司祭の言葉 4/3

四旬節第5主日

 今日の福音の背景にあるのは、ユダヤ人たちのイエスに対する激しい妬みです。下役たちを逮捕に向かわせましたが、彼らもイエスについて、「いままで、あの人のように話した人はいません」といって、手ぶらで戻ってきました。
 何とかしてイエスをおとしいれ、捕まえようとする彼らは、考えに考えた挙句、このシナリオを作ったのです。
 イエスの前に連れてこられた女は、そのために利用されたのです。姦通の現場を押さえられた女・・という設定のために、女を見張り、ようやくその現場を押さえたというわけです。そして、とうとうイエスを窮地に陥れる時が来たと、意気揚々とイエスの前に女を連れだしたのでしょう。
 石殺しを命じれば、死刑の権限はローマにあるとする、ローマの支配権に反することになりますし、民衆もイエスの答えに失望するでしょう。許すと言えば律法に反することになります。

 今回のロシアによるウクライナ侵攻についても、プーチンはウクライナが化学兵器を作りロシアを攻撃しようとしている、核兵器を作りロシアを攻撃しようとしている・・・そのようなシナリオを作り、フェイクニュースを流し、ロシア侵攻の口実としたとの事

 「罪を犯したことの無いものが、まずこの女に石を投げなさい。」今日の福音は姦通の女に石を投げつけようとする、自らを正しいと信じているものに向かってのイエスの言葉でした。自分は律法を守っていると信じるパリサイ人は、律法を守れない人々に厳しい態度で望みました。
 教会内でも周りの人にきびしい人がいるでしょう。善意がぶつかり合い、軋轢を生みます。聖書は初代の教会内部にも、異邦人にきびしい律法を守らせようとする人達が居て、論争があったことを伝えています。
 わたしたちは皆罪人です。しかし、いつのまにか自分が全く正しいものかのように行動し、人を裁きます。

 そのような、大人たちの偽善に苦悩する若者たちがいます
 時々若者は自分の望むこととは正反対のことをして自分自身を痛めつけることがあります。自分の存在を確かめるために、自己主張のために、自分を本当に愛しているのかどうか・・・ 親の愛情を確かめるために。
 大人たちはいつも試されていると考えるべきです。

 かつて病院に見舞った一人の女性は、スタッフを試そうとして2階から飛び降りて圧迫骨折をしました。下半身麻痺 もう足が動かないと言われていましたが、リハビリで左足が動くようになり、立つ訓練も始めていました。 

 彼女もいつもみんなに振り向いてほしくて 彼女は人が見ているときに二階から飛び降りました。

 愛を求めながら、愛に反する行為に走った少女も居ます。両親はカトリック信者でした。援助交際という名前は、オブラートのようです。それが売春行為であることを感じさせません。中学2年生でした。

 なんのために?・・・理由はわかっています。母親に自分の方をむいて欲しくてでした。お金を貯めて一緒に生活したかったからでした。 

 家庭には一人一人の個性を生かす場所になって欲しいと思います。容積が同じでも、丸い器に四角いものを四角い器に丸いものを入れようと無理に押し込もうとするなら、器は壊れてしまいます。無理をしすぎています。
 大人の考えを押しつけ、望まぬ方に無理矢理曲げようとする・・のではなく、一人一人の個性が花開くように、子供たちの可能性を見つけ、それを引き出してゆくのが教育なのです。
 大人たちは指図し、道をつけすぎます。答えを先に出してしまう。
 施設職員に大切なことはあまり、自分がやりすぎないことです。
 同じことは家庭でも言えます。

御言葉に戻りましょう。

「罪を犯したことの無いものが、まずこの女に石を投げなさい。」今日の福音は姦通の女に石を投げつけようとする、自らを正しいと信じているものに向かってのイエスの言葉でした。
 姦通の女を捕まえた人々が、年長者から始まって、一人また一人と立ち去った後、イエスと女だけが残ります。イエスは罪を犯したことの無い者ですから、女に石を投げつけることが出来る唯一の方です。

 しかし、イエスは許しの言葉を投げかけ、わたしもあなたを罪に定めない。これからは、もう罪をおかしてはならない・・といたわり、励まします。
 自分の弱さを認め、神の義にふれることを望む者を神は許します。みずから造った者を滅ぼすことは神の本意ではなく、神の栄誉を褒め讃えることが出来るようにと、神との生きた関わりに招き入れることこそ神の望みだからです。