を代表する国会議員の女性比率は9.9%ですから・・。
 春日部教会は違います。女性の皆さんが大活躍しています。

 ファリサイ派の人たちが離婚の問題をイエスに突きつけたのには、どのような背景があるのでしょうか。
 ファリサイ派の人たちはイエス様がモーセに律法と矛盾したことを言うのを聞きたいと思い、それによってイエスを異端者として、訴える口実を作ろうとしたのでしょうか。
 あるいは、その妻と離婚し別な女性と結婚したヘロデ王をバプテスマのヨハネが糾弾し、捕まえられ首をはねられた、その問題に引き込み、ヘロデ王との敵対関係に持って行こうとしたのでしょうか。
 申命記にはこう規定されていました。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24章1節)。
 日本でも江戸時代に、三行半という離縁状が夫から妻へ、あるいは妻から夫へも渡されることがありました。離別状あるいは去状、暇状とも言います。
 三行半とは、離縁状の俗称です。離縁状の内容を3行半で書く習俗があったことから、このようによばれました。もっとも、必ずしも全ての離縁状が3行半であったわけではありません。多くは前段で離婚文言を述べ、後段で再婚許可文言を述べるのが常でした。
 当時は字が書けない人もいましたが、その場合は3本の線とその半分の長さの線を1本書くことにより、離縁状の文言を書いた取扱がされていたそうです。

 当時のラビたちには、この「何か恥ずべき事」のについて、二つの解釈がありました。シャンマイ派とヒレル派です。

 シャンマイ派はこの文言を厳重に解釈し、「何か恥ずべきこと」を妻の側の異性関係の問題とだけ解釈し、どんなに浪費癖のある妻でも、それだけでは離婚できないとしました。一方ヒレル派は「何か」と「恥ずべきこと」を分けて読み、この「何か」を出来るだけ広く解釈しました。彼らは妻が料理をだめにしたり、通りで紡いだり、見知らぬ男と話をしたり、夫の聞いているところで夫の身内を軽蔑する話をしたり、大騒ぎをする女で、隣の家に声が聞こえるような女だとしたと言うことです。つまり、妻のどんな小さな落ち度でも、夫が気に入らないとなれば、離縁する正当な理由になったのです。そして一般に、このヒレル派の解釈が通用していました。
 「離縁状さえ書けば、妻を離縁してよい」これが当時の一般的な考えでした。
 律法学者は皆、男性でしたから、何百年かの間に、この律法は男性に都合のいいように解釈されていきました。 ラビのアキバなどは、この意味を拡大して、男の目に、自分の妻よりも美しい女がいた場合にも当てはまる・・としたと言われています。

 しかしながら、モーセのこの言葉の後の24章の5節には、次のような言葉があります。
 「人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。彼は、めとった妻を喜ばせねばならない。」
 そこには妻を大切にすべきことが述べられているのです。

 イエス様は当時の社会の中で、夫に追い出され、路頭に迷う多くの女性たちを見ていたと思われます。そして断固として離縁に反対します。取るに足らぬ理由で、あるいは全く理由なしに離婚されることが普通になった結果、イエス様の時代には結婚が不安定なものとなり、女たちが結婚を躊躇するような事態が起きていたと言います。
 イエス様は結婚を本来あるべき姿に回復なさろうとなさいます。
「神は人を男と女とにお造りになった」
神にかたどって創造された男女が神の前に対等であることを語る箇所です。
「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」
 そして結論として、イエス様はこう言います。
「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」
 妻とは、神が与えてくださったかけがえのないパートナーです。妻を自分の都合で家に置いたり、追い出したりできる「物」のように考えるのは間違っているのです・・と。 
 そして、イエスの言葉の本来の意味は「離婚してはいけない」という掟ではなく、結婚とは、「互いに相手を神が結び合わせてくださったかけがえのない相手として大切にしなさい」・・・ということであったと思われます。

司祭の言葉 9/26

年間第26主日(B年)(マルコ9.38~43、45、47~48)

 9月1日に経済評論家内橋克人さんが亡くなり、先日「未来への遺言」と言う追悼番組が放映されました。その中で氏は「戦前の、お上に疑問を提示することができない、頂点同調主義が、戦後も続いている。それがどんなに危ないか。」と警鐘を鳴らしていました。 

 わたしたち人間は、「主流派」に流されていきやすい傾向があります。 はじめは不本意ながらも、それに「慣らされていく」と、自分の中でもいつの間にか「信念」となっていき、新しい動きに対しては「ノー」という態度をとるようになります。

 今日の福音の弟子たちはまさにこうした態度をとります。
 イエスの時代、すべてのものが悪霊を信じていました。すべての人は、肉体的精神的病気は悪霊の悪意ある影響によると思っていたのです。さて、この悪霊をおいはらう一つの方法がありました。その悪霊よりも有力な霊の名を知ることができれば・・。そしてそれを唱えれば追い出せると。実際イエスも、「悪魔の頭、ベルゼブブによって追い出しているのだ」・・・と言われています。

 仲間でないものたちが、イエスの名によって悪霊を追い出しているのを目撃した弟子たちは、「その人はわたくしたちの仲間ではないのです」(38節)と、イエスさまに訴えます。さらに「そのためにわたくしたちはそれをやめさせようとしました」とまで言います。
 イエスさまはそれに対して「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である」(40節)と注意されます。

 ここには寛容の教えがあります。すべての人は自分の思想を持つ権利を有します。
 全ての人は彼自身の結論や信仰に到達するまで、物事を考え抜き、考えをまとめる権利を持っています。 第二バチカン公会議は、信教の自由に関する宣言を発布しました。
 本当の救いを願うといういことは、狭いグループ意識、選民意識、人間的な面子に左右されてはいけないのです。これがイエスさまのメッセージです。
 今日の第一朗読も、預言状態になっている仲間の姿を見たヨシュアが、モーセにやめさせてくださいと頼み、あなたはねたむ心を起こしているのかと注意される場面が語られています。

 その点仏教のほうが寛大かもしれません。 3年ほど前永平寺に行きましたが、多くの修行僧がおりました。かつてカトリックの神父たちもそこで修行し、イエズス会の門脇神父は印可を受けていますから。 修行を終え指導者となることのできる印です。 秘跡ではありません。加藤神父も僧籍にありますから、神父であり和尚でもあります。カトリックの神父が祭服を着て参列すれば、葬儀の時、内陣に入れてくれるそうです(加藤神父談)
 でもカトリックの叙階式では、山野内司教の友人のお坊さんを内陣に入れることはありませんでした。

 そして、マルコ9章41節「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」という言葉も、狭いグループ意識に凝り固まらないイエスの心を示しています。
 イエス様の深いやさしさを理解せずに、自分の思い込みで語ってしまうときに、私たち自身がつまずきの石となり、イエスのそばに来る人を遠ざけてしまうことになります。イエス様はどのようなお方であったのか、神の子と理解するだけではなく、その慈しみの心も理解することのできる恵みを祈りましょう。

 いよいよ来週は共にミサを捧げることができますね。パンデミックで苦しむ世界の上に、主の恵みを祈りましょう。
 そして今日は「世界難民移住移動者の日」でもあります。
 紛争や迫害により故郷を追われている人は、8000万人を超えているそうです。
 イエス様もマリア様ヨゼフ様に抱かれて、エジプトに避難した経験を持っています。
 祈りましょう。彼らの痛みを自分の痛みとして感じることができますように。

司祭の言葉 9/19

年間第25主日(マルコ9:30-37)

 皆さんお元気でしょうか。今日から公開ミサが行われるはずでしたが 、緊急事態宣言が延長されたので、今日のミサも非公開となりました。司祭は春日部教会の皆さんを覚えてミサを捧げますので、どうぞ心を合わせてお祈りください。

 このところなかなかチャンスがないのですが、小生は映画を見に行くとき、いつも席は一番後ろに座ります。最近の映画館はすいているのですが、それでも後ろに人がいると落ち着かないのです。・・やはり自分にとって一番いい席を取っているのだろうと思います。
 教会においでの皆さんも、すわり心地の良い場所があって、いつもそこに座るという事になるのではないでしょうか。観劇では前の方がS席で皆さん前に座るのを喜びますが、教会ではどう言う訳か皆さん後ろを好みますね。教会でも前の方がイエス様に近いのだからS席だと思うのですが・・・。

 今日の福音朗読は、二度目の「死と復活の予告」から始まっています。「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(9・32)とありますが、一度目の予告のあとに弟子の代表であるペトロが「サタン、引き下がれ」(8・34)と叱られたあとのことですから、弟子たちが何も尋ねられないのはよく分かります。また叱られるのではないかと思えば、尋ねたいことも尋ねられないものです。


 弟子たちはそれでも「だれがいちばん偉いか、良い場所をとるか」を途中で議論していました。・・・メシアについて理解していなかったからです。

 自民党の総裁選の立候補者が4名でそろいました。誰も過半数が取れず、決選投票になるだろうと予想されていますが、総裁が決まれば組閣が行われ、誰がどのポストに就くか、色々取りざたされることでしょう。だれがボスなのかという議論は人間に限ったことではありません。猿山のサルたちも、だれが一番よい場所をとるか、ボスにふさわしいかをいつも争っています。
 冷めた言い方をすれば、弟子たちが熱中していた議論は、サルがいちばん問題にしている程度の話題だったわけです。「途中で何を議論していたのか」というイエスの言葉は、「早くそんな愚かな議論から離れなさい」と言っているかのようです。

 そこでイエスは、人間が最も高められるような形でいちばんを目指す道を示そうとされました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(9・35)。 そして、その高い理想は自分たちの足下に、大人たちにまとわりつく子どもたちを受け入れることにあるというのです。

 先日、幼稚園の門を入った三歳児が、後ろを振り返った後、急に手提げ袋を放り出し、家に帰りたいとぐずり始めました。元気よく門をくぐり、お母さんに手を振ろうとしたら、お母さんは後ろを振り返らず行ってしまったのです。そして先生が来て抱き上げなだめて落ち着きました。子供はちょっとしたことで機嫌を損ねたり、泣き出したりします。
 イエスは「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた」のでした。(9・35)「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(9・36)。

 持っている力を見せつけるような人になるのではなく、小さな子供、つまり弱く小さな相手を寛大に受け入れる人になるように・・と教えられたのです。
 イエスの時代、律法を守る人間かどうかが人の評価の基準でしたから、子どもは「無能力者」の代表のようなもので、子どもであること自体には価値がないと考えられていたと言います。そのような考え方は、現代でも皆無ではありません。
 ユニセフによれば、人身売買によって兵士にされたり、強制労働や強制結婚、臓器売買の犠牲にされたりする子供の事例が、各国から報告されているそうです。

 小生は小さな子供が苦手です。小さな子供の動きにはハラハラさせられますし、小さな子供を受け入れるのは大変です。
 でも、イエス様の教えはこうなのです。
 子どもを受け入れてみること。そこからすべてが始まります。小さな子どもに大切に接してみること。愛情深く謙虚になって相手に仕えてみることが、ねたみや利己心から脱却するための手がかりとなるのです。

 迫害されている弟子や助けを必要としている小さな人々と、「子どもを受け入れる」ことはつながっています。この小さな人々を大切にすることこそが、イエスと神を大切にすることだと、神によって評価されるのです。

 イエスがここで言われるのは私たちのために何か出来る人々を求めるのではなく、
私達がしてあげられる人々を求めるべきであるというのです。
 イエスは同じ事を他の場所で「これらのいと小さき兄弟の一人にしたのはすなわちわたしにしたのである」と表現しておられます。
「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(9・36)。

肝に銘じておきましょう。

皆様のご家庭の上に、主の恵みが豊かに注がれますように ❕

司祭の言葉 9/12

年間第24主日 (マルコ8章27-35節)

 ある人物を正確に捉えるには、時間がかかります。
 セウイにいたYさんもその一人でした。本人は、自分の病気は先生になぐられた為だと言っていましたが、精神障害と知的障害があると診断されていました。  資料ではIQ38 知的な能力は7才程度でした。 
 皆さんの思うところでは、この人はどんな本を読み、どんなテレビ番組を好むと思いますか?  7才の子供の好むテレビや本を想像するでしょう? ところが、私は本当に知的障害者かなと疑問に思うのです。歴史に興味があって、 毎日、新聞のテレビ欄を見て世界遺産の番組や歴史ドラマを探してみていたのです。かつて、大河ドラマ篤姫が放映されたときなど・・「篤姫のお父さんの島津斉彬(なりあきら)」と言ったら 「父は忠剛(ただたけ)で斉彬は養父です」と訂正されました。しかも愛読書は文藝春秋なのです。

 2000年前ユダヤ人社会に彗星のように登場したイエスは、人々に強烈な印象を与えています。説教の力強さに人々は驚き、病人をいやすイエスの力に人々は興奮しました。 イエスの噂は 村から村へ町から町へ そして一時の興奮から、やがてイエスは何者なのだろうと言う問が浮かんできます・・当然、問に対する答はさまざまで・・人々の戸惑う姿をマルコはありのままに報告しています。  
 気が変になっている  汚れた霊にとりつかれている 大工の子ではないか
 洗礼者ヨハネがよみがえったのではないか エリアではないか 預言者の一人ではないか・・・→ 人々にはイエスの正体をつかみきれなかったことがわかります。

 それでは弟子達はどうでしょう。 イエスの正体がつかめていたのでしょうか。

 イエスは次に弟子たちに向かって、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけました。ずっとイエスと共に歩み、イエスのなさることを見てきた弟子たち自身の判断を迫ったのです。  その時、「あの人はこう言っています」とか「この人にこう教えられました」ではなく、自分の判断として、自分とイエスのかかわりの中で、自分にとってイエスという方はどういう方なのかを答えなければならないのです。
 これは、わたしたち一人一人への問いかけでもあります。

 すかさずペトロが答えます 「あなたはメシアです」
「メシア」はギリシア語になおすと「クリストス」 「メシア」はアラム語で「油注がれた者」と言う意味です。サウル王もダビデ王も預言者サムエルから油を注がれ、ソロモン王は祭司ツァドクから油を注がれて王になりました。油は王の使命を果たすために神の霊が与えられることのシンボルでした。 のちには、「油注がれた者」は、神から遣わされる「救い主」を意味するようになっていきました。

 イエスはペトロの言葉を否定しませんでした。イエスはメシアであることには違いありません。しかしペトロの頭にあるメシア像と、イエスの頭にあるそれとは雲泥の差がありました。それはそのすぐ後のペトロの言葉によって明らかになります。

 ペトロが描き人びとが期待していたメシアは、強烈な影響力を持って人々の心を捉え、群衆を一つに集結させ、ローマの支配から解放し、自由と独立を与える力強い存在です。
しかし それは人間の思いであり 神の思いではありません。

「人の子は多くの苦しみを受け、・・・殺される。」

 この言葉に驚いたペトロはイエスをいさめますが
 イエスは、厳しい言葉で「サタン、引き下がれ」といいます。サタンは人間を神から引き離す力のシンボルです。神の意志を行なおうとしている受難の道から、イエスを引き離そうとすることはサタンの働きであるとの意味です。
 イエスはペトロのメシア像をうち砕き、真のメシア像の理解にペトロを導きます。

 そして、イエスはご自分の十字架の道を弟子たちにも示します。十字架刑に処せられる人は処刑場まで自分の十字架を担いで行きました。
 「自分の十字架を背負ってイエスに従う」とはどういうことなのでしょうか?

 十字架はない方が良いのです。私たちは弱いですから。 主の祈りで、「試練に遭わせないでください」と祈る様にとイエスは勧めています。
 イエスも出来るならこの杯を遠ざけて・・・と祈っています。
 でも与えられたなら、それを喜んで担う覚悟が必要なのです。イエスをチネレのシモンが助けたように、私たちの苦しみをイエスが助けてくださる・・との信仰を持って。

 新型コロナウイルスの緊急事態宣言は9月30日まで延長されることになりました。今日はその、試練に立ち向かう力が与えられるように祈りましょう。