司祭の言葉 6/1

主の昇天(復活節第七週)ルカ24:46-53

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

主イエスのご復活から四十日。わたしたちは今日、主のご昇天を祝っています。「主のご昇天」。なにが起こったのでしょうか、わたしたちに!

最後の晩餐で、十字架を前に、主イエスはわたしたちに、「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたの所に戻って来る」(ヨハネ14:18)と仰せでした。事実そのお約束通り、主は十字架の後、ご復活の主としてお戻りくださり、その後「聖霊」として来てくださり、今も、いつも、わたしたちとともにいてくださいます。

その「聖霊」を、主イエスは、最後の晩餐で、とくに「弁護者」と呼んでおられました。この「弁護する」と訳された新約ギリシャ語の言葉は、「復活する」と訳された言葉同様、元来、倒れた人、弱っている人を「抱き起こす」「抱き上げる」と言う意味の言葉です。したがって、聖霊とは、目に見えないご復活の主キリストご自身です。

実は主イエスは、ご自身のご昇天についても次のように仰せでした。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12:32)。

主イエスは、ご自身のご昇天の時、つまりご自身が、天の父なる神のもとに上られるとき、主は、わたしたちをご自分のみ手に抱き上ってくださるということです。ご復活の主キリスト、さらに聖霊の主と同様、ご昇天の主も、わたしたちを「抱き起こし」「抱き上げ」「抱き上って」くださいます。父なる神のみもとへ。

そのご昇天を前にして、ご復活の主キリストがペトロたち十一人の弟子たちお語りになられたおことばを、今日のルカによる福音は伝えていました。「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。『聖書には次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。」

続けて、「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」と、主イエスは弟子たちに大切な使命をお与えになられると同時に、次のことを約束されました。「わたしは、父があなたがたに約束されたもの(聖霊)をあなたがたに送る。高い所(天ないし神)からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

このように弟子たちに仰せの後に、「ご復活の主キリストは、弟子たちを祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」と、今日のルカによる福音は結んでいました。

同じご昇天の時のことを、『マルコによる福音』(16:19-20)は、さらに詳しくわたしたちに伝えています。マルコは、とくに次の二つのことを語ります。第一に、「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。ご復活の後四十日の間、ペトロたち多くの弟子たちのために地上に留まってくださったご復活の主キリストが、「弟子たちの見ているうちに天に上げられ」たのは、「天の父なる神の右の座に着かれる」ためであった、とマルコはわたしたちに明かします。

父なる神の右の座に着かれた。それは、御子キリストが、父なる神と権威と力とを完全に一つにされたのみならず、父なる神の権威と力を行使することがおできになる唯一の方となられた、と言うことでもあります。今後、父なる神の権威もその力も、御子を通して、そして御子を通してのみ現わされる、と言うことです。

二つ目には、主イエスのご命令を受けて、文字通り全世界に「弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」ご復活の主は、弟子たちに全世界への福音宣教を託されて、ご自分は帰天されたというのではありません。ご昇天の後も、地上で主は弟子たちと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることをお示しになられた。」もちろん、目に見えない聖霊において」。しかしそれは、目に見えるしるし(秘跡)によってはっきりと。」

マルコが伝えるこれら二つのことは、実は、ご昇天の主キリストの一つのみ業です。「全世界に出て行って宣教する弟子たちと共に働かれる主」は、「天に上げられ、神の右の座に着かれたキリスト」ご自身に他なりません。「聖霊」において弟子たちを用いて働き、彼らを通して語られる方は主イエスご自身です。彼らを用いての主の宣教は、天の父なる神の権威と力によるみ業です。創造主なる神は、無から有を生み出すことがおできになる。それが「目に見えるしるし(秘跡)です。

わたしたちを通して語られる主イエスのみことばは常に真実です。天の父なる神の右に座され、神から全権を託されたご昇天の主は、みことばと聖霊によって一切のものを創造することがおできになるからです。わたしたちへの主の宣教のご命令はわたしたちを用いて働かれる聖霊によるご昇天の主の新しい創造のみ業です。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 5/25

復活節第六主日 ヨハネ14:23-29

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。」

主イエスが、「最後の晩餐」で弟子たちにお語りになられたおことばです。実は、このおことばに続けて主は、「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せです。主がお与えくださる「平和」とは、いかなるものなのでしょうか。

冒頭の主イエスのおことばの直前に、主はわたしたちに、「弁護者、すなわち父がわたしの名によって遣わされる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と、十字架を間近に控えて、ご自身の死の後、「主の名によって遣わされる聖霊」が、主に代って、主が約束された一切のことを成就してくださると、仰せになっておられました。

そうであれば、「主イエスがわたしたちにお与えくださる平和」とは、「主の名によって遣わされる聖霊によってわたしたちに成就される平和」に他なりません。しかし、ここでは、なぜ、「聖霊」のことを、ことさらに「弁護者」と呼ばれたのでしょうか。

「弁護者」。新約聖書のこの言葉は、「(人を助けるために)傍らに呼ばれた方」と言う意味から、助け主、介添人、介護者、保護者とも訳されてきました。興味深いことに、聖書で「復活する」という言葉は、主イエスご自身、さらに初代の教会の言葉、つまりユダヤの言葉やギリシャの言葉では、「起き上がる」ないし「立ち上がる」と言う自動詞よりも、「倒れた人を抱き起こす」、「弱った人を助け起こす」さらに「傷ついた人を介抱する」と言う他動詞として、日常使われていた言葉でもありました。

十字架の主イエスのご復活。その日、主のみ前のわたしたちは、弱り果て、傷つき倒れ、死んでさえいたのではなかったでしょうか。そのわたしたちのみ前に、ご復活の主は、傷つき倒れていたわたしたちを助け、介抱してくださる方として、さらに主のみ前に命を失ってさえいたわたしたちを大切に抱き起こし、いのちを与えてくださるただ一人の「助け主」として、お立ちくださったのではなかったでしょうか。

この「助け主」としてのご復活の主キリストのお姿。それは、主イエスが十字架の後にわたしたちに、主の名によって遣わされる「弁護者」すなわち「助け主」である「聖霊」のお姿とそのお働きと、明らかに一つです。むしろこの「助け主」なる「聖霊」こそ、時と所を越えてつねにわたしたちとともにいてくださり、わたしたちの真実の「助け主」であり続けてくださる「ご復活の主キリストご自身」ではないでしょうか。

先に見たように、「主イエスがお与えくださる平和」は、「聖霊による平和」です。その際、「聖霊」こそ、目に見えない「ご復活の主ご自身」です。したがって、「聖霊による平和」とは、「ご復活の主からの平和」に他なりません。ここで、改めて、その「平和」あるいは「平安」とはいかなることなのでしょうか。

「平和」ないし「平安」と訳されている言葉は、主イエスの話されたユダヤの言葉では「シャローム」、ギリシャの言葉では「エイレネー」です。皆さんお気づきのように、実は、このおことばこそ、ご復活の主ご自身が、最初から、かつ常に、そしてくり返し弟子たちに語りかけられたおことば以外の何ものでもありません。

ご復活の主キリストは、「シャローム」(エイレネー)と弟子たちに語りかけられた上で、「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」。「シャローム」(エイレネー)とは「大丈夫」、「わたしがいるから大丈夫」との意味です。このおことばこそ、ご復活の主を疑い、怯えさえしていた弟子たちへの主の深い慰めのおことばです。

ミサ。それは、主イエスから、ご聖体において「聖霊」を受けさせていただく時。今、わたしたちの前には、「助け主」である「聖霊」によって、「助け主」・ご復活の主キリストご自身が、お立ちくださっておられます。わたしたちに両手を広げて、わたしたち一人ひとりをご自身の胸に抱きしめてくださるために。その御手には十字架の傷跡。その御胸には十字架の槍の跡。わたしたち一人ひとりのための。

わたしたちをご自身の胸に抱きしめ、「シャローム(エイレネー)、わたしがいるから大丈夫だ」と仰ってくださるご復活の主キリストが今、わたしたちの前にお立ちです。

「わたしはあなたがたに平和を残し、わたしの平和を与える」との主イエスの約束のおことばを、わたしたちはミサにおいて、「主の祈り」に続く「教会に平和を願う祈り」の中で、ご聖体を拝領する前にいつもお聞きしています。わたしたちはミサの度に、主のこのおことばにひたすら頼って、ご聖体を拝領していると言っても過言ではありません。主のこの赦しと励ましのおことば無しに、ご聖体において主のいのちである「聖霊」をいただくことは、わたしたちにはできないからです。

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 5/18

復活節第五主日 ヨハネ13:31-33a、34-35

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「互いに愛し合いなさい」と主イエスは仰せです。主は続けて「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」「わたしがあなたがたを愛したように」と、愛はつねに具体的です。主の愛は、わたしたちに体験されている事実です。ただし、そのことを福音はどのように語っているのでしょうか。

復活節も第五の主日を迎えました。教会がご復活の主イエスとともに、間近に迫った主のご昇天、さらには聖霊降臨の祝いへと歩みを進めているこの時、今日の主日の福音は、あらためてわたしたちに主の十字架を想い起こさせます。

今日の福音は、「さて、ユダが(晩餐の広間から)出て行くと」と語り始めていました。実は主イエスは、「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」(ヨハネ13:21)と、すでにユダの裏切りを予告しておられました。そして、今日の福音に続きます。「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。『今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。』」(ヨハネ13:31)

ユダの裏切りによって、主イエスご自身が、さらに主において父なる神が「栄光」をお受けになると主は仰せでした。「栄光」とは、いかなることなのでしょうか。「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる」とのおことばに続けて、(今日の福音朗読では省略されていましたが、)実は、主は次のように仰せです。「あなたがたはわたしを捜すだろう。(しかし、)『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない。』」(ヨハネ13:33b) ここで主は、ご自身の「栄光」を、ユダの裏切り、むしろその神的帰結である主の十字架の死にはっきりと結びつけておられます。

十字架において現わされる「栄光」。ふたたび、「栄光」とはいかなるものなのでしょうか。「栄光」。それは、「聖なる神の輝き」です。ただ、主イエスが話しておられたユダヤの言葉では、日本語で「栄光」と訳された言葉は、古くは「重さ」と言う意味であり、したがって「重いもの」を意味する言葉でもありました。

そうであれば、この時、十字架の死を間近に控えておられた主イエスにとって、父なる神からお受けになるべき「栄光」つまり「重いもの」とは、十字架以外には考えられません。

ただし、それだけではないと思います。先の主日の福音の内に、主イエスは「わたしの父がわたしにくださったもの(つまり、わたしたち)は、すべてのものより偉大であり(価値がある、すなわち「重い」)、だれも父の手から奪うことはできない」(ヨハネ10:29)と仰せになっておられました。さらに、主は、エルサレム入城直後の神殿での説教を、次のように結んでおられました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(ヨハネ12:32)

父なる神が御子キリストによって現わされる「栄光」。それは主イエスの十字架の後、復活された主のご昇天の際に、父なる神が、ご昇天の御子とともに天に引き上げてくださる皆さん一人ひとりの「いのちの重さ」、皆さんに本来神から与えられ、主の十字架とご復活よって回復された「いのちの重さ」です。さらには、「聖霊」によって再び聖(きよ)められる皆さん一人ひとりの「いのちの重さ」でもあります。

「神の栄光」。それは、わたしたちのために主イエスが負い抜いてくださる十字架の重さです。同時に、主が十字架の死とご復活により回復してくださり、さらに昇天された主による天の父なるもとからの聖霊の注ぎによって聖(きよ)められ、ご復活とともに生かされるわたしたちの新しい、永遠のいのち輝きと重さでもあります。

「神の栄光。」 主イエスは、今日の福音を、次のおことばで結んでおられました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

主イエスは、聖霊によってわたしたちのいのちが「愛」で満たされることを願っておられます。「愛」とは、抽象的なものではありません。主のわたしたちに対する「愛」は、具体的な事実でした。主は、わたしたちの重い十字架を負い抜いてくださり、わたしたちに神から与えられた本来のいのちの重さを回復してくださいました。

主イエスがわたしたち一人ひとりにしてくださったように、わたしたちもわたしたちの隣人の重い十字架をともに負い、隣人の命の重さを敬い、ともにいのちの与え主であられる神に感謝する。主がわたしたちを愛してくださったように、わたしたちも互いに愛し合うとは、このことではないでしょうか。ただしそれは、聖霊の助けなしには成し得ないことです。しかし、聖霊を求める所、そこには必ず愛が成就します。愛こそ「聖霊」の結ぶ実だからです。そして、聖霊を求める所。それがミサです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 5/11

復活節第四主日 ヨハネ10:27-30

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠のいのちを与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」

ヨハネによる福音は、この主イエスのみことばが、エルサレム神殿奉献記念祭に、神殿で主の弟子たちとユダヤ人たちに語られたことを伝えていました。「そのころエルサレムで神殿奉献記念祭が行われた」、そして、その時は「冬であった」、と。

ユダヤではハヌカと呼ばれるこの祭りは、紀元前2世紀の始め、当時の大国シリアの王によって蹂躙され汚されたエルサレム神殿を、紀元前164年のキスレイの月に、ユダ・マカバイが再び聖別し、新たに神に奉献したことを記念し、毎年同月に8日間にわたってエルサレムで盛大に祝われていました。ユダヤ月キスレイは、現在の11月から12月に当たり、「冬」の季節の祭りです。しかし今日の福音が、福音の語るこの時を事更に「冬であった」と語るのには理由があるはずです。

実は、ヨハネによる福音は、主イエスが、この祭りの最中に、はっきりとユダヤ人たちに拒絶され、主に対する彼らの殺意が露わになったことを伝えています。事実、この後福音は、エルサレム郊外のベタニヤで、主がマルタとマリアの兄弟ラザロを死から命へとよみがえらせてくださったことを伝えた後、直ちに、過越祭の最中にエルサレムで起こった、主ご自身の死と復活へと語り継ぎます。

福音が語るように、確かに時は「冬であった」と言うべきです。信じがたいことに、神の聖名の置かれた神の宮エルサレム神殿の再聖別と再奉献が記念されている最中に、しかもその「神殿の境内」で、「神殿の主・神なるキリストご自身」が、彼の民によって拒絶され、死へと定められました。この時、「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。」主イエスとわたしたちすべてに対して、「冬」を耐えがたいまでに厳しくするのは、明らかにわたしたちの罪です。

今日の福音の直前に、主イエスは、彼をメシア・キリストとして受け入れないファリサイ派の人々に対して、すでに次のように仰せでした。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証している。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」

その上で、主イエスは、「主の羊」、すなわち主を信じる者たちへの、今日の福音のおことばをお語りになられました。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠のいのちを与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」

続けて主イエスは、今日の福音を、次の驚くべきおことばによって結ばれます。「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父は一つである。」フランシスコ会訳聖書では次のようです。「父がわたしにくださったものは、他の何ものよりも価値があり、だれもそれを父の手から奪い去ることはできない。わたしと父とは一つである。」

「父がわたしにくださったもの」とは、父なる神が、御子キリストに託された人々、つまり主を信じる者たちのことです。彼らを主イエスは、「他の何ものよりも価値がある。」それゆえ、彼らを「だれからも決して奪わせない」と仰せです。主は、大切な彼らをご自身のいのちに代えても守り抜いてくださるといわれるのです。

わたしたちは、その彼らがわたしたちのことであって欲しいと切に願います。主イエスに対する懺悔の心をもって。ただし、主にとって、彼らがわたしたちのことであれば、これは驚くべき主のみことばです。わたしたちは到底、主ご自身のいのちを賭してまで大切に守られるに値するものではないからです。しかし、もしそれが父なる神のみ旨であり、天の父なる神が御子キリストに求めておられることであれば、主はご自身を犠牲にしてでも、ご自身のいのちに代えて、このわたしたちを守ってくださる。なぜなら、「わたしと父は一つである」と主は言われる。事実、主イエスは、後にご自身の十字架において、わたしたちにその通りにしてくださいました。

実は、今日の福音に先立って、すでに主イエスはご自身を「羊飼い」、しかも「良い羊飼い」にたとえて、次のように仰せになっておられました。

「わたしが来たのは、羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる。」

わたしたちは、今このミサで、「良い羊飼い」・十字架のキリストを記念しています。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 5/4

復活節第三主日 ヨハネ21:1-19

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音は、ペトロ始め主イエスの弟子たちを、ご復活の主が「三度目」にお訪ねになられた次第を伝えていました。驚くべき事に、ご復活の主の「三度目」のご訪問にもかかわらず、ペトロたちは、最初、主を認めることができませんでした。

そのようなペトロたちに、復活の主イエスは、かつて彼らが、ガリラヤ湖畔で主から召し出しを受けた時(ルカ5章)とまったく同じように、この度も彼らに、夜通しの不漁にもかかわらず、夜明け方に主のご命令に従って再び網を打った時、網一杯の魚が与えられたと言う「湖の奇跡」を繰り返してくださいました。それで、ようやく、ペトロたちは、「だれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである』と、今日の福音は伝えています。

これは、いったいいかなることなのかと、首をかしげたくなるような事態です。改めて、ご復活の主イエスが、主のご復活を疑うトマスを、わざわざ訪ねてくださったことを伝えた、今日の福音に先行して語られた先の主日の福音を思い起こします。

トマスも、当初、主イエスのご復活を信じられませんでした。しかしご復活の主は、疑うトマスをそのままに放っては置かれませんでした。主のご復活から八日目、ご復活の主は、主のご復活を疑い続けるトマスのみ前に立ち、彼に仰せになりました。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

このご復活の主イエスに、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」とお答えしました。この時トマスは、ご復活の主の前に、悔い崩折れる他なかったと思います。そのトマスを、ご復活の主は大切に抱き起こしてくださいました。十字架の釘跡の残る御腕で、槍で刺し貫かれた傷跡の残る主のみ胸の内に。それが、主のご復活です。

主イエスのご復活を、すぐには認められなかったのはトマスだけではありません。今日の福音が伝えるように、くり返しご復活の主のご訪問を受けながらも、主のご復活を確信できなかったペトロ始めすべての弟子たちをも、ご復活の主は忍耐強く、「三度」、すなわち、くり返し訪ねてくださいました。わたしたちすべてが、最早二度と主のご復活を疑い得なくされるまで。それが、今日の福音です。

今日のヨハネによる福音は、さらに続けて、ご復活の主イエスが、ペトロたちとの「三度目」の出会いの中で、「パンを取って弟子たちに与えられた」直後に、主がペトロに仰せになられた、大切なおことばを伝えていました。

「食事が終わると」と、福音は語り続けます。「イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です』と言うと、イエスは、『わたしの子羊を飼いなさい』と言われた。」

ちょうど、ご復活の主イエスが、ペトロを「三度」訪ねてくださったように、この時、主は、「わたしを愛しているか」というまったく同じ問いを、「三度」重ねてペトロに問われました。その時、「ペトロは、イエスが三度目も『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」とさえ、福音は伝えています。

しかし、「三度」訪ねて、ペトロをして主イエスのご復活をもはや疑い得ない者とされたご復活の主は、さらに、「三度」重ねてペトロに明らかにしておかなければことがありました。それは、ペトロにとって、「キリストを愛する」ことは、「キリストの子羊を飼うこと、主の羊の世話をする」ことである、と言うことです。

そして、ペトロにとってそのことは、彼の命をかけての主イエスと教会への奉仕を意味することでした。主は、ペトロへのおことばを、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現わすようになるかを示そう」とされて、次のように結んでおられます。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、・・・年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

「主イエス・キリストを愛する」とは、ペトロにとって、主と彼だけの内輪の関係に終始することではなく、「主の羊の世話をする」ことであり、愛ゆえに「主のためにいのちを捨てる」ことは、「主の教会のために自らの命を捧げる」こと。そのようにしてペトロは、主イエスによって「主の教会の礎」とされると言うことです。

「疑い深い」と言われたトマスに、ご復活の主イエスは、「わたしの神、わたしの主よ」との最も尊い信仰告白のことばをお与えくださいました。同じように、主のご復活を「三度」疑ったペトロが、主のご復活を二度と疑わなくなるまで「三度」重ねて訪問された上で、彼を「主の教会の礎」としてお立てになられたのです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。