司祭の言葉 1/5

主の公現 マタイ2:1-12

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

東方から来た占星術の学者たちは、マリアさまとともにおられた幼子イエス・キリストを礼拝した後、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と福音は伝えます。

教会は古くから、クリスマス夜半の礼拝から主の公現の祭日までを、クリスマス(降誕節)の12日間としてお祝いして来ました。クリスマス夜半の礼拝以前のアドベントの期間は、復活祭前の四旬節の期間のように、静かで落ち着いた時が流れていました。その後、クリスマス夜半の礼拝で幼子イエスをお迎えして始められた喜びに満ちたクリスマスの祝いの期間は、主の公現日(本来は1月6日)まで続けられます。

降誕節の12日間の祝いの締めくくりである主の公現日、わたしたちは救いの喜びがユダヤを超えて、東方からの占星術の学者たちに象徴されるユダヤの民以外の諸国の民・全世界の民のものとされたことを、感謝の内に記念します。

ところで、「東方の占星術の学者」と言う言葉を聞く度に、わたしは昔の自分を思い起こさざるを得ません。わたしは、仏門に生を受けた者ですが、仏教、とくにわたしの学んだ真言密教には、古来占星術が伝えられています。聖書に登場する「東方の占星術の学者」の「占星術」の実際は分かりません。しかしそれが「占星術」と言われる以上、普通の人間には隠されているとされる神の秘密ないし奥義を、人間の知恵を極めて探ろうとする試みの一つであったに違いありません。

そのように、聖書の東方の占星術の学者たちも、おそらく先祖代々、人間の知恵の教えを頼りに生き続けて来たのでしょう。主イエスと出会わせていただく時までは、彼らにはそれしか真理に至る方法には思い至らなかった、と思います。

しかし、彼らが母マリアさまのみ腕に抱かれた幼子イエス・キリストを、彼ら自身の目で見、おそらくは、その主イエスを、マリアさまのみ手から彼ら自身の腕に抱き上げさせていただいた時、彼らは、占星術のような人間の観念的な知恵に頼ることの無力さ、その空しさ、無意味さに深く気付かされたのではないでしょうか。同時に、「神の秘義そのものであられるこの幼子イエス・キリスト、まことの神ご自身」の前に、彼らの知恵も含めて、彼らが頼りにしてきた一切のものが無価値であることを、骨身に沁みて思い知らされたに違いないと思います。

彼らの占星術も、所詮「人間が神(のよう)になろうとする試み」に他なりません。その空しさ、それに対する彼らの無力さは、かつてわたし自身が身に沁みて感じたように、彼ら自身が体験上いちばん良く知っていたはずです。その彼らが主の公現日に、幼子イエスに見たのは、実に「神が人となられた」との真実でした。

占星術の学者たちは、神に近づくための特別な力と秘密の知恵を得るために、その代償として彼らに多大な犠牲を強いる存在を彼らの「神」と信じて礼拝してきたと思います。しかし、この幼子イエスにおいて「人となられた神」は、彼らに何らの犠牲も求めはしません。まったくその逆です。神ご自身が主イエス・キリストにおいて、犠牲としてご自身を彼らに与えておられるのです。十字架に至るまで。

彼らはこの時初めて「真実の神」を知り、したがって、真実の神に「真実の礼拝」を捧げたはずです。驚くべきことに、神ご自身の犠牲奉献が、まず先にあったのです。神がご自身をわたしたちにお与えくださって、すでに礼拝の中心になってくださっておられるのです。それが幼子イエス・キリストです。それをはっきりと知らされた時、東方の占星術の学者たちは、彼らの持てるものすべてを捧げて、否、彼ら自身を神に捧げて、主なる神キリストを礼拝したはずです。幼子イエスにおいて、彼らにご自身をお与えになっておられる、まことにして唯一の神を。

今日のマタイによる福音は、彼らは、幼子イエスにお会いした後、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と、伝えます。彼らは、最早、「占星術の学者」と呼ばれ続けるわけには行きません。また、そのように生き続けるわけにも行きません。主イエス・キリストにお会いした彼らは、かつての彼らと同じではあり得ません。彼らは、すでに「キリストのもの(キリスト者)」とされたからです。

主イエス・キリストにお会いした後には、最早、誰も「もと来た道」を再び辿って帰るわけには行かないのです。否、そのような道を再び辿らなくても良くなったのです。「神が人となられた」主イエスの前に、「人が神になろうとする」ような、永遠に報われようの無い、虚ろな苦行のような偽善的な人生から、彼らはここに初めてまったく自由にされました。かつてのわたし自身が、そうであったように。

主イエスのご降誕を祝ったわたしたちも主によって「神が人となられた」新しい世界にすでに招き入れられています。東方の学者と共にわたしたちも神ご自身を祝福として受け、神を恵みとして生きる「別の道・新しい道」を歩き始めてよいのです

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

司祭の言葉 2025/1/1

「抱(いだ)いたキリストによって抱(いだ)かれる」
―新しい年をマリアさまとともにー

神の母聖マリアさまの祭日(202511日)の黙想(ルカ21621


クリスマスの夜、天使のお告げを受けた羊飼いたちは急いで行って、マリアさまとヨセフさま、そして飼い葉桶に寝かされた乳飲み子キリストを探し当てました。彼らは、その光景を彼ら自身の目で確かめ、主イエスを礼拝した後、幼子について、彼らが天使から告げられたことを人々に知らせました。しかし、聞いた者は皆、羊飼いたちの話に戸惑い、不思議に思いました。そのような中で、

「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」


と、ルカによる福音は伝えます。福音は、この時と同じマリアさまのご様子を、後に主イエスが12歳になられた時の過越祭に、マリアさまが主とともにエルサレムの神殿に詣でた際のエピソードの結びにも伝えています。

羊飼いたちが天のみ使いに告げられた事のみならず、主イエスの出来事は、人の目には不思議に見えます。確かに、神のなさることは、旧約の預言者イザヤの語るように、「人の思いや考えを超えて」います。イザヤは告げます、「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道は、あなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55:8,9)

預言者を通して、このようにあらかじめ語られていた神のみことばにもかかわらず、後に、人々は主イエスについて正しく理解できないままに自分たちの判断で主を裁き、結果として主を十字架につけてしまいます。

マリアさまは違います。主イエスのおことばとそのみ業を、それらの不思議のままに一切を「すべて心に納めて、思い巡らしていた」と、福音は伝えます。

母として主イエスを身ごもり、産み、養い育て、つねに主のお側に生活しながらも、主は不思議であり、マリアさまの思いや考えをさえ超えておられたことでしょう。しかし、マリアさまは主イエスについて、ご自分の思いや考えで判断するようなことは決してなさいませんでした。すべてをそのお心に大切に納めて、神ご自身がマリアさまにその一切を明かされる時まで、静かに待っておられました。「思い巡らしておられた」とは、そういうことだと思います。

なぜなら、マリアさまは主イエスを素直に、素朴に信じておられたからです。子をそのように信じる。これは、母の子に対する愛であり、あるいは母にしかできないことかもしれません。母を天に送ったわたしは、このことを強く思います。

実は、1月1日は母の誕生日です。母は生きていれば、今日92歳になります。わたしは、母の臨終の病床で、母にカトリックの洗礼を授けましたが、1月1日神の母聖マリアさまの大祭日に生まれた母に、母の霊名は迷わずマリアといたしました。

母の願いや期待どおりに生きてきたとは、到底言えないわたしでした。それでも、母はいつもわたしを信じ、支え励まし続けてくれました。主イエスと聖母マリアさまを、わたしとわたし自身の母に当てはめて考えることは、もちろん出来ません。しかし、マリアさまが主イエスの母であるがゆえにおできになられたこと。それは、いかなるときにも素直に、素朴に御子キリストを疑うことなく愛し、信じ抜かれた、と言うことではなかったでしょうか。ご自身をそのまま主に委ねて行かれるとともに、まったく私心なく、一筋に御子キリストを信じ、支え抜かれた。それが、神の母聖マリアさまであられたと、今のわたしには思われてなりません。

新年の初めに、このように聖母マリアさまをなつかしく想い起こさせていただくのは、まことに相応しいことです。神が年の初めにわたしたちにお求めになられておられることは、聖母マリアさまのような主イエスへの聖い愛と信仰と信頼ではないでしょうか。

教会は、マリアさまのことを、感謝を込めて「神の母」と呼ばせていただいて来ました。神の母であられるマリアさまを、ご聖体の神なる主イエスをお納めする「ご聖櫃(せいひつ)」ともお呼びして来ました。聖母マリアさまは、ちょうど「ご聖櫃」のように、ご聖体の主イエスをご自身の内に、いつも大切に抱(いだ)き、納めておられます。

「抱(いだ)いたキリストによって抱(いだ)かれる」という美しい信仰の言葉があります。聖母マリアさまは、御子キリストをご自身の内にいつも大切に抱(いだ)き納めつつ、実は、主の愛の内に、むしろマリアさまこそ大切に抱(いだ)かれておられることを、マリアさまは至福の内にご存知であられたに違いありません。

わたしたちは、神の母聖マリアさまとともに新しい年を迎えます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。

司祭の言葉 12/29

聖家族 ルカ2:41-52

父と子と聖霊のみ名によって。 アーメン。

「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」

教会は、降誕日直後の主日を「聖家族」の祭日として祝います。クリスマスは、決して主イエス個人の出来事ではありません。神が、あらかじめマリアさまとヨセフさまを聖霊の恵みによって整え、主イエスをお迎えする家庭を備えた上で、主を聖母さまから誕生させておられます。その後、主はナザレの「聖家族」の内に成長し、マリアさまとヨセフさまと喜びと労苦をともにして行かれます。

今日の福音は、12歳の主イエスがマリアさまとヨセフさまとともに過越祭にエルサレムに上った時のことを伝えていました。冒頭の引用は、そのルカによる福音の結びです。「母はこれらのことを」以下の文章は、とくにマリアさまが、主の成長を温かく見守っておられるご様子を語り尽くして余りあると思います。

福音は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後の主イエスの宣教のご生涯に比べて、それ以前のナザレでの主のマリアさまとヨセフさまとの生活について多くを語りません。その意味で、先に引用した、主が「ナザレで両親に仕えてお暮しになった」との福音のことばは貴重です。むしろ、この短い文章が、ナザレの「聖家族」での約30年の主イエスの生活のすべてを語っているというべきかもしれません。

これは一見何気ない文章のようです。しかし、これは驚くべきことではないでしょうか。主イエスは「聖霊」による神の独り子だからです。神の神殿があったエルサレムから遠く離れたガリラヤ地方の、しかも小さなナザレの村で、貧しい大工のヨセフさまを父とし、また母マリアさまとともに、30歳になられるまで、ヨセフさまのもとで大工仕事に精を出し、母を助け、そのようにして、ご両親に仕えてお暮しになられた。神の御子が!それが主イエス・キリストです。

主イエスご自身は、もちろん、ご自分が誰であられるかを知っておられました。そのことは、今日の福音の主のエルサレム神殿でのエピソードが伝える通りです。ヨセフさまとマリアさまは、12歳になられた主イエスを伴って、例年のように他の村人たちとともにエルサレム神殿で過越祭を祝いました。しかし、エルサレムからの帰り道、一行の中に主のお姿が見当たりません。

慌てたマリアさまとヨセフさまは、主イエスを捜しながらエルサレムまで引き返し、神殿に留まっている主を見つけます。主を見つけた安堵の余り、主のこのような行動に、つい愚痴をこぼしたご両親に対して、主は次のようにお答えになりました。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」

しかし、ルカによる福音は、主イエスのこのおことばに当惑したマリアさまとヨセフさまを主ご自身がいたわるように、「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった」と語り続けた上で、次のマリアさまのご様子をも大切に伝えていました。「母は、これらのことをすべて心に納めていた。」

このマリアさまの眼差しの中で、またヨセフさまのご保護のもとで、「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」と、今日の福音は結んでいます。

第2バチカン公会議を開始された教皇ヨハネ23世のご帰天後、公会議を成功裏に全うされたのはパウロ6世教皇です。この教皇さまは、ナザレの「聖家族」「福音の学び舎」「福音の学校」と呼ばれました。ナザレの「聖家族」の貧しくとも、祈りと愛に満たされた日常から、生きた「福音」を学ばせていただくように、と。

そこには、「福音」そのものであられる神の御子・主なるキリストが、清貧の内に、ヨセフさまとマリアさまに謙遜の限りを尽くし、従順に、また貞潔に生きておられます。また、今日の福音のエルサレム神殿でのエピソードのように、主イエスに対して理解がおよばないことがあっても、「母は、これらのことをすべて心に納めていた」。

ここには、主のみことばとみ業の「すべてを心に納め」て、人の知恵に頼らず謙遜と忍耐をもって、神ご自身からの語りかけを待っている主の母がいます。

「聖霊」において働かれる創造主キリスト、すなわち「福音」には、世界を造り変えることができる大いなる力があります。「聖霊」は、「福音なる主イエス・キリスト」を迎えた家庭の日常の生活の中に働き、わたしたちの家庭を「ナザレの聖家族」へと造り変えることがおできになります。そこには、主とともに「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」キリストの似姿へと造り変えられて行くわたしたちがいます。

父と子と聖霊のみ名によって。  アーメン。