司祭の言葉 10/11

年間第28主日A年 2020/10/11

婚宴の譬え

                         司祭 鈴木 三蛙
 婚宴の譬えは、ルカでは大宴会の譬え。トマスでは晩餐の譬えとして語られています。三つの譬えに共通するのは最初に招かれた客たちが、夫々理由をつけて招待を断っている事、その代わりに道に出てだれかれ構わず集め、招かれたことです。これはブドウ園の労働者や見失った羊のたとえ話のように、イエスの批判者や敵対者に対して語られた、福音を弁明した数多くのたとえ話の一つと言われています。

 そしてイエスは「あなた方は招待をなおざりにする賓客の様だ。招待を受け入れないので神は代わりに徴税人や罪びとを招き、あなた方がみすみす取り逃がした救いを彼らに与えたのだ」と言っているのだと言います。ルカは最後に「あの招かれた人たちの中で私の食事を味わう人は一人もいない」と結び、トマスでは「買主や商人は私の父の場所に入らない」と結んでいます。マタイでは礼服の着ていないものの話が加わり、そのあとで「招かれる人は多いが選ばれる人は少ない」と結んでいます。
 そして誕生したばかり教会はこのたとえ話を宣教の指令として受け取りました。

 今日の福音で一つ、驚くのは、王が家来たちを送ると、招待を受けた者たちから理由もなくとらえられ、乱暴を受け殺されたしまったことです。しかも激怒した王が宴会に先立ち兵を送り、その者たちを滅ぼして町を焼き払ったと言うことです。
 ここには先週のブドウ園の譬えの僕たち同様、家来たちに旧約の預言者たちを重ね、さらには、紀元70年のエルサレムの崩壊という出来事が反映していると見られています。

 もう一つ不可解なのは、手当たり次第に集めてきたのに、礼服を着ていないからと、何故放り出されるのか、と言うことです。急に連れてこられて礼服を着る暇なんてないでしょうに。 列王記下の10の22をよみますと「イエフは衣装係に『バアルに仕えるすべての者に祭服を出してやれ』と言った」とあり、招待客に礼服を提供するのが習慣であったようにも思われ、これまではそのように説明されてきました。
 そして実際にも今日、司教叙階式の時には、全司教に同じ祭服を用意する習慣があります。さいたま教区ではお金がないので、中央協議会から借りていますが。韓国での聖体大会(1989?)では何千人もの参加司祭全員に大会のシンボルマークの十字架の模様の付いたストラが用意されましたし、日本でも、高山右近の列福式では参加した司祭全員のためにアルバと祭服が用意され、皆さんが同じ祭服でミサをしました。

 しかし、聖書学者のヨアヒム・エレミアスは、「イエスの時代にそのような習慣があったことを立証するものはない」といいます。そして、ルカにもトマスにもこの話はないので、本来独立した話がここに挿入されたと見ています。
 挿入された理由についてはこう説明しています。
 「はっきりしているのは招かなかった人を見境もなく呼び入れることから生じかねない誤解、すなわち呼び込まれた人たちの行動は全然問題ないかのような誤解を避ける必要があったということである。」 初代教会はこの譬えを挿入し、最後の審判で無罪とされる条件として、悔い改めの必要性を強調したと言うことです。

 このたとえ話の中で、なぜ招かれた人々は来ようとしなかったのでしょうか。
 マタイでは5節に「一人は畑に、一人は商売に出かけ」とあるだけですが、
 ルカ14章18-20節では、「最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った」となっています。

 彼らは嫌だとは言っていません。でもそれ以上に優先することがあると考えたようです  彼らは結局、招かれたことの素晴らしさ・ありがたさを本当には感じていなかったのだと言わざるをえないでしょう。わたしたちはどうでしょうか。

 神の招きは婚宴という喜ばしい祝宴への招きです。クリスチャンが招かれているのは 
→ 喜びを主と共に味わうためです。ですから、キリスト教を・・・人生の喜び、明るさ、幸福な交わりを全て断念させるものと考えるのは大きな誤りです。

 キリストの招きを拒否させるものは、必ずしもそれ自体は悪くありません。

 人生においてしばしば・・二番目によいものが、1番目によいものを阻止し、最高のものを妨害します。神の子が目の前にいるのに、幸せの秘訣を示してくれているのに、遠くを捜しています。毎日あくせくして、幸せやーいといって、見当違いのところを捜しています。  冨を沢山ためたら幸せになれるだろうか。新しい車を手に入れたら幸せになれるだろうか。自分の家を建てたら幸せになれるだろうか・・・と。 

かくいうわたしもそうですが、あれも、これもと、なすべきことに毎日追われています。

その日の事に忙しすぎて、キリストの招きを聞き逃します。

宋の詩人(戴益)たいえきの詩があります。
尽日(じんじつ)春を訪ねて春を見ず
杖藜(じょうれい)踏み破る 幾重の雲
帰り来たりて試みに 梅梢を把って見れば
春は枝頭(しとう)にありて 已に十分

- 春が来た春が来たというので どうにかして 春に会いたいと思い、
朝から弁当持ちで一日中春を訪ね歩いたがどこにも見いだせなかった。

- 向こうの山、こちらの谷、あちらの丘とずいぶん歩いたが、いたずらにあかざの杖をすり減らしただけだった。

- 疲れた足を引きずり、日の暮れ方、しおしおと家に帰り、ふと入口の梅の枝をとって見ると、梅の花が数輪、いともふくよかに良い香を放って咲いていた。
なんだここに春があった、この梅の花のさいているところに春はあるじゃないかと言う詩です。

わたしたちは既に、神に招かれているのに、幸せはわたしたちの内にあるのに、・・・遠くを捜している。今日の福音はそこを指摘します。

ヨアヒム・エレミアス(1900-1979)著書「イエスのたとえ話の再発見」「イエスの宣教」等