司祭の言葉 2/2

「わたしはこの目で、あなたの救いを見た」
「主の奉献」の祭日の黙想 
ルカ2:22-40

「わたしはこの目で、あなたの救いを見た。」
エルサレムの神殿で、聖母マリアさまからゆるされて「幼子キリストを腕に抱き、神をたたえて言った」、老シメオンの言葉です。

ご降誕から40日後、幼子キリストは、マリアさまとヨセフさまによってエルサレムの神殿で、父なる神に捧げられました。彼らはそこで、老シメオンに会いました。シメオンは、「正しい人で信仰があつく、イスラエルが救われるのを待ち望んで」いました。また、「聖霊が彼の上にあり、主が遣わすメシア(キリスト)に会うまではけっして死なないとの聖霊のお告げを受けていた」と、ルカによる福音は伝えています。


目に見えない神の約束と聖霊の導きに一切を委ねて、従順に、かつ忍耐強く、生涯、救い主キリストを待ち望んできた老シメオン。 彼の目が閉じられる前に、約束通り、神は彼の目に神ご自身を見させてくださいました。それが、幼子キリストです。

「主よ、今こそ、あなたはおことばどおり、このしもべを安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目で、あなたの救いを見たからです。」

   
福音記者聖ヨハネが、後に彼の手紙に書き留めたように(1ヨハネ1:1,2)、シメオンにとって幼子キリストは、まさに「耳で聞き、目で見、よく見て、手で触れる」 ことさえゆるされた「いのちのことば」。彼にとって主イエスこそ、神ご自身から与えられた疑いようのない救いの事実。シメオンの神への賛美は続きます。

「この救いこそ、あなたが万民の前に備えられたもの、異邦人を照らすための光、あなたの民イスラエルの栄光です。」

神の救い、主イエス・キリスト。御子キリストこそ、父なる神が万民のために、すなわちわたしたち一人ひとりのために「備えてくださった救い」です。驚くべき事に、わたしたちがわたしたち自身を父なる神にお捧げさせていただく前に、父なる神が、御子キリストにおいて、ご自身をわたしたちにお与えくださいました。それが、ご降誕の幼子イエス・キリストです。


この同じ幼子キリストが、ご降誕から40日後のこの日、エルサレムの神殿で、この度は、マリアさまとヨセフさまの手で、「主の律法に従って」父なる神に奉献された、と福音は伝えていました。しかし、それはなぜでしょうか。

「主の律法」。主なる神は、ご自身の民イスラエルを奴隷の家エジプトから導き出される、その前夜に、「初めて生まれる男子はみな、主のために聖別される(捧げられる)」と、「初子の奉献」をお命じになりました。それによって、神が引き続いて成就される神と神の民の過越(すぎこし)、すなわち「主が力強い御手をもって神の民をエジプトの地から導き出された」ことが、神の民によって永遠に記念されるためです。

それにしてもなぜ、「神と神の民の過越」が「初子の奉献」(出エジプト13:1,2)によって永遠に記念されることを、神はわたしたちにお求めになられるのでしょうか。

それは、神と神の民の過越の奇跡の背後には、ご自身のいのちそのものであられる、初子にして御独り子なる主イエスをわたしたちにお捧げくださるという、わたしたちのための父なる神ご自身の誠に尊い犠牲奉献がある事を、わたしたちに忘れさせないためではないでしょうか。後の、神の御子キリストご自身の十字架上の犠牲奉献が、すでにここに明確に指し示されているように思われてなりません。

そうであれば、父なる神の「初子キリストの奉献」の記念を通して、主なる神がミサにおいてわたしたちに成就してくださることも明らかです。それは、主イエスにおけるわたしたち一人ひとりの出エジプト、すなわち「主とわたしたちの過越」です。

わたしたちは、神から受けた主イエスを、神にお捧げします。ご降誕日に父なる神からいただいた父なる神の「初子にして独り子なるキリスト」を、わたしたちの感謝(ユーカリスト)として、父なる神にお捧げさせていただきます。それがごミサです。

「主イエスのご奉献」の恵み。それは、父なる神により、わたしたち一人ひとりが、御子キリストの奉献、すなわち、ご受難と死を通してご復活の栄光に過ぎ越して行かれた主イエスご自身の過越に固く結びあわされることです。この恵みの奇跡を、わたしたちはごミサの度に、マリアさまとヨセフさまとともに記念し、祝います。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 1/26

年間第3主日 ルカ1:1-4、4:14-21

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」

これが、主イエスの福音宣教のおことばです。これこそ、主の宣教のアルファでありオメガ、主の福音宣教の一切であると言うべきでしょう。

これは、かつて預言者イザヤを通して父なる神が語られたみことばを御子キリストご自身が朗読された後、ナザレの会堂にいたすべての人の目が主に注がれる中で、主イエスが宣言された福音宣教のおことばでした。

先に、ルカによる福音は、主イエスが、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられた時、聖霊のご聖櫃である「天が開け、聖霊が鳩のようにイエスの上に降って来た」と伝えていました。御子キリストは、この時、「天の父なる神」から「神ご自身のいのちである聖霊」を託され、そのみ力に満たされた、と言うことです。

事実、福音は、その後四十日の荒野での試練を経て、主イエスがガリラヤに帰られた時、「イエスは『霊』の力に満ちてガリラヤに帰られた」と伝えています。その後、聖霊に満たされた主は何をなさったのか。今日の福音の伝える通り、主は、「聖霊」に満たされて、「福音宣教」をお始めになられました。 すなわち、

「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にした時、実現した。」

主イエスの福音宣教とは、旧約の預言者のように、神のみことばをわたしたちに語り伝えるだけではありません。主の福音宣教は、「主イエス・キリストにおける父なる神のいのちである聖霊のみ業」であり、したがって「父・子・聖霊の三位一体の神のみ業」です。それは、御子キリストを通して、父なる神が聖霊において働かれ、一切を新たにする「神の新しい創造のみ業」です。

しかし、それは、誰に対して、そしていかにして、果たされるのでしょうか。それは、父なる神が神の民の歴史を通して預言者によってお語りになってこられたおことばの一切を、御子キリストにおいて、わたしたち一人ひとりに実現してくださることによって、です。

ところで、その日ナザレの会堂で、御子キリスト自らお読みになられた、かつて預言者イザヤを通して語られた父なる神のみことばは、次の通りでした。

「主の霊がわたしの上におられる。 

貧しい人に福音を告げ知らせるために、

主がわたしに油を注がれたからである。 

主がわたしを遣わされたのは、

捕らわれている人に解放を、

目の見えない人に視力の回復を告げ、

圧迫されている人を自由にし、

主の恵みの年を告げるためである。」

事実、この後、福音は、「天の父なる神に油を注がれた」御子キリストが、「神なる主の霊」・「聖霊」に満たされて、「貧しい人に福音を告げ知らせ、捕らわれている人を解放し、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げ」て行かれたことを、語り伝え続けて行きます。

ただし、ここで、「貧しい人、捕らわれの人、盲目の人、圧迫されている人」とは、一体だれのことなのでしょうか。実は、彼らこそ、わたしたち一人ひとりのことではないでしょうか。

主イエスの福音宣教。それは、天地の創造主・全能の父なる神が、御子キリストにおいて、聖霊により被造物の一切を新たにされる大いなる創造のみ業です。ただしそれは、主に出会うことをゆるされたわたしたち一人ひとりを、「キリストの似姿」に新たに造り変えてくださることによって成就されて行く神のみ業です。

それは、「貧しく、捕らわれており、目が見えず、圧迫されている」わたしたちに対して、空しく将来の夢や希望を語ることではありません。そうではなく、主イエスは、主に出会うわたしたち一人ひとりの「今」を、変えてくださるのです。否、「今」を変えてくださるばかりではなく、全く新しい「今」を、わたしたち一人ひとりに造り出してくださる。それが主の福音の宣教です。

「福音」には、今、わたしたち一人ひとりを新たにする神の創造のみ力があります。わたしたちの創造主なる神なる主イエスご自身が、「福音」その方だからです。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 1/19

主の洗礼 (ルカ3:15-16,21-22)

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

カトリック教会は、「主の公現」の祭日に続く主日を、「主の洗礼」の祝日として祝います。主イエス・キリストは、ご自身そのものである「福音」の宣教に先立ち、ヨルダン川で人々に洗礼を授けていた洗礼者ヨハネから、人々とともに洗礼をお受けになられました。しかし、「聖そのもの」であられる主が、なぜなのでしょうか。

実際、マタイによる福音は、主イエスが洗礼者ヨハネのもとに来て、人々とともに洗礼を受けることを望まれた時、「ヨハネは、それを思いとどまらせようとして、『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』」と、主に申し上げたと伝えています。このヨハネに、「イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』」(マタイ3:13-15)

主イエスは、人々とともに洗礼を受けられるのは、「正しいこと」であると仰っておられます。それが父なる神のみ旨であり、御子が人々とともに洗礼をお受けになることによって、神がわたしたちをお救いくださるということです。事実、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」、父なる神は、次の「三つのこと」をなさったと、ルカによる福音は伝えています。まず、「天が開け」、次に、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」続いて、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」

第一に、主イエスが、人々とともに洗礼を受けられたことによって、人々に「天が開かれた」。これは驚くべきことです。罪なる者に、「天」は閉ざされていたからです。詩編は、「死」を恐れる人々の呻きを伝えます。ただし人々が恐れたのは、「死」そのものではなく、罪人のままの「死」によって、彼らに「永遠に天が閉ざされて」しまい、したがって、彼らが神にお会いさせていただく機会を永遠に失うことです。

詩編第6編にこうあります。「主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく、わたしを救ってください。死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入れば、だれもあなたに感謝をささげません。」(詩6:5,6)

しかし今や、神ご自身が、主イエスにおいて人々とともに洗礼を受けてくださったことにより、罪なるわたしたちに「天が開かれた」のです。ただ一度、かつ永遠に。

父なる神の在す天は「聖霊のご聖櫃」です。「天」が開かれたのは、「聖霊が降る」ことでもあります。事実その時、天から「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」「父なる神のいのち」である「聖霊」が、今や目に見える姿で「御子キリストの上に降った」。このように、天の父なる神は、イザヤの預言どおり、神ご自身のいのちである「聖霊を主の上に置かれた(主に聖霊を託した)のです。(イザヤ42:1)

さらに、福音の伝える、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」との神のみことばは、これも預言者イザヤを通して語られていた次の神のみことばと同じです。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが喜び、喜び迎える者を。」そして、イザヤの預言は、あらかじめ御子キリストの洗礼の時を指し示していたかのように、次のように結ばれていました。彼の上にわたしの霊は置かれる(御子キリストに父なる神の霊・聖霊を託した)。」(イザヤ42:1)

「父なる神がご自身の霊を御子キリストの上に置かれる」目に見えない「天の父なる神」の霊・「聖霊」が、わたしたちとともに洗礼をお受けくださった「御子」に降った。聖霊が、主イエスから、また主を通して、わたしたちに与えられるためです。洗礼者ヨハネはそれを証ししていました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、その方(キリスト)は、聖霊と火で洗礼をお授けになる。このように、主はご自身の洗礼を以て、わたしたちに洗礼の秘跡を制定してくださいました。

主イエスの「福音」宣教は、預言者のように神のことばをわたしたちに伝えるだけではありません。主の「福音」宣教は、その始めから、わたしたちに対する「御子キリストにおける父なる神のいのちである聖霊の業」、すなわち、天地の創造主・全能の父なる神が、御子キリストに「聖霊を置」かれることによって、わたしたちのために始められた「父・子・聖霊の神のみ業」、すなわち「三位一体の神のみ業」です。実にそれは、福音そのものであられる御子を通して、父なる神の力が聖霊において働き、わたしたちに新しいいのちをお与えくださる「神の新しい創造のみ業」です。

ヨハネからの洗礼の後、主イエスは「福音」の宣教に立たれました。見えない「父なる神」が、「御子キリスト」において見える姿で働かれる。御子によって、目に見えない「神のいのち・聖霊」が、「父なる神」のみことばの実りを目に見える形でわたしたちに結んで行きます。それが、わたしたちへの主イエスの「福音」宣教です。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 1/12

主の洗礼 (ルカ3:15-16,21-22)

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

カトリック教会は、「主の公現」の祭日に続く主日を、「主の洗礼」の祝日として祝います。主イエス・キリストは、ご自身そのものである「福音」の宣教に先立ち、ヨルダン川で人々に洗礼を授けていた洗礼者ヨハネから、人々とともに洗礼をお受けになられました。しかし、「聖そのもの」であられる主が、なぜなのでしょうか。

実際、マタイによる福音は、主イエスが洗礼者ヨハネのもとに来て、人々とともに洗礼を受けることを望まれた時、「ヨハネは、それを思いとどまらせようとして、『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』」と、主に申し上げたと伝えています。このヨハネに、「イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』」(マタイ3:13-15)

主イエスは、人々とともに洗礼を受けられるのは、「正しいこと」であると仰っておられます。それが父なる神のみ旨であり、御子が人々とともに洗礼をお受けになることによって、神がわたしたちをお救いくださるということです。事実、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」、父なる神は、次の「三つのこと」をなさったと、ルカによる福音は伝えています。まず、「天が開け」、次に、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」続いて、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」

第一に、主イエスが、人々とともに洗礼を受けられたことによって、人々に「天が開かれた」。これは驚くべきことです。罪なる者に、「天」は閉ざされていたからです。詩編は、「死」を恐れる人々の呻きを伝えます。ただし人々が恐れたのは、「死」そのものではなく、罪人のままの「死」によって、彼らに「永遠に天が閉ざされて」しまい、したがって、彼らが神にお会いさせていただく機会を永遠に失うことです。

詩編第6編にこうあります。「主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく、わたしを救ってください。死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入れば、だれもあなたに感謝をささげません。」(詩6:5,6)

しかし今や、神ご自身が、主イエスにおいて人々とともに洗礼を受けてくださったことにより、罪なるわたしたちに「天が開かれた」のです。ただ一度、かつ永遠に。

父なる神の在す天は「聖霊のご聖櫃」です。「天」が開かれたのは、「聖霊が降る」ことでもあります。事実その時、天から「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。」「父なる神のいのち」である「聖霊」が、今や目に見える姿で「御子キリストの上に降った」。このように、天の父なる神は、イザヤの預言どおり、神ご自身のいのちである「聖霊を主の上に置かれた(主に聖霊を託した)のです。(イザヤ42:1)

さらに、福音の伝える、「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」との神のみことばは、これも預言者イザヤを通して語られていた次の神のみことばと同じです。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが喜び、喜び迎える者を。」そして、イザヤの預言は、あらかじめ御子キリストの洗礼の時を指し示していたかのように、次のように結ばれていました。彼の上にわたしの霊は置かれる(御子キリストに父なる神の霊・聖霊を託した)。」(イザヤ42:1)

「父なる神がご自身の霊を御子キリストの上に置かれる」目に見えない「天の父なる神」の霊・「聖霊」が、わたしたちとともに洗礼をお受けくださった「御子」に降った。聖霊が、主イエスから、また主を通して、わたしたちに与えられるためです。洗礼者ヨハネはそれを証ししていました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、その方(キリスト)は、聖霊と火で洗礼をお授けになる。このように、主はご自身の洗礼を以て、わたしたちに洗礼の秘跡を制定してくださいました。

主イエスの「福音」宣教は、預言者のように神のことばをわたしたちに伝えるだけではありません。主の「福音」宣教は、その始めから、わたしたちに対する「御子キリストにおける父なる神のいのちである聖霊の業」、すなわち、天地の創造主・全能の父なる神が、御子キリストに「聖霊を置」かれることによって、わたしたちのために始められた「父・子・聖霊の神のみ業」、すなわち「三位一体の神のみ業」です。実にそれは、福音そのものであられる御子を通して、父なる神の力が聖霊において働き、わたしたちに新しいいのちをお与えくださる「神の新しい創造のみ業」です。

ヨハネからの洗礼の後、主イエスは「福音」の宣教に立たれました。見えない「父なる神」が、「御子キリスト」において見える姿で働かれる。御子によって、目に見えない「神のいのち・聖霊」が、「父なる神」のみことばの実りを目に見える形でわたしたちに結んで行きます。それが、わたしたちへの主イエスの「福音」宣教です。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。