司祭の言葉 3/5

「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」

灰の水曜日の黙想
マタイ6:1-6、16-18

灰の水曜日をもって四旬節(レント)に入ります。灰の水曜日から、十字架の苦難と死を経てご復活の栄光に過ぎ越して行かれる、主イエス・キリストの「聖なる過越の三日間」を祝うまでの、日曜日を除く40日間を、カトリック教会は、紀元2世紀以来、慎みと懺悔の時として守り続けて来ました。

教会の古い伝統に従い、灰の水曜日のミサの中で、司祭は、昨年の「枝の主日」(「受難の主日」)に祝福を受けた棕櫚の枝を焼いて作った灰で、回心の証として皆

さんの額に十字架のしるしを致します(あるいは、皆さんの頭頂に灰を授けます)。

棕櫚の枝は、「枝の主日」に人々が主イエスを救い主キリストと歓呼の叫びを以てエルサレムにお迎えした時に、彼らが手にしていたものです。主は、その同じ人々によって、その週の内に十字架につけられました。わたしたちは、その棕櫚の枝から作った灰を受けて、主のみ前に心の定まらない、むしろ簡単に心変わりさえするわたしたちの罪の現実を強く心に留め、深く身に刻ませていただきます。

加えて、この灰を身に受けて始まる灰の水曜日からの40日の間、主イエスが宣教のご生涯の初めに体験された荒れ野の40日の試練を、さらに遡って、出エジプト後の神の民の荒野の40年を、同じく心に留めるのみならず、身に刻みます。

主イエスは荒れ野での40日間の汚れた霊・サタンからの試みに対し、聖霊によって勝利を収められました。イスラエルの民も荒野の40年の試練の時を、神の霊(聖霊)の助けによって耐え、主なる神の約束された地に導き入れられました。そのようにわたしたちもレント(四旬節)の間、聖霊の導きと御助けを切に祈ります。

灰の水曜日に読まれるマタイによる福音は、主イエスの「山上の説教」の一節です。この「山上の説教」の中心は、「全福音の要約」とさえいわれ、わたしたちがミサの度に祈る「主の祈り」です。その「主の祈り」の直前と直後に語られる施し、祈り、そして断食についての主の勧めが、今日、灰の水曜日の福音の内容です。

福音は、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」との、主イエスのおことばに始まり、その後、主は、施し、祈り、そして断食についての各々の勧めを、「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」との同じおことばを三度くり返して、締め括っておられます。

主イエスがこのような勧めをなさるのも、わたしたちを主ご自身の祈りである「主の祈り」に招いてくださるためです。「主の祈り」。わたしたちが、主ご自身の祈りに加えられて、主のみ前に祈りの生活を整えさせていただく、その道が、当時のいい方で、施し、祈り、断食として、主によって勧められているのだと思います。

主イエスの祈りに加えられて、主と共に神のみ前に祈らせていただく。あるいは、主と共に神のみ前に、祈りを中心としての生活を整えさせていただく。四旬節を歩むわたしたちの願いは、実はこのことに尽きている、と言ってよいと思います。

ただしこのことは、わたしたちの祈りを導いてくださる唯一の方、つまり「隠れたことを見ておられるわたしたちの父」なる神の霊である聖霊の導きと御助けなしには、わたしたちには叶わないことではないでしょうか。

主イエスと共に祈りを奉げつつ、神のみ前に生きる。それは神の眼差しの内に生きることです。四旬節を歩むわたしたちの歩みが、「隠れたことを見ておられ、かつ報いてくださる」父なる神の眼差しの内に、常に守られ、導かれますようにと願います。

四旬節。それは、ご受難と十字架を通してご復活の栄光に過ぎ越された主イエスの、聖週間の「過越の秘義」に深く参入させていただくための大切な準備の時です。

この四旬節を、主イエスと共に祈る。主ご自身の祈りに加えられて生きる。「主の祈り」に導かれて、主と共に歩みを進める。聖霊の御助けによって、四旬節をそのように祈りと生活を整える時とさせていただけるようにと、わたしたちは切に願います。

来たる「主イエス・キリストの聖なる過越の三日間」への、皆さん自身の四旬節の備え、あるいは四旬節の間の皆さんの「施し、祈り、断食」は、何でしょうか。

実は、主日毎の、さらには日々のミサこそ、まさにそれではないでしょうか。ミサこそ、四旬節をご自身の過越によって成就される主イエスから、主ご自身の祈りにお招きいただける、まさにその恵みの時だからです。

父と子と聖霊のみ名によって。   アーメン。

司祭の言葉 3/2

年間第8主日 ルカ6:39-45

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

今日の福音のような主イエスのおことばの前に、わたしたちは祈る他なすすべがありません。しかし、祈るとは、わたしたちにとっていかなることなのでしょうか。

ルカによる福音において、わたしたちは後に、主イエスから、主ご自身の祈りである「主の祈り」(ルカ11:1-4)をいただきます。使徒パウロは、「祈り」について、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、「聖霊」自らが、言葉に表せないうめきをもって(わたしたちを神に)執り成してくださる」(ローマ8:26)と語っています。

そうであれば、主イエスからいただく「主の祈り」を祈ること、それは「うめきをもってわたしたちを神に執り成してくださる「聖霊」」を求めさせていただくことです。このことは、ミサにお集まりの皆さんは、すでに良くご存知ではないでしょうか。

「主の祈り」は、古来、とりわけミサの中で大切に祈られて来ました。しかも、「主の祈り」は『感謝の典礼』に続く、「ご聖体拝領」に極まる主イエスとの『交わりの儀』の冒頭に祈られてきました。明らかに「主の祈り」は、聖別の祈りを経て、ご聖体における「現存」の主のみ前に、「ご聖体の拝領」を目指して祈られています

ここで、「ご聖体」を拝領することは、ご復活の主のいのち・生ける主イエスご自身をわたしたちの命としていただくことです。それは、活ける主のいのちである「聖霊」を、わたしたちが受けることに他なりません。この「聖霊」を求める祈りとして、主のみことばに従って、ミサの中で「主の祈り」は祈られて来ました。

今、「主イエスのみことばに従って」と申しました。実は今日の福音で「主の祈り」をわたしたちにお与えくださった主ご自身がそのことをはっきりと仰せでした。

主イエスは、「わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(ルカ11:9-10)と仰せの上で、「主の祈り」を祈るわたしたちに次のように明確に約束されました。

「天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11:13)

「弟子の一人」が主イエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と願った時には、彼は主から「祈り」の模範を求めていたのかもしれません。しかし、これに応えて、主が、わたしたちに「主の祈り」をお与えくださったのは、主ご自身にとって特別なことです。それは、主がわたしたちに天の父なる神に「聖霊」を求めることをお赦しくださったことだからです。ただしそれは、主ご自身にとって、さらにわたしたちにとって、いかなることなのでしょうか。

それは、父なる神にとっては、御独り子キリストのいのちをわたしたちにお与えくださることをよしとされたということです。「聖霊」とは、御父との活ける交わりにある御子キリストのいのちそのものだからです。事実、そして確かに、御父は、「主の祈り」を祈るわたしたちに、御子キリストのいのちをくださいます。十字架においてただ一度。しかし、ミサのご聖体拝領の度ごとに。

ミサのご聖体拝領を目指して祈られる「主の祈り」。主イエスからいただいた「主の祈り」で、わたしたちは第一に、「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」と、「神の国」を祈ります。続けて、「わたしたちに必要な糧」を、そして最後に、「わたしたちの罪の赦し」「罪の誘惑からの護り」を祈ります。

ここには、わたしたちが「神の子」として生かされるための大切なことの一切が祈られています。しかもそのすべてが、すでに主イエスの内に完全に成就しています。そして、その一切を、わたしたち自身の恵みとしてくださる方こそ「聖霊」です。その「聖霊」を求めて良い、と主は仰せです。それが「主の祈り」です。その「祈り」に応えて、主は「聖霊」「わたしたちが目で見、よく見て、手で触れる」ことができる(ヨハネの手紙1:1)「ご聖体」においてお与えくださいます。それがミサです。

マタイによる福音は、主イエスの「主の祈り」を、ご自身の福音宣教の始めの「山上の説教」の中心に伝え、その際、主は弟子たちに、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。だから、こう祈りなさい」と言われた上で、「主の祈り」をお与えくださいます。

「主の祈り」とは、「聖霊」を求める「祈り」であり、「わたしたちに必要なものすべてをご存知の父なる神の霊」である「聖霊」に、わたしたち自身を委ねさせていただく祈りです。そのわたしたちに、父なる神は、御子キリストご自身をお与えくださいました。十字架に至るまで。わたしたちにご自身のいのちをくださるために。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。