司祭の言葉 6/27

イエスのみ心
ルカ15:3-7およびヨハネ19:31-37

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日は、主イエスのみ心の祭日です。この祭日を、ご聖体の祝日後の金曜日に祝うことには、大切な意味があると思います。ご聖体の祝日には、主イエスが最後の晩餐で、わたしたちのためにご聖体の秘跡、つまりミサを制定してくださったことを記念し、ご復活の主キリストが、ご聖体において現存されることの喜びを、新たにいたしました。

そのご聖体の祭日に続いて祝われる、主イエスのみ心の祭日の今日。主のみ心は、他でもないご聖体において現存されるご復活の主キリストのみ心です。そのご栄光を、わたしたちはご聖体の内に、感謝の内に仰ぎ見させていただきます。主イエスのみ心。それは、十字架においてわたしたちの罪の赦しを成就し、さらにわたしたちへの愛ゆえに、死に打ち勝って復活してくださった、ご復活の主のみ心です。その主の御心。聖マルガリタに示された主イエスのみ心は、わたしたちに対する主の燃える愛でした。

主の愛から、わたしたちを引き離すことは、誰にも出来ません。ご復活のキリストの使徒パウロは、次のように、語ります(ローマの信徒への手紙8:35-39)。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

十字架と復活のキリストのみ心は、キリストの燃える愛。主イエスのみ心は、わたしたちの罪により誰よりも深く傷ついたみ心です。しかし、だからこそ、そのような罪を犯さざるを得ないわたしたちを誰よりも深く憐み、どこまでも追い求め、わたしたちを赦すために、血の汗を流すことを決して厭わないみ心です。

ルカによる福音15:1-7は主イエスの「失われた羊のたとえ」を伝えます。この喩を主は次のように結んでおられます。「言っておくが、このように悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

マタイは、この同じたとえの直前に語られた主イエスのことばを伝えます。「これら小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父のみ顔を仰いでいるのである。」主はこのたとえを次のことばで結ばれます。「そのように、これら小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」18:10-14)主のみ心は、わたしたちに滅びではなく、永遠の命を与えるために、十字架で槍に刺し貫かれ、わたしたちのために救いの血と水を流し尽くされたみ心です。

事実、主イエスのみ心は、十字架で槍に刺し貫かれ、わたしたちのために、救いの血と水を流し尽くされた主のみ心です。それは、ヨハネによる福音が、証言している通りです(ヨハネ19:34)。「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。するとすぐ血と水とが流れ出た。」

先のご聖体の祭日に、ご聖体においてご復活のキリストにお会いさせていただいたわたしたちは、さらに主イエスのみ心の祭日の今日、ご聖体において、文字通りご復活のキリストの「み心」に会わせていただくのです。そして、その主のみ心には、槍で刺し貫かれた傷がある。それは、ほかでもないわたしたちが刺し貫いた主の傷跡です。

ここでわたしたちは、ヨハネによる福音が伝える、ご復活の主キリストとトマスとの出会いのことを思い起こします(ヨハネ20:24-29)。主イエスのご復活の日、トマスは彼一人、他の弟子たちと共にいませんでした。他の弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言っても、トマスは信じることができず、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、わたしは決して信じない」とさえ、断言して憚りませんでした。

ご復活の主キリストは、このトマスを訪ねて、そして、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と、仰せになりました。 

「わたしの主、わたしの神よ。」

その時、ご復活の主キリストのみ心、槍で裂かれて血を流されている主イエスのみ心を仰いで、トマスが主に応え得た、これが唯一のことばです。しかし、それで十分でした。後の教会は今に至るまで、このトマスの信仰のことばをわたしたちの信仰のことばとして、ご聖体をいただく度ごとに、「わたしの主、わたしの神よ」と、ご復活の主に、その主のみ心に向かって、懺悔と感謝と共に、呼びかけ続けて参りました。

十字架とご復活のキリストのみ心。尽きることの無い泉である、ご聖体の主イエスのみ心から、キリストのわたしたちへの燃える愛と、わたしたちを生かしてくださるいのちの水が溢れ出ます。わたしたちは、主イエスのみ心、そのいのちの泉から、喜びの内に、恵みの信仰を、汲み取らせていただきます。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 6/24

洗礼者ヨハネの誕生
ルカ1:57-66,80

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスのご降誕の6カ月前の今日、教会は洗礼者ヨハネの誕生を祝います。教会が聖人の誕生を祝うのは、聖母マリアさまを別にして、洗礼者ヨハネだけです。洗礼者ヨハネが、教会の信仰にとってそれだけ重要であるということです。

ヨハネは、聖母マリアさまの親族エリサベトから生まれました。ルカによる福音は、すでにヨハネを身ごもって6カ月になっていたエリサベトと、聖霊によってキリストを宿された聖母マリアさまとの、美しい出遇いの様子を伝えていました。

その中で、福音は、聖母さまの挨拶を受けたエリサベトの胎の子、つまり後の洗礼者ヨハネは、母の胎内でおどったと、伝えていました。まさに「その時」と、ルカは語り継ぎます。「エリサベトは、聖霊に満たされた」

聖霊によってキリストを宿された聖母マリアさまのご訪問を受けたその時、エリサベトは聖霊に満たされたのです。エリサベトの胎の子、ヨハネも聖霊に満たされたに違いありません。「ヨハネがエリサベトの胎内でおどった」。それは、ヨハネに、聖霊、すなわち、キリストによる活ける霊が新しい命としてが、ヨハネに吹き込まれた時であったはずです。

洗礼者ヨハネの誕生。ヨハネは、その様に、母エリサベトの胎にある時から、聖霊によるキリストの証人です。むしろ、ヨハネは、聖霊なるキリストを証しするために、母の胎において新しく形づくられ、生まれ、そして、主のために、彼は生きるのです。

後に、ご復活のキリストの使徒パウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラ2:20)と、聖霊によるご復活の主キリストとの出遇いによって与えられた、彼自身の新しいいのちを告白しました。ヨハネは彼の命の始めから、そのキリストのいのちを生きるのです。

そうであれば、ヨハネはその誕生に際し、いかに父ザカリヤの親類が反対しようとも、「父の名を取って、ザカリヤ(ヘブライ語で、「神は忘れない」の意)と、名付け」られる訳には行きません。ヨハネは、ヨハネと名付けられなければなりません。ヨハネとは、ヘブライ語で「神は恵み深い」と言う意味です。

聖霊によってキリストを宿された聖母マリアさまのご訪問を受けた時から、わたしたちには新しい時代が始まったのです。神はわたしたちをお忘れにならず、必ずわたしたちに救い主をお与えくださると言う、それまでの救い主を待望するわたしたちの長い時は、終わりを告げたからです。洗礼者ヨハネは、母の胎にあって、その証人とされた人です。

今や、新しい時が始まったのです。救い主キリストを、迎えたからです。救い主に、お会いしたからです。「恵み深い」神ご自身が、今や、聖霊によって、すでに母マリアさまのご胎内に神の子キリストとして、与えられたからです。その証人として生まれたヨハネは、だからヨハネ(「神は恵み深い」)でなければならないのです。

繰り返し確認しておきたい大切なことが、一つあります。それは、救い主キリストに出遇ったエリザベトも、喜びのあまり母の胎でおどったヨハネも共に、聖霊を受けたということです。彼らはわたしたちに、救い主キリストにお会いするとはいかなることなのかを、身を以て教え示してくれているのです。

聖霊を受ける。実は、それが、救い主キリストにお会いするということです。そうであれば、まさにそれは、わたしたちにもヨハネと同様にゆるされていることです。ミサにおいて。 なぜなら、ご聖体の内にご復活のキリストにお遭いさせていただくわたしたちは、そのご聖体において聖霊を受けるからです。

そして、ご聖体の内に働く聖霊は、わたしたちをキリストの似姿に変えてくださいます。否、わたしたちをキリストのからだへとさえ変えてくださいます。聖霊によってキリストを宿された聖母マリアさまのご訪問を受けた、エリサベトの胎内でおどった洗礼者ヨハネは、聖霊によってキリストのからだへと変えられて行く彼のいのちを、その驚きと感謝と畏れを、彼自身の殉教の死を目前に、次のように言い表しています。(ヨハネ3:30)

「わたしは、喜びで満たされている。キリストは栄え、わたしは衰えねばならない。」

キリストの証人として生きた洗礼者ヨハネの、これが最後の言葉でした。ヨハネの命は、母の胎内でキリストを聖霊として受けることによって始められました。聖霊は、ヨハネの命のすべての時を祝福し、彼の殉教の死においては彼の死を荘厳してくださいました。聖霊によって、彼をキリストのからだに変えることによって。

洗礼者ヨハネの命は、彼の死によって終わりません。キリストの内によみがえるからです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。