司祭の言葉 3/30

四旬節第4主日 ルカ15:1-3,11-32

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」今日の福音の主イエスの「放蕩息子のたとえ」の中で、放蕩の後、行き場を失い父のもとに帰って来た息子を迎えた「父」のことばです。

「放蕩息子のたとえ」を含めて、主イエスは、ご自身の「神の国の福音」の宣教を、多くの「神の国のたとえ」を用いてなさっておられます。同時に、主は、それと並行して、これも繰り返して、ご自身の「十字架と復活」を予告されておられます。「神の国」とくに「その完成」と主の「十字架と復活」は、切り離すことができないからです。

さて今日の福音のたとえで、「放蕩息子」が父の許に帰って来た時、父は、まだ遠く離れていたにもかかわらず息子を見つけ、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と喜び、息子のために祝宴を開いたと言うのです。

「放蕩息子」には兄がいます。明らかに兄として暗示されているユダヤの民から見て、元来異邦人であったわたしたちは、主イエスの今日のたとえを、弟である「放蕩息子」に当てはめて聞く他無いと思います。ただここで、聞き逃してはならないことがあります。今日のたとえで、主は、元来異邦人であったわたしたちも、兄であるユダヤの民と「同じ父の子」である、とはっきり仰っておられることです。このことは、わたしたちには非常に重要であると思います。

元来異邦人のわたしたちが、その尊さをわきまえないままに、自分のためにだけ今日まで浪費し続けていた「財産」も、その一切は兄と「同じ父」からいただいていたものだからです。その事実を、わたしたちは今日の主イエスのたとえを通してはっきりと知らされました。その「父」から受けた御恩ばかりか、わたしたちのまことの「父」を忘れ果てての「放蕩」の後に、それにもかかわらず、「父」はわたしたちを喜んで「父の家」に再び迎え入れてくださったというのです。

それだけではありません。そのような「父」に対する兄の激しい抗議にもかかわらず、父はわたしたちを再び受け入れてくださったばかりか、「父」はわたしたちのために大きな犠牲をさえ払ってまでして祝宴を整え、わたしたちを「父の食卓」にまねいてくださいました。主イエスは、父は「犠牲を屠って」わたしたち「放蕩息子」のために祝宴を整えてくださっておられたと語っておられました。

「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、・・・それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」との、「父」の大きな喜びは、放蕩と忘恩の限りを尽くしながらも、そのようなわたしたちを、なお、ご自身の「子」としてくださる「父」の、大き過ぎる犠牲と引き換えでもありました。

今日の「放蕩息子のたとえ」は、「神の国のたとえ」の一つであると、先に申しました。「神の国のたとえ」とは、わたしたちのただ中で、「神の国の主」キリストが、すでにお始めになっておられる「神の国」の事実と、その事実の力と真実へと、わたしたちの目を開かせるために、主イエスが語られたものです。

今日の福音が指し示す「神の国」の真実。それは、「死んでいたわたしたちが生き返り、いなくなっていたわたしたちが見つけられた」という、「父」なる神の「大いなる喜び」のために、父なる神は、いかに大きな犠牲、たとえそれが御子キリストを十字架に付けると言うほどの犠牲であっても、わたしたちのためにこれを厭わず行ってくださる、と言うこと以外の何ものでもありません。

ユダヤの民から見たら「放蕩息子」以外の何者でもない異邦人のわたしたち。まことの神である「父」を忘れ、忘恩の限りを尽くして来たような長く深い罪の歴史がわたしたちにはあります。そのようなわたしたちを「父」は喜んで父の家に迎え入れ、わたしたちのために「犠牲を屠って」食卓を整え「神の国の祝宴」へと招き入れてくださいました。これこそ、「神の国の主」キリストによって、父なる神がわたしたちの内に始められている恵みの事実です。それがミサです。

ただしそのわたしたちのための「神の国の祝宴」・ミサの食卓(祭壇)のために、「父」なる神が犠牲として屠られたのが御子キリストであられたことを、わたしたちは忘れてはなりません。「神の国のたとえ」は、すでに主イエスによってわたしたちのただ中に始められている恵みの事実を語ります。その「神の国」の完成は、ひとえに御子キリストの犠牲の十字架とご復活にかけられています

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 3/23

四旬節第3主日 ルカ13:1-9

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の主日は、福音の語る「主イエスの山上の変容」の出来事から、出エジプトの指導者モーセと預言者エリヤが、主ご自身と、「主がエルサレムで遂げようとしておられる最期について話し合っておられたことをお聞きしました。ただし、最期と訳されていた言葉は、元来は、主の「過越」を意味する言葉でした。

したがって、この時主イエスは、モーセとエリヤとともに、「主の過越」、すなわち主がご受難と十字架の死を経てご復活の栄光へと「過ぎ越し」て行かれる、主のエルサレムでの出来事の全体を、予め話し合っておられたと言うことです。

実は、この山上での出来事の直前、さらに直後にも、主イエスは、弟子たちに、「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活することになっている」と、エルサレムでの「ご自身の過越」の予告をなさっておられました。

そしてその度に、主イエスは弟子たちに、「目を覚ましていなさい」と警告されておられました。その上で、今日の福音で、「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と、主は二度も重ねてわたしたちに悔い改めをお求めになっておられました。

確かに「悔い改め」は、わたしたちの信仰の死活問題です。しかし、それはいかなることなのでしょうか。目を閉じ、俯(うつむ)いて自問自答し、自らを責めることでしょうか。そうではありません。ユダヤの言葉で「悔い改める」とは、「わたしたちの顔を神に対して向けなおす」、「神に向けて目を開く」ことです。

大切なことがあります。ルカによる福音は、主イエスの「山上の変容」後、弟子たちを伴って最後にエルサレムに上られる途上、主は弟子たちに「祈るときには、こう祈りなさい」と、「主の祈り」をお授けくださった、と伝えていることです。改めて、「主の祈り」とは、いかなる祈りなのでしょうか。

「主の祈り」が、ミサの中で何時祈られるのかを思い出してください。それは、「奉献文」の奉唱後、すなわち「聖変化」の直後、主イエスが、わたしたちのただ中にご聖体のお姿で、ご自身の御現存をお現わしくださった直後です。

したがって、「主の祈り」とは、主イエスご自身が、わたしたちのただ中に在って、「わたしがここにいる。もう心配しなくていい。もう俯かなくていい。わたしに顔を向けてごらん。閉じた目を開いて、わたしを見つめてごらん。わたしと一緒に祈ろう」と、わたしたちをお招きくださっておられる祈りです。

確かに、「悔い改めなければ、滅びる」とは、その通りです。俯いて神から顔を背け、神に目と心を閉ざしてしまっては、救われません。しかし、わたしたちは、むしろ最も大切な時にこそ力を失ってしまうのではないでしょうか。その時、わたしたちは俯いて目を閉じてしまいます。主イエスはそのことをよくご存知です。わたしたちの人生の悩み、苦しみをご存知だからです。主に向かって顔を上げることができずに俯き、神と人生に目を閉じてしまう、わたしたちの弱さを。

「主イエスの時」・「主がエルサレムで遂げようとしておられる最期」・「主の過越」が近づく中で、主はくり返し、「悔い改める」、「目を開く」ことをわたしたちにお求めになっておられました。しかし、これは決して唐突なことではありません。主は福音の宣教の当初から、次のように仰せになっておられました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

「悔い改めて福音を信じること」「目を覚ましていること」それは、主イエスに「時が満ちる」中で、「主ご自身がエルサレムで遂げようとしておられる最期である「主の過越」、つまり主の十字架とご復活を、わたしたちがしっかりと見届けさせていただくためです。それのみがわたしたちの救いだからです。

福音の後半の「実のならないいちじくの木のたとえ」で、主イエスがご自身を「園丁」に喩えてお語りになっておられるように、「園の主人」・唯一の裁き主であられる父なる神のみ前に、ご自身を犠牲としてまで執り成してくださる主。

「悔い改め」「目を覚ましていること」。それは、時に重すぎる人生の苦しみの中で神に目と心を閉ざしてしまうわたしたちにとって、自分の力だけでできることではありません。主イエスはそれを良くご存知です。それ故「わたしと一緒に祈ろう」と、主はわたしたちを「主ご自身の祈り」へと切に招いてくださいます。

「時は満ち神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」わたしたちを「主の祈り」へと招く主イエスは、エルサレムでの「過越」へと旅を進められます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 3/9

四旬節第1主日 ルカ4:1-13

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

先の水曜日、「灰の水曜日」から四旬節に入りました。四旬節の40日と言う数字は、主イエスが、荒れ野で「四十日間、汚れた霊・サタンから誘惑を受けられた」ことに因むものです。

主イエスの荒れ野での40日に先立ち、先にルカによる福音は、「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」と、伝えていました。ここで「聖霊」とは、言うまでもなく、主が洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられた際に、天から注がれた「父なる神の霊」です。

今日のルカによる福音は、さらに続けて、「そして、荒れ野の中を「霊」によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」、と伝えていました。これは、新共同訳聖書の訳です。ただしこの訳では、主を荒野に導いたのは、父なる神の霊・聖霊ではなく、汚れた霊・悪魔であるかのような印象を受けます。これは、無自覚の内に善悪二元論的思考に慣らされて来たわたしたちには、分かりやすい話のようにも聞こえますが、しかし、そもそも、汚れた霊・悪魔に、神の御子キリストに何事かを強いるような力と権威があるのでしょうか。

実は、同じ個所を、カトリック・フランシスコ会訳聖書は、「イエズスは、聖霊に満ちてヨルダン川から帰り」とした後、続けて、聖霊によって荒野に導かれ、四十日の間悪魔の試みにあわれた」、と明快に、かつ事柄を正確に訳しています。主イエスが洗礼に際して父なる神から受けた「聖霊」と、その直後に、主を荒野の試練に導き出されたのは、明らかに同じ「聖霊」すなわち「父なる神の霊」であった、ということです。

そうであれば、御子キリストを荒野に導かれ、汚れた霊・悪魔に対して、主イエスを荒野で誘惑し、主を試みることをお許しになられたのは、神の霊、すなわち父なる神ご自身と言うことになります。これは一体どういうことなのでしょうか。福音は、わたしたちに何を伝えようとしているのでしょうか。

加えて、それが父なる神のみ旨であったとするならば、主イエスを荒野に導かれ、そこで悪魔に主を試みることを許してまで、むしろそのことを通してのみ成就されるべき、わたしたち罪人のための父なる神の救いと言うことが、必ずやあるはずです。それは、一体、いかなることなのでしょうか。

「汚れた霊」「悪魔・サタン」とは、「わたしたちを神から引き離そうとするもの」、さらには「わたしたちが神とともにあることを、妨げようとする力」のことです。今日の福音で、主イエスが荒野でお受けになられた「悪魔からの試練」は、実はわたしたち自身も人生で繰り返し受ける「誘惑」ではないでしょうか。しかも、もしその「誘惑」に負けて、その結果、私たちが「神から離れて」しまうならば、わたしたちの人生を空しくしてしまうようなものではないでしょうか。

ここで、「聖い霊」、すなわち「聖霊」とその働きについて確認しておきたいのです。主イエスは、荒れ野での40日の後、聖霊において成就される福音(みことば)の宣教をお始めになりますが、福音書は、そのご様子を、主は「汚れた霊」に取り憑かれた多くの人々から、「汚れた霊を追い出された」と、くり返しわたしたちに語ります。主において働かれる「聖霊」・「聖い霊」とは、まさにわたしたちから「汚れた霊・サタン」を駆逐・勝利してくださる神の力です。

「天の父なる神の霊」「聖霊」に導かれての主イエスの荒れ野の40日の試練とは、「汚れた霊サタンの誘惑」の一切を、主がわたしたちに先んじて受け、わたしたちに代って味わい尽くしてくださるためであり、その上で、主がわたしたちのために、わたしたちに先行して、本来わたしたちの受けるべき一切の誘惑に、あらかじめ「聖霊」において勝利を収め取っておいてくださるためだったのです。

「聖霊」によって荒野に導かれた主イエスは、この時、「聖霊」・父なる神の聖い霊によって、わたしたちのために「汚れた霊」「悪魔」に予め打ち勝ってくださったのです。「悪魔」に対する主の勝利。これこそ、「悪霊の誘惑」の前に無力なわたしたちにとっての救いそのもの、わたしたちすべてにとっての力強い福音そのものです。主の、わたしたちのための悪魔からの誘惑に対する勝利なしには、わたしたちの人生が無に帰してしまうからです。

ただし、「聖い霊」・「聖霊」による「汚れた霊」・サタンに対する完全なる勝利は、主イエスご自身の尊い自己犠牲である主の十字架とご復活、すなわち「主の過越」を通してのみ、最終的かつ完全に勝ち取られるものであることを、四旬節の始めから、わたしたちは深く心に留めておきたいと思います。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。