司祭の言葉 6/27

イエスのみ心
ルカ15:3-7およびヨハネ19:31-37

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日は、主イエスのみ心の祭日です。この祭日を、ご聖体の祝日後の金曜日に祝うことには、大切な意味があると思います。ご聖体の祝日には、主イエスが最後の晩餐で、わたしたちのためにご聖体の秘跡、つまりミサを制定してくださったことを記念し、ご復活の主キリストが、ご聖体において現存されることの喜びを、新たにいたしました。

そのご聖体の祭日に続いて祝われる、主イエスのみ心の祭日の今日。主のみ心は、他でもないご聖体において現存されるご復活の主キリストのみ心です。そのご栄光を、わたしたちはご聖体の内に、感謝の内に仰ぎ見させていただきます。主イエスのみ心。それは、十字架においてわたしたちの罪の赦しを成就し、さらにわたしたちへの愛ゆえに、死に打ち勝って復活してくださった、ご復活の主のみ心です。その主の御心。聖マルガリタに示された主イエスのみ心は、わたしたちに対する主の燃える愛でした。

主の愛から、わたしたちを引き離すことは、誰にも出来ません。ご復活のキリストの使徒パウロは、次のように、語ります(ローマの信徒への手紙8:35-39)。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

十字架と復活のキリストのみ心は、キリストの燃える愛。主イエスのみ心は、わたしたちの罪により誰よりも深く傷ついたみ心です。しかし、だからこそ、そのような罪を犯さざるを得ないわたしたちを誰よりも深く憐み、どこまでも追い求め、わたしたちを赦すために、血の汗を流すことを決して厭わないみ心です。

ルカによる福音15:1-7は主イエスの「失われた羊のたとえ」を伝えます。この喩を主は次のように結んでおられます。「言っておくが、このように悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

マタイは、この同じたとえの直前に語られた主イエスのことばを伝えます。「これら小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父のみ顔を仰いでいるのである。」主はこのたとえを次のことばで結ばれます。「そのように、これら小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」18:10-14)主のみ心は、わたしたちに滅びではなく、永遠の命を与えるために、十字架で槍に刺し貫かれ、わたしたちのために救いの血と水を流し尽くされたみ心です。

事実、主イエスのみ心は、十字架で槍に刺し貫かれ、わたしたちのために、救いの血と水を流し尽くされた主のみ心です。それは、ヨハネによる福音が、証言している通りです(ヨハネ19:34)。「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。するとすぐ血と水とが流れ出た。」

先のご聖体の祭日に、ご聖体においてご復活のキリストにお会いさせていただいたわたしたちは、さらに主イエスのみ心の祭日の今日、ご聖体において、文字通りご復活のキリストの「み心」に会わせていただくのです。そして、その主のみ心には、槍で刺し貫かれた傷がある。それは、ほかでもないわたしたちが刺し貫いた主の傷跡です。

ここでわたしたちは、ヨハネによる福音が伝える、ご復活の主キリストとトマスとの出会いのことを思い起こします(ヨハネ20:24-29)。主イエスのご復活の日、トマスは彼一人、他の弟子たちと共にいませんでした。他の弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言っても、トマスは信じることができず、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、わたしは決して信じない」とさえ、断言して憚りませんでした。

ご復活の主キリストは、このトマスを訪ねて、そして、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と、仰せになりました。 

「わたしの主、わたしの神よ。」

その時、ご復活の主キリストのみ心、槍で裂かれて血を流されている主イエスのみ心を仰いで、トマスが主に応え得た、これが唯一のことばです。しかし、それで十分でした。後の教会は今に至るまで、このトマスの信仰のことばをわたしたちの信仰のことばとして、ご聖体をいただく度ごとに、「わたしの主、わたしの神よ」と、ご復活の主に、その主のみ心に向かって、懺悔と感謝と共に、呼びかけ続けて参りました。

十字架とご復活のキリストのみ心。尽きることの無い泉である、ご聖体の主イエスのみ心から、キリストのわたしたちへの燃える愛と、わたしたちを生かしてくださるいのちの水が溢れ出ます。わたしたちは、主イエスのみ心、そのいのちの泉から、喜びの内に、恵みの信仰を、汲み取らせていただきます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 6/24

洗礼者ヨハネの誕生
ルカ1:57-66,80

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスのご降誕の6カ月前の今日、教会は洗礼者ヨハネの誕生を祝います。教会が聖人の誕生を祝うのは、聖母マリアさまを別にして、洗礼者ヨハネだけです。洗礼者ヨハネが、教会の信仰にとってそれだけ重要であるということです。

ヨハネは、聖母マリアさまの親族エリサベトから生まれました。ルカによる福音は、すでにヨハネを身ごもって6カ月になっていたエリサベトと、聖霊によってキリストを宿された聖母マリアさまとの、美しい出遇いの様子を伝えていました。

その中で、福音は、聖母さまの挨拶を受けたエリサベトの胎の子、つまり後の洗礼者ヨハネは、母の胎内でおどったと、伝えていました。まさに「その時」と、ルカは語り継ぎます。「エリサベトは、聖霊に満たされた」

聖霊によってキリストを宿された聖母マリアさまのご訪問を受けたその時、エリサベトは聖霊に満たされたのです。エリサベトの胎の子、ヨハネも聖霊に満たされたに違いありません。「ヨハネがエリサベトの胎内でおどった」。それは、ヨハネに、聖霊、すなわち、キリストによる活ける霊が新しい命としてが、ヨハネに吹き込まれた時であったはずです。

洗礼者ヨハネの誕生。ヨハネは、その様に、母エリサベトの胎にある時から、聖霊によるキリストの証人です。むしろ、ヨハネは、聖霊なるキリストを証しするために、母の胎において新しく形づくられ、生まれ、そして、主のために、彼は生きるのです。

後に、ご復活のキリストの使徒パウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラ2:20)と、聖霊によるご復活の主キリストとの出遇いによって与えられた、彼自身の新しいいのちを告白しました。ヨハネは彼の命の始めから、そのキリストのいのちを生きるのです。

そうであれば、ヨハネはその誕生に際し、いかに父ザカリヤの親類が反対しようとも、「父の名を取って、ザカリヤ(ヘブライ語で、「神は忘れない」の意)と、名付け」られる訳には行きません。ヨハネは、ヨハネと名付けられなければなりません。ヨハネとは、ヘブライ語で「神は恵み深い」と言う意味です。

聖霊によってキリストを宿された聖母マリアさまのご訪問を受けた時から、わたしたちには新しい時代が始まったのです。神はわたしたちをお忘れにならず、必ずわたしたちに救い主をお与えくださると言う、それまでの救い主を待望するわたしたちの長い時は、終わりを告げたからです。洗礼者ヨハネは、母の胎にあって、その証人とされた人です。

今や、新しい時が始まったのです。救い主キリストを、迎えたからです。救い主に、お会いしたからです。「恵み深い」神ご自身が、今や、聖霊によって、すでに母マリアさまのご胎内に神の子キリストとして、与えられたからです。その証人として生まれたヨハネは、だからヨハネ(「神は恵み深い」)でなければならないのです。

繰り返し確認しておきたい大切なことが、一つあります。それは、救い主キリストに出遇ったエリザベトも、喜びのあまり母の胎でおどったヨハネも共に、聖霊を受けたということです。彼らはわたしたちに、救い主キリストにお会いするとはいかなることなのかを、身を以て教え示してくれているのです。

聖霊を受ける。実は、それが、救い主キリストにお会いするということです。そうであれば、まさにそれは、わたしたちにもヨハネと同様にゆるされていることです。ミサにおいて。 なぜなら、ご聖体の内にご復活のキリストにお遭いさせていただくわたしたちは、そのご聖体において聖霊を受けるからです。

そして、ご聖体の内に働く聖霊は、わたしたちをキリストの似姿に変えてくださいます。否、わたしたちをキリストのからだへとさえ変えてくださいます。聖霊によってキリストを宿された聖母マリアさまのご訪問を受けた、エリサベトの胎内でおどった洗礼者ヨハネは、聖霊によってキリストのからだへと変えられて行く彼のいのちを、その驚きと感謝と畏れを、彼自身の殉教の死を目前に、次のように言い表しています。(ヨハネ3:30)

「わたしは、喜びで満たされている。キリストは栄え、わたしは衰えねばならない。」

キリストの証人として生きた洗礼者ヨハネの、これが最後の言葉でした。ヨハネの命は、母の胎内でキリストを聖霊として受けることによって始められました。聖霊は、ヨハネの命のすべての時を祝福し、彼の殉教の死においては彼の死を荘厳してくださいました。聖霊によって、彼をキリストのからだに変えることによって。

洗礼者ヨハネの命は、彼の死によって終わりません。キリストの内によみがえるからです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 6/22

キリストの聖体
ルカ9:11b-17

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音は、主イエスの「五つのパンと二匹の魚」の奇跡を伝えていました。教会は、主の「パンの奇跡」を、後に十字架の前夜、主が12使徒と「最後の晩餐」で祝われ、制定された「ご聖体の秘跡」・ミサの秘跡しるしとして大切にして参りました。

主イエスが、十字架の死を遂げられる直前の「最後の晩餐」で、「ご聖体の秘跡であるミサ」を制定された時のことを想う度に、一つの言葉が脳裏をよぎります。「一期一会」。これは千利休以来の日本の茶道の魂を語ることばとして大切にされて来ました。利休自身の言葉では、「一期に一度の会」あるいは、「一期一席」とも言われます。一椀のお茶を共に頂いた出会いは永遠であり、その出会いの内に人は永遠に生きる。このお茶に命の一切を懸ける。このお茶を頂いた後、死んでも悔いはない。

利休は、秀吉から賜った死の検分に遣わされた武士たちを招いての最後のお茶の直後に、死を遂げました。利休の後妻、養子も、彼の最愛の弟子大名高山右近もともにキリシタン。利休はその最期の時、「最後の晩餐」に続いて死を遂げられたキリストのことを思ったのではないでしょうか。「利休のお茶の起源は、カトリックのミサです」と、裏千家の前家元・千宗室師が、英語版のお茶の本で明言しておられました。事実、一つの椀から回し飲みをするのは、利休の濃茶とミサ以外にはありません。

「一期一会」。弟子たちとの「最後」の晩餐。それが「最後」であることは、十字架を前に、主イエスには、明確に自覚されていたはずです。弟子たちにもそれは、「最後の晩餐」に直続した主の十字架の死の後、明確にされました。「一期一会」。「わたしの記念として、これを行え」と、主が、わたしたちに残されたご聖体の秘跡。それは、否、これこそ「一期一会」の秘跡。人と人との出会いの永遠の秘義を教える利休のお茶をさえ越えて、神と人との出会いの永遠の秘義に目を開かせるのは、否、その永遠の秘義をわたしたちの身の事実とさせてくれるものこそ、ミサです。

「一期一会」。利休が、お茶としてわたしたちに残していったのは、彼自身です。彼との出会い。否、彼と出会いを越えて、人と人との出会いそのものの秘義です。「一期一会」。「最後の晩餐」、すなわちミサで、主イエスが、わたしたちに残されたのも、主ご自身。ただし、神なる主・キリストとの「一期一会」の出会いです。実に、神と人との出会い。そしてそれは、余りにもリアルです。ミサは、わたしたちに告げます。

「主イエスはすすんで受難に向かう前に、パンを取り、感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました。『皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡される、わたしのからだである。』 食事の終わりに同じように杯を取り、感謝をささげ、弟子に与えて仰せになりました。『皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血である。これをわたしの記念として行いなさい。』 信仰の神秘。」

ミサの中で司祭を用いて主イエスが、みことばと行為によって聖別されたご聖体において、聖霊によりご復活の主ご自身が現存されます。数えきれない信者・殉教者たちが、ご聖体の内に現存されるご復活の主に彼らの生涯を託し、最後には彼らの命を捧げて唯一人たりとも裏切られたことの無い、これがカトリックの信仰です。

ご聖体において、主イエスとの「一期一会」の出会いの内にご復活の主のいのちを受けた聖アウグスティヌスは語ります。「キリストのご聖体を拝領する時、わたしたちは、主をわたしたちの体へと消化するのではありません。ご聖体を受けたわたしたちの方が、主によって消化されるのです。その時わたしたちの罪なる体が、キリストの栄光のからだへと変えられるのです。それゆえ、皆さんは、ご聖体によって、ただキリスト者とされるのではありません。キリストのからだとされるのです。」

わたしたちの内にまで来てくださって、「わたしたちの罪なる体を、キリストの栄光のからだに変えてくださる」ことがおできになるのは、ただ「聖霊」なる神お一人。そうであれば、ここで聖アウグスティヌスは、ミサで、わたしたちがご聖体としてお受けするのは、実は「聖霊」に他ならない、と明確に教えてくれているのです。「福音とご聖体において、活けるご復活の主キリストにお会いさせていただく」とベネディクト16世教皇はミサの秘義を教えてくださいました。しかも、わたしたちは既に、聖アウグスティヌスから、ご聖体においていただくのは、実は「聖霊」に他ならないと教えられていました。そして「聖霊」こそ、活けるご復活の主ご自身に他なりません。

ご聖体の祭日。ミサで、ご復活の主キリストが、ご聖体においてご自身をわたしたちにお与えくださる。ご聖体の内に働かれる「聖霊」は、わたしたちの内にまで来て、わたしたちを罪なる体から主のからだへと変えてくださる。わたしたちは、主のからだに変えられて神の国に「過ぎ越」させていただきます。これ程確実に神の国に帰らせていただく道はありません。わたしたちミサで祝うのは、ご聖体の主における神と人との「一期一会」の出会いの秘義、ご聖体の主との「過越の神秘」です。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 6/15

三位一体の主日 ヨハネ16:12-15

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「聖霊降臨の主日」に続けて祝う今日「三位一体の主日」の集会祈願で、「唯一の神を礼拝するわたしたちが、三位の栄光をたたえることができますように」と祈りました。「唯一の神」を、父と子と聖霊の三位のみ名を以てお呼びさせていただく。実はこれは、ご復活の主キリストご自身が、すでになさっておられたことなのです。主は仰せでした。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:18b-20)

主イエスは最後の晩餐の説教で、ご自身が去られた後、天の父なる神は、わたしたちに「聖霊」をお遣しくださり、その「聖霊」によって、主がわたしたちにお約束くださった救いのみ業を完成してくださると、仰せになっておられました。実は、これに先立って、主は、父なる神が「聖霊」によってわたしたちに完成してくださる救いのみ業は、「父なる神」「御子キリスト」との間には、すでに、かつ永遠に成就されている事実であるとして、次のように仰せになっておられました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。」(ヨハネ3:16)

この永遠の真実に目を開かせてくださるのも「聖霊」です。今日、主イエスは仰せでした。「真理の霊(聖霊)が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」「真理」とは、神のわたしたちに対する救いのみ業の一切のことです。ただ、それはどのようなことであり、神は、それをどのようにして成就されるのでしょうか。

「聖霊降臨」の主日の叙唱で、わたしたちは、「御ひとり子とともに神の国を継ぐ人々の上に、あなたはきょう聖霊を注ぎ、過越の神秘を完成してくださいました」と祈りました。神のわたしたちに対する救いのみ業の一切とは、わたしたちに完成されるべき「過越の神秘」です。すなわち、ご復活の主キリストがわたしたちにご自身のいのちである聖霊を与えて、本来罪によって死すべきわたしたちを、ご自身のご復活のいのち、永遠のいのちへと過ぎ越させてくださることです。

「唯一の神」を信じるわたしたちですが、ユダヤ教やイスラムの人々のように、たんに「天にいます神」とではなく、主イエスご自身にしたがって、神を「父なる神・御子なる神・聖霊なる神」と「三位一体の神のみ名」でお呼びします。なぜなのでしょうか。それは、わたしたちの救いである「過越の神秘」の完成のために、唯一の神が三位の神のみ名で働かれるからです。罪深いわたしたちが、罪人ゆえの死ではなく、神の永遠のいのちの国に新たに生まれさせていただくためには、唯一の神が、わたしたちに「父なる神」、「御子なる神」、「聖霊なる神」として、救いの秩序において働いて神の救いのみ業・「過越の神秘」を完成してくださる他ないからです。

すなわち、「天の父なる神」は、天地の創造主としての権能・権威とみ力の座である天を離れることがないままに、自らを「御子キリスト」として地のわたしたちのもとにまで来て、わたしたちの罪の贖いためにご自身を十字架につけてくださいました。さらにわたしたちのために復活され、ご昇天の後には、わたしたちにご自身の霊である聖霊をお遣わしになり、その聖霊はわたしたちの内にまで来て、わたしたち一人ひとりをキリストの似姿に変えつつ、わたしたちすべてを罪の地上から聖なる神の国へと過ぎ越させてくださる。これ以外に、わたしたちが、神のみ国に帰らせていただく確かで確実な道はありません。神はこのようにして、わたしたち一人ひとりに主の救いのみ業の一切、すなわち「過越の神秘」を完成してくださいます。

そしてそれは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」福音が証し、わたしたちに「聖霊」によって成就される神の自己犠牲の愛ゆえです。天の神から与えられる律法の順守によって、地上のわたしたちが救いか滅びかに定められるのではありません。わたしたちには、律法を順守して自らの力で天の父の許に帰って行けるような知恵や力が果たしてあるのでしょうか。そのようなわたしたちに、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」に、主イエスが成就してくださった救いの綿密な手続きを一つ一つ指折り数えるように、唯一の主なる神を、父・子・聖霊と三つのみ名を順に悔い改めと感謝の心を込めてていねいにお呼びさせていただきます。神が複雑な方だというのではありません。わたしたちの罪が、わたしたちを救ってくださる神の救いの手続きを複雑にしていたのです。

「三位一体の信仰」はたんなる教理ではなく、わたしたちの懺悔と感謝による賛美と信仰の告白です。罪なるわたしたちに「過越の神秘」を完成してくださる神の綿密な救いのみ業をていねいに思い起こす時、わたしたちは神のみ名を、たんに「天にいます唯一の神」とではなく、「父なる神」、「子なる神」、「聖霊なる神」と指折り数えるように、心からの懺悔と感謝をもってお呼びさせていただく他ないのです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 6/8

聖霊降臨の主日
ヨハネ14:15-16,23b-26

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先に、ご復活のイエス・キリストのご昇天の証人とされたわたしたちは、ご昇天から10日後、ご復活から50日目の聖霊降臨の主日に、再び主の大いなるみ業の証人とされるべく主のみ前に集められました。ヨハネによる福音は、今日、主が「最後の晩餐」で「聖霊」について弟子たちに語られたおことばを想い起こさせてくれます。

「最後の晩餐」の時、主イエスは、続くご自身の十字架の死をはっきりと見つめておられたはずです。しかしその時でさえ、主のお心を占めていたのは、ご自身の死の後に残される弟子たちの、さらにわたしたちのことだけであったのではないでしょうか。主は、十字架の死を控えて次のように仰せでした。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。わたしはあなたがたのところに戻ってくる」(ヨハネ14:18)。その上で、今日の福音のように、主は次のように約束してくださいました。

「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる。」

十字架の死の後の最初の「弁護者」として戻ってきてくださる方はご復活の主イエス・キリストご自身です。それでは、別の弁護者」とは誰なのか。他でもない聖霊のことです。続いて主は、「弁護者、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」(ヨハネ14:26)と仰せです。ここで主は「聖霊」を、もはや「別の」弁護者とはお呼びにならずに、ご復活の主ご自身と同じ「弁護者」という言葉でお呼びになっておられます。「聖霊」とは目に見えないご復活の主ご自身に他ならないからです。

十字架の主イエス・キリストのご復活。その日、ご復活の主のみ前に、わたしたちは、弱り果て、傷つき倒れ、命を失ってさえいたのではなかったでしょうか。ご復活の主は、そのわたしたちを助け、介抱してくださいました。実は、「復活する」と訳された言葉は、元の新約ギリシャ語では、「(自ら)起き上がる、立ちあがる」の自動詞的意味の前に、「(弱った人を)助け起こす」「(倒れた人を)抱き起こす」「(傷ついた人を)保護し、介抱する」と言う他動詞的意味で日常用いられた言葉でもあったのです。

このご復活の主イエス・キリストのお姿と働き。それは、主がご昇天の後にわたしたちにお遣わしくださり、ご復活の主ご自身と同じ「弁護者」の名で呼ばれる「聖霊」によって確実に受け継がれてゆきます。「聖霊」こそ、時と所を越えて、いつも、そして永遠にわたしたちとともにいてくださる「ご復活の主ご自身」だからです。

あらためて、「弁護者」とは?元の新約の言葉は、「(人を助けるために)傍らに呼ばた人」と言う意味から、助けを必要としている人の「助け手」、倒れている人、傷ついた人の「介護者、保護者」とも訳されます。実は、福音を伝える新約ギリシャ語では、「復活する」と「弁護する」とは全く同じ内容の言葉なのです。ご復活の主がとくにご自身を「弁護者」とし、「聖霊」をも「弁護者」と呼ばれるとき、ご復活の主のお姿とお働きが、「聖霊」のお姿とお働きに、自然に重なるのは当然なのです。

ただし、別の弁護者」ないし「弁護者」と呼ばれる「聖霊」を、主イエスはわたしたちにご自身の十字架と引き換えにのみお与えくださることは、今日の福音の直後の主のおことばから明らかです。「実をいうと、わたしが去って行くのはあなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」(ヨハネ16:7)

主イエスのご復活から50日目。主が、この「弁護者」、すなわちご復活の主イエス・キリストご自身である「聖霊」を、わたしたちにお遣わしくださる日。主の眼差しの前に、今、わたしたちはどのような姿なのでしょうか。ふたたび人生の悲しみに打ちひしがれ、苦しみに耐えかね、弱り果て、傷つき倒れ、あるいは死の床に喘いでいるような、わたしたちではないでしょうか。ふたたび、ご復活の主に助けられ、抱き起こされることを、ひたすら待ち望んでいるわたしたちではないでしょうか。

そのわたしたちに主イエスは、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と仰せです。「弁護者」である「聖霊」が「思い起こさせてくださる方」とは、主ご自身、すなわち、わたしたちのために十字架につき、さらにわたしたちのために復活してくださった主、であることは明らかです。

聖霊降臨。父なる神と御子キリストによって「聖霊」が遣わされる時。今、皆さんの前には、「弁護者」聖霊の内に、まことの「弁護者」ご復活の主イエス・キリストご自身が、再びお立ちくださいます。主は両手を広げて、皆さん一人ひとりをご自身の胸に抱きしめ、抱き起こしてくださるために。その御手には十字架の傷跡。その御胸には槍の傷跡。目に見えない「聖霊」の内に、ご復活の主のお姿が鮮やかです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。