司祭の言葉 5/11

復活節第四主日 ヨハネ10:27-30

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠のいのちを与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」

ヨハネによる福音は、この主イエスのみことばが、エルサレム神殿奉献記念祭に、神殿で主の弟子たちとユダヤ人たちに語られたことを伝えていました。「そのころエルサレムで神殿奉献記念祭が行われた」、そして、その時は「冬であった」、と。

ユダヤではハヌカと呼ばれるこの祭りは、紀元前2世紀の始め、当時の大国シリアの王によって蹂躙され汚されたエルサレム神殿を、紀元前164年のキスレイの月に、ユダ・マカバイが再び聖別し、新たに神に奉献したことを記念し、毎年同月に8日間にわたってエルサレムで盛大に祝われていました。ユダヤ月キスレイは、現在の11月から12月に当たり、「冬」の季節の祭りです。しかし今日の福音が、福音の語るこの時を事更に「冬であった」と語るのには理由があるはずです。

実は、ヨハネによる福音は、主イエスが、この祭りの最中に、はっきりとユダヤ人たちに拒絶され、主に対する彼らの殺意が露わになったことを伝えています。事実、この後福音は、エルサレム郊外のベタニヤで、主がマルタとマリアの兄弟ラザロを死から命へとよみがえらせてくださったことを伝えた後、直ちに、過越祭の最中にエルサレムで起こった、主ご自身の死と復活へと語り継ぎます。

福音が語るように、確かに時は「冬であった」と言うべきです。信じがたいことに、神の聖名の置かれた神の宮エルサレム神殿の再聖別と再奉献が記念されている最中に、しかもその「神殿の境内」で、「神殿の主・神なるキリストご自身」が、彼の民によって拒絶され、死へと定められました。この時、「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。」主イエスとわたしたちすべてに対して、「冬」を耐えがたいまでに厳しくするのは、明らかにわたしたちの罪です。

今日の福音の直前に、主イエスは、彼をメシア・キリストとして受け入れないファリサイ派の人々に対して、すでに次のように仰せでした。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証している。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」

その上で、主イエスは、「主の羊」、すなわち主を信じる者たちへの、今日の福音のおことばをお語りになられました。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠のいのちを与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」

続けて主イエスは、今日の福音を、次の驚くべきおことばによって結ばれます。「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父は一つである。」フランシスコ会訳聖書では次のようです。「父がわたしにくださったものは、他の何ものよりも価値があり、だれもそれを父の手から奪い去ることはできない。わたしと父とは一つである。」

「父がわたしにくださったもの」とは、父なる神が、御子キリストに託された人々、つまり主を信じる者たちのことです。彼らを主イエスは、「他の何ものよりも価値がある。」それゆえ、彼らを「だれからも決して奪わせない」と仰せです。主は、大切な彼らをご自身のいのちに代えても守り抜いてくださるといわれるのです。

わたしたちは、その彼らがわたしたちのことであって欲しいと切に願います。主イエスに対する懺悔の心をもって。ただし、主にとって、彼らがわたしたちのことであれば、これは驚くべき主のみことばです。わたしたちは到底、主ご自身のいのちを賭してまで大切に守られるに値するものではないからです。しかし、もしそれが父なる神のみ旨であり、天の父なる神が御子キリストに求めておられることであれば、主はご自身を犠牲にしてでも、ご自身のいのちに代えて、このわたしたちを守ってくださる。なぜなら、「わたしと父は一つである」と主は言われる。事実、主イエスは、後にご自身の十字架において、わたしたちにその通りにしてくださいました。

実は、今日の福音に先立って、すでに主イエスはご自身を「羊飼い」、しかも「良い羊飼い」にたとえて、次のように仰せになっておられました。

「わたしが来たのは、羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる。」

わたしたちは、今このミサで、「良い羊飼い」・十字架のキリストを記念しています。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 5/4

復活節第三主日 ヨハネ21:1-19

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音は、ペトロ始め主イエスの弟子たちを、ご復活の主が「三度目」にお訪ねになられた次第を伝えていました。驚くべき事に、ご復活の主の「三度目」のご訪問にもかかわらず、ペトロたちは、最初、主を認めることができませんでした。

そのようなペトロたちに、復活の主イエスは、かつて彼らが、ガリラヤ湖畔で主から召し出しを受けた時(ルカ5章)とまったく同じように、この度も彼らに、夜通しの不漁にもかかわらず、夜明け方に主のご命令に従って再び網を打った時、網一杯の魚が与えられたと言う「湖の奇跡」を繰り返してくださいました。それで、ようやく、ペトロたちは、「だれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである』と、今日の福音は伝えています。

これは、いったいいかなることなのかと、首をかしげたくなるような事態です。改めて、ご復活の主イエスが、主のご復活を疑うトマスを、わざわざ訪ねてくださったことを伝えた、今日の福音に先行して語られた先の主日の福音を思い起こします。

トマスも、当初、主イエスのご復活を信じられませんでした。しかしご復活の主は、疑うトマスをそのままに放っては置かれませんでした。主のご復活から八日目、ご復活の主は、主のご復活を疑い続けるトマスのみ前に立ち、彼に仰せになりました。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

このご復活の主イエスに、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」とお答えしました。この時トマスは、ご復活の主の前に、悔い崩折れる他なかったと思います。そのトマスを、ご復活の主は大切に抱き起こしてくださいました。十字架の釘跡の残る御腕で、槍で刺し貫かれた傷跡の残る主のみ胸の内に。それが、主のご復活です。

主イエスのご復活を、すぐには認められなかったのはトマスだけではありません。今日の福音が伝えるように、くり返しご復活の主のご訪問を受けながらも、主のご復活を確信できなかったペトロ始めすべての弟子たちをも、ご復活の主は忍耐強く、「三度」、すなわち、くり返し訪ねてくださいました。わたしたちすべてが、最早二度と主のご復活を疑い得なくされるまで。それが、今日の福音です。

今日のヨハネによる福音は、さらに続けて、ご復活の主イエスが、ペトロたちとの「三度目」の出会いの中で、「パンを取って弟子たちに与えられた」直後に、主がペトロに仰せになられた、大切なおことばを伝えていました。

「食事が終わると」と、福音は語り続けます。「イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です』と言うと、イエスは、『わたしの子羊を飼いなさい』と言われた。」

ちょうど、ご復活の主イエスが、ペトロを「三度」訪ねてくださったように、この時、主は、「わたしを愛しているか」というまったく同じ問いを、「三度」重ねてペトロに問われました。その時、「ペトロは、イエスが三度目も『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」とさえ、福音は伝えています。

しかし、「三度」訪ねて、ペトロをして主イエスのご復活をもはや疑い得ない者とされたご復活の主は、さらに、「三度」重ねてペトロに明らかにしておかなければことがありました。それは、ペトロにとって、「キリストを愛する」ことは、「キリストの子羊を飼うこと、主の羊の世話をする」ことである、と言うことです。

そして、ペトロにとってそのことは、彼の命をかけての主イエスと教会への奉仕を意味することでした。主は、ペトロへのおことばを、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現わすようになるかを示そう」とされて、次のように結んでおられます。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、・・・年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

「主イエス・キリストを愛する」とは、ペトロにとって、主と彼だけの内輪の関係に終始することではなく、「主の羊の世話をする」ことであり、愛ゆえに「主のためにいのちを捨てる」ことは、「主の教会のために自らの命を捧げる」こと。そのようにしてペトロは、主イエスによって「主の教会の礎」とされると言うことです。

「疑い深い」と言われたトマスに、ご復活の主イエスは、「わたしの神、わたしの主よ」との最も尊い信仰告白のことばをお与えくださいました。同じように、主のご復活を「三度」疑ったペトロが、主のご復活を二度と疑わなくなるまで「三度」重ねて訪問された上で、彼を「主の教会の礎」としてお立てになられたのです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。